第六話
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二〇二一年九月二日 木曜日
今日は――ほとんど毎日だけど――色々なことがあった。でも悪いようにはならないと思う。オリガがこんな状態だから、今はわたしがしっかりしていなくてはならないのだ。
オリガ曰く、わたしは「男の人を見る目がない」そうだけど、それでも『彼』はいい人だと思う。嫌な方に見積もっても、悪い人ではないはず。男の人を簡単に信じるのがよくないってことは、前回の件でよく分かっている。
でもわたしは『彼』を信じたい。
※
ハイランズ州オールテア。
遥かなる旅路の向こうにあったはずの地名が今、すぐそこまで迫ってきている。
分厚い雲が空を覆っていて、昼間だというのに薄暗かった。湿り気を帯びた風が左から右へと流れている。弱い風だった。雨が降る前に特有の土みたいな匂いがする。
この広い草原と山を越えた向こうに、ハイランズ州オールテアはあった。地図にして少し。距離にして過酷。それでも今までの旅路を思えば、あと少しだと踏ん張れる気がした。
「いよいよ、ここまで来たね」
アクセルを踏みながらフローラが言った。ずいぶん上手くなった運転で、草原の上に敷かれたアスファルトをたどって行く。
「うん……」
「オリガ、酔ってない?」
「ううん、大丈夫」
オリガは蒼白な顔に笑みを浮かべ、首を振った。今日の彼女はなんだか不気味だ。真っ青な顔の中、目だけが不吉な光を湛えてギラギラ光っている。フローラにはそれが、何か良くないことが起きる前兆のように思えてならない。
そのままフローラがハンドルを握り、しばらく道路を直線に走った。アクセルを踏むたびに生ぬるい風が車内を通り抜けていく。パラパラ降り始めた雨がフロントガラスを叩く。山が近くなってくる。オールテアが近くなってくる。そしてペギーが、あの雨の庭で出会った、自分たちの知らないペギーが、その街にいる。
ふたりとも、ひと言も喋らなかった。雨の音とエンジンのうなり声以外、ひたすら静かだった。時折、フローラは横目でオリガを見た。相変わらず顔色は悪いままで、それでも目は不穏に輝いている。
雨が強くなる。ワイパーが忙しなく動く。窓を少し閉める。エンジンのうなり声が大きくなる。
そして、
「え……?」
少しだけ惰性で走って、やがて車はぴたりと止まった。動転する中、いくらアクセルを踏んでも、車体はちっとも前に進まなかった。
「うそ……。なんで?」
フローラは恐る恐る、目の前の計器類を見つめた。
ガソリンが底を尽いていた。
うっかりしていた。数日前に給油したきり、ガソリンというものの存在を忘れていた。その日の夜を過ごす宿のことで、その日を凌ぐパンのことで、頭がいっぱいだった。車だってガソリンがなければ走れないのだということを、この瞬間まで失念していた。
どうしよう。
フローラはオリガの方を見る。オリガは車が止まったことに気づいているのかいないのか、遠くの山を見つめたままだ。
「オリガ……?」
体はぐったりと力を失っていて、座席に座っていることすら辛そうだった。
フローラはオリガの額に左手を乗せた。
熱かった。
顔色の悪さも、ギラギラ輝いている目も、旅路が終わることを予見していたのではない。ペギーへ恋い焦がれていたのでもない。全ては単に熱のせいだったのだ。
「オリガ、分かる? お水飲む?」
「……う、うん」
フローラが呼びかけて、ようやくオリガの目が像を結んだ。生ぬるい水を少しずつ飲むオリガをよそに、フローラは頬杖をついて窓の外を見つめる。
エンスト、オリガの体調不良。そして追い討ちをかけるように、土砂降りの雨がフロントガラスを叩き始めた。ワイパーは動かない。視界はどんどん悪くなる。屋根に落ちてくる雨音のせいで、考えがまとまらない。
――万事休す。
今できることは、何ひとつなかった。
お腹が空いた。けれど食欲はないし、食べものはもう何も残っていない。ぬるくなった水をちびちび飲んで、それからしばらくドアに寄りかかってぼんやりした。
雨が止むのを待った。しかし時が進むたびに降りが強くなっていく。時計は見なかった。一時間でも二時間でもそうしていた気がするけれど、実際は三十分くらいしか経っていなかったと思う。雨、止まない。オリガの体調は良くならず、もちろんエンストだって直らない。
何も解決しないのに、思考だけがぐるぐる動いて落ち着かない。フローラは外に出た。降りしきる雨に全身が濡れることも構わずに、そのまま車外に突っ立って、しばらくぼんやり空を見つめた。
