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二〇二一年八月二十二日 日曜日
今日のことは書きたくない。書くべきなんだろうけど、もう思い出したくもない。記憶も人格も、全てを消されるのはやっぱり嫌だけど、でも今日の部分だけなら、ぜひとも消してもらいたい。
※
目が覚めた時、真っ先に自覚したのは尿意だった。
「……真っ暗」
正確な時間は分からないけれど、なんとなく真夜中なんだろうなと感じた。車のエンジンは止まっていて、街灯ひとつない草っ原の道端に停車していた。半分だけ開けられた窓から、湿っぽい夜の空気が入ってくる。
オリガにもジョンにも、声をかけるのは
ドアを開けて外に出た。ふたりを起こさないようにそっとドアを閉める。街灯はおろか、人の気配ひとつない、ど田舎の草っ原。もちろんトイレなんてあるはずがない。
贅沢なんて言っていられなかった。
木の影まで歩く。草を踏み分けるたびに虫の声が耳まで立ち上ってきて、月明かりに慣れるたびに、置いて行かれるのではないかと不安になって車を振り返る。
孤児院を出て、もうじき一週間になる。その間、温室育ちの自分たちはずいぶん外気に適応し、スレてきたと思う。茂みでお尻を丸出しにしてしゃがむことも、土の上を流れてきた自分のおしっこで靴が汚れることも、だんだん慣れっこになっていた。
茂みでおしっこなんて! 今の自分たちを見たら、イライザ先生は卒倒し、マヌエラ先生は激怒して脳溢血を起こして死んでしまうかもしれない。そう思うと面白くなってきて、体が自然に揺れた。おしっこが左の靴にかかる。先生たちは顧客に、つまりは自分たちのオリジナルの人たちに何と弁明して謝るのだろう。フローレンスさん申し訳ありませんあなたのクローンのフローラは茂みでお尻を丸出しににしておしっこをしています――考えただけで体が震える。おしっこが蛇行する。虫の声がおしっこの流れる音と重なって、ここが夏の幻想的な小川のすぐそばではないかと錯覚してしまう。
車から茂みの距離はずいぶんあった。フローラが用を足して立ち上がると、車に寄りかかるようにして、ジョンが立っていた。
小走りに草っ原を駆け抜けて、フローラは、
「お兄さんもおトイレ?」
うつろなジョンの目が、フッとこちらを向いた。
ジョンは返事をしなかった。濃くて太い眉毛の下、彫りの深い目は異様なくらいに血走っている。そのくせ焦点は全く合っていなくて、何やら恐ろしさを感じながらも、フローラは彼に話しかける。
「……お兄さん?」
どうしたの?
そのひと言で、ジョンの目に光が生まれた。
ものすごく獰猛で獣みたいな、汚らしい輝きだった。
「っ‼︎」
その目の光に、フローラは今度こそ危機を感じた。
彼に背を向ける。どちらが先に走り出したのかは分からない。草が足に絡みついて前に進めない。月明かりのせいで空気が粘って、逃げているはずなのにちっとも距離が遠くならない。虫の鳴き声が狂ったオーケストラみたいに響いて、ジョンの手がフローラの背後の空気をつかむ。あれに捕まったら終わりだ。何がどうなるのかさっぱり分からないけれど、でも確かに、終わりな気がしたのだ。
今この瞬間まで、フローラは成人男性というものの何たるかを知らなかった。足の速さも力も体力も圧倒的で、たちまち追いつかれてしまう。彼の手が、今度こそフローラの背中にかかる。
「きゃっ⁉︎」
握力、引っぱられ、引きずられ。視界が回転する。気づいたら草むらの上に倒れていて、視界いっぱいに星空と男の醜い顔が見えた。
服を脱がそうとするその大きな手に、必死になって抵抗する。シャツのボタンが弾けて草むらの中に消える。下着がずらされ、大きな手が肋骨から上に向かって這い上ってくる。
「……っ‼︎」
やめて、と声に出したつもりだった。
声が声にならなかった。
胸を鷲づかみにされ、揉みしだかれるたびに頭の中で鐘が鳴る。警告の鐘。恐怖と嫌悪が沸き上がってくる。手が動かない。声が出ない。どうしていいのか分からない。嫌な夢だと思いたかった。でも、現実だった。
彼を信じた自分が浅はかだった。ヒッチハイクは危ないからしてはいけないのだと、イライザ先生が教えてくれたのに。あの時は『危ない』の意味が分からなかった。今なら分かる。『危ない』っていうのは、こういう意味だったのだ。トラックにしがみついて、貨物列車に飛び乗って。だから今度だって、きっと上手くいくと思っていた。
きっと、上手くいく。考えが、甘かった。
自分が浅はかだったことを認めると、体が自然に動いた。手足の硬直が解け、動くことを思い出した。
