第五話

(1/9)

 二〇二一年八月二十日 金曜日

 色々書くのがすごく面倒くさいので、とりあえず結論だけ。昨日は多分、わたしが人生の中でもっとも幸福を感じた日だったと思う。つまり、今はそうじゃないってこと。今日は昨日ほどの幸福はなかった。むしろわたしは今、この世の終わりみたいな気持ちでこれを書いている。

 今日はもう寝る。明日目が覚めたら、目の前の問題が全て解決していたらいいのに!


     ※


 雨の音で目が覚めた。目覚めてすぐまどろみの中に身を落としす。それからもう十分経ってからようやく、フローラは布団から出た。

「……雨」

 孤児院のカーテンとは違いホテルのカーテンはすごく分厚くて、室内に光は一切入らなかった。隣でオリガが眠っている気配。彼女を起こさないようにそっと立ち上がり、静かにカーテンを開けた。

 昨日は気づかなかったけれど、窓の外にはすぐビルが隣接していて、景色なんてまったく見えない。窓に頬をぺたんと付ける。そのまま張り付いて外を見上げると、辛うじて空が見えた。灰色、低い雲。窓に張り付いているフローラをあざ笑うかのような、雨。

「……都会って、こんなものなんだ」

 雨の日の都会。もう少しオシャレで、もっと前向きなものだと思っていたのに。


 フローラの身支度が済んでからオリガはのろのろと起き出した。セミダブルのベッドの上で、孤児院から持ち出した最後のパンを食べた。

「ジャムが欲しいね。バターでもいい」

 オリガはそう言いながら地図に目を落とし、その間にフローラはポットでお湯を沸かす。

「オリガ、今日はどうする?」

 昨日のような贅沢が毎日続けられるとは思っていない。自分たちは稼がなくてはならないのだ。当座の生活費、そしてハイランズはオールテアへの旅費。

「二手に分かれよう」

 と、オリガは言った。

「私は昨日と同じようにピアノを弾く。その間に、フローラは仕事を見つけてくる」

 皿洗いでも掃除でも何でも。自分たちにできることであれば、どんな仕事でも。

 フローラは小さなマグカップに紅茶のティーバッグを入れ、お湯を注ぎ込んだ。

「分かった。いい仕事、見つけてくる」

 自分たちは働かなくてはならない。働いて、稼がなくてはならないのだ。贅沢や自由な生活の追求ではなく、ペギーのため。自分たちの運命のために。

 フローラは笑う。

「まるでわたしたち、本当に映画の主人公みたい」

 外は雨。灰色のビル、静かな都会。それでもこの朝、フローラの胸の中にはまだ明るい希望があった。

 この時は、まだ。


 雨の降りが弱くなるのを待ってからホテルを出るつもりだった。でも一向に止む気配はなく、ふたりは諦めてホテルを出た。

「けっこう降ってるね」

 ふたりには一本の傘しかない。背の高いオリガが傘を持って、フローラが隣にぴったりと密着する。街は灰色に濡れていて、大きな水たまりを迂回するたびに、ふたりはくっついたり離れたりした。大通りの人通りは昨日よりもだいぶ少ないけれど、みんなそれぞれ違う色の傘を差していて楽しそうだった。

 フローラは、自分たちの黒くて地味な傘を見上げて、

「傘も欲しいね。綺麗な色の」

「お金がないよ」

「貯まったら」

 綺麗な色の傘を買うために働くのではないのに。

「ねえ、オリガは何色の傘が欲しい?」

 ここは孤児院ではないのだから。どんな色の傘だって自由に選べるはずであって。

 街ゆく人たちの傘を見つめながら、オリガはほんの少しだけ、静かに笑った。

「花柄の傘がいいな。……白い花の模様の、マーガレットの模様の傘」


 オリガを駅前のピアノの前に送ってから、フローラは黒い傘を差して冷たい都会へと足を踏み出した。

 不安がないわけではなかった。でも心の中には闘志がある。希望もある。現に自分たちは、トラックにしがみついて孤児院を脱走し、廃屋で眠り、しかも貨物列車に飛び乗りまでした。だから、今回も大丈夫。オリガはピアノで稼いでくれるし、きっといい仕事も見つかるはず。


