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「オリガ。明日、ここを出るよ」
空白。
オリガは髪の毛を拭いていた手を止める。うっすらと湿ったフェイスタオルを肩にかけ、机に向き合ったままのフローラの背中に声をかける。
「そうだね。……私も、そう思っていた」
「もう少しここにいたい」とか「まだ本調子じゃない」とか、そんな答えが返ってくるかと思っていたのに。
「……レナードのこと、いいの?」
元より彼は他人なのに。ただの通りすがりの、自分たちを『友だち』と称してくれる、お節介でお金持ちで優しい男の子でしかないはずなのに。
問いに対する答えを、フローラは背中で聞いた。
「うん、レナードのことは好き。……でも」
「でも?」
フローラ、ようやく振り返り。椅子の背もたれが、彼女の体重で小さく軋み、
「その『好き』が、ペギーに対する『好き』と同じなのか……。正直言ってさ、よく分からないんだ」
オリガは女の子。ペギーも女の子で、でもレナードは男の子。オリガを想う自分は女の子で、でも自分が本当に好きなのは、女の子であるペギーを好きな、女の子であるオリガであって。
フローラは、
「……レナードの手術の話、聞いた?」
オリガは一瞬目を伏せたが、ややあって小さく頷いた。
「……うん、聞いた。リッケンバッカー式の手術だと思う」
リッケンバッカー式人格移植手術。移植される人格を持ったオリジナルの人間と、移植先のクローン人間。人格を消されるために生み出された自分たちクローンにとって、オリジナルの存在は戸惑いを生む元凶でしかない。
「それでも、私はレナードのこと好き」
たとえ彼が、自分たちと相反する『オリジナル』の立場だったとしても。オリガの言う『好き』が、ペギーに対する『好き』と同じなのかは分からないけれど。
オリガの目を見つめながら、フローラは考える。映画や小説の中に出てきた自分と同じ十五歳の女の子たちのことを。どの媒体の中でも、彼女たちのほとんどは甘酸っぱい『恋』をしていた。普通の女の子たちも、普通ではない女の子たちも、みんな。人格を消されるために生み出された自分たちは多分、普通ではない。自分たちは十五歳の女の子なのに、自分たちが抱くこの感情が何なのかもよく分からないのだ。
オリガはフッと微笑んだ。
今まで見てきた彼女の微笑みの中で、一番悲しそうな顔だった。
「こんなもやもやした気持ちも……。もっと大人になったらさ……。きちんと整理できて、分かるようになるのかな?」
大人になる。
自分たちには許されない未来のこと。体はいつか大人になっても、自分たちの人格は、心は、記憶は、十六歳になった時点で抹消される。そのために、そのためだけに生み出されたのだから。それが自分たちに課せられた『呪い』だから。自分たちクローン人間の体を、人格を注ぎ込むための『器』を待つ、レナードのようなオリジナルの人たちが待っているのだから。
オリガが寝入るのを見守ってから、フローラはベランダに出た。興奮しているせいか、頭が冴え渡ってちっとも眠くならない。薄くて青い夜空に、星が輝いていた。
「ペギー……」
彼女は星が好きだった。今日みたいな天気のいい夜には、自分と彼女とオリガと三人、こっそり屋根裏部屋から屋根に登って、星の説明をしてくれた。あの星が何とか、この星座が何とか。その説明のほとんどがフローラにはさっぱり分からなかったけれど、それでも楽しそうに語るペギーの笑顔と、それに聞き入るオリガの横顔を見ているだけで十分満たされた。
星を好きになりなさい。星の勉強をしなさい。イライザ先生がそう言っているのを聞いたことはなかったし、ペギーに与えられたカリキュラムにも、星の勉強は組み込まれていなかったはずだ。星の勉強はペギーが好きだったからしていた。ならばペギーのオリジナルは、星に興味なんてないのかもしれない。
今のペギーも、星は好きだろうか。
脳裏にレナードの言葉が蘇る。人格を消されるために生み出されたクローンも、自分たちと同じ人間。自由に生きる権利がある。彼は自分たちの正体を知らないはずなのに、それでもクローン人間の尊厳を擁護してくれた。そんな彼の優しさが身に染みた。
「……でも」
そんな彼もまた、彼自身が望まなかったとしても、誰かの体を貰い受けて生きようとしている。彼の人格を移植される予定の、彼よりもずっと小さなクローンのレナードを想う。自分たちと同じ『器』の人間。人格を消されるために生み出された、人権もないクローン人間。
でも。
それでも。
「レナードはきっと、小さなレナードのこと、忘れない」
彼が小さな自分自身のクローンを覚えているならば、多分小さなレナードの魂は、オリジナルの彼の中で永遠に生き続けるのだろう。
レナード。
初めて話した、同じ年ごろの男の子。
彼に死んで欲しくない。生きていて欲しい、元気になって欲しい。彼は手術を受けるだろう。結果、小さいレナードの人格は消される。クローンのレナードはそのために生み出された。それはフローラだって同じこと。クローンの自分たちに『人格の移植』を断る権利なんてどこにもない。
「……」
いつの間にか、隣にはペギーがいた。
ペギーの左手が、まっすぐに空を指さして、
『ほら、フローラ! 見て!』
言われた通り、空を見た。
流れ星が、空を滑っていった。
流れ星が消えてたっぷり三秒。隣を見ると、もうペギーはいなかった。
「……気のせい、か」
フローラは思う。自分のオリジナルの人間は、果たしてどんな人なのだろう。ペギーのオリジナルはマーガレット・リッケンバッカー博士で、オリガのオリジナルはどこかのお金持ちのご婦人だと前に言っていた。でもフローラは、自分のオリジナルのフローレンスがどんな人なのか、まだ知らない。
「……会ってみたいな」
この世界のどこかにいる、自分の体を待っている、フローレンスという人に。レナードみたいに優しい人がいい。自分と同じように映画や本が大好きで、文章を書くのが上手で、小説家志望の人がいい。それから紅茶にはミルクと砂糖をたっぷり入れて、できればシナモンは入れない人がいい。
会ってみたい。
この世界のどこかにいる、オリジナルのフローレンスに。
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