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 ペギーのお招きに応じてフローラとオリガは家へ入った。

 暗闇に慣れた目に、白熱灯の温かな光が目に眩しい。ひとり暮らしらしく家そのものは小さい。よく片づけられていて、整った雰囲気であることが玄関先だけでも分かる。

 カーテンの閉められていない居間の窓から暗い庭が見えた。草花はただの影でしかなくなっているけれど、レナードの家の庭と同じくらい手入れが行き届いているようだった。

 庭だけでない。壁にかけられたスワッグと品のよいテーブルクロス。オシャレだけどゴテゴテしていない調度品。このオールテアの街そのもののような内装。

「……ペギーの好きそうな雰囲気だよね」

 フローラが小声でささやくと、オリガはこくんと頷いた。

「お茶を淹れるわ。どうぞ、座って」

「ありがとう」

 白い布張りのソファーに、オリガと並んで腰を下ろした。手狭だけれど奥行きのあるキッチンがよく見えて、そこに立つペギーの姿もよく見えた。

 キッチンに立つペギーは、右手で蛇口をひねりやかんに水を入れている。ガスコンロも右手でひねり、お菓子の包装も右手のハサミで開けた。湯が沸き、やかんの中身がポットに注がれる。品のある花柄のポットとティーカップ。孤児院では個人の食器を持つことは許されなかったけれど、多分ペギーならこういうものを選ぶのだろう。

「お待たせしたわね。さ、どうぞ」

 ペギーはポットから中身を注ぐ。かぐわしい香りがオシャレな部屋の中に立ち込める。右手でポットを持ち、左手を添えてポットを傾けるペギー。左手にはめられた腕時計の秒針が目にくっきりと焼き付いてならない。

「いただきます」

 ふたりは声を揃えて言い、オリガは小分けのレモン果汁を開けてスプーンでかき回す。フローラはもちろん砂糖とミルクをたっぷり入れた。そして向かいに座るペギーを見つめる。

「わざわざ遠いところから来てくれたようね」

 そう言うペギーも砂糖とミルクをカップに入れている。フローラは思わず目をみはる。あの、紅茶はストレートでしか飲まなかったペギーが、カップの紅茶をただの甘い液体に変えている。

「あら? どうしたの?」

「い、いや。別に」

 思わず言葉を濁した。ペギーは「そう?」と首を傾げながら、カップの中身をぐるぐるとかき回す。スプーンは右手で持っていた。カップの取っ手を持つ左手の甲には、縦長の傷跡が白くくっきりと残っている。

 その傷跡を、フローラは見紛うはずはない。

 木から落ちた自分を助けてくれた時にできた、あの痛々しい傷の跡。

 ペギーは、紅茶に口をつけてから、

「エリザベスから聞きましたよ」

 エリザベス。

 誰のことを言っているのか分からなかった。隣のオリガも同様らしく、眉をひそめて目配せしてくる。ややあってから、フローラの頭の中に一本の線が繋がる。

「イライザ先生……」

 ないはずのシナモンの匂いが、鼻をかすめた気がした。

 イライザ。

 その名前を聞いて、ペギーの目がほんのわずか、険しくなり、

「改めて、自己紹介をしておきましょう。私はマーガレット・リッケンバッカー。……リッケンバッカー式人格移植手術の、開発者です」

 ペギーの顔、ペギーの声。でも演技の上手い役者みたいに、ふたりの知っているペギーとは全く違ってしまっていて、

 ペギーは肩をすくめた。

「ペギーのために、こんなところまで来てくれてありがとう」

 彼女の口にする『ペギー』は、彼女自身のことではなくて、

「でも、ごめんなさい。あなたたちの探しているペギーは、もういないの」

 そんな。

 オリガの目が見開かれる。

「彼女の『人格』は、私が殺したから。私の、この『マーガレット』の人格をこの『器』に入れるために……。私が、他ならない私自身が、あの子を……。あなたたちの言う『ペギー』を殺したから」

