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 二〇二一年八月十九日 木曜日

 わたしって、夜眠れないことはほとんどないんだけれど、昨日に限っては本当によく眠れなかった。多分、人生で一番眠れなかったと思う。列車に飛び乗れたっていう興奮もあったし、あとは音と揺れがとても気になって。

 乗り物の中で日記を書くって、すごく難しい。具体的な時間は分からないけど――こんなことなら、目覚まし時計のひとつやふたつ、持ってくればよかった――きっと夜はとっくに明けているはず。コンテナの隙間から朝の薄い光が差し込んでいて、わたしが目覚めてから、列車は何回か徐行した。今はとにかくトイレに行きたい。おしっこを我慢しているわたしに寄りかかって、オリガはまだ気持ちよさそうに寝ている。ヨダレなんか垂らしちゃって。こんなにだらしないオリガの寝顔を見るなんて初めて!

 まだ余裕がある内に、これだけ書いておこうと思う。乗り物の中で日記なんて書くものじゃない。おそらくこれが乗り物酔いというやつなんだろう。これは後学のため。乗り物に乗って日記を書くんじゃない! フローラ、ゲロを吐くんじゃない!


     ※


 そして、昼過ぎ。

 終着駅目前、徐行を始めて貨物列車の上から、フローラとオリガは飛び降りた。

「ケガはない?」

「うん、大丈夫。それよりもさ。……おしっこしたい」

 はるか遠く、貨物列車が徐々にスピードを落とし、幾多にも並ぶ線路のひとつに吸い込まれていくのが見えた。吐き気の方は幾分か良くなったけれど、足元がフラついて歩くのがしんどい。ずっと暗いコンテナの中にいたせいか、夏の日差しが寝不足の目にものすごく眩しい。

「あっ!」

 線路を歩くのは難しい。砂利に足を取られて、フローラはバランスを崩す。

「ちょっと!」

 フローラの腕を、オリガがつかんで持ち上げる。

「しっかりして」

「う、うん……。ありがとう」

 ふたりは手をつなぎ、場の悪い線路脇を歩いた。踏切から線路を出て、道路を歩く。照り返した日差しが肌を下から焼く。どこからどう見ても田舎の家出娘でしかない自分たち。人びとが、車の運転手たちが、みんな訝しそうにしてこちらを見つめている。

 フローラはキャスケットをかぶり直す。その間もオリガはフローラの手を引いて、あてもなく前へ前へと進んでいく。

 そして、

「うわぁ……」

 目を見開いた。

 都会。

 圧倒的な情報量が、目の中に飛び込んできた。立ち並ぶビルと色鮮やかな看板。大きな交差点と信号、途絶えない車の列。行き交う人びとはみんな、手元の小さな箱みたいな機械に見入っている。雑踏、喧騒、車の排気音。日差し、人いきれ、クラクション。今日の天気は晴れ、最高気温は、所により激しい雷雨が――。

 大都会、ウォルブリッジ。

 小説や映画で見たものよりも、ずっと洗礼された世界が、そこにはあった。

「すごい……。都会だ」

 オリガの口から、絞り出したような呟きが漏れる。

 これが外の世界だった。普通の人間が、クローンではない人間たちが暮らす世界。人格を消されることのない人たちが暮らす社会。自分たちが一生知るはずのなかった世界が今、目の前に広がっている。

 おしっこがしたいなんて、そんなことは忘れた。

 フローラの心には太陽が差し込んでいた。この街には何だってある。仕事だって、きっとある。ここでしばらく路銀を稼いで、ペギーに続く道を拓くことができる。

 希望が湧いてくると、力も湧いてきた。自分たちは無力じゃない。自分たちは無敵だ。自分とオリガで力を合わせれば、運命相手だって、どこまでも全力で戦えるはずだ。


「ねえ、あれ」

 駅の前、オリガは立ち止まった。彼女が指さした先を見ると、そこには一台のピアノがあった。

 ピアノ。

 ペギーの『卒業』を機にオリガが投げ出した、『課題』。少しでもオリジナルに近づくため、彼女に与えられた『義務』。

「誰かの所有物なのかな?」

「所有物って……。こんな駅前に?」

 ピアノの前には女の子が座っている。自分たちと同じ、十五歳くらいの女の子。ピアノを弾く手つきはたどたどしくて、フローラが聴いていてもあまり上手くないのは明らかだ。下手くそな演奏。ぽろんぽろん。昼下がりの都会の片隅、誰もが忙しそうに歩いていて、誰も女の子の演奏には足を止めない。

