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二〇二一年八月二十七日 金曜日
今日は晴れ。ものすごく晴れ。一日中、走りっぱなしでクタクタ。この間、手に入れたお金はもう少ないガソリンと食べもののことを考えれば、モーテルに泊まれるのは今日と明日だけ。翌日の宿を考えなくてはいけない毎日は本当に辛い。車には屋根があるから、まだいいけど。
今日はオリガとケンカした。孤児院を飛び出してから初めてのケンカ。だから気分はあんまり良くない。疲れてるのとかお腹が空いているのとか、後はお金がないこととか。そんな不安が重なって、ふたりとも心が不安定になってしまったのだと思う。――わたしは悪くないと思っているけど!
それにしても、お金がないってすごく心細い。ジョンの被害者たちの財布を見つけた時のことを思い出す。強盗でもするべきだろうか。わたしたちは人をひとり殺したんだから。ちょっと刃物で武装して民家に押し入って、善良で裕福な老夫婦を縛り上げて金庫の番号を吐かせる――幸い、刃物もロープも後部座席にあるから、にっちもさっちも[#「にっちもさっちも」に傍点]行かなくなったら考えなくてはならないと思う。人殺しのわたしたちなら、強盗くらい屁でもないのだ。
わたしたちの先行きは真っ暗なのに、雨も降らないし雷も落ちない。きっと世界中、わたしたち以外の人たちはみんな幸せなんだと思う。
早くペギーに会いたい。でも、ペギーに会わせる顔がない。
※
ふたりは慣れない運転で、ひたすらに東へと向かって走った。
ふたりが『ハイウェイ』なるものの存在を知ったのは、三人旅がふたり旅に戻った二日後のことである。
「ほら、ここまで伸びている」
オリガは地図の上、緩やかにカーブを描くハイウェイの線を指でなぞる。
「で、ここから下道に戻る」
ハイウェイは、ペギーのいるハイランズ州オールテアのすぐ近くまで通っていた。オリガの提案した通りに走れば、明日にでも目的地へと着けるだろう。
「どう?」
今までこういう無茶は自分が提案するはずだったのに、いつの間にか立場が逆転してしまっている。あの夜の一件で、心の中に湧き上がっていたエネルギーが一気に枯渇した。フローラは視界の先、とんでもない速さで走っていくハイウェイの車を見つめる。
普通の道を、普通に走るだけで精一杯なのに。
「……あんな速度で走れると思う?」
冗談じゃない!
「思わないよ。……言ってみただけ。
旅が早く終わるなら、それに越したことはない。道を短縮できるなら、たとえ難しいことだったとしても検討の余地はある。自分たちはトラックの後ろにしがみついたし、貨物列車にも飛び乗った。だからハイウェイだって走れるかもしれない。
でもフローラは首を振った。自分たちは無敵ではないと、今はもうよく分かっている。
「さあ、休憩終わり。……今度はわたしが運転するよ」
昼は走り詰めて、夜は所持金が許す限り道路沿いのモーテルに宿泊した。
そんな八月二十七日の金曜日の夜、事件は起こった。
ふたりは、ケンカをしたのである。
「ねえ、オリガ。石けんは?」
「カバンの中に入ってないの?」
カバンの内ポケット。洗面用具をまとめた袋の、ビニールの中。
「ないの」
フローラはそう言いながらカバンの中をひっくり返す。内ポケット。洗面用具の袋。歯ブラシ、コップ。でも、石けんの残りはなかった。
「昨日まで、あったのに……」
どうやら前日泊まったモーテルに忘れてきてしまったらしい。
初めて自分たちで選んだ石けん。
初めて買った、お気に入りの石けん。
ショックを受けるフローラの背中に、オリガはため息をつく。
「……しょうがないよ。どうせ、もう小さかったんだから」
昨日なくさなくても、今日明日にはなくなっていたんだから。
「……」
たかが石けん。されど石けん。
