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夜の九時。今日の出来事の顛末を日記に書き記している時、ノックの音が聞こえた。
「フローラ、起きてる?」
レナードの声だった。
「起きてるけど……」
「お茶でも飲まない?」
「うん」
ドアを開ける。部屋の外にいるレナードはたいそう準備のいい人間で、既にポットとカップを載せたトレイで両手を塞いでいた。
「お邪魔します」
寝室に男を入れることに抵抗がなかったわけではない。フローラはこの後に及んでもまだ彼を警戒していた。しかしここは彼の家なのである。家主の来訪を断るほど、フローラは感じの悪い客人ではない。
「疲れはどう? 少し良くなった?」
「うん、おかげさまで」
レナードはソファーに腰を下ろし、慣れた手つきでお茶を注いだ。ポットから吐き出された紅茶は深い赤色で、かぐわしい香りがフローラの心をそっと撫でていく。
「さあ、どうぞ」
「ありがとう」
孤児院の日々に戻ったような気分だった。
そして事実、心だけは、孤児院での暮らしを思い出していた。豊かな香りに孤児院の情景を思い描き、ストレートで飲むレナードの姿に、ペギーの姿が重なった。フローラは習慣通りにミルクと砂糖をたっぷり入れようとして思い止まる。
「……どうしたの?」
「ううん、何でも」
結果、両方とも少しだけ入れた。トレイにはシナモンの粉末も載っていて、あまりの懐かしさにほんの少しだけ振りかけてみた。小さなびんをトントンと指で叩く。少量でもシナモンはむせ返るような匂いがした。やっぱりペギーが言っていた通り、これを山盛りにするイライザ先生は味覚障害なのではないかと思う。
「……」
ふたりとも、ひと言も喋らなかった。口が手持ち無沙汰になって、紅茶ばかりがやたらと進む。慣れない人との沈黙に居心地の悪さを感じるが、レナードにはそんな素振りもない。
紅茶のカップの底が見えた。
「お代わりはいる?」
「うん、もらう」
レナードの手がポットを傾ける。紅茶が注がれる、こぽこぽという音を聞きながら、
「……レナードって、何歳?」
「十五歳」
フローラはお代わりの注がれたカップを受け取る。
「じゃあ、わたしと同い年ね」
初めて話した、同世代の男の子。ペギーと同じようにストレートの紅茶を飲むレナードは、ものすごく大人に見える。それとも自分が子どもっぽいだけで、世間一般の十五歳は、みんなこんなに大人なのだろうか。
「……レナード。今日は本当に、ありがとう」
完璧に警戒を解いたわけではなかった。それでも頑なな水面が少しずつ揺らいでいるのは事実である。礼の言葉は、心からの言葉だった。
「ううん、どういたしまして」
「……でもわたしたち、お礼できるようなものは何もないの。……ごめんなさい」
自分たちは、明日食べるものにも困って、パンも盗んだのだから。
レナードは笑いながらカップを傾けて、
「そんなの、困った時はお互いさまだよ。……だって何か、ワケがあるんでしょ?」
「……うん」
「家出?」
「うーん……。そうだね。まあ、そんなところ」
家出。
普通の十五歳の女の子は、一体どんな理由で家出なんかするのだろう。自分たちの運命から、逃れるためだろうか。運命に囚われた友人を救い出すためだろうか。普通の女の子たちは家出生活のために、盗みをしたり人を殺したりするのだろうか。
レナードはベッドで眠るオリガを
「君とその子、姉妹じゃないよね?」
「うん、友だち。でも、姉妹みたいなもの」
友だち。姉妹。自分たちの関係性を形容する言葉の一つひとつに、かすかな苛立ちを覚える。自分はオリガが好きなのだと、同性のこの子にはかなく恋しているのだと、そう言えればいいのに。
「オールテアに行きたいんだっけ?」
「うん」
そこで何が待っているのかレナードは訊かない。フローラはカバンから地図と、ペギーが書き残した住所を見せて、
「ここから近い?」
「うん、遠くはないよ。でも、車は必要だね。……急いでいるの?」
急ぎかもしれない。でも急がなくてもいい。急いだって、用意されている答えは変わらないのだと思う。ペギーの元にたどり着く。彼女に優しいキスをして、失った記憶を、人格を取り戻してもらう。それがこの旅の、オリガとともに歩んできた道の全てだった。
手の届くところにある、旅の終わり。それが終わってしまったなら、自分たちはどうなるのだろう。
フローラの痛々しい沈黙に、レナードは微笑んだ。
「急ぎじゃないなら、少しゆっくりしていきなよ。気の休まる時なんて、ずっとなかったんだろう?」
なんで分かるんだろう、
「その子の体調が良くなったら、オールテアまで送って行くよ」
「でも、そんな」
申し訳ないな、と思う。自分たちに返せるものなんて、何ひとつないというのに。
それでもレナードは、終始優しい微笑みを崩さないでいる。
「気にしなくていいよ。だって困った時はお互いさまさ。それにね、運転するのは僕じゃなくて、じいだから。お礼なら、じいに言ってあげて」
僕は十五歳だから。まだ運転免許を持っていないから。
何で十五歳のフローラが車を運転していたのか。それさえも問い質さないでいてくれたレナードの優しさが、ありがたくて、少しだけ苦しい。
その夜、雨の音が気になってよく眠れなかった。レンガの壁を叩く雨音の中で考えていたことと言えば、自分たちの旅の終わりに他ならない。
旅の終わり。
いつかは来るとは思っていた。いつまでも来なければいいと、そうも思っていた。
自分たちの旅の終わり。ハイランズのオールテアにたどり着いて、消されたペギーの人格を取り戻した先の未来。完璧な旅の終わり。その向こうで自分たちはどうするのか。あるいはどうなるのか。
今まで目を背けてきた課題が、夜の闇の中、急に大きくなって迫ってくる。
そしてフローラは自分の心の中に、一点の穴が空いていることに気づく。多分、穴はずっとそこに空いていたのだろう。けれどそれはおそらく、意図的に無視し続けてきたものだった。
そもそもペギーは、消された自身の人格を、本当に取り戻してくれるのだろうか。オリガの優しいキスひとつで、自分たちのことを、あの孤児院で暮らした日々のことを、思い出してくれるのだろうか。
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