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二〇二一年九月四日 土曜日。
レナードは文句なしに優しい。あの執事のおじいさんも、もちろんメイドさんや、他の人たちも。レンガのステキな建物と綺麗に管理された庭。そこで繰り広げられる穏やかな日々。こんな日々が毎日続けばいい。心の隅っこでそんなことを思ってしまう自分がいる。
わたしたちはペギーを探すためにここまで来たのだ。いつまでもお世話になっているわけにはいかない。わたしたちがのんびりしている間に、ペギーの残りの人格が消えてしまうかもしれないのに。
早ければこの後にでも、オリガとこれからのことを話そうと思う。この後どうしていくか。いつこの家を辞去して、ハイランズのオールテアを目指すのか。
わたしたちはクローン人間。人格を消されるために生み出された『器』。その事実は変えられない。でももし、もしも個人として、わたしという人格が生きていくことを認められたりしたら。その時はまた、ここに来たい。そしてレナードにお礼を言いたい。その時のレナードが、今のレナードとそっくり同じ人間かどうかは分からないけど。
全く。一体何が楽しくて、マーガレット・リッケンバッカー博士はこんな手術を思いついたんだろう⁉︎ あんたが生み出した治療法のおかげで、こんなにもたくさんの人が悩んでいるっていうのに‼︎ 会ったらぶっ殺してやる‼︎ ちくしょう、あのクソババア‼︎
追記。さっきは書きすぎた。今のマーガレット博士の外見はペギーなのだから、ぶっ殺すのはやりすぎだ。
この家に保護された晩、オリガの熱はずいぶん高く上がったが、翌日にはすっかり下がっていた。
「ごめん、心配かけて」
「ううん、いいの。オリガが元気なら、それで」
孤児院を脱走して以来の、久しぶりに安堵できる環境。レナードは親切であり、彼の使用人たちも『レナード坊っちゃまの友人たち』に、よく尽くしてくれた。
どこからどう見ても、拾ってきた家出少女。それなのに、こんなにかいがいしく世話までしてくれて。
少しずつ体調が良くなるにつれ、オリガはレナードとよく会話をするようになった。最初は感謝の挨拶から。オリガはフローラとは違い、この少年には警戒心を持っていないようだった。
「ねえ、オリガ。何で警戒しないの?」
ジョンの時は、あんなにも警戒していたのに。
フローラの困惑を尻目に、オリガは軽く微笑んだ。
「だって、レナードはちゃんと笑っているもの」
レナードとあの男の笑顔がどう違うのか、フローラにはよく分からない。
「レナードがこの後『テラスでお茶でもどう?』って。フローラももちろん来るよね?」
「……うん」
ふたりは馬が合うらしい。この旅の中でオリガは一番
午後のお茶会は、フローラにとって複雑な感情を残していった。
信じがたいことに、喋っていたのは六割ぐらいがオリガだった。残りの三割がレナードで、フローラと言えば、オリガに求められて時たま相づちを打つくらい。
オリガとレナードの会話は主に音楽、特にピアノの話題に収束していった。いろんな曲名がフローラの耳を通り抜けて行ったけれど、メヌエットとカノンと月光くらいしか分からない。
オリガはピアノが大好きみたいな顔をしている。本当はイライザ先生に無理やりやらされるのが嫌で嫌で、自分から投げ出したというのに。それでもオリガの横顔は、そんな過去など存在しないかのように明るくピアノを語っている。今まで一度も見たことのないようなオリガの笑顔を見て、フローラの心の中にもやもやした何かが湧き出てくる。
ふたりの輝くような笑顔を尻目に、フローラは紅茶にたっぷりの砂糖とミルクを入れた。もちろんオリガは何とも思わなかったようだけど、その隣でレナードはギョッと目を剥いていた。
「す、すごい量だね……」
「こうすると、すごく美味しいのよ」
フローラはそう言って、ただの甘い液体を優雅にすする。
穏やかな午後のお茶会は、音楽の話題を中心に過ぎていった。オリガが心から笑い、フローラが愛想笑いをし、レナードは時々、乾いた咳をした。三人のお茶のカップが空になる頃、レナードはふたりの顔を交互に見つめて、
「近所に景色のいい小川があるんだ。よかったら行ってみない?」
「うん」
オリガは返事とともに立ち上がったが、フローラは動かなかった。
「わたしはいいや。ここにいる。ふたりで行ってきて」
レナードは一瞬だけ残念そうな顔をしたが、すぐに笑顔を取り戻し、
「そっか。あまり遅くならないうちに戻ってくるよ」
「ううん、ゆっくりしてきて。……その間に、庭を見ていてもいい?」
「もちろんだよ」
レナードはオリガの手を引いて歩き出し、フローラは手を振ってそれを見送った。オリガが何か言いたそうな顔をしてこちらを振り返ったが、気づかないフリをした。
