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 二〇二一年八月二十一日 土曜日

 貨物列車の時もそうだったけれど、やっぱり乗り物の中で日記を書くのって、すごく難しい。あの時だって少し酔ってしまったのだから、今回はほどほどにしておかなきゃ。だって『彼』に、ゲロしているみっともない姿なんて、見せられはしないもの。

 今日の空は晴れていたし、わたしの心も晴れていたし、しかも現実だって、すごく晴々しい。昨日の憂鬱な雨だとか、どん底の現実だとか、お先真っ暗の不安だとか。

 あんな心配の数々が全てウソだったみたい! わたしは神さまを信じているわけじゃないけれど、でも今日は本当に、神さまに感謝したい気分!

 どうやらオリガは、そうでもないみたいだけど。



 昨日の雨が、ウソみたいに晴れ渡っている。雲ひとつない、突き抜けるような濃い青空に太陽が眩しい。

「おはよう」

 遅起きのオリガを、フローラは髪を梳かしながら出迎えた。

「今日は暑くなるってよ」

 身支度と簡単な朝ごはんを済ませ、ふたりは後ろ髪を引かれる思いでホテルを出た。ほとんど空っぽになったキャスケットの中身をポケットにねじ込む。このほんの少しの小銭だけがふたりの全財産で、でもそれを持っているフローラの顔は明るい。

 フローラはキャスケットをかぶる。雨上がりの空気は澄んでいるけれど、気温はすでに高い。今日一日が蒸し暑くなることを予感させた。

「フローラ。あんた、なんでそんなに元気なの?」

 暑いのに。お金ないのに。仕事もなければ、今日の宿すら算段が立っていないのに。

「なんでだと思う?」

 フローラは得意げに鼻を鳴らす。昨日は不安でいっぱいだったのに。自分たちの境遇が、悲しくて仕方なかったのに。

「オリガ。わたしね、いいこと思いついたの」

 多分これは、オリガには思いつかない方法で、

「いいこと?」

 不審げにしているオリガに向かって、フローラは親指を突き立てて笑う。

「今度は何に飛び乗るつもり? トラックとか貨物列車は私、もうごめんだよ」

「そんなのじゃないって」

「じゃあ何さ? 船? それとも飛行機? 飛行機の翼にしがみついて空を飛ぶなんて、私、嫌だよ」

 そんなの自分だって嫌だ、とフローラは思う。

「違うって。いくらなんでも、そんなことやらないって。……今度はね、ちゃんと『お客さん』として乗り物に乗るの」

「お金ないのに?」

 こちらを見るオリガの視線は訝しさ一色に満ちている。でもフローラは自信満々の笑みを浮かべ、

「うん、そう。わたしね、昔、映画で見たことあるの」

 そう言ってフローラは、もう一度右手の親指を立てて、グッと突き出す。

「何のポーズ?」

「こうやってやるとね、親切な人が車に乗せてくれるの」

 初めて映画でその光景を見た時、幼いフローラは意味が分からなくて、イライザ先生に訊いたのだ。親指立てて、車道に身を乗り出して。イライザ先生はその行為を『ヒッチハイク』と呼ぶのだと教えてくれた。

 ――先生は、ヒッチハイクしたことある?

 ――ないわよ。

 ――わたしも『そつぎょう』したら、『ヒッチハイク』してもいい?

 ――いい? フローラ。世の中には悪い人もたくさんいるから『ヒッチハイク』はね、あまりやらない方がいいわよ。危ないから。

「親切な人って……。よその人? 知らない人?」

 オリガの声で、意識が現実へと引っぱり上げられる。

「うん、もちろん」

「映画の話でしょ? そう上手くいかないよ」

 イライザ先生は「あまりやらない方がいい」と言っていた。世の中には悪い人もたくさんいるから。危ないから。

「大丈夫よ」

 しかしもうフローラは、先生の言うことを聞く子どもではなくなった。

「ねえ、オリガ。考えてもみて。大丈夫に決まってる。だってわたしたち、トラックの後ろにしがみついたし、貨物列車にだって飛び乗ったのよ。映画みたいなことなら、もう十分やったじゃない。二回やれたんだから、三回目だって上手くいく。だから、今回も大丈夫よ」

 胸の内側から、言葉が、エネルギーが沸々と湧き上がってくる。そんな自信たっぷりなフローラを見て、オリガはため息をつく。

「……あんたはもう少し、引っ込み思案かと思っていたよ」

「だってそれは、イライザ先生たちが『そうしなさい』って言っていたからよ」

 先生たち。趣味や嗜好や利き手だけでなく、イライザ先生たちは、自分たちの性格までもをコントロールしようとしていた。だからフローラはかつての自分を捨てたのだ。この世界のどこかにいる、オリジナルのフローレンスの、そのコピーである自分自身を。

「さ、ダメ元でもやってみよう」

 乗り気でなさそうなオリガの手を、フローラはぐいぐい引っぱって大通りへと歩き出す。

 どうせ他にできることなどないのだから。住所も電話番号も社会保障番号もない自分たちにはもう、道は残されていないのだから。

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