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 都会というのはものすごく広いわけであって、ものすごく広いということは道に迷いやすいということもある。コーヒーショップに傘を忘れ、もちろん道に迷ったフローラは、ほうほうの体で部屋のドアノブに手をかけた。

 開かない。しばらくガチャガチャやっていると、不意に中から扉が開いた。

「フローラ……」

 オリガは先に帰っていた。ホテルのパジャマを着ていて、髪がまだ少し湿っている。

「びしょ濡れじゃない。傘はどうしたの?」

「なくした」

 シャワーを浴びた後なのだろう。雨に濡れた服がハンガーに掛かっているのが見えた。

『一体どこで?』と訊かないでいてくれるオリガの優しさに感謝する。仕事はどうなったのかとか、いいアテはあったのかとか、言いたいことは山ほどあっただろうに。

「シャワー浴びたら? 風邪ひくよ」

 オリガの言葉を聞きながら、フローラは何気なくキャスケットの中身を確認した。ベッドの上に投げ出されたキャスケット。オリガが持っていったはずのキャスケット。小銭が数枚入っているだけ。彼女の方の稼ぎもほとんどなかったということだ。

 昨日と同じくらい、稼げると思っていたのに。その金額の少なさに、フローラは愕然としながら、

「ううん、いい」

 昨日、心に満ち満ちていたはずの万能感は、すっかり薄れて消え始めていた。心許なくなった所持金。お金がない不安。外の世界では、お金がないとどうにもならない。それはこの間の晩、貨物列車に飛び乗った時に痛感している。あの時お金があれば、自分たちは普通に電車に乗れた。普通の人間として普通にお金を払い、普通に電車に乗れたはずなのに。

 たとえ、住所や電話番号や社会保障番号がなかったとしても。お金があれば。お金さえあれば。

 今更のように、昨日の無駄遣いが心にのしかかっていた。カップラーメンなんか買うんじゃなかった。調子に乗って石けんなんか買うんじゃなかった。

 フローラは手を伸ばし、キャスケットから小銭を取り出して、

「わたし、ご飯買ってくるよ」

「でもあんた、服、濡れて」

「オリガ、ピアノ弾きっぱなしで疲れているでしょ? すぐに戻ってくるから」

「あぁっ、ちょっと――!」

 オリガの返事を聞くよりも早く、フローラは部屋を出た。

 仕事、見つかった?

 そう問うチャンスはいくらでもあったはずなのに、オリガは訊かないでいてくれた。仕事が見つからなかったことはバレているのだろう。オリガは優しい。

 ホテルからほど近いスーパーマーケットに入った。雨でつるつる滑る床と格闘しながら、パンの棚の前に立ち尽くす。濡れた服に冷房の風が寒い。傘を持っていない手に、周囲の人の視線が突き刺さって痛い。棚の上にはビニール袋に入ったたくさんのパンが並んでいたけれど、フローラの視界に入っているパンはそう多くはない。

 値引きのシール。一番割引率が高くて、量が入っていた食パンだけを手に取ってレジへと向かう。ジャムが欲しかったけれど値段を見て諦めた。

 濡れたリノリウムの床は信じられないくらいよく滑って、氷の上を歩いているみたいだった。転ばないように、転ばないようにと気をつけるたびに足に力が入ってしまう。レジにたどり着く前に、二回滑った。レジの前で、しっかり転んだ。打ちつけた膝小僧よりも、周囲の人たちの冷たい視線の方が痛かった。誰かが声をかけてくれるわけでもなく、もちろん手だって差し伸べてはくれない。これが外の世界の常なのか、それとも自分が人権のないクローンだからなのか。どちらなのかはよく分からなかった。

 食パンをレジに通す間も、お金を払う瞬間も、そして店の自動ドアをくぐるその瞬間も、フローラは顔を上げられなかった。


 オリガが用意してくれていた風呂は少し熱めで、冷えた手足には熱すぎるくらいだった。擦りむいた膝に、お湯が染みて痛い。

 昨日、無駄遣いをした事実が悔しくて、ホテルの備え付けの石けんを使った。お世辞にもいい香りではなくて、結局、昨日買った石けんを使った。自分の好きな香りを選べる幸せ。でもその幸せを得るためにはお金が必要で、そのためには働かなければならない。仕事なんて外の世界にはたくさんあるのだと思っていた。ただ仕事を見つければいいと思っていた。雇用されるのに、あんなに色々な難関が待っているだなんて。本も映画も教えてはくれなかった。

