(2/6)

 かくして車は出発した。

 ジョンの黄色くてオンボロの車を乗り捨てたことには、何の感慨も後悔も湧かなかった。

 座り心地のいいシート。静かなエンジンと丁寧な運転。エアコンはカビ臭くないし、足元は散らかっていなくて広い。フローラは心の底から感動した。自分たちの車での旅がどれだけ劣悪だったのか、今さらながらに思い知った。

 大雨が屋根に叩きつける。フローラは、

「ごめんなさい、迷惑かけて」

 なるべくしおらしく聞こえるように心がけた。自分がまだ彼らを警戒していると思われては良くないだろう。

 少年は人のいい笑みを浮かべながら、

「困った時はお互いさまだよ。ねえ、じい?」

「はい、坊っちゃま」

 坊っちゃまと、じい。

 アクセル・フォーリーは助けに来てくれなかったし、ジュラシックパークは存在していなかったけれど、それでもこんなお金持ちの家庭は本当にあったのだ。

 車が雨の中を進む。路面の状態が悪いはずの山道でも、それを感じさせないくらい、丁寧な運転。知らない人。しかも男性の車に乗る。それがどれだけ危険なことか、今のフローラはよく知っている。しかしエンストで、雨で、おまけにオリガは体調不良。こんな田舎の道で立ち往生していても、次に誰かが来てくれる保証はどこにもない。

 フローラの警戒を緊張と受け取ったのだろう、少年は温かな笑みを浮かべたまま、

「大丈夫、リラックスして。少し、寒いかな?」

 少年はじいにエアコンを止めるように言った。寒さと緊張と悔しさで手が震える中、ぐったりしているオリガの分まで、フローラは頭を下げた。

「……ありがとう、本当に」

 お金持ちのお坊ちゃんと、執事のおじいさん。善良な人たちだと思うけど、油断はできなかった。フローラは震える手で、ポケットの上からナイフを握りしめる。あの日の悪夢が後頭部を流れていく。ずらされた下着。肋骨の上を這う手。生々しく濡れる股。もしこの笑顔で優しい男の子がオリガに何かするようなら、今度は自分が、この子を刺し殺すのだ!

「……」

 でも外の世界に来てから、初めて誰かに優しくされた気がする。


 フローラは地図を広げた。少年は今がどこで、どっちの方向に走っているのかを丁寧に教えてくれた。

「僕はレナード。レナード・フィッシュバーン。君たちは?」

「……わたしは、フローラ。この子が、オリガ」

 苗字を名乗らなかったことを、レナードは不審に思ったかもしれない。自分たちに名乗るべき苗字が、フルネームが、ないのが悲しい。

 彼はポケットから、あの例の小さな箱型の機械――『すまーとふぉん』とか言うのを取り出した。右手の親指で画面に触れてから、筐体を耳に当てる。

 電話をしているんだ。あの『すまーとふぉん』というのは電話だったんだ。

「ああ、僕だよ。レナード。急で悪いんだけど、これから友だちを連れて行くから」

 友だち。

 そう口にするレナードの横顔は、自分たちの関係を何ひとつ疑ってはいなくて、

「――うん、女の子がふたり。ひとりは具合が悪くて、雨にも濡れているんだ。お風呂を沸かしておいてあげて。――――うん、もちろんそのつもり。ああ、女の子だからね、ちゃんと客間を用意して」

 フローラは目を細めた。

 友だちがふたり。まだ会ったばかりの、捨て犬みたいな自分とオリガのことを、迷わずに『友だち』と紹介してくれたレナード。お金持ちのお坊ちゃんだからではない、人権やすまーとふぉんを持っているからではない。彼の優しさが、善良さが、彼の姿を眩しく見せる。

「……どうしたの?」

「……それって、『すまーとふぉん?』」

「うん、そうだけど……。フローラ。君、持っていないの?」

「うん……」

「今どき、珍しいね」

 ウォルブリッジで仕事を探していた時のことを思い出す。古びたコーヒーショップのカウンターで、老店主が見せた不審そうな態度。

「そ、そうかな?」

「うん。僕もつい最近、買ってもらったばかりなんだ。まだ、慣れていなくてさ」

 あの老店主のように、レナードが深く突っ込んでこないことを祈った。すまーとふぉんの有無だけではない。自分たちは住所も電話番号も、社会保障番号も持っていない。きっと、レナードはその全てを持っているはずだ。いいや、おそらく、絶対、持っているに決まっているのだ。

