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 二〇二一年八月十八日 水曜日

 正直、荷物の中に日記帳を入れるかどうか、最後まで悩んだ。だってこの日記帳はなかなか立派で、重くてかさばって、普通のノートとはワケが違うのだから。

 それでもこれを持ってきたのは正解だった。これからなるべく毎日、この旅の記録を書こうと思う。わたしはこの記録を、手紙のようなものだと捉えている。いつか全てを忘れてしまうかもしれない自分たちに宛てた手紙。もちろんわたしもオリガも、全てを忘れて消されるようなつもりは毛頭ないけれど。


      ※


 乗り物酔いなんて、眠れば治るのだと思っていた。

 だが現実はそう甘くはない。フローラは特に問題なかったけれど、オリガの方はダメだった。疲れのせいでよく眠っていたはずなのに、心持ち顔色は青白い。体がフラついているのが傍目でもよく分かった。

 まだ朝日が昇って間もない時間、ふたりは床に座り込んだまま朝食を済ませた。孤児院から盗み出してきたパン。トーストもしていなければ、ジャムやバターもない。そんな冷たいパンは、ただの小麦粉の塊みたいだった。

 ただの小麦粉の塊を、ペットボトルの水で飲み下しながら、

「ジャム、持ってくればよかったね」

 ジャムの瓶は重いし大きいから。諦めようと言ったのは、果たしてどちらだったのか。

「そうだね」

 返事するオリガの顔はまだ青ざめていて、込み上げてくる吐き気と戦いながら、一口ひとくち、ネズミか何かみたいにパンをかじっている。

 もちろん食後の紅茶もないし、入れる砂糖とミルクもない。本来ならのんびり食後のお喋りを楽しんでいるだろう時間も惜しく、オリガがパンを飲み込んですぐ、ふたりは廃屋を発った。


 朝日が東から激しく照りつけて、空の色に少しずつ青みが濃くなっていく。朝のさわやかな風が、いつの間にか夏らしい強烈な暑さに取って代わっていく。前をオリガが歩いて、フローラはその背中を追いかけた。朝よりはマシになってきたけれど、彼女の足取りはまだフラついたままだ。

 廃屋を出てから三時間、歩き通しだった。でも風景は何ひとつ変わらないで、長い道路が延々と続いている。等間隔の街路樹、放牧され始めた牛の影。小麦だかなんだか分からないイネ科の植物が、夏風に揺れてザワザワ音を立てている。ど田舎。車で移動するのが大前提なのだと思う。

「オリガ、良くなったの?」

「ううん、あんまり。……しかし、いくら歩いても、何も変わらないね」

「うん」

 オリガは立ち止まって地図を広げた。路線図やら道路やら街の名前やらが書き込まれた地図を食い入るように見つめて、

「車にしたって電車にしたって、乗り物に乗らないわけにはいかない」

 彼女の言う通りだ。ペギーのいるハイランズ州オールテアは、ここよりもずっと遠く、朝日の向こうよりも東にあった。

「でも……。また酔うのは、嫌だ」

 オリガはぼそっと呟いた。フローラは彼女の背中をばんばん叩いて、

「嫌でも、それきしのことでは諦めない、でしょ?」

 自分たちは運命に抗っているのだから。たとえどれだけ酔ったとしても、何度ゲロをぶちまけても、自分たちはたどり着かなければならないのだ。ハイランズ州オールテアへ。ペギーが待っている、朝日の向こうの、その街へ。

 フローラの明るい、暗い不安など微塵も感じさせない笑顔を見て、オリガはため息をついた。

「……ったく、他人事だと思って」


 しばらく歩いた。その間、どちらがともなくポツポツと喋り出しては、またすぐに沈黙へと戻っていく。色々なことを話した気がするが具体的に何を話したのか、フローラはよく覚えていない。

 ふたりとも「休もう」とは口にしなかった。ジリジリと焼けるような太陽に皮膚を焦がされ、汗が下着とシャツをびっしょり濡らして気持ちが悪い。時折吹き抜ける風は生ぬるくて、はるか遠くの道路の先が、陽炎になって小さく揺れていた。

 先に根を上げたフローラだった。

「オリガ……。オリガぁ……」

 半泣きの声で呼び止められるまで、オリガはフローラが立ち止まったことに気がつかなかった。太陽が髪の毛の根元を焼いていく。手を差し伸べてくれたオリガの顔が、逆光になってよく見えない。

 オリガはフローラの手を引いて、アスファルトの道路から逸れた。広い草原の中に生える一本の木の陰で休むと、疲れも少しばかり良くなった気がした。

 ふたりは涼しい木陰で、昼食を広げた。朝と同じメニュー。ただの小麦粉の塊が、渇いたのどにつっかえて苦しい。

 フローラはパンをもぐもぐしながら、

「何もないね」

 どこまでも広がる草っ原と、風にそよぐイネ科の植物。緑の中に点々と浮かび上がる白黒の何かは牛だろう。遠くて姿はよく見えないのに、彼らが草を食む音がすぐ近くまで聞こえてきそうだった。

 オリガは味のないパンを、ミネラルウォーターで流し込んでから、

「何にもないのは、私たちだって一緒だよ」

「……オリガ?」

「私たちには、何もない。持ってきた食糧はいずれ尽きる。お金があれば、何とかなるかもしれないけれど……。でも、私たちにお金を稼ぐ手段はないし……。大体、買い物の仕方だって、よく分からない」

 生きていく術。習っていないから。お金を稼ぐ手段、必要ないから。

 陽炎に揺れる草原の彼方を見つめながら、オリガの言葉は続く。

「……多分そういうのは、私たちの『中身』がやってくれることだから。『器』の私たちには、必要のないことだったから」

 必要のないこと。人格を上書きされる自分たちには、必要のないこと。

「私たちは、外の世界では生きてはいけない。……そういう風に、作られてしまったんだ」

 分かっていた。分かってはいたけれど、改めて言葉として突きつけられると、まるで鈍器で頭を殴られているような気分だった。

 その後、ふたりは無言でパンを口に入れ、ミネラルウォーターで無理やり胃に押し込んだ。お前たちという『中身』に、居場所なんてないのだと、そんな風に言われた気がした。


「フローラ、あんた、知ってたの?」

「……うん、一応」

 外の世界では、何をするにしてもお金がかかる。知識では理解していたけれど、実感が伴わなかった事実。やっとたどり着いた駅で、ふたりは身に染みてそれを体感した。

 電車に乗るのに、お金が必要。でもそんな『当たり前』のことを、本も読まなければ映画も見ないオリガは、当然知らなくて、

 フローラは、

「お金がかかることは知っていたよ。……でもどれくらいかかるとか、そういうのは知らなかった」

 オリガは黙って改札の向こうを見やる。ホームに滑り込んできた電車が人を吐き出し、同じくらいの人を乗せて、左から右へと走って消えていく。彼女の『外の世界に対する知識』はロビンソン・クルーソーあたりで止まっているのだ。だからナイフなんか持ってきて、弓を作るだの、獲物を捌くなど言っているのだ。オリガが考えなくてはいけなかったのは、狩の仕方よりも電車の乗り方だ。

 改札から出てくる人の波。その前に立ち尽くす。オリガの口から、小さな声が漏れるが聞こえた。

「お金……」

 人から盗むわけにはいかない。しかし電車には乗らなくてはならない。

「ねえ、オリガ。わたしにね、ちょっと考えがあるんだけど」

「考え?」

「そう、耳貸して」

 何のアテもなく、ここまでやってきたわけではない。彼女には策がある。ここまで歩いてくる間、ずっと考えてきた、とっておきの策があるのだ。

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