 鍵盤に向かい合う女の子の後ろ姿を、フローラはジッと見つめた。オシャレな服を着ていた。ステキな髪飾りをしていて、かわいい靴でペダルを踏んでいた。あの子は自分たちとは違う。あの子は普通の人間なのだ。あの子の人格は消されない。下手くそなピアノ。ぽろんぽろん。でもピアノに向かい合う女の子の背中はものすごく楽しそうで、それだけでもあの子が音楽を愛しているのが分かる。

「下手くそだ」

「うん。オリガの方がずっと上手い」

 侮蔑でも嘲笑でもない、真実。

 あの子が音楽を愛しているのと同じくらい、ペギーだって音楽を愛していた。いつもいつもスカートだっていうのに、芝生にあぐらをかいてギターを弾いていた。

 弦を弾く左手が小刻みにかき鳴らされて、

 木陰で歌を歌った、あの完璧な世界を思い出して、

 フローラは思わず呟いた。

「……あの子とわたしたちに、何の差があるのかな?」

 ペギーとあの子の間に、同じ音楽を愛する女の子たちの間に、何の差があるのだろう。

 それからおよそ楽譜一枚分くらいのメロディを奏でた後、女の子は席を立った。女の子はフローラたちのすぐそばを通って喧騒へと紛れていく。オシャレな服だった。ステキな髪飾りだった。そしてかわいい靴だった。

 忙しそうな昼過ぎ、誰もピアノなんて気に留めなかった。オリガは何も言わずに歩み寄る。座り、椅子の高さを調節した。しばらく手を動かして、指の感覚を確かめてから、

「――」

 音。

 聴き覚えのある曲が、オリガの指先から紡がれていた。まだ音は硬く、それを奏でる彼女の背中の線まで硬い。知らないピアノ。知らない世界。でもそこで曲を奏でているのはオリガなのだ。ピアノを弾くオリガ。フローラがかつて愛した彼女が、そこにいた。ペギーの『卒業』以来、心を閉ざした彼女が今、メロディに身を委ね、心を開き始めている。

 忙しそうに行き交う人びとが、ちらほらと足を止める。オリガの指先は少しずつ調子を取り戻していき、やがてかつての柔らかな音が蘇る。

 足を止める人が増えた。あの箱みたいな機械を向ける人も出てきた。曲が終わる頃、ぽつぽつ立ち止まった観客は人だかりになっていて、演奏を終えて振り返ったオリガに、割れんばかりの拍手の音が届いた。

 そして、オリガは目で合図する。映画でも、こういう場面は何度か見た。楽器でも歌でも大道芸でも。物語の主人公たちは芸を披露して、そしてお金を集めるのだ。フローラはキャスケットを脱いだ。それを片手に人びとの間を回る。オリガが再び演奏を始める。小銭がフローラの頭上を飛び交い、帽子に札を突っ込んでくれる手もあった。入れられたのはお金だけではない。個包装のお菓子もあったし、連絡先か何かが書いてある紙まであった。

 自分たちは『仕事』をしている。今、自分たちは間違いなく、この手でお金を稼いでいる。

 それからオリガは何曲か演奏し、その度にフローラはキャスケットを脱いで人垣を回った。八時間も十時間ももやっていたような気がするが、本当は多分、二時間とかそのくらいだったと思う。日が暮れる頃には、キャスケットはずいぶん重くなっていた。


 そしてそのお金で、ホテルに泊まった。

 絵に描いたような豪奢なホテルではない。大通りから脇道に入った立地の、調度品に古い臭いが染みついたホテル。備え付けの石けんとシャンプーはあんまりいい匂いじゃなくて、孤児院のトイレの石けんみたいだった。ホテルにチェックインした後、近所の薬局まで買い物に行った。旅行用の石けんとカップラーメン。財布ではなく、キャスケットからジャラジャラと小銭を出すふたり組の女の子。ホテルのフロントの人が、薬局のレジの人が、どう思っていたのか。フローラには分からない。

 二日ぶりのシャワーはものすごく気持ちよくて、熱いお湯をガンガン出した。いつもと違う石けんの香りに包まれていると、ここが非日常で、自分たちが大きなことを成し遂げたのだなと感じられた。