本来は明るく前向きなフローラの心は、連日の疲労と不安で見事にささくれ立っていた。ささくれた心にオリガのため息は、真冬の冷たい水みたいに染みた。
どうせ今日か明日か。どんなに遅くても、明後日には使い切ってしまうのに。小さな小さな石けん。お気に入りの香りの、自分たちが初めて選んだ石けん。
どうせ。
オリガの些細な言葉が、フローラの心に引っかかる。
「『どうせ』なんて言わないでよ」
自分でも不思議なくらい、感情に抑制が効かなくなって、
「……しょうがないでしょ。ないものは、ないんだから」
「そんな言い方しないでよ!」
たかが石けん。されど石けん。この旅は、オリガがペギーとした約束を果たすための旅なのに。オリガのためなのに、なんでそんな言い方ができるのだろう。
オリガは目を上げた。
「何がそんなに不服なのよ? フローラが忘れてきたんじゃない」
その後、自分が何を吐き捨て、オリガが何を言ったのか。フローラはよく覚えていない。
小さな石けん。されど大きな石けん。フローラは不満そうなオリガを浴室に見送り、彼女が出てから自分も風呂に入った。とても一緒に入る気にはなれなかった。
「……変な臭い」
モーテル備え付けのシャンプーは泡立ちが悪かった。皮膚が耐えられる限界までシャワーを熱くし、頭からかぶって泣くのを我慢した。白い皮膚がピンク色になるまでシャワーを浴び続けた。
お互い疲れていたし、ケンカした後だから気まずかった。オリガは少しだけテレビを見てからすぐに寝て、フローラは紅茶を飲みながら壁を見つめてぼんやりした。オリガに背を向けて横になった。
こういう時、ふたりきりってキツい。こういう時、ペギーがいてくれればいいのに。ペギーならきっと、簡単にこの場を丸く収めてくれるはずだ。「ほら、ケンカしないの。仲直りしなさい、ね?」と、まるで本物の姉みたいにケンカを仲裁してくれるのだ。ペギーのイタズラっぽい微笑みが目に浮かぶ。
「……」
ケンカをした。お腹が減った。気に入らないシャンプーの臭いが髪に残っていて不快だった。ゆっくりと、でも確実に、心に不安がのしかかってくる。それでも心の奥底、どことなく満たされた気分でいられたのは、自分の意思で行動を決めることができたからだ。
自分で選ぶ。それは幸せなことだ。誰かの代用品としてではなく、他でもないフローラというひとりの人間を『自分自身』を生きている感じがする。
寝返りを打つ。オリガはこちらに背を向けて、背中を丸めて寝息を立てている。
自分たち、これからどうなるのだろう。
ずっとこんな生活が、将来が、続くわけがない。ペギーのことは諦めてオリガとふたり、このままどこか遠くへ逃げてしまおうかと、車を運転しながら、シャワーを浴びながら、眠れない夜を過ごしながら、何度考えたか分からない。
「……でも」
一方で、こうも思うのだ。こんな流浪の生活に耐えられるのは、自分たちに明確な『目的』があるからだ、と。
目的。
ペギーと再び会うこと。再び会って、消されてしまった彼女の人格を取り戻すこと。マーガレットの花咲く丘で、オリガが優しいキスをして。
しかし、それが果たされたなら?
その後、その先は、一体どうなるのだろう。自分たちの運命に対する戦いは、未来への想像が抜け落ちていた。不機嫌な思いの中に、不穏な想像が影を落としていく。全てが終わって、自分たちはいつまで運命から逃げられるのだろう。ひょっとしたら今日にも明日にもイライザ先生たちに見つかって、あの孤児院に連れ戻されてしまうのかもしれない。
本来の運命。あの森の奥の孤児院。自分たちを『器』としての体を望み待ち続ける、オリジナルの人格たち。
全てを消される日。自分たちの感じてきた全てを、思ってきた、考えてきた全てを。人格が抹消されてしまうその日。いつか来てしまうだろう『その日』とは、一体どんな日になるというのだろう。
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