抵抗した。自分の手が、指が、乱暴な動作をする。指が彼の目を引っかいた。目だけでなく、目の下の皮膚まで引っかいた。爪に血が付いた。暗闇に赤い血の色が見えた時、今度は彼に殴られた。
「このガキ‼︎」
「きゃっ‼︎」
彼の右手が左の頬を抉る。衝撃が強すぎて、頭が地面にバウンドする。顔が痛い。頭が痛い。目の中に、鮮やかな火花が散る。右と左が、上と下が分からない。吐き気がする。手足が冷たくなっていく。冷や汗が背筋を流れ落ちていって、暗い海に放り出されたみたいに現実が遠くなっていく。
そんな暗闇の中、体を這うジョンの手の感触だけが熱く鮮やかだった。胸を揉む手、反対の手が、ショーツの端にかかった。
それだけはやめて。
もう、声が出なかった。
こういうシーンは何度も見たことがある。映画で、小説で、何度も。こういう時、男が女に対して何をしていたのか、具体的には知らなかった。こんなシーンではいつも女は泣いていた。それが女性に降りかかる現実としては、もっとも残酷なものであることは想像できた。
目の裏の火花が消える。チカチカした光の残る暗闇。ジョンはズボンのチャックを外そうとしている。ベルトの金具がカチャカチャと音を立てる。荒い息遣いが聞こえた。汗に混じった体臭が鼻をついた。初めて見た男性器は、邪悪さの権化のように禍々しく膨れ上がっていた。
もう何も見たくなかった。何も考えたくなかった。この出来事をなかったことにできるならば、自分の人格や記憶なんて、喜んで差し出せると思った。
だがそれ以上、ジョンは何もしなかった。
男の悲鳴が、耳を打った。
「え……?」
世界が、速度を増した。
ジョンのうめき声。顔にかかる、生暖かい何かの液体。彼の体が重くのしかかってくる。
彼の肩をつかんだ。足が地面を蹴ってもがき、靴が脱げそうになる。液体がぬるぬる滑って力が入らない。脱力したジョンの体は、まるで鉄の塊みたいに重く感じる。
無我夢中で彼の体の下から這いずり出る。苦しかった。涙が鼻の奥にツンと詰まって、息ができない。
「はぁっ、はぁっ……」
やっと息ができるようになって、フローラはようやく目を開けた。
暗闇の中に、オリガがいた。
孤児院から持ち出したナイフを手にして、息を切らしながらこちらを見下ろしていた。
「オ、オリガ……」
何が起こったのか分からなかった。
でもオリガはナイフを持っていて、今の今まで自分を犯そうとしていた男が倒れていた。
ナイフには赤黒い何かが付いていた。
ジョンの背中から、同じ色の何かが噴き出していた。
何かが動いて、フローラは身をこわばらせた。オリガの視線がフッと足元に落ちる。ジョンは背中に大穴を開けて血まみれになっていたけれど、生きていた。
「っ‼︎」
息を飲んだのが果たして誰だったのか、フローラには分からない。
オリガは瀕死のジョンに飛び乗り、倒れた彼の背中に何度もナイフを突き立てた。その度にくぐもったうめき声が聞こえ、肉を抉る音が響く度に、ジョンの体が小さくぴくり、ぴくりと跳ねる。ナイフを抜いてオリガは立ち上がる。立ち上がってジョンを蹴飛ばす。仰向けに転がした彼に再び馬乗りになって、今度は胸にもナイフを突き立てる。
「……オリガ。もう、やめて」
返事はなかった。
血飛沫が派手に飛んだ。オリガがナイフを振り下ろす姿を、フローラはただ見ていることしかできなかった。
それからしばらく、オリガの一方的な
フローラは唇を噛みしめる。顔をゆがめて、涙を堪えて俯く。
違う。
オリガがナイフを持ってきたのは、動物を狩るためだ。ロビンソン・クルーソー並みのサバイバル生活をするために、このナイフを持ってきたのだ。こんなことをするために、このナイフを持ってきたのではない。オリガにこんなことをさせるために、自分はヒッチハイクを提案したのではない。自分たちはこんなところで人殺しをするために、孤児院を飛び出してきたのではない。
オリガは血まみれのナイフを拾い上げ、服で血を拭ってから鞘にしまった。フローラは脱がされた下着を戻す。下着は血と泥と、なんだかよく分からないぬるぬるした液体で汚れていた。ぬるぬるした液体が自分の股から流れ出ていたことに、この時はまだ気がつかなかった。
どちらがどちらの手を取ったのかは分からない。どちらが手を引いたのかも、どちらがそれに着いて行ったのかも。ふたりは夜の闇を歩き出し、やがて逃げるように、車へ向かって走り出した。
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