「……」

 絶句したのはオリガだけではない。フローラも同じだった。

 どこまでも他人行儀なペギー。喋り方を聞いていれば分かる。この人は本気だ。演技でもなければ、ウソをついているわけでもない。

 覚悟はしていた。それでも心をぶん殴られたような気がした。オリガの横顔はショックで愕然とし、フローラも緊張に息を飲む。

 打ちひしがれるふたりを交互に見て、ペギー改めマーガレットは、満足そうに笑顔を浮かべる。

「長い話になるわ。さあ、冷めないうちにいただいて。お菓子もあるわよ」

 彼女の声は信じられないくらいに冷たかった。

 リッケンバッカー式人格移植手術。

 マーガレットは左手のペンだこを右手の指でこすりながら、ミルクで白くなったカップの水面に目を落とす。

 ペギーの体で、ペギーの口で、そしてペギーの声で語られる歴史は、映画のあらすじみたいに、耳に染み渡っていく。

「この技術の開発は、私の人生を賭けたものでした」

 彼女は一度言葉を切って、

「……元々は、難病の子どもたちの、延命を目的とした技術でした。今の医療技術なら解決できても、当時の技術では根治不可だった病を克服するため……。体が病に打ち勝てないのであれば、体の方を乗り換えてしまえばいい。その発想が、この技術のそもそもの始まりでした」

 ペギーの声で、ペギーになかった冷たさで、マーガレットの独白は続く。

「単なる思いつきからはじまった研究ですが……。私はそれを、単なる思いつきとして、終わらせたくはなかった。……動物実験の結果はすばらしい結果に終わり、後は人体実験だけだったのですが……。当然、それにはいくつもの障壁がありました」

 フローラとオリガは無言でマーガレットの言葉を聞き続けている。口がカラカラに渇いていた。背中に嫌な汗が流れていく。自分たちに関わる話なのに、彼女の声は混乱と戸惑いの上を滑って行って、内容が頭に入らない。

「私の研究内容は、人権や倫理の問題もあって、学会を大きく揺らす結果になりました。それでも私は研究を頓挫させたくない一心で、秘密裏にその技術を、ひとりの――いいえ、ふたりの人間に対して行使したのです」

「……その、ふたりって?」

 フローラは問いかける。口の中に舌が張り付いて、上手く声が出なかった。

「ひとりは私の娘です。娘の人格を、よその女の子の体に移植したのです」

 それがマーガレット博士の、最初の人体実験。リッケンバッカー式人格移植手術の、最初の手術。

「……その、よその女の子って?」

 押し黙っているオリガの肩に手を触れながら、フローラはマーガレットの目を見つめる。

 マーガレットは目と口を三日月にした。でも瞳だけは、全く笑っていなかった。

「その子は名前を知らないの」

「え?」

「スラム街で売春していた女の子を買ったのよ。性病とか持っていないか心配だったし……。愛する娘の『器』にするには不本意だったけれど、クローンを作るのには時間もお金もかかりすぎるから」

「……結果は?」

 そんなこと、訊くまでもなかった。

「大成功!」

 そうでなければ、彼女はその段階で、技術を放擲ほうてきしていたはずだから。

 それでも技術の前途は明るくなかった。マーガレット博士はペギーの声で、それでもペギーと全く違う表情をしながら、滔々とうとうと語り続ける。研究資金、移植される側の人権問題。生と死の概念。倫理観。マーガレットの描いた輝かしい未来とは裏腹に、リッケンバッカー式人格移植手術は日に日に日陰へと追いやられていった。

「不本意だったわ」

 マーガレットの顔に、ウソで塗り固めたような冷たい顔に、初めて本気の表情が亀裂とともに入る。

 悔しさ。

 いつしか技術は転用された。病気の子どもたちの未来のためではなく、金持ちの老人が、死を回避するためのビジネスとして。そこに開発者マーガレットの、崇高な理念や理想は存在していなかった。

「私の技術は、病気の子どもたちと、その親たちを救うために存在するばすでした。死を恐れる老人たちの延命のためになんか、使われるべきではないのに」

 フローラとオリガは顔を見合わせる。マーガレットの言葉はぼんやりとしか耳に届かなかったし、それはオリガも同じなのだろう。まるでペギーが手の込んだイタズラをして、自分たちを騙しているのではないかと、まだどこかで疑っていた。

 フローラは、

「それじゃ、あなたはなぜ、自分の記憶を移植したのですか? ……それは、あなたが心底忌み嫌う『延命』に他ならないのでは?」

 その言葉にオリガがハッと顔を上げた。向かいに座るマーガレットはペギーの顔で、ペギーが決して浮かべたことのないような冷淡な表情で、こちらを見つめている。

「マーガレット博士。あなたは既に、十分生きたのではないですか? 少なくともペギーを『器』にしてまで生きるのは、あなたの言う『延命』なのではないですか?

