第七話
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二〇二一年十月三日 日曜日
あの日のことを書くのに、一ヶ月近くかかってしまった。それだけ色々なことがあったし、衝撃も大きかったから。自分の中で整理するのに、ものすごく時間がかかってしまった。
わたし自身『このこと』を書くのはまだすごく迷っているし、正直、書かない方がいいのではないかと思う。わたしが『消された』後、この日記を読んだ誰かにとって、この真実ほど残酷なことは世界には存在しないだろうから。
結論を書いておこう。わたしは今、孤児院のベッドの上でこれを書いている。わたしたちは連れ戻された。わたしたちの試みは失敗に終わった。わたしとオリガは、運命に敗北したのだ。
この先を読むかどうかは、あなたに任せよう。やっぱり書き記しておきたいのだ。この日記を手にした、わたしと運命を共にする『あなた』のためではなく、フローラというわたし個人のために、わたしの身に起きた出来事を誰かに覚えておいてほしいから。
この日記を、ただ文章が書くのが好きなわたしの記録を、ここまで読んでくれたあなたへ。
ありがとう。
※
時はさかのぼる。
九月五日、日曜日。
正午をいくらか過ぎて、フローラとオリガはようやくハイランズ州オールテアの地を踏んだ。
ここまで長かった。本当に、本当に、長かったと思う。
「もっと近いところまで送るのに……。こんなところまでで、本当にいいの?」
色々な感情がパンパンに詰まっている心の中に、レナードの声が隙間を見つけて入り込んでくる。
「うん、大丈夫」
彼には、感謝以外の言葉もない。
「オリガ、フローラ」
オリガが小さく首を傾げる。ふたりの目が合った瞬間、レナードの顔には、まるで泣き笑いにも似た寂しそうな表情が満ち満ちる。
「……元気でね」
「……うん」
その顔でオリガは全てを察しただろうし、フローラも同様だった。また会う時。その時は多分、彼自身も今のままではないだろうから。いつかきっと再会が叶うならば、その時の彼はもう、小さなレナードに『注がれた』後なのだろうから。
「じゃあ、さよなら」
「……さよなら」
フローラは確かに、オリガが涙を噛みつぶした声を聞いた。
ふたりは車が見えなくなるまで手を振った。手を下ろしてから五秒くらい経って、オリガが、
「私たち、いつか普通に暮らせるようになりたいね」
普通。
普通に学校に行って、大人になったら普通に仕事をして。ちゃんと運転免許を取って、住所も電話番号も社会保障番号も手に入れて。もちろん『すまーとふぉん』も買って。飲み物も趣味も石けんも、好きなものを選んで。
オリガの願いに、フローラは心から同意した。人格を消される未来に脅かされず、尊重されるべき『個』を手に入れること。そして誰からも指示されずに自由な人生を生きて、その中にはもちろん自由な『恋』も含まれていて。
「そのために、ペギーに会いに行くんでしょ?」
自分たちの運命に抗うために。自分たちを縛っている、がんじがらめ[#「がんじがらめ」に傍点]の鎖を断ち切るために。
フローラの言葉に、オリガは小さく頷いた。
「……うん」
やっぱり泣き笑いみたいな表情だったけど、それでも朝日が差した夜明けの森みたいに澄み切った目をしていた。
レナードが、自分たち『器』として生み出されたクローンを想ってくれたこと。その事実があれば、いつまでも闘える気がしていたのだ。
この時までは、まだ。
ハイランズ州オールテアは、今まで映像作品で見てきた街の、そのどれとも違っていた。
田舎なのだけれど、でも田舎じゃない。わざと古びたように塗られた白い壁と、無造作なようで計算され尽くした鉢植えのハーブ類。民家の軒先に停められた自転車は意図的に錆びさせたオブジェクトみたいだったし、道を走る車だって、ちゃんと土地に映えるものをわざわざ選んできたみたいだった。
「お金持ちの街、みたいだね。ビバリーヒルズみたい」
オリガの中では、高級住宅地といったらビバリーヒルズ以外ないのだろう。しかし、その感想は最もだと思う。
閑静で洗礼され尽くした、オシャレな街並み。かつての自分なら、孤児院にいたころの純朴な自分なら、間違いなくそれしか感じなかっただろう。でも今なら分かる。この街は自然あふれた田舎を装っているが、その奥深く、根底には誤魔化しようのない金の臭いがする。
「で、住所は?」
「ええと……」
オリガが手紙を確かめ、地図はフローラが広げた。手紙も地図も何度も閉じたり開いたりを繰り返していたから、紙はくたくたになっていたし折り目は穴が空いている。ふたりは顔を寄せ合い、番地を確認し、そして歩き出す。
さんざん迷った。
迷いまくった。
でも本当に迷っていたのは、道ではなく気持ちの方だったかもしれない。ハイランズ州オールテア。この街に、ペギーがいる。あれだけ求めたペギーが今、この街にいる。
しかしペギーは、自分たちのことをもう思い出せないかもしれない。いいや、そんなことない。相反する答えが頭の中を行ったり来たりして、歩くのに身が入らない。オリガの優しいキス。マーガレットの花咲く丘。ペギーは全てを思い出せると書き残した。でも、あの雨の日に再会した彼女はまるで別人だった。あの時のペギーは思い出してくれなかった。いいや、違う。ペギーは必ず自分たちのことを思い出してくれる。そうだとも。
閑静でオシャレで金の臭いのするオールテアは広かった。色々な人に道を尋ね、その割には裏道で迷い、挙げ句の果てには凶暴な野良猫に追いかけ回された。洗礼された街に住んでいる猫にしてはみすぼらしくて小汚い猫だった。オールテアの中で自分たちの存在もまた似たようなものだと気づいた時、牙を剥いて追いかけてくるその姿さえ、愛おしく感じられた。
午後のお茶の時間を通り過ぎて夕方に近くなった頃、ふたりはようやくひと息ついて遅い昼食を広げた。
「美味しそうだね」
オリガが包みを開いて言った。
整えられた公園、噴水の近くのベンチ。ウォルブリッジの街中を飛んでいたのよりも小綺麗な鳩が、地面を突きながら歩いていた。レナードの家を去る間際、メイドのひとりが持たせてくれたお弁当。ツナときゅうり、それからジャムとホイップクリームのサンドイッチ。
「いただきます」
ふたりは声を揃えて言い、サンドイッチに手を伸ばした。孤児院にいた頃、ピクニックと称して近くの丘に登った日々のことを思い出す。パンを入れたバスケット、魔法瓶に入れた紅茶。フローラとオリガと、そしてペギー。三人で丘の上でパンを食べて、ペギーのギターに合わせて歌を歌った、あの平和な日々。
何も知らなかったあの頃。もう二度と戻らない。
「……フローラ」
「何?」
「……ありがとう。ここまで、付き合ってくれて」
辛い旅をともにしてくれて、ありがとう。
ともに運命と闘ってくれて、ありがとう。
「うん」
サンドイッチは文句なしに美味しかった。
もしも自分たちに未来があるならば。レナードを訪ねるついでに、あのメイドにレシピを訊いてみよう。
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