「……」

 いい香りの泡の中に、住所も電話番号も社会保障番号もない現実を思い出し、柔らかな湯気の中に、瓶のジャムの値段の高さを思い出す。湯船と同じくらい熱いお湯で石けんを流す。自分たちはクローン。人格を移植されるために生み出されたただの『器』なのだと、排水口に流れていく泡と髪の毛が叫んでいる。

「……あれさえ、あれば」

 あの薄暗いコーヒーショップの片隅で、老店長が見せてくれた小さな機械。あの小さくて薄い筐体の形を手の中に描きながら、

「あの『すまーとふぉん』さえあれば……」

 でもあれ、どこで売っているのだろう。さっき行ったスーパーマーケットでは見なかった。それに高価そうだけど、いくらくらいするのだろう。値段の見当がつかないけれど、瓶のジャムより高いのは間違いない。


 風呂から上がった後、髪の毛を拭きながら、味のない食パンを分け合って食べた。安くて割引シールが貼られた食パンはパサパサで、水分がなければ到底飲み下すことはできなかった。

「フローラ、紅茶飲む?」

「うん、お願い」

 備え付けの紅茶があまり美味しくないのは、今朝の段階でもう分かっている。本当は自動販売機で好きな飲みものを買いたかったけれど、お金がない今、贅沢は言えない。

 ポットの中身が沸騰する。オリガはカップの中にお湯を入れ、ティーバッグをつまんでカップの底に沈めていく。まずい紅茶だというのにオリガはストレートで飲んだ。フローラはオリガが残したミルクと砂糖を入れてミルクティーにした。

「雨、止まないね」

「うん……」

 雨降りの夕方、薄ら寒い八月の日没。陰鬱な雨、陰鬱な空気。パサパサな食パンだけの陰鬱な食事。そこに立ち上る、ふたり分の紅茶の湯気。

「どうしたの? フローラ。考えごと?」

「……ううん、大したことないの。なんでもない」

 フローラの頭を占めていたのは、孤児院での温かな食事の情景だった。明るい湯気の立つスープと、テーブルの上にあふれる笑顔。湯気の向こう、イライザ先生がトーストにシナモンをたっぷりかけていたのを笑い、ペギーが逆手でナイフとフォークを持つ姿を、不思議に見つめていた過去。スープもパンもいつも同じ味で、豪華なおかずもなく、自動販売機のココアもないし、もちろんカップラーメンなんて存在すらしなかった。でもパンは温かくて柔らかくて、ジャムもバターも取り放題だった。今の陰鬱な夕食に比べたら、あの孤児院での食事は確かに『幸せ』そのものだった。

 幸せ。

 たとえ人格を、記憶を、全てを消される日が来たとしても、それまでの人生が穏やかで幸せならば。

 一瞬、心の隅に湧き上がった甘い思い。否定するように、フローラは首をぶんぶん振る。いいや、違う。違う違う違う! あの孤児院での生活は、確かに温かく穏やかだったかもしれないけれど、それでもあんなものは、幸せではなかった。型にはめられたお仕着せの人生。あらかじめ定められたお仕着せの幸せ。たとえ自分たちはクローンで人権が与えられていなかったとしても、それでも自分たちは人間だ。自分たちには、人生を選ぶ権利がある。

 生き方を選ぶ。人生を選ぶ。だから自分たちは選んだのだ。鳥かごから飛び出して、ペギーに会いに行くことを。会って優しいキスをして、元の彼女を取り戻す。自分たちは選んだのだ。定められた運命に抵抗することを。これは、この旅は、フローラとオリガが初めて『決めた』ことなのだ。

「ごちそうさまでした」

 翌朝分のパンを残し、ふたりの質素な夕食は終了した。ジャムもバターもない食事。いくら決意が堅かろうと、現実というものは世知辛い。フローラはほとんど空のキャスケットを見つめる。ここにもう一泊するお金はない。明日が勝負なのだ。明日どうにかしなくては、二十四時間後には雨空の下で眠ることになってしまう。

 オリガがすやすや寝息を立て始める。それから少しして、フローラはベッドを出て机に向かう。テーブルライトの下、日記帳を広げる。書いているうちに涙が出てきそうになって、早々に日記を閉じて寝た。

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