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 昼間、フローラはずっとジョンの運転を横で見ていた。興味深そうに覗き込むフローラに、ジョンは人好きのする笑顔を浮かべて、

『そんなに面白いかい?』

 あの笑顔の裏に、残忍な一面を持っていたことなんか気がつかなくて、

『うん。だって、生まれて初めて乗ったんだもの』

 トラックの後ろにしがみついていたのは、数に入れないでおく。

『これがハンドルでしょ? 右がブレーキで、左がアクセル』

『ブレーキは左だよ。アクセルが右。アクセルを踏むと、ほら、走るだろ?』

 だだっ広い田舎の大きな道だった。自分たちの他に車は一台もなくて、ジョンがアクセルを踏み込むと車は急加速する。びっくりして飛び上がったフローラを見て、ジョンはゲラゲラと声を出して笑った。

『そんなに笑わなくてもいいじゃない』

『いいや、あんまり面白くて……。どうだい、フローラ。せっかくなら運転してみないか?』

『運転? わたしが?』

『うん、教えてあげるよ』

 フローラは首を振った。

『ううん、今はいいや。だって、なんか危なさそうだもん』

 トラックの後ろにしがみつくのも、貨物列車に飛び乗るのも、十分危ないことだった。そしてヒッチハイクも。親指を突き立てて知らない男の車に乗ることも、十分危ないことだったのだ。

『そうかい? じゃあ、やりたくなったら、いつでも言ってくれ』

 そう言ってくれたジョンは優しくて、生まれて初めて接した大人の男の人が彼でよかったと、あの時、心からそう思ったのだ。


 それが今では、このザマである。

 車の運転。彼はご丁寧にも「教えてあげるよ」と言った。あの時は怖くて遠慮したけれど、やっておけばよかったと後悔した。

 フローラが運転席に乗り込み、オリガが助手席に座る。座面にはまだジョンの座っていた温もりが残っている。血と泥とぬるぬるした液体で汚れた下半身が気持ち悪い。エンジンを入れ、ハンドルを握る。サイドブレーキを下すと、アクセルを踏む前から、のろのろと車は動き出した。

「フローラ。あんた本当に、運転なんかできるの?」

「……やってみなきゃ、分からない」

 ゆっくりとアクセルを踏み、そろそろとハンドルを動かす。蛇行しながらも、車は前へと進んだ。車線に沿わせるように意識するが、まるで左手で引いた線みたいにぐにゃぐにゃとしか動かない。

 難しいとか怖いとか、そんなことを考えている余裕は全くなかった。余裕のない頭の片隅で考えていたのは、弾け飛んだボタンのことだ。拾ってくるのを忘れた。あの暗闇の血の海の中に、自分のシャツのボタンが浮いているはずなのだ。

「……ボタン、落としてきちゃった」

「……孤児院に帰れば、新しいのあるよ」

「同じボタン、あるかな?」

「似たようなやつなら、たくさんあるよ」

 帰ったら、真っ先にダフネにボタンを付けてもらわなきゃ。

 それ以降、現実が遠くになるまで、ふたりとも何も言わなかった。もう夜明けくらいかと思っていたが、車を見ると、まだ夜の十時前だった。

 脇道に停車して、ペットボトルの飲み水で手の血を落とした。タオルを濡らして、体を拭いて着替える。狭い運転席で、フローラは下着を換えた。血と泥とはおさらばできたけれど、股から滲み出てくるぬるぬるした液体が、新しい下着にもシミを作る。

「フローラ、見てこれ」

 オリガはダッシュボードから男の財布を取り出し、中を開いた。ふたりの経済感覚が一瞬でぶっ壊れるような枚数の札が、多量のレシートとともに詰まっていた。

「これで、今夜はどこかに泊まろう」

「……うん」

 少し車を走らせた先、道路沿いに煌々と光っていたモーテルに入った。駐車するのに十五分以上かかったし、危うく隣の車にぶつかりそうになってヒヤヒヤした。フロントの男性は、ふたりを見て不審そうにしたけれど、金を出したら快く客として扱ってくれた。やっぱり外は金の世界だ。金さえあれば、何とでもなる。人格を奪われて全てを忘れてしまっても、これだけは忘れることはあるまい。

