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 大通りはもちろん大通りで、車線は片側三つもあったし、信号と標識に至っては多分百個くらいあったのではないかと思う。

「本当にやるの?」

 今にも轢かれそうな勢いで車道に乗り出そうとするフローラの後ろで、オリガが呟く。

「やるしかないじゃない。……それともオリガは諦めるの?」

 ペギーのこと、自分たちの運命のこと。せっかくここまでやってきたのに。いずれ全てを消される自分たちにはもう、チャンスは今しかないというのに。

 オリガが何か言うよりも早く、フローラは早速、一回目の『ヒッチハイク』のポーズを取った。


 数時間が過ぎた。

 フローラの右手は『ヒッチハイク』のポーズのまま、硬直していた。

 数時間の間に何百回というサインを出し続けて、停まってくれたのはたったの六台。うち四台はタクシーだった。善意で乗せてくれようとしたのはたったの二台。でも二台とも、ハイランズ州オールテアとは真逆の方向に向かうと言った。

「やっぱり、無理かなあ」

 かつての弱気で引っ込み思案の、孤児院に捨ててきたはずのフローラが顔を出す。

「諦めた方がいいんじゃない?」

 オリガも親指を立てて道路に突き出すが覇気がない。そんなへなちょこな『ヒッチハイク』のポーズをしても、ドライバーたちは誰も気がつかない。

 フローラは口を尖らせて、今度は左手の親指を立てた。

「……諦めないもん」

 諦める。

 ヒッチハイクを諦めるのか、それともペギーのことを諦めるのか。オリガが考えているのは多分前者なのだろうけど、フローラは問い質したりしなかった。フローラ同様オリガも弱気になっている。運命に従順しようとしているオリガを見ていると、こんな状態ではダメだと強く思う

 この世界にいるどこかの誰かさんのコピーであるフローラは、運命を振り切るかのように強気のサインを出した。左手、親指、グイッと立てて。轢き殺されんばかりに突き出した腕の前に、呼応するように一台の車が停まった。

 黄色くて、小さくて、薄汚れた車。後部座席は荷物で埋まっていて、屋根にまで何かを積んでいる。

 運転席の窓から、首がニュッと伸びてきた。まだ若い、男の人だった。

「ヒッチハイク? どこまで行くの?」

 男の人の年齢、正直に言ってよく分からない。二十台の後半くらいだと思う。車と同じくらい薄汚れた風だけど、でも顔は悪くない。

 フローラは笑顔で答える。

「ハイランズのオールテア。お兄さん、知っている?」

 昨日、仕事を求めて訪ね歩いた店々での会話を思い出す。どうかこの人が断らないでくれますように。どうかこの人が、住所や電話番号や社会保険番号を訊いてはきませんように。

 信号が変わり、車の流れが変わる。祈るフローラにとって永遠にも近い時間が流れる。男は人の良さそうな笑顔を浮かべて、

「ああ、オールテアなら知っているよ。そっちまでは行かないけれど、途中まででいいなら、乗せて行ってあげる」

「本当⁉︎」

 フローラの明るい声。でもそれに水を差すように、背後でオリガが暗い声を出す。

「でも私たち、お金が」

 ヒッチハイクが無償の行為であることをオリガは理解できないらしい。そんな彼女にも、男は同じように明るく笑って、

「いいよ、構わない。同じ方向に行くんだし。……それに、ヒッチハイクって、お金がないからするもんだろ? 俺も若い頃、よくそうしたもんだよ」

 男の笑顔に釣られてフローラはまた笑う。悪い人の笑い方ではないと思う。信号が点滅を始める。車の流れが変わる。あと数秒で、この車も波に乗らなくてはならない。

「さあ、早く乗った乗った」

 男に促されて、ふたりは後部座席に転がり込んだ。寝袋やらテントやらよく分からない段ボール箱と一緒くたになって、それと同時に信号が青になる。後部座席はあまりに狭い。これなら三日前の貨物列車の方が、よほど上等だと思った。

 フローラはオリガにウィンクした。

「ね、上手くいったでしょ?」

 自分たちにできないことなんて、この世界にはひとつもない。

 フローラが笑いかけても、オリガは硬い表情のまま、にこりともしなかった。きっとオリガは、知らない人が苦手なんだろうな、とフローラは解釈する。


 男は自身をジョンと名乗った。

「つまらない名前だろ。どこにだっている名前」

 本当にその通りだな、とフローラは思う。

 ジョンの楽しい話を聞きながら、車窓はどんどん田舎へと移り変わっていく。街を出て郊外へ。郊外を経て、農村へ。少し休憩するたびに、ジョンは今、どのあたりを走っているのか、地図を見ながら教えてくれた。

「それでそれで?」

「それでさ、俺は奴にこう言ってやったわけよ」

 生まれて初めて話した、大人の男性。ジョンの話はユーモアにあふれていて、聞いていてすごく楽しかった。ヒッチハイクで旅する貧乏な女の子ふたりと、助けてくれるカッコいい男の人。映画のワンシーンみたい。

