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二〇二一年八月二十三日 月曜日
天気は晴れ、夏らしい陽気。常に窓を開けていないと、車の中ってすぐに蒸し暑くなる。まるで温室みたい。この中でトマトを育ててみたらいい感じになるかもしれない。殺された人の車でトマト! わたしってば何を考えているんだろう。頭がおかしくなったのかも。
今日一日で、わたしもオリガも車の運転がずいぶん上手くなった気がする。色々わけあって所持金も増えた。どんな訳があったか、このことはあんまり書きたくない。
昨日のことはまだショックだけど、悪い夢だと思うことにした。オリガの言う通り、あいつはゴキブリか何かだった。わたしたちはゴキブリを叩きつぶした。わたしは何もされていないし、オリガも何もしていない。オリガはわたしとたったひとつしか違わないけれど、こういうところがとてもお姉さんだと思う。切り替えが肝心。あいつはゴキブリ。わたしたちは悪くない。オリガの言うことはとても正しい。
※
ふたりは交代で運転した。
ジョンの運転をよく見ていたのはフローラの方だったが、ドライバーとしての適性はオリガに軍配が上がったらしい。やはりオリガは要領がいい。ジョンのものだった車はふたりの車になり、蛇行に蛇行を重ねながら、ど田舎の道を東へと進んだ。
フローラよりも幾分真っ直ぐに道を進ませながら、オリガは、
「この辺りが田舎で良かったよ」
はるか遠くまで見渡せる広い道路。目視できる範囲、前にも後ろにも車はない。まるで新しく与えられたおもちゃの遊び方を覚えるように、オリガはウィンカーをカチカチさせまくる。
「ウォルブリッジみたいな都会だったら、一発で事故ってただろうね」
「うん、だね」
ペットボトルのフタを開けながら、フローラは返事をする。
信号、交差点、交通ルール。あんな人と車と曲がり角の多い街では、とても運転なんて無理だった。自分たちはただ、アクセルとブレーキとハンドルを操作して、車を動かしているだけだ。この一連の行為は『運転』だなんて到底言えない。
「お昼、どうする?」
もうすぐ正午を迎えようとしていた。照りつける日差しの下に、ハンバーガーチェーンがあることを知らせる看板が見える。
「……食欲ないけど、冷たいものが飲みたいな」
生ぬるい空気の車内、ペットボトルの水はお湯になり始めていた。昨日の夕方、冷たいコーラに感動したのが、ものすごく遠い過去の出来事のように感じる。
「……分かった」
ハンバーガー屋の屋根が見えてすぐ、オリガはウィンカーを出した。後続車がいたら衝突されていただろう、急停車だった。
オリガがハンバーガーを買いに行っている間、フローラは車内をくまなく調べた。あのジョンという男は旅好きだったらしく、後部座席はテントやランタンやカセットコンロなどアウトドア用品の宝庫だった。線ばかり引いてある地図から小銭、どこかの駐車場のレシートがたくさん落ちていて、何に使うのか分からないロープが何十メートル分もとぐろを巻いている。
後部座席を調べ終えてからトランクを開けた。車のトランクには大きな秘密が隠されているとフローラは信じている。彼女の見た映画のほとんどで、死体とはすべからくトランクに隠されていたからだ。
死体が出てきたら嫌だな、と思う。
死体は出てこなかったけれど、それに類するものはたくさん出てきた。
衣服、カバン、財布。衣服やカバンなら何個か持っていてもおかしくはないだろうけれど、財布を何個も所持しているのは変な話だ。それらは全て女物だった。あの男がミニスカートを履いてピンクのワニ革の財布を使っているだなんてありえない。
フローラは震える手で、服とカバンと財布を、トランクの中に丁寧に並べた。服もカバンも財布も、全部で八個あった。
「……」
頭の中で、モノクロの映像が流れる。きっと彼は、ジョンは、女ばかり狙う強盗だったのだ。彼は若い女性を言葉巧みに誘って車に乗せ、人気のない所で殺して財布を奪い取る。犠牲者たちは犯されて殺されて、ど田舎の茂みの中に捨てられたのだろう。
額から流れる汗が目に入って、モノクロの映像の世界から引き剥がされた。真夏だというのに陽光が冷たい。自分たちの隣に潜んでいた運命を思うと寒気がした。