 ふたりは風呂場で血まみれの服を洗い、絞ってカーテンレールに吊るしてから体を洗った。一度や二度ではなく、本当に何回も洗った。いくら石けんを洗い流しても、血の臭いが、男に付けられた臭いが残っている気がした。血とも泥ともおさらばしたはずなのに、股に残る透明のとろとろした液体はいまだ健在で、フローラは自分がもう取り返しのつかないまでに汚れてしまったのだと思い知った。

 あの男に触られた全ての所を念入りに洗った。お気に入りの香りの石けんで、何度も何度も、くまなく洗った。

「ごめんね、オリガ」

 バスタブの中、熱いお湯に口元を沈めながら、フローラは呟いた。

「わたしが軽はずみだった」

 ヒッチハイクは危ないからしない方がいいと、イライザ先生は言っていた。オリガだって、ずっと止めようとしてくれていたのに。

 フローラの言葉に、オリガもまた、お湯に顔を埋めて答えた。水の流れる音だけが響く浴室の中、フローラの心は自分の浅はかさを呪いながら、ぐるぐると後悔に渦巻いている。

 トラックにしがみついたあの日の夕方から、自分たちは無敵だと思っていた。貨物列車に飛び乗ったあの夜から、自分たちは何があっても大丈夫だと信じていた。ホテルでカップラーメンを食べたあの幸福な一日から、自分たちの未来は明るいものだと疑わなかった。

 でもそれは、全てただの思い込みと勘違いだった。

 その結果、自分はあの男に犯されかけた。オリガはこんな自分のために、ナイフで人を刺す道を選んだ。今のオリガは人殺しだ。そして彼女を人殺しにさせてしまった、浅はかさでバカで愚かな自分もまた、人殺しなのだ。

 水面を思い詰めたように見つめるフローラ。オリガはそれを横目に、

「大丈夫だよ、フローラ」

 少なくともオリガの横顔には、さざなみひとつ立っていないように思われた。

「私たちは、何もしていない。だってあいつは……。あの男は、人間じゃないもの」

 人間じゃない。

 あの男はケダモノだ。性犯罪者だ。だから彼に生きる権利はなくて、殺されるのは当たり前で、あんなヤツは人間ではない。人権が与えられていないのは、自分たちも同じだ。フローラはお湯の中に沈んでいる両手を見つめる。自分たちは何もしていない。何もしていなかったのに、自分たちに人権はなかった。生まれた時から、最初から。

 ぽちゃん、という水の音が、静寂の空気に鳴り響いて、

 オリガ。

「あいつは悪魔……。いいや、悪魔なんて大げさなもんじゃない。あいつは虫か何かだったんだ。……そう、ゴキブリか何か」

 オリガはフローラを励ますというよりも、まるで自分自身に言い聞かせるように、

「フローラ。私たちはね、ゴキブリを叩きつぶしただけ。だから恥じることは何ひとつない。そうでしょ?」

 ゴキブリは叩きつぶされてしかるもの。人間社会に、生きていることを許されないもの。その例えは間違っていないと思う。それでも、「うん」とは言えなかった。

 あの男は自分たちとは違う。彼はクローンではない。あの男には歴とした人権が与えられていた。消されずに尊ばれる人格があった。犯罪者だというのに。ゴキブリ以下の存在だというのに。

「……ねえ、オリガはさ。もしかして、分かっていたの?」

 あの男が危ない人だっていうこと。外の世界には、こういう危険が存在していること。ロビンソン・クルーソーのような狩猟生活ではなく、身を守るために、ナイフが役に立つことを。

 オリガは目を逸らした。

「……何となく、そんな気がしただけ。……だって」

 そしてもう一度、お湯の水平線の向こうから、フローラの目を横目で見つめて、

「あんたと話していても、あの男の目、一度も笑わなかった」


 体はぐったりと疲れているはずなのに、目が冴えてちっとも眠れなかった。あれだけ体を洗ったのに、あの男の血が、汚い汗が、手の感触が、まだ体に残っているような気がして気持ちが悪い。自分たちは汚れてしまった。たった一晩で、取り返しがつかないくらいに変わってしまった。こんな自分たちを見て、ペギーは本当に、全てを思い出してくれるだろうか。人を殺してしまった自分たちに、ペギーに会う資格はあるのだろうか。手を血まみれにしてしまったオリガは、その手でペギーに触れられるのか。マーガレットの花咲く丘で優しいキスをする権利なんて、もう自分たちには残されていないのかもしれない。

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