ふたりの後ろ姿が森の中に消えていくのを見送って、フローラはテラスから庭へと降り立つ。瞬間、ざあっと風が駆け抜けて、まとわりついた髪の向こうに、フローラは楽園を見た。
完璧な庭園の形が、そこにあった。
晩夏の空気の中、幾多ものかぐわしい匂いが風に乗って流れてきた。手入れされた花とハーブが咲き乱れる花壇。無造作に見えるレンガや立札は計算の上に立てられていて、寂しい土の隙間には、陶製のうさぎの置物が顔を出している。枯れかけのハーブも、変色した花びらも存在しない庭。孤児院の庭よりずっとオシャレで洗礼されていて、でもほんの少しだけ、冷たい印象のある庭園。
「すごい……」
それしか言えなかった。それが自分の抱く感想の全てだった。
花壇の縁に腰を下ろす。ハーブの爽やかな香りを吸い込みながら心を落ち着かせる。
そして思い浮かべる。久しぶりに見たオリガの笑顔。ペギーの『卒業』後、手紙で真実を知らされてから、一度も見なくなったオリガの笑顔。かつてのオリガとは少し違う気もするけれど、あの頃にはなかった魅力のようなものが垣間見える、新しいオリガの笑顔。
「……オリガ、ひょっとして」
レナードに、恋したのだろうか。
そんなはずない。
でも、本当にないと言い切れるのだろうか。
女の子しかいない世界で育った自分たちにとって、同世代の男の子たちは未知の存在だった。レナードは初めて接した、同世代の男の子である。優しくて穏やかで、ぼろぼろだった自分たちに心から良くしてくれた、親切な男の子。普通の男の子がどんな風だかは分からないけど、多分こんなに優しいのは彼だけだろう。だから彼と話していて、オリガが笑顔になるのはおかしいことではない。
「……でも」
なんか、納得できない。釈然としない。
心の中に変な暗闇が湧き上がってくるのを感じる。自分自身の心を満たしていくそれが『怒り』であることに気づくのに、おそらく二分か三分か、もっとかかったのではないかと思う。
空を見上げた。うっすらとかかった雲の隙間から、晩夏の日差しがのぞく。真夏のそれに比べて柔らかくなった光が、完璧な庭園の上にくっきりとした影を落とす。
「……こんなところで」
何やっているんだろう。いつまでここで立ち止まっているつもりだろう。
自分たちはペギーに会うためにここまで来たのに。ペギーに優しいキスをして、全てを思い出させるために頑張ってきたのに。窃盗もした。無免許運転もした。人殺しだってした。マーガレットの花咲く丘で、ペギーに優しいキスをするために。失われたペギーの人格を取り戻すために、そうまでしてここまで来た。急ぐ旅ではないのかもしれない。でも、いつまでも立ち止まっているわけにはいかないのだ。ましてや男の子に誘われて、笑顔で小川を見に行くような暇なんて絶対ないはずで。
脳みそがぐるぐる回っていた。花の海の中を、ミツバチがぶんぶん飛び回っている音が聞こえる。ミツバチは白い花の上に止まって六本の足を動かしている。懸命にミツを集める姿を見ていると、過去の思い出がぼんやりと目の上を流れていく。自分が好きなオリガの顔。ペギーと笑っていたオリガ。ペギーのギターに合わせて歌っていたオリガ。ペギーの身に降りかかった真実を知って、自慢の三つ編みを切り落としたオリガ。
ペギーとの約束を話してくれたオリガ。投げやりで捨て鉢で、泣きそうな顔をしていたオリガ。ナイフ片手に自分を守ろうとしてくれたオリガ。ペギーのことを思いながら眠る、フローラの大好きなオリガの寝顔。
「オリガ……」
オリガ、オリガ、オリガ、オリガ。
オリガ‼︎
フローラの心の中で、不協を来していた感情の線が、全て繋がった。
「……わたし、オリガが好きだったわけじゃなかったんだ」
声にならない声を聞いて、小さなミツバチは他の花へと飛び移っていく。
「わたしは……。わたしは多分『ペギーのことを好きなオリガ』が好きだったんだ」
ペギーのことを好きなオリガ。ペギーの姿を見つめる、オリガの横顔。
花の間を行き交っていたミツバチがいなくなる。晩夏の風が吹いて、庭園の草花が小さくざわめいていく。
好き。
それは男の子に向けられるべき感情なのだろう。自分の心にあるオリガが好きという感情は、紛いものなのかもしれない。
自分は本物の『恋』すら知らない。それすら知らないまま『器』として、他の人間の人格を上塗りされるのだ。
もしあの孤児院に、ひとりでも男の子がいたとしたら。自分はオリガのことを好きにならなかったのかもしれない。オリガだってペギーを好きにならなかったかもしれないし、ペギーだって本物の『恋』を味わってから『卒業』できたのかもしれない。
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