取り止めのないことが頭の中を渦巻いていた。ウォルブリッジの駅、ピアノの前に座っていた女の子の姿を思い出す。自分たちといくつも離れていないだろう女の子。基本的人権を与えられ、人格も記憶も奪われず、普通に暮らしていけるあの子。あの子はこんな雨降りのど田舎の道で、泣きたい気持ちを雨に打たれて誤魔化すようなことなど、多分一生ないのだろう。
自己憐憫に浸るのは良くないと思う。でも今は、そうでもしなければ息もできなかった。だからエンジン音が近づいてきても、フローラはすぐには気づかなかった。
「あ……」
車。
助けてくれるかもしれない。
かつての自分なら――ウォルブリッジでヒッチハイクをする前の自分なら、この転機をまたとない幸運と考え、手放しで喜んでいただろう。今は違う。ヒッチハイクは危ないからやってはいけないとイライザ先生も言っていたし。
外の世界は残酷だ。たとえ車の人が善人だったとしても、自分から「助けて」なんて、もう言えない。
それでもフローラは、目の前に停まる車を見ずにはいられなかった。
自分の頭の中には、金持ちはピカピカの車に乗るのだという思い込みがあり、そして事実、目の前に停まる車は黒塗りのピカピカだった。この土砂降りの雨の中でも、車体が綺麗に磨かれているのがよく分かる。
黒塗りのピカピカの車。孤児院で見せられた数々の映画を思い出す。こういう車に乗っているのはお金持ちのご令息だかご息女だかで、運転手は白髪で白い手袋をした執事だと相場が決まっているのだ。
黒塗りの車のドアが開いた。煙る土砂降りの雨の向こうに、フローラは本物の金持ちを見た。
運転席に座る初老の男性。そして後部座席から、ひょっこり顔を覗かせている男の子。年はフローラと同じくらい。外の世界で過ごしてみても、相変わらずモノの価値はよく分からない。けれどふたりの服装は、自分たちの着ているものよりも、ずっと綺麗で上品で、質が良いように思えた。
雨に煙る視界の向こうから、少年の声がした。
「あの! お困りですか⁉︎」
涼しい声。開けられた窓から、小さな子どもみたいに目をキラキラさせている少年が見える。
「良かったら、お送りしますよ。ねぇ、いいよね? じい」
少年の言葉に、じいと呼ばれた運転手は頷いた。フローラは少年とじいと、それから黒塗りの車をまじまじ見つめる。お金持ちのお坊ちゃんと、お付きの運転手。自分たちにとって、外の世界は辛くて厳しいところだ。そんなところに、こんな小説に出てくるような人たちがいるなんて。
「お困りですか」と彼は言った。
「よかったらお送りしますよ」と、その言葉を信じていいのかどうか。
フローラの中に迷いが生じる。かつての自分なら、両手を上げて喜んでいただろう。しかし今はそうではない。前みたいに、あの時みたいなことがあったらどうしよう。もうあんな怖い思いは二度としたくないし、オリガに殺人をさせるのなんてもっと嫌だ。
でも。それでも。
「……は、ハイランズの」
声が震えた。舌がのどの奥で膨れ上がって、上手く声が出ない。
「ハイランズの、オールテアに行きたいんです。……ち、ちかっ、近くまで構いませんから、その……。乗せていって、くれませんか?」
止むに止まれぬ決断だった。
この人たちは善良に見える。だけど、ジョンだって悪い人には見えなかった。見知らぬ人を信用してはいけない。あの時、切に学んだはずだ。
『ヒッチハイクは危ないからしてはいけない』とイライザ先生は言っていた。でも自分たちには何もなくて、オリガは熱を出していて、おまけに車はエンストしている。
彼の善意に頼るしかなかった。その見返りに体を要求されるのであれば、今度こそ従うより他なかった。
俯くフローラに対し、少年は笑った。
「もちろんですよ!」
明るい声だった。自分が疑心暗鬼に囚われていたことが、バカみたいに思えた。
「さあさあ、乗って。荷物運ぶの、手伝いますよ」
「いけません! 坊っちゃま!」
少年は車を降りようとする。だが運転席のじいは、後ろを振り向いてそれを制止する。
「少しくらい、大丈夫だってば」
「ダメです。荷物は私が運びますから、坊っちゃまはそこにいてください」
運転手がのじいがそう言って、少年はずっと小さな子どもみたいに口を尖らせた。
ちょっと怖くて無愛想だけど本当は親切なじいが、荷物を移すのを手伝ってくれた。フローラは車内で眠っていたオリガを叩き起こし、助けてくれる人が来たことを知らせた。熱とうわ言の中でヒッチハイクを反対したオリガだったけれど、もう自分たちはどうにも立ち行かなくなったことを悟ってフローラの言うことを聞き入れた。
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