「ごめんください」

 最初はレストランの皿洗い。

「お仕事の募集を見たんですが」

 次は掃除。あるいはホテルのリネン交換。

「何でもします。どうか、雇ってはいただけないでしょうか?」

 希望が少しずつ削られる度に、門扉を叩く力は弱くなり、声も小さくなっていった。皿洗いに掃除、給仕にリネン交換。求人を出している店は片っ端から訪ねて回ったが、それでも雇ってくれる店はひとつもなかった。

「歳が若すぎる」

 最初のハンバーガー店ではそう言われて、次のドーナツ店では十八歳と答え、

「どこの学校に通っているの?」

 上手く答えられずに不審がられ、次の古びたコーヒーショップでは、大学で文学を専攻しているとすらすら答えられた。映画に出てくるようなステキなお店。ここで働けたら最高だと思っていたのに。舞い上がるフローラを待ち受けたのは更なる難関だった。

「それじゃお姉さん。ここに住所と電話番号、それと、番号書いて」

「番号?」

 渡されたボールペンを片手に、フローラは首を傾げる。人の良さそうなコーヒーショップの老店長は、そんな彼女の様子をいぶかしげに見つめながら、

「社会保障番号のことだよ」

 何それ。

「……なんだ? お前さん、ひょっとして、自分の番号、分からないのかい?」

「あっ。い、いえ」

 そんなものの存在、今この瞬間、初めて知った。でもそんなことは言えない。自分がクローン人間で、そんな番号は持っていないだなんて、口が裂けても言えなかった。

 住所、電話番号、それから社会保障番号。たったそれだけしか書く必要のない紙っぺらが、ものすごく大きい何かのようにテーブルに鎮座している。書類を前にして俯く。老店長の困惑した視線が、頭頂部に刺さる。

「……お嬢さん、あんた、スマートフォンは?」

「すまーとふぉん?」

 なるべく首を傾げないように心がけたつもりだけれど、さすがに誤魔化しきれなかった。

「これだよ」

 老店長は緑色のエプロンから、薄い箱状の何かを取り出して見せてくれた。横のボタンを押すと、暗かった画面に光が灯る。小さなテレビみたいだった。街の人たちがみんな見ている変な四角い箱は、多分これと同じものだ。

「これ、みんな持っているんですか?」

「ああ。若い人たちなら、みんな持っているさ」

 老店長の目が、薄暗い照明の中でフッと細められて、

「しかしね。あんた、一体どこでどんな生活をしていれば、スマートフォンを知らないだなんて言えるんだい?」

 わたしはフローラわたしはグリーンヒル孤児院で暮らしていましたわたしはフローレンスという人のクローン人間でその人の人格を移植するために生み出されたけど運命に抗うために脱走してきたのですだから住所も電話番号も社会保障番号もすまーとふぉんもありません――

「……」

 押し黙るフローラ。老店長はフローラの手からスマートフォンを取り上げ、そのままバックヤードに引き返していく。フローラはそんな老店長の背中を不安げに見送るしかなくて、だから裏から彼のひとりごとのような声を聞いた時、背筋が凍るような思いがした。

「ああ、そちら警察? ちょいとお巡りさんを寄越してくれるかい?」

 警察。

 その単語が聞こえた瞬間、オシャレな椅子から、尻が勝手に浮き上がった。

「……んん。うちで雇ってほしいって言っている女の子が、どうも変でね……。あ、ああっ⁉︎ ちょっと‼︎」

 老店長の言葉を聞き終える前に、フローラは店を飛び出した。逃げ出した背中に、カランコロンとベルの音を聞く。

 外はまだ雨が降っている。店に傘を忘れたことに気づいたのは、店を飛び出してからしばらく経ってからだった。傘はあれ一本だけしかないのだ。自分とオリガ、ふたりで一本の傘を、忘れてきてしまった。

 しかし取りに戻るわけにはいかない。あの老店長の通報を受けて、警察官が店にいるかもしれないのだ。不審者である自分を捕まえるために。住所も電話番号も社会保障番号も答えられないフローラという女の子を捕まえるために。

「傘、買おうかな」

 お金ないけど。

 雨はますます強くなりはじめ、フローラの肩をバチバチと叩いていく。服が水を吸って重い。頭から爪先までびしょびしょに濡らし、下着が丸見えになった哀れな女の子が、ショーウィンドウに映っていた。

「わたしたち、何にもできないのかな……?」

 こうなることが分かっていたとしても、自分たちはあの孤児院から逃げ出してきただろうか。たとえペギーの記憶がかかっていても。自分たちの運命がかかっていても。

 雨の雫が、心に冷たい。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る