 フローラは目を伏せる。自分の肩に寄りかかるオリガの重みを感じる。自分たちにあるのは名前と、いずれ消されるだろう個人の人格だけ。

 レナードは、

「具合悪かったら、寝ていてもいいよ」

「う、ううん。大丈夫。あの、その……」

「?」

「……ありがとう」

 彼は一瞬、虚を突かれたように固まったが、すぐに、

「どういたしまして」

 彼の親切が、すり切れた心に染みて痛い。

 名乗るべき苗字を持たない現実が、悲しい。



 レナードの住む家はオールテアより手前、静かな山の中にぽつんと一軒だけ建っていた。

「ほら、あれが僕の家」

 レナードの指の先を見る。車の骨組みに切り取られた景色。大きな赤茶色のレンガの建物。オシャレな窓枠。それを覆うツタと、丁寧に管理された庭園。庭には水こそ出ていなかったが、噴水みたいなものまであった。

「……映画の世界?」

 本当に映画みたい世界が、そこにあったのだ。レナードは一瞬きょとんとしたが、すぐに破顔して、

「違うよ、現実だってば。フローラって面白いこと言うね」

 車が滑らかに玄関の前に横付けされる。それを見計らったように、お手伝いさんが数人出てきた。彼女たちは板チョコみたいな立派な扉から出て来るなり、ふたりを歓迎してくれた。お風呂は沸いていて、メイドたちは熱のあるオリガを丁寧に看病してくれた。

 建物は上品だった。でも今フローラは、根底に金の臭いを感じずにはいられない。孤児院より広い建物。一歩一歩が沈み込むような、ふかふかしたカーペット。でも陰鬱で冷たい雰囲気がするのはなぜなのだろう。雨が降っているからか。それとも建物が木造でなくてレンガ造りだからか。あるいはそこに、人格を消されるために生み出された、たくさんの女の子たちの笑い声がないからだろうか。

 そんなフローラの思いを汲み取ったのか、レナードは、

「ここさ、別荘なんだ」

「じゃあ、本宅は別にあるの?」

「うん、ウォルブリッジ。知ってる?」

「……うん」

 知っているも何も、自分たちはそこでピアノを弾き、仕事を探し、カップラーメンを食べてヒッチハイクをした。

「レナードのご両親は本宅に?」

「うん、そっちで仕事している。ここには僕だけ」

「そうなんだ」

 きっと色々な事情があるのだろう。レナードは本当に察しのいい少年だと思う。彼は少しだけ寂しそうに微笑んで、

「……僕さ、病気なんだ。ここには療養って目的でいる」

 それで納得した。だかじいは彼が車外に出ることを強く制止したのだ。冷たい雨に打たれて具合が悪くなったら困るから。

 歩きながらフローラは、ふとレンガの壁に触れてみる。冷たかった。

「さっきはさ、大きな病院に行ってきて……。その帰りだったんだ」

「退院してきたの?」

「ううん、これから入院するんだ。……だから今日は手術前の、最後の検査」

「そう……」

 自分だって不安なはずなのに、それでも彼は自分たちを見て優しくしてくれようとした。こんな映画の世界の住人みたいなレナードも、完璧な幸せ者ではない。彼にも背負っているものはある。

 それでも優しくしてくれたレナード。それでも警戒を解けない自分。

 お風呂を借りた。冷たい体はたちまち温まって皮膚がピンク色になった。石けんは文句なしにいい匂いがしたし、渡されたバスタオルは雲みたいに柔らかかった。

 部屋に戻ると、オリガが横になっていた。寝巻きに着替えさせられた彼女は大きなベッドに寝かされていて、孤児院を飛び出してから、一番安らかな表情で眠りに就いている。フローラはその足元に腰を下ろした。マットレスが柔らかく尻を受け止めてくれる。

 それからしばらくぼんやりしていると、メイドのひとりが食事を持ってきてくれた。

「何かあったら、そのベルを鳴らしてね」

 年嵩で太ったメイドは、腹の肉をゆさゆさ揺らしながら人のいい笑みを浮かべている。

「ありがとうございます。……ええと、その、色々とすみません」

 お盆の上、ボウルのお粥から、ミルクの匂いが立ち上ってくる。

 メイドは腹の肉をますます揺らしながら、

「いいのよ。坊っちゃまがお友だち……、それも女の子を連れてくるだなんて、一度もなかったんだから」

 だから私たちにも、たくさんお世話をさせてね。そう言い残して、彼女は部屋を後にした。

 ミルク粥はとても甘い匂いがして、空腹に腹が鳴った。お腹が鳴るなんて初めての経験だった。まるでマンガみたいな出来事に、フローラはひとりで赤くなり、そしてひとりでクスクス笑った。

 久しぶりに食べる、きちんとした食事。

「……いただきます」

 深く寝入るオリガの隣で、スプーンを取った。ものの数分で、ボウルを空にした。



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