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二〇二一年八月二十九日 日曜日
昨日は面倒臭くて日記を書くのをサボってしまった。しかし一昨日のわたしったら、いったい何を考えていたんだろう! 軽々しく、強盗なんて!
でも昨日の段階ならいざ知らず、今のこの瞬間、わたしはもう、一昨日のわたし――つまり強盗を企てたわたしを責めることなんてできない。わたしは罪深い人間だ。やむを得ないとはいえ、わたしは自分自身であの行動――今日したことを選んだのだ。成り行きがどうであれ、この責任はわたし自身が引き受けなくてはならない。
わたしはずっと、この日記を他の誰かに――全てを忘れてしまう未来の自分自身も含めて――読んでもらうこと前提で書いてきた。手記として書くのだから、全てを包み隠さず書くべきなのだろうけれど、今日したことに関しては書かないでおく。あんまりにも不名誉だから。
わたしだって、自分の名誉が大事。それに書きたくないこと、秘密が少しくらいあったって、いいと思わない?
※
ふたりは未成年であり、クローンであり、住所も電話番号も社会保障番号も持っていないのだから、当然働いていない。働いていないということはつまり無収入であって、要するにふたりの所持金は目減りしていく一方である。
ふたりの収入は数日前、ジョンの手にかかった被害者たちの財布を漁ったのが最後だった。連日、モーテルに泊まったことを後悔した。ハンバーガーにポテトと飲みものをつけたことを後悔した。今日はモーテルに泊まることはできない。熱いシャワーを、寝心地のいいベッドを、我慢しなくてはならない。
「わたしたち、臭いよね」
フローラはそう言って、汗染みのついた脇の下をくんくん嗅いだ。蒸し暑い空気のせいでシャツも肌もベトベトだった。広い田舎の道には陽炎が浮いている。時折窓から入ってくる風も、生ぬるくて気持ちがよくない。
オリガがペットボトルを傾けた。白いのどに、こぼれ落ちた水のひとしずくが流れていく。
「ふたりとも臭ければ、気にならないよ」
一昨日のケンカは、明確な謝罪や終息宣言もないまま立ち消えた。きちんとした仲直りをしたわけではなく、ふたりの間にはぎこちない空気が漂っている。
「……お腹減った」
それが自分の呟きだったのか、それともオリガの呟きだったのか。フローラには定かでない。
今日は朝から何も食べていなかった。熱いシャワーもカップラーメンもお気に入りの石けんも買う余裕はない。それでも人間、生きていれば腹は減る。ぼんやりした視界の端に、そこそこの速度で景色が過ぎ去っていく。田舎の道端、ぽつんと看板。この先一キロ、スーパーマーケット。
所持金は少ない。腹は減った。自分たちはもう、人殺しまでした。でも自分たちは立ち止まってはいけない。少なくともペギーの元にたどり着くまでは、生き延びなくてはならない。
罪に手を染めることが、今さら何だというのだ。フローラの心の中に、悪魔の影が落ちてささやきが聞こえる。
「ねえ、オリガ。……もう少しでスーパーがあるから、そこで少し休まない?」
「でも」
何も買うお金なんてない。オリガがそう言いかけるのを、フローラは手早く制した。
「休憩は必要だよ。それに」
悪魔のささやきが、まるで自分の心の声そのものみたいに聞こえる。
「パン一個くらいなら、まだ買うお金、あるでしょ?」
今思えば、何かをする前から既に、自分は動揺していたのだろうとフローラは思う。
田舎町の大きな通りの、広い平屋建てのスーパーマーケット。危なっかしい運転。ようやく駐車したオリガを残し、フローラは店に入った。
店員が、客が、母親に連れられた小さな子どもでさえも、こちらを見ているような気がした。頭を振る。手足に意識して力を入れる。さりげない風を装って、天井にある防犯カメラの位置を確認していく。
「……」
ダメだ、こんなことをしては。
心の中で、善良な自分自身の声が、まるで他人の呼びかけみたいに響いては消えていく。自分たちはもう、人を殺した。基本的人権を与えられていない自分たちが外の世界で生きていくには、こうする以外に他なかったのだ。そしてそれは、今この瞬間も同じ。
パンの棚の前。パンの種類も値段も見なかった。手近な袋をつかみ、誰もこちらを見ていないのを三回も確認してから、フローラは服の中にパンを突っ込んだ。怪しくならないように、わざとゆっくりその場を後にする。
万引き。
不慮の事故でも、正当防衛でも何でもない、自発的な犯罪。
心臓がバクバクと早鐘を打っていた。呼吸が無意識に早くなっていって、吸っているはずの息がすごく苦しい。手足が氷みたいに冷たくなって震えている。ふわふわして力が入らない。
店員が、客が、母親に連れられた小さな子どもが、こちらを見つめていた。怪物みたいな大きな目で。彼らには人権がある。住所も電話番号も社会保証番号も。彼らは人間だ。器じゃない。防犯カメラが見ている。人格消されない、防犯カメラ、犯罪、人権、優しいキスをして――。
店の自動ドアをくぐり抜けた瞬間、フローラは走った。振り返らなかった。
混乱と自責の念に心を責め立てられながら、頭の中で叫んだ。ごめんなさい。お代はいつか、いつか返しますから。自分たちに返せる将来が与えられれば、きっと、きっと返しに来ますから。
涙で前が見えない。鼻水が垂れてきて息が吸えない。代金を返す将来が与えられないことくらい分かっている。だからその時は、自分ではないオリジナルのフローラが、きっときっと、返しに来るから。
「……ただいま」
涙も鼻水も念入りに拭ってから車へと戻った。涙まみれの声を必死に押し殺し、パンの袋を差し出した。
「こ、これ……。おいしそうだったから」
小さくてずっしりしたカレーパンだった。三割引きのシールが、パッケージを半分くらい覆い隠していた。
「フローラ」
「……ん?」
「あんた、財布忘れていったよ。……お金、どうしたの?」
「ぽ、ポケットに、少しだけ入っていたから」
「……そう」
会計済みのシールも貼っていなければ、ポリ袋にも入っていないカレーパン。オリガがどう思ったのか、フローラには分からない。フローラの言い分を信じていないのは明らかだった。
窓を開けていても風の入ってこない車内。蒸し暑い車の中で、ふたりは無言のまま半分にちぎったカレーパンを食べた。パンの表面は脂っこくて、そのくせ生地は硬かった。美味しいとかまずいとか、そんなことは思わなかった。粘土の塊を食べているような気分だった。
オリガが何も追求しないでいてくれたのだけが、幸いだった。
もう二度と、カレーパンなんか食べないと思う。
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