(2/5)

 遅い昼食ののち、ふたりは歩き通した。

 バスに乗った方がいいよと言ってくれた人もいた。タクシーを呼んでくれようとした人もいた。自家用車で送ってくれようとした男の人もいたけれど、ふたりはそんな親切をことごとく断った。バスにもタクシーにも乗れるお金はなかったから。もちろん男の人の自家用車には乗らなかった。だってヒッチハイクは危ないからやめなさいと、イライザ先生がそう言っていたのだから。

 そして、

 夕刻も夕刻。ほとんど日没の寸前に、ようやく例の住所にたどり着いた。

「ここが……」

 今のペギーが暮らす家。

 濃くなっていく夕闇の中、オリガは少なくとも三回は番地を確認し、表札を見つめた。手紙を握る彼女の手が震えている。握りつぶされた手紙が立てるクシャッという悲鳴が、フローラの耳にも聞こえていた。

 フローラは、

「……押すよ?」

 覚悟はいい?

「……うん」

 チャイムのボタン。オリガほどではないけれど、人差し指が震える。指に上手く力が入らない。ボタンを押し込むと、思いの外、間の抜けた音が家の中にこだました。

 ピンポーン。

 返事を待つまでの時間が、永遠に思われた。

 やがて、

「はーい!」

 聞き覚えのある声。オリガを見つめる。オリガもまた、まなじりが裂けるような勢いで両目を見開いている。

 聞き間違いではなかったと思う。

 ドアノブがゆっくり回って、中から人が出てきた。

「あ……」

 息を飲んだ。

 だって、そこにいたのは、

「ペギー……」

 オリガが呟いた。

 かつて下ろしていた髪を、今はお団子にまとめて。まるで老婦人が着るような着るようなワンピースの上に、ガウンを羽織って。靴は孤児院に来た日と同じ、黒くて丸い歩きやすそうな靴だった。

 服装や雰囲気はだいぶ違っていた。それでも卒業した時と寸分変わらない彼女が、あの雨の日に出会った時のペギーが今、目の前にいる。

 ペギーの目が、前よりもほんの少しだけ鋭くなった気がする目が、こちらを見つめる。

 オリガの震える声が、夕暮れの中に溶けていく。

「ペギー……。ペギー、なの……?」

 ペギー。

 そう呼ばれて、暗がりに立つペギーの顔がかすかに引きつる。オリガは当然そんなことには気づかない。ずっと探し求めた親友の、寸分も違わない姿を見つめながら、目に涙を溜めている。

 やがて、涙があふれた。

 時の流れが遅くなったような気がした。

「ペギーっ‼︎」

 オリガの目尻から、ボロボロと心がこぼれていく。嬉しさと悲しさと困惑と苦労と懐かしさ。ありとあらゆる感情がないまぜになって、オリガの横顔の上を走っていく。オリガは泣いていた。泣きながら笑っていた。ペギーが『卒業』して以来、フローラが一度も見られなかった感情豊かな表情で、オリガはペギーに手を伸ばす。

 彼女の長い足が、門をくぐり抜けてアプローチを駆け上がる。そんなオリガの動きに合わせて、ペギーはわずかに後ずさる。

「ペギーっ‼︎」

 オリガはふたたび友の名を叫び、ペギーに飛びついた。

 感動の再会。

「……」

 そして、フローラは目をみはった。

 抱きつかれた瞬間、ペギーがオリガを突き飛ばしたのだ。

「……ペギー?」

 なんで?

 どうして?

 オリガは当然そう思っただろうし、もちろんフローラだってそう感じた。目の前で起きた衝撃で、時の流れが元に戻る。オリガは尻もちをついたまま、呆然としながらペギーを見上げている。

「オリガ! 大丈夫⁉︎」

 フローラはオリガを助け起こしながらその視線を追った。日没前の赤い闇の中、ペギーの顔にははっきりとした拒絶の色が浮かんでいる。

 あの時と同じだった。あの雨の中、孤児院で出会った時に抱いたのと、同じ違和感。

 呆然としているふたりを前にして、ペギーはハッとした。そしてすぐに取り直し、

「……あなたたち。ええと、オリガとフローラでしょう?」

 なんて他人行儀な呼び方だ、とフローラは思う。

「うん……、うん……」

 自分の名前を呼んでもらったせいだろうか、尻もちをついたままのオリガの横顔には希望の光が宿っていた。だがフローラは騙されない。自分たちを見つめる目の、あの冷たさ。自分たちの名前を呼んだ時の、何の親愛もこもっていない、平坦な声。

「……よかったら上がってちょうだい」

 言葉ではそう言っているが、自分たちを歓迎していないのは明らかで、

「長い話になるでしょうから。それに」

 それに?

「……ご近所に変なウワサを立てられても、困りますから」

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