 若いペギーの『人格』を消して、高齢のあなたの『人格』を注ぎ込む……。それはあなたの理想とは違うんじゃないですか?」

 そこまで言って、フローラは大きな息を吸い、そして吐いた。興奮で乱れる呼吸を整えながら、無言でこちらを見続けるマーガレットに目をやる。彼女は戸惑っていなかった。答えに窮していたわけでもなかった。

「延命目的ではないわ」

 でもほんの少しだけ、砂をさらうさざなみのように、一瞬、彼女の表情が揺れた。

「私は、私が生み出した技術が完璧であることを……。自分の身を使って証明したかったのよ」

 そう口にするマーガレットの顔に、ほんの一瞬だけ、かつてのペギーの面影が蘇る。

 フローラは、

「……博士。ペギーや他の子たちのように、あなたに『消された』人格は……、どこに行くんですか?」

 よぎったペギーの面影に、一縷いちるの望みをかけて。

 だがマーガレットの答えは、どこまでも残酷だった。

「消された人格はもう、どこにもないわ。言ったでしょう? ペギーは私が『殺した』と……。死んだ人は、この世界のどこにも存在しない。それと同じ」

 ペギーは死んだ。殺された。残された『器』としてのペギーの体が、マーガレット博士の『入れもの』になってしまったペギーが、呆れたようにそう口にするのを、ふたりはただ呆然と聞いているしかなかった。

 ややあって、フローラはゆっくりオリガの方を向いた。

 ただでさえ愕然としていたオリガの表情が、今度こそ叩きのめされたように、絶望に打ちひしがれている。

 当然だ。自分だって、十分ショックなのだから。自分よりもペギーを想っていたはずのオリガが、ペギーのためにここまで来たオリガが、この事実にショックを受けないはずなんか、ないのだ。

 テーブルの陰、マーガレットから見えない位置。震えていたオリガの手を、フローラは包み込むように握りしめる。

「……マーガレット博士」

「はい?」

 クローン人間の言い分など、耳を傾ける価値などないというような目つき。そんな目に見つめられても、フローラは臆することもなく、

「ペギーには『人格』があって、『記憶』があって……、そして、友だちがいました」

 それで? と、マーガレットの目が言った。

「……消されたペギーに『心』があったことを、あなたが、あなたの研究が正しいことを証明するために、ひとりの女の子が死んだことについて……。マーガレット博士。あなたは、どうお考えですか?」

 マーガレット博士は、ペギーの顔をして、ペギーの目で、フローラを見つめる。蔑むような、あざ笑うような目。

 やがて、

「どうって……。別にどうとも思わないわ」

 ペギーの顔で、ペギーのものでない表情を浮かべながら、

「だって、あなたたちはクローン人間じゃないの。昔、私が実験台にしていたハツカネズミと同じ」

 クローン人間。

 そう口にした時、マーガレットの表情は本物の歪みを見せた。絵に描いたような激しい嫌悪。

 それを見て、もう何も言えなかった。

「さあ、私からはこれで終わり。……あなたたちからは、何かある?」

 あっても聞かないけれどね。だってあなたたちはクローン人間で、あなたたちに、人権はないのだから。

 マーガレットがペギーの顔でそう言うのを、フローラは心で聞いた。

「……いいえ、結構です」

「そう。なら早く、グリーンヒルにお戻りなさい。あなたたちには、あなたたちの体を待つオリジナルの方々がいるのですから」

 あなたたちはクローン人間。目的を持って生み出されたクローン人間。あなたたちには人権も、自由に生きていく未来も何ひとつ、許されてはいないのだから。

「……」

「……行こう、オリガ」

 俯いて青ざめて、血の気を失ったオリガの唇が痛々しかった。

 現実を、真実を突きつけられた彼女の目は、穿たれた洞穴のように光がなくて真っ暗だった。

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