『ヒッチハイクは危ないからやってはいけない』とイライザ先生は言っていた。自分たちは無敵でもなければ、何でもできるわけではない。自分たちの未来が必ず明るいものだなんて、もう過信してはいけないのだ。
「……もう、二度と」
あんなことはするまい、とフローラは心に決めた。
オリガが買ってきたハンバーガーは、味がしなかった。
昨日の夕方はそれがものすごくおいしいと感じたのに。味のよく分からないピクルスが、口の中で異物となって踊っている。ケチャップがドロッとした何かと化して舌にまとわりついている。
走っていない車は、窓を開けていても風が入ってこなかった。
フローラはトランクの中で見つけた品々とジョンの正体についてオリガに語った。オリガは相づちを打たずにその話を聞いて、話し終えたらただひと言「そうか」と言って黙ってしまった。ふたりはかわいそうな八人の犠牲者に黙祷を捧げ、彼女たちの財布に残っていた現金を拝借した。
その後、黙々とハンバーガーをかじった。食欲がないけれど、汗をかいた体にポテトの塩分が嬉しかった。冷たいコーラがしゅわしゅわとのどを落ちていく。
指に付いたケチャップを舐めながら、オリガが呟く。
「あいつは悪魔」
「ゴキブリじゃないの?」
「ああ……。そうだったね。あいつはゴキブリ。私たちはゴキブリを退治しただけ。……気にすることはないよ」
「うん……。そう、だね」
醜いゴキブリに殺された、八人のかわいそうな女の人たち。もしかしたら、九人目、十人目になるかもしれなかった、自分たち。
「ねえ、オリガ……。わたしね、映画って、現実のことだと思っていたの。……映画の人たちができること、わたしたちだってできるって思っていた」
トラックの後ろにしがみつくことも、貨物列車に飛び乗ることも。そしてもちろん、ヒッチハイクも。
自分たちは何だってできた。
でも自分たちは、映画の主人公ではなかったのだ。
「映画ではさ。ああいう時ね、ヒーローが現れるの。あんな場合だと、刑事さんかな。こう、銃をバンバンってぶっ放してね。わたしたちみたいな困っている女の子を助けてくれるの」
フローラは銃を撃つ真似をやめた。目を伏せて、辛い現実へと向き直る。
「わたしたちに、ヒーローはいなかった。助けてくれる刑事さんも、迎えに来てくれる王子さまも……。映画と現実は違うんだって、わたし、今日ね、やっと分かった」
車の無免許運転、窃盗、それから殺人。やむを得ない理由とはいえ、ふたりがそれらに手を染めたのは事実だった。もう夢は見ていられなかった。孤児院の中で、外の世界に憧れていた自分がバカみたいだった。この世界にはシスター・マリー・クラレンスの聖歌隊だってないし、ジュラシックパークもない。昨日の夜、ジョンに組み敷かれたあの時、まだ信じていたのだ。こんな危機的状況でも、全てをひっくり返す何かが起きてくれると。頭の片隅で、アクセル・フォーリーが軽快な音楽とともに助けに来てくれると、そう思っていたのだ。
ハンバーガーの最後のひとかけらを口に入れた。ほんの小さなひと口だったから、ほとんど噛まずに飲み込んだ。
フローラはぽつんと呟く。
「警察に、見つからないかな?」
草むらの中に放置した男の死体。そして現実から、運命から逃げ惑っている自分たち。オリガはフローラの不安を打ち消すように、軽く鼻で小さくフッと笑った。
「ゴキブリ殺したくらいで警察行きなら、イライザ先生なんて、もう三回くらい死刑になってるよ」
よく孤児院でゴキブリが出没すると、イライザ先生はスリッパを片手に一撃で叩き殺したものだ。ああいう時のイライザ先生はものすごく勇ましくて、先生にかかれば世界中のゴキブリ全てが絶滅させられるのではないかと感じていた。。
ゴキブリを叩き殺すイライザ先生。それを見て驚く自分たちと「先生強いわ!」と言うペギーの笑い声。
その姿を思い出すと、ふたりの口の端には笑みが浮かんだ。
「……行こうか」
「うん」
とちらがともなくそう言って、ハンバーガーのゴミを片づける。今度はフローラがハンドルを握った。駐車場を出る時、隣の車を傷つけてしまったけれど、もうそんなことで罪の意識を感じるふたりではなくなっていた。
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