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あれから何時間、経ったのか分からない。
駅員が小用か何かで改札を離れた瞬間、ふたりは改札を駆け抜けた。幸いホームには誰もいなくて、ふたりは震える手足で梯子を降りた。ホームの端っこ、雑草がボーボーに生えている茂みの中に身を隠す。心臓の音が小さくなるのを待ってから、オリガは怪訝そうにフローラを見つめる。
「で? これで、どうするの?」
「今に分かるよ」
更に数分後。踏切のけたたましい音がして、駅に電車が入ってきた。右から左、ふたりが目指すのとは反対方向へと走る貨物列車。この駅には停まらないらしく、少しだけ速度を落とし、そのままホームを通り抜けていく。
風圧で茂みが揺れた。オリガはゾッと青い顔をしながら、
「まさか……。あれに乗るの?」
「そう、あれに……。貨物列車に、飛び乗るのよ」
駅を通る間に徐行する貨物列車。走って、飛び乗る。後は目的地まで、荷物の中に隠れている。もちろん目的地でも飛び降りる。
茂みから飛び出す勢いで、オリガは叫んだ。
「そ、そんなこと! できるわけないじゃない! フローラ、あんたね! 映画じゃないんだよ⁉︎」
「でも、小説の中に出てきた男の子と女の子はそうしたわ。貨物列車に飛び乗って、目的地で飛び降りて……。そうやって、ふたりは追手を撒いたのよ」
物語の中の彼らが、何から逃げていたのかは忘れた。それでもふたりは旅が終わるその瞬間まで、追手には捕まらなかったのを覚えている。
列車に飛び乗る。そして飛び降りる。オリガは目を伏せる。フローラは静かな線路を見つめながら、
「じゃあ、ペギーを諦める? ……ペギーだけじゃない。わたしたち自身のことだって……。全てを諦めて、そのまま静かに人格を消される日を待つ?」
自分はオリガに向かって、刃を突きつけているのだ。露出した皮膚に、雑草がちくちく触れて痒い。おしっこに行きたい。水を飲んだばかりなのに、もうのどが渇いて仕方ない。
ややあってから、オリガはため息をついた。
「……分かったよ」
ペギーのためなら、自分たちの運命のためなら。電車でも何でも、飛び乗ってやるって。
それからしばらく、ふたりは息を殺したまま茂みの中に隠れていた。日が少しずつ傾いてきて、その間にフローラは二回、オリガは一回、線路の脇で用を足した。用を足している間に電車が来ないかハラハラした。客車が一回通ったけれど、お金を持っていない自分たちが乗るのは貨物列車でなくてはならなかった。
何時間待ったか分からない。でももしかしたら、一時間も経っていなかったかもしれない。
そしてついに、その時は来た。
夕暮れの中からこちらに向かって、列車が迫ってくる。それが客車ではなく貨物列車であることを確認してから、ふたりは梯子でホームによじ登った。
貨物列車が徐行する。耳が痛くなるような軋轢音を立てて、ホームに滑り込んでくる。
今だ!
ふたりは全力で、長いホームを駆け抜けた。全力で走っているはずなのに、自分の足がひどく遅く感じる。水の中を動いているような気分だった。
徐行しているはずなのに、流れていくように走っていく列車。ジャンプ、オリガが列車に組みついて、フローラに向かって手を伸ばす。
「フローラ! 早くっ‼︎」
あれだけ全力で走ったのは、後にも先にもあれきりだと思う。オリガの手が、フローラの手を鷲掴みにする。
「飛べっ‼︎」
地面を蹴る。その瞬間、列車はぐんと速度を上げ、ホームの地面が消えるように遠ざかっていく。
自分を引き上げてくれたオリガとともに、もつれ込むようにしてデッキへと転がり込んだ。したたか打った膝と手のひらが痛くて、でもそんな痛みを感じている暇もなく、体を起こす。心臓がバクバク音を立てていた。緊張と興奮で汗だくになっていて、風がひどく冷たく感じた。
視界の彼方、どんどん小さくなっていく駅を見つめる。心の奥から自然と湧き上がる感情に、フローラはその場で飛び上がりそうになる。
すごい、できた! 本当に、本当にできた‼︎
心の中に、喝采が満ち満ちた。オリガの前では強がってみせたけれど、自分だって内心は不安だったのだ。でも、できた! できたのだ! だって今、自分たちは初めて列車に乗っているのだ。風を切って、群青色の東の空に、ぐんぐん進んでいるではないか!