「君たちはどこから来たの?」

「今までどんなところで暮らしていたの?」

「趣味は何?」

「どんな食べものが好き?」

 ジョンはすごく話し上手だし、同時に聞き上手だった。彼の温かな言葉に心を打たれ、フローラは気づいたら、自分のことばかり喋っていた。

 色々な話をした。色々な話をしすぎて、何の話をしていたのか分からなくなるくらい、たくさんお喋りをした。お腹が痛くなるくらいに笑ったが、それはフローラだけ。荷物が満載の後部座席のほんの隙間、オリガはつまらなさそうにダンボールに寄りかかり、頬杖をついたまま外を眺めている。

「後ろの彼女は静かだね」

 田舎の大きな道を飛ばしながら、ジョンはバックミラー越しにオリガを見る。オリガはジョンの方を見ようとはしなかった。ナイフみたいに鋭く尖った目が、田舎の車窓を見つめていた。

 水を向けられても、決して口を開こうとしないオリガに代わり、フローラは、

「オリガはね、乗り物酔いしやすいの。ね、オリガ?」

 フローラに言われ、ようやく顔を動かしたオリガだったが、口の中に生まれた声は言葉になる前に消えていく。

「じゃあ、酔わないように、眠っているといいよ。もし気持ち悪くなったら、いつでも言って」

「……」

 ジョンの気遣いにも、オリガは頷かない。

 彼女が苦手なのは、知らない人なのだろうか。それとも男の人なのだろうか。


 そうして車は走り続けた。たった一日で、とてつもない距離を進めたと思う。

 日没のほんの少し前、幹線道路沿いのファストフードの店で、ジョンはふたりにハンバーガーを奢ってくれた。ハンバーガーとポテトのセット、それからコーラ。外の世界では、その組み合わせがスタンダードらしい。映画でもこの光景は何度も見たような気がする。

「すごい大きいね」

「……うん」

 チーズとケチャップがたっぷりはみ出しそうなハンバーガーを前にしても、オリガの表情は暗いままだ。フローラは紙に包まれたハンバーガーをよく見る。運命的な邂逅かいこうだった。もちろんハンバーガーもポテトも食べたことはある。しかし目の前のハンバーガーやポテトは、孤児院で作ったものよりもずっと美味しそうで、体に悪そうだった。

「……いただきます」

 ハンバーガーに、顔を埋める。いい匂いがした。

 油はたっぷり、塩もたくさん。すごく熱くて、すごく美味しかった。カップラーメンよりも、自動販売機のココアよりも美味しい。揚げたてのポテトをつまむ手は止まらなくて、初めて飲んだコーラはシュワシュワして、口の中が痛くなってびっくりした。

 でも驚いたのは最初だけ。孤児院を飛び出て以来、久しぶりのまともな食事。心はかつてない幸福感に満たされていた。

 しかし。

「ねえ、オリガ。……なんで怒っているの?」

 他の客から見たら、この異様なふたり組の少女たちがどう見えていたのか。

 田舎の幹線道路沿い、チェーンのファストフード店。その店の片隅の、小さなダウンライトの下に座る女の子のふたり組。片方はハンバーガーを食べて幸せそうな顔をして、もう片方はポテトをつまみながら、この世の終わりみたいな深刻そうで冴えない顔をしている。

 体調不良ではないだろう、とフローラは思っている。オリガはポテトを飲み込んだ。飲み込んで、やがて、

「……別に」

 ヒッチハイクに成功してから、オリガはずっとこんな調子だ。何でこんな風なのか、フローラにも理解できない。ただの人見知りでも、男性が苦手なだけとも思えない。ジョンはいい人だ。自分たちを無償でここまで乗せてくれて、しかもハンバーガーまで奢ってくれた。そんなジョンが席を外してくれたのは、多分フローラとオリガ、ふたりきりで話せる機会をわざわざ作ってくれたからで、

「……」

 ハンバーガーとポテトを食べ終え、フローラはわざとらしくため息をついた。心の中には怒りが渦巻いている。口に出せば取り返しがつかなくなる。だからコーラを口に含み、怒りと言葉を飲み下す。

 孤児院から脱走しよう。そう提案したのはフローラだった。オリガは反対したけれど、最終的には同意して、ふたりでここまでやってきた。ペギーのため、自分たちの運命のため。でも何より、この旅はオリガのためのものだった。オリガにペギーとの約束を――マーガレットの花咲く丘で優しいキスをして、ペギーの全てを取り戻す。その約束を果たして欲しかったから、ここまで来たというのに。

 そのオリガが不機嫌にブスッとしている。ここまで乗せてくれて、ハンバーガーまで奢ってくれた恩人に対し、失礼な態度を取り続けている。

「ごちそうさま!」

 礼儀知らずの友人をなじるように、フローラは席を立った。トレーの片付け方が分からなくてあたふたしているフローラの後ろ姿を、オリガは死んだような目つきで、ジッと見つめている。


 その後、暗くなる道をジョンは走り続けた。フローラは助手席に座り、夜遅くまでジョンと楽しく喋っていた。後部座席にオリガは多分、眠っていたのだろう。

 車内は暗いし揺れているけれど、日記を広げるのに苦にならないから不思議だった。

 明日になればきっとオリガの機嫌だって、治っているはずだ。

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