 お風呂から上がった後、カップラーメンを作って食べた。映画では何度も見たことはあったけれど、実物は初めて食べた。映画の中で、主人公たちはこれをご馳走か何かのように食べていたけれど、そんなにおいしいとは思わなかった。でもフローラにとって、このおいしくもないカップラーメンを食べられるのは、この上ない幸せだった。

「フローラ。あんた、嬉しそうだね」

「うん、嬉しいよ。だって、すごく楽しいんだもん」

 外の世界へ来られたことが。自分たちでお金を稼いで、こうやってカップラーメンを食べられることが。

 カップラーメンを汁まで綺麗に飲み干した後、『自動販売機』なる機械で、缶のココアを買って飲んだ。機械がものを売ってくれるなんて、すごい発明だと感心する。オリガは「中に人が入っているんじゃないか」と疑っていたけれど、さすがにそんなことはないと思う。

 機械の中にはたくさんの種類の飲みものが並んでいて、カラフルな缶を見ているだけでめまいがしそうだった。今日はココア。明日は違うものを飲んでみたい。明日、何を飲むのか。それを迷うだけで、明日という日がものすごく輝いて見える。

 飲みものだって食べものだって、もちろん使う石けんだって。自分で選べる幸せを心の底から噛みしめていた。何を選んでも、何を好きになっても、目くじらを立てるマヌエラ先生はいない! 誰からも生き方を強制されたり、お仕着せのものを与えられないことが、誰かの模倣品にならなくていいことが、こんなにも幸せなことだったなんて‼︎

 そして久しぶりのベッド。昨日、貨物列車の中であまり眠らなかったせいもあって、横になった途端、フローラはすぐにすやすや眠り始めた。

『あら、フローラじゃないの』

 夢の世界で、ペギーが待ってくれていた。

「……ペギーなの?」

『そうよ?』

「ほんとにほんとに、ペギーなの?」

 ここが夢の中だというのは、フローラだってちゃんと分かっている。ふわふわした白い夢の中、ペギーはギターを持っていて、芝生の上に座っている。スカートなのにあぐらをかいて。フローラが知っているいつもの姿でギターを構え、左手で弦を弾いている。

 泣きたいくらい、懐かしいメロディ。

 本当にこのペギーは、自分の知っているペギーはもう、この世界のどこにもいないのだろうか。

「ペギー。……隣、座っていい?」

 それを聞いて、ペギーは眉を下げて困ったように笑って、

『もちろんよ。なんでそんなこと訊くの?』

「……いや」

 返事ができなかった。

 そうやってペギーと並んで、しばらくギターの音を聴いた。ややあってから、ペギーは、

『マーガレットの花咲く丘で』

 五月で夕方、天気は快晴、おまけにその日は日曜日。

『オリガが優しいキスをしてくれたなら、あたしはすべてを思い出せるわ』

 あたし。手紙のかしこまった『私』ではなく、生きたペギーの言葉としての『あたし』。

 ペギーは微笑んでいる。あのいたずらっぽい微笑みを浮かべたまま、左手で弦をぽろんぽろんと弾き続けている。

 ペギーはいなくなったりしていない。

 自分たちの知っているペギーはまだ、この世界のどこかにいる。それは正しいと自分でも思う。自分たちは誰かのコピーでもなければ、ましてや入れものでもない。自分たちには個人としての人格がある。積み重ねてきた記憶もある。食べものの好き嫌いがあって特技があって、趣味があってクセがあって、利き手だって違っていて、そして好きな人だっている。自分たちは自分たち。ペギーはペギー。マーガレット・リッケンバッカー博士の入れものであるわけがないのだ。

 フローラがそんなことを考えているうちに、夢の世界はゆがみ、白くふわふわした空は夕方になっていて、しかもペギーはいなくなっていた。

「ペギー……?」

 夕方。オレンジの光と、黒い影だけに縁取られた世界。芝生だった地面は一面の花畑に変わっていて、ふたりの女の子の影が並んで佇んでいる。

 五月で夕方、天気は快晴。おまけにその日は日曜日。花畑の中、ふたりの少女の影は、どちらがともなくキスをした。壊れものに触れるような、柔らかくて静かな口づけ。

 フローラはしばらくふたりの少女の人影に見入っていた。日はとっぷりと暮れ、夕焼けのオレンジは赤に変わっていき、黒い影の色はますます濃くなっていく。

 マーガレットの花畑。オリガとペギーの影、長い長い口づけ。永遠に続く完璧な世界。でもペギーはもういない。

 だからこれは夢。フローラが抱く、どこまでも完成された、ただの夢の世界。

 

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