「フローラ」
オリガの声で我に帰る。揺れて不安定な足場の中、オリガは貨物庫の扉を開け放っていた。コンテナの中はたくさんの段ボール箱。段ボールの中身は何なのか分からないけど、列車が揺れるたびに崩れそうになっていた。フローラはコンテナに足を踏み入れ、後ろ手に扉を閉めた。同時にオリガが懐中電灯をつけた。埃とカビがになったような臭いが鼻をついて、思わずくしゃみをした。
「けっこう揺れるね」
人が乗ることが前提じゃないし。
初めての鉄道の旅。快適とは言い難かったけれど、しがみついていなくていい分、昨日のトラックよりは全然マシだ。
フローラはオリガの隣に腰を下ろした。オリガは懐中電灯の光を引き絞り、カバンから地図を取り出す。人が乗ることを前提としていないコンテナの中は真っ暗で、ふたりは密着する。
コンテナが、段ボールが、自分たちを取り巻く世界が揺れている。
「この列車、どこを走ってるの?」
自分たちは東を目指している。夕焼けの中から現れた貨物列車。群青色の空を目指して走っている。つまり、西から東へ。オリガの右手の人差し指が、線路の上を左から右へとなぞって、
「終着駅はここ。ここで降りて、東を目指そう」
駅の名前はウォルブリッジといった。東にある都市だけど、ハイランズ州オールテアまではずいぶんと距離がある。
ウォルブリッジ。
その地名を目にして、フローラは顔を上げる。
「この駅、聞いたことある。小説で出てきたし映画にも出てきた。すごく大きな駅でね、都会なのよ」
都会。
小説の登場人物も、映画の主人公も、みんな都会を目指すのは理由があって、
「ウォルブリッジならきっと、仕事があるはずよ。ふたりで働いて旅費を稼ごう」
稼ぐ。
オリガの短い髪の毛の先が、小さくピクンと跳ねて、
「稼ぐって……。一体、どうやって?」
「だから、働くのよ」
「私たち、外の世界のこと、何も知らないのに?」
電車に乗るのにお金が必要なことだって、つい今さっき、知ったばかりなのに?
働くこと、稼ぐこと。この先、旅費が必要なことくらいオリガも分かっていた。でも同時に自分たちがあまりに非力であることも理解していた。それを知ってもなお、物事を前向きに考えようとしているフローラの姿が、オリガの目にはひどく眩しく映る。
フローラはいつもと同じ、明るい笑顔を浮かべて、
「お掃除とか皿洗いなら、わたしたちだってできるよ。小説でも映画でも、みんな主人公たちはそうやってアルバイトして、夢に向かって歩いているのよ」
旅に金なんて、いくらあっても足りない。入用なものはたくさんあった。雨風を凌げる建物、日々の食糧。交通費はもちろん、できれば新しい服だって調達したい。
それでも不安そうな色を拭えないオリガに対し、フローラは努めて明るい声をかける。
「オリガ、大丈夫。何とだってなるよ。だってわたしたち、ここまで来られたじゃない。トラックの後ろにだってしがみついたし、貨物列車にだって飛び乗れたじゃない」
懐中電灯の小さな光の中、フローラは両手を広げて笑った。誰かが落ち込んだ時、こうやって明るく慰める役割は、間違いなくペギーのものだったはずなのに。
しかしオリガは笑わなかった。不安そうな暗い顔色の上、それでもほんの少しだけ微笑んで、
「フローラはすごいよ」
列車の揺れと線路の軋みで、小さな声はかき消えた。でもそのささやきを、フローラの耳はちゃんと拾った。
不安なら、自分だって抱いていた。でも希望があったから、心の中に輝く光があったから、無視を決め込むことができた。
ウォルブリッジ。小説で、映画で、何度も夢見た憧れの都会が、この列車の行く先にある。ペギーのいるハイランズ州オールテアはまだまだ先だ。でもウォルブリッジまでたどり着ければ、その先もまた、何とかなると思っていた。
まだ誰も追いかけては来ないようだし、列車に飛び乗ることだってできた。大丈夫、自分たちはやれる。自分たちの先行きは暗くない。自分たちの人格は、記憶は、消されたりしない。こんなにも強い思いがあるのだから、ペギーだって、きっと自分たちのことを思い出してくれる。
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