第四話

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 日が落ちた。

 しばらく走った。

 トラックのスピードは決して速くはなかった。初めて車に乗ったフローラにとって、車はとんでもない速度で動く鉄の塊みたいなものだった。目の前で景色がビュンビュン過ぎ去っていく。耳の脇を通り抜ける風が、夏だというのにすごく冷たい。車体にしがみついている手がいよいよ限界を迎える。アスファルトの地面が、真っ暗闇の海みたいに足元を流れていく。

 トラックは闇の中を走り続ける。隣にいるオリガの顔すらも満足に見えないような闇の中、やがてどちらかがともなく、手のしびれと痛みを訴え始めた。

「フローラ、降りよう」

「……うん」

 このトラックがどこにたどり着くのは分からない。でももう少し、人里で降りられればいいと思っていたのだ。降車を提案したオリガの声音は真っ青だ。

 速度が緩んだ瞬間、ふたりはトラックから手を離した。ステップを飛び降りると、それを見計らったように、トラックはぐんと加速して夜の道路へと消えて行ってしまう。

 両手とも、じんじん麻痺して感覚がなかった。アスファルトの地面が上下に揺れているような気がして目が回る。足に力が入らない。飛び降りた今、相当無理をしていたのだなとひしひしと感じる。

「うっ、うおぇっ……」

「オリガ?」

 フローラの視界の隅、オリガはよたよたと道端に寄って、屈んだ。少女のものではあってはならないようなうめき声、液状の何かがぼたぼたと流れる音。耳を澄ませれば、オリガの消化器が逆流する音まで聞こえそうだった。

「大丈夫?」

「う、うん……」

 本で読んだことはあるけれど、まさかオリガが乗り物で酔うなんて思わなかった。

「少し、休もう……。お水、飲む?」

「ううん……。いらない」

 嘔吐物から身をよけるようにして、ふたりは道端に座った。また胃がひっくり返ったような音を立てている彼女の背中をさすりながら、フローラは首を伸ばして辺りを見渡した。トラックが走り去った、だだっ広い道路。等間隔で並ぶ背の高い街路樹。青い草いきれの中に、動物みたいな独特な臭いがする。農場か何かのど真ん中なのだろう。闇に沈んでハッキリとは見えないけれど、周囲に民家がないのは明らかだった。

「暗いね……」

 ふたりを照らす光は月明かりくらいで、どこか遠くから犬の遠吠えが聞こえて背筋が震える。まだせいぜい九時かそこらのはずなのに、夜中みたいに静かだった。真夜中、寝室の窓から覗いた庭と同じくらいの深い闇が今、目の前にある。隣のオリガの顔すらぼんやりとしか見えない暗闇。靴の裏を濡らす彼女のゲロさえ、見えない暗闇。なんて不気味なんだろう。

 今まで見てきたどんな小説だって映画だって、こんな静かな夜のシーンはなかったはずだ。生まれて初めて見た世界は暗闇。夜の闇の中、オリガの目が小さく震えているのが見えた。

「オリガ、大丈夫?」

 真っ青な顔は、乗り物酔いのせいだけではない。涙目になっているのは、月明かりがそう見せているのではない。

「……後悔してる?」

 勢いだけで飛び出してきて。勢いだけで、運命に抗おうとして。

 オリガは俯いたまま黙りこくった。元々口数は多くないけれど、ペギーがいなくなって以来、こうやって黙り込む機会が多くなった気がする。

 フローラは立ち上がった。ゲロの隣にうずくまるオリガに、手を差し出す。

「……行こう」

「……どこに?」

 今この瞬間、この夜の闇の中で、どこに向かおうと言うのだ。でもフローラはオリガの問いをあえて無視して、

「ペギーのところ」

 そのために、自分たちは孤児院を飛び出してきたのだから。

 フローラはオリガの手をつかんだ。つかんで立たせて、トラックが消えて行った道路を歩いていく。握ったオリガの手は指が長くて、肌はすべすべで、でも死人みたいに冷たくて汗ばんでいた。

 今はただ、この永遠に続くような夜を明かせる場所を探すのだ。ペギーを訪ねる旅路は、また明日、永遠の夜が明けてから考えれば、それでいい。

 それから二回、オリガは道端でうずくまり、フローラは都度都度、背中をさすってやった。一回は残りのゲロを吐いて、二回目はもう出てくるゲロもなくて、ただ胃液だけを吐き出していた。オリガの手は相変わらず死人のように冷たい。もしかしたら自分は死人の手を引いて歩いているのではないかと思い、フローラは何度も振り返らなくてはならなかった。

 夜が更けるまで、長々と続く道路を歩いた。

「オリガ、あれ……」

 フローラの指さした先、一軒の小屋があった。道端の廃屋。人が住んでいないのは明らかで、通り抜ける風が、まるでオバケの叫び声にも似た音を残して過ぎ去っていく。

 ふたりは吸い寄せられるように、ふらふらと建物に歩み寄った。天井に張ったクモの巣も、その糸の一本一本まで見えるような気がして、背筋が寒くなる。暗闇に、いないはずのコウモリの面影を見て、風の音に怪物の気配を感じずにはいられない。普段ならこんな建物、近づこうとすら思わなかったはずだ。

 廃屋は無人だった。骨組みが腐食したベッドと、同じようにして腐ったマットレス。穴の開いた床と、月明かりが覗く天井。カサカサという音はゴキブリかもしれないし、ネズミかもしれない。汚いと分かっているのにもかかわらず、屋根のあるところに入った安堵感からか、オリガは崩れるようにして座り込んだ。

 フローラも無言でそれに倣った。そしてしばらく、そのまま座り込んだ。

「オリガ」

 微かな月明かりの漏れてくる屋根の下、オリガはフローラにもたれかかり、真っ青な顔のまま静かに眠り始めていた。

「……まったく」

 今日一日、色々なことがあった。生まれて初めて車に乗った。生まれて初めて孤児院から出た。生まれて初めて外の世界を見た。生まれて初めて、敷かれたレールを踏み外した。

 隙間風が不気味な音を立てている。今にも穴が開きそうな壁に背を預けて、フローラは目を閉じた。オリガの匂いを感じ、風の音の向こうに優しい虫の鳴き声を聞く。

「……ペギー、わたしたちは」

 必ずあなたに、会いに行くから。

 そしてふたりはそのまま眠った。泥のような深い眠りで、朝日が屋根からこぼれ落ちてくるまで、ふたりとも目を覚さなかった。

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