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その日の夜、フローラは再度庭園を訪れた。
虫の音、鳥の鳴き声、風の音。いくつもの音が存在しているはずなのに、そのどれもがかき消せないような、色濃い静寂。暗い庭園は、昼間とは違った美しさを放っている。闇夜の中、ぼんやりと浮かぶ白い花びらが綺麗だ。少し湿気を帯びた風にハーブの匂いが流れてくる。
夢の世界にいるみたいだった。
一歩、また一歩、庭へと続く石畳を踏む。
不意に誰かの気配を感じて振り返ると、そこには若き家主の顔があった。
「庭、気に入ってくれた?」
レナードはフローラの隣までやってくる。
「ここはね、うちのメイドの自慢の庭なんだ」
それはそうだろう。こんなステキな庭、映画でも見たことはない。
「うん。本当に、綺麗だと思う」
レナードは先んじて石畳を歩き、フローラを手招いた。ベンチの砂埃を軽く払うと、
「どうぞ」
「ありがと」
お言葉に甘え、腰を下ろした。レナードも隣に座る。ふたり並んで、庭の中央、水の枯れた噴水を眺める。
ふたりとも、何も言葉を発しなかった。一分か二分くらいは黙っていたと思う。
先に口を開いたのは、フローラだった。
「明日、ここを出ようと思うの」
夏の終わりの夜風が心地よかった。来年の今ごろ、この心地いい風を感じる自分はおそらく、今の自分自身とは全く違う人間になっているはずだ。
寂寥感にあふれたフローラの声を聞き、レナードは、
「そっか……」
彼はほんの少しでも残念がってくれているようだ。
枯れた噴水の影を見続けた。
レナードの顔を見るのが何となく辛かった。
「ごめんね、急な話で」
たくさんお世話になったのに。
「でも、このままここにいたら……。わたしもオリガも、ダメになっちゃうと思ったから」
ダメになる。
ペギーを求めてここまで来た自分たちの心が、ダメになる。
ここでゆっくりしていたら、自分たちは本当の目的を見失ってしまうだろう。しかし、フローラの思いは別にある。ただ単に、レナードと笑うオリガの姿を見ているのが辛かったのだ。ペギー以外の人間と、あんなに楽しそうに話しているオリガを見ていると、自分だけが世界の端っこに取り残されたような気がして苦しかった。
「……そっか」
「色々迷惑かけて、ごめんなさい」
レナードを恨んでいるわけではない。むしろ、すごく感謝している。自分たちが望めば、彼はありとあらゆるものを与えてくれるだろう。友だちとして。彼が初めて家に連れてきた、女の子の友だちとして。
それでも彼は、本当に自分たちを救ってくれるわけではない。人格を消されるという運命も、人権がないという事実も変えてはくれない。住所も電話番号も社会保障番号も、もちろん苗字も、彼がくれることはないのだ。
「フローラ、顔を上げて」
顔を上げた。
一匹の白い蝶が頼りなくひらひらと、完璧な夜の庭園を横切って飛んでいた。
レナードは蝶の翅が描く軌跡を見つめながら、
「……今まで言わなかったんだけどさ。実は僕も、来週にはここを出るんだ。しばらく入院するから」
「……手術するって、言ってたね」
「うん」
白い蝶が庭を渡り切る。新月に近い暗闇の中、フローラはようやく隣に座るレナードの横顔を見た。
綺麗な横顔だった。
心臓が跳ねた気がする。
「……大きな手術になりそうなの?」
「うん、まあね」
彼はよく咳をする。顔色だって良くはない。彼の体のどこが悪いのか、フローラには分からない。訊けなかったのだ。彼が自分たちの前では、元気でいようと振る舞ってくれているのが分かったから。女の子の前では良い顔をする男の子。本でも小説でもたくさん出てきた。きっとレナードもまた、そんな等身大の少年たちのひとりなのだ。
レナードは、
「フローラ。僕ね、移植手術を受けるんだ」
移植。
また、胸がドキッとした。
普通『移植』という単語を聞いたら、それは『臓器移植』のことだろう。でもフローラは普通ではない。フローラにとって『移植』とは『人格の移植』であって、それは自分たちの人格が『消去』されることに他ならない。
思い切って尋ねた。
「移植って……。心臓、とか?」
声が震えた。だがレナードは、目を伏せて首を振る。
「ううん、内臓じゃないんだ」
「じゃあ」
「……僕が受ける手術は、人格の移植なんだ」
聞き間違いではなかった。
フローラの驚愕には気づいていないのか、レナードは顔を伏せたまま、
「世間ではあんまり知られていないんだけど、そういう技術があるらしいんだ。僕のような病気の人間の人格を、他の人の健康な体に移植するんだって」
人格の移植。
リッケンバッカー式記憶移植手術。
「……」
言葉が出てこなかった。
頭をぶん殴られたような衝撃を受けた。人格の移植を希望する人間。クローンの人格を脅かすオリジナルの存在が今、目の前にいる。
雲がものすごいスピードで空を流れていく。月明かりは一瞬だけ遮られ、また青白い光が落ちてくる頃、レナードは顔を上げていた。
困ったような、泣き笑いみたいなレナードの顔。また心臓の鼓動が、少し早くなる。
「僕はね、いいって言ったんだ。そこまでして治療したくはない、って。でももう、僕の『器』は用意されているんだって。……僕の遺伝子から作られた、クローン人間の男の子」
クローン。
鼓動がますます早くなっていく。
「名前は僕と同じレナードで、まだ僕よりずっと小さい。そりゃそうだよね。僕の病気が分かってから、生み出されたクローンなんだから」
クローン。
彼の口からその言葉が紡ぎ出されると同時に、何度だって胸が小さく抉られていく。
「彼は僕の人格を移植されるためだけに、この世界に生まれてきた」
それはもちろんフローラだって同じ。この世界のどこかに存在する、オリジナルのフローレンスのためだけに、生まれてきて、生きてきた。
「フローラ、僕は考えているんだ。……僕の人格が、小さなレナードに移植された時、彼の人格はどこに行ってしまうんだろう、って」
両親にもじいにも、メイドのみんなにも訊いたけれど、誰も教えてはくれなかった。みんな、僕はそんなこと、知る必要はないんだって、そう言う。……そればっかり。
ねえ、フローラ。君はどう思う?」
答えられなかった。
小さなレナードの人格。自分たちの人格。消されるのだ。そのためだけに、自分たちは生み出された。
フローラは俯く。隣でレナードが肩をすくめるのが気配で分かった。
「気にしなくていいなんて、そんなわけないさ。僕だって人間だけど……。移植される側もただの『器』じゃなくて、ちゃんと生きている『人間』なんだから。小さなレナードは僕のコピーかもしれないけれど、でも僕とは違う『人間』なんだ」
そして彼の口は、絞り出すような魂のうめきを発する。
「……自分以外の人の存在を脅かしてまで、僕は生きていたくない」
なんて謙虚な人なんだろう、人は誰でも、他人を押し除けてでも生きていたい生き物なのだと、この瞬間までそう思っていたのに。
フローラはハッと顔を上げ、
「で、でも、そのクローンの子は、そのために生まれてきたんでしょう?」
小さなレナード。オリジナルのレナードの『器』になるために。
他人の『人格』を移植されるために生み出された存在。小さなレナードの役目を肯定するということは、自分たちの運命を認めてしまうことに他ならない。何で『器』として生まれてきたクローンたちの存在を是としてしまうのか。それはただ、目の前にいる彼に、悲しい顔をして欲しくないから。
だから。
レナードは泣き笑いのような顔のまま、
「目的を持って生まれてくるなんて……。それじゃまるで、呪いみたいなものじゃないか」
呪い。
自分たちクローン人間に背負わされた、『人格の抹消』という、呪い。
「人は誰だって、自由に生きる権利があるんだ。それはクローン人間だって、そうじゃない人間だって、同じことだと思う。
……フローラ。僕はね、自分より小さなレナードの『呪い』には、なりたくないんだ」
虫の鳴き声しか聞こえなかった。
深い夜闇と静寂があふれる庭。小さな星の光が、深海の底みたいに世界を照らしている。美しく、冷たく手入れされた庭園の片隅で、フローラが映画や小説で見てきたどんな男の子よりも綺麗な顔をして、レナードは言う。
「ごめんね。僕の話ばかりして……。本当は女の子の話を聴くのが、筋っていうものなんだろうけど」
フローラは首を振る。
「ううん、いいの。……聴かせてくれて、ありがとう」
目的を持って生み出された自分たち『器』のクローン人間。その権利を認めてくれる人間が、たったひとりでも、この世界にいてくれたこと。
それが嬉しかった。それだけで、もう十分だった。
「君たちは、あの住所に何しに行くの?」
ハイランズ州オールテア。ペギーが書き残した『新しい彼女』が暮らす街。
「オリガの好きな子が、そこにいるの」
会いに行く。会って優しいキスをする。そして全てを取り戻す。
「それって、男の子?」
「ううん、女の子」
女の子のことが好きな女の子。外の世界では異質なのかもしれないけれど、レナードは「そっか」としか言わない。
瞬く星を見上げながら、フローラは、
「でもその子はもう、わたしたちのこと、覚えていないかもしれないの」
あの空の星のどこかに、ペギーの星もあるのかもしれない。
一度話してしまうと、言葉が止められない。
「その子は手紙に書いてくれたの。『マーガレットの花咲く庭で、優しいキスをしてくれたら、私は全てを思い出す』って」
もう覚えていないかもしれない。オリガがキスをしても、ペギーは何も思い出してくれないかもしれない。いいや、そんなことはない。ペギーの『人格』はどこに行ってしまったんだろう。あの星の海の中のどこかにいるのかもしれない。いいや、新しいペギーの中に、小さなカケラでもいいから、自分たちの知っているペギーが残っていてくれれば、それでいいのに。
全てを思い出す。
レナードに正体を明かしたわけではない。それでも彼の微笑みは温かくて優しくて、そしてほんの少しだけ、傷ついたような寂しさがあった。
「ステキだね」
「うん」
「その時は、その子によろしく」
「……うん」
星が綺麗だった。
胸の高鳴りは、まだ、治らない。
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