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 翌日。二〇二一年八月十七日火曜日、夕方。

 食料品や生活用品を運んでくるトラックは、毎週、火曜、木曜、土曜の昼過ぎにやってきて、夕方、街へと戻っていく。来るのはいつも人のいい太っちょのおじさんで、彼こそがこの孤児院における唯一の男性だった。

 おじさんはイライザ先生と話した後、トラックに乗り込む。エンジンがかかった瞬間、フローラとオリガは物陰から飛び出した。

「行くよ」

 踏み出したのはフローラが先だったけれど、走り出すトラックにいち早くしがみついたのはオリガだ。

「フローラ!」

 オリガが手を伸ばす。速度を上げていくトラック。手が届かなくなるよりもコンマ一秒早く、ふたりの手が絡み合う。

「大丈夫⁉︎」

「うん!」

 オリガに引き上げられ、フローラもトラックの後部にしがみついた。ものすごく狭いステップにふたりで足をかけ、どんどん遠ざかっていく孤児院の建物を見つめる。

 生まれて初めて、孤児院の敷地を出た。すごい大冒険が始まるのだと思った。

 フローラの目の前には今、過酷な運命が存在している。でも胸の中には希望があった。人格を消される未来があってもなお、抗うために行動を起こしたことに、少なからず興奮しているのかもしれない。

 真っ赤に焼ける空を見つめて、フローラは目を閉じる。光の残像がまぶたの中にチラつく。そして思い出す。あの大雨の庭で出会ったペギーのことを。フローラを見ても、まるで他人のように振る舞い続けたペギーの姿を。あのペギーは、自分たちの知っているペギーではなかった。もう認めないわけにはいかない。

 しかし完璧に絶望したわけではなかった。自分たちが会いに行って、ほんの一部でも、ペギーがかつての人格を取り戻してくれるならば。オリガが優しいキスをして、全てを思い出してくれるならば。それはフローラにとって希望の光だった。今のペギーの中に、かつてのペギーが残っているのなら、自分たちの人格もまた、完全には消されないだろうと、そう希望を抱いていたのだ。

 トラックのタイヤが道の凹凸を拾って車体が傾ぐ。落ちないように必死にしがみつき、ステップにかけた足にも必然的に力が入る。生まれて初めて乗る車。燃えるような夕焼けの光の中、真っ黒な木々の影がものすごい速さで通り過ぎていく。

 夜の闇の中に遠ざかる孤児院。あの黄色い光が漏れている窓は多分食堂で、きっと今頃は夕飯の時刻だろう。フローラはキャスケットに手を当てる。ダフネがウソをついて、イライザ先生を誤魔化している風景が目に浮かぶ。「ふたりともおやつの食べすぎで、夕飯はいらないんだって」とかなんとか、説明しているに違いない。

「孤児院、思ったより小さいね」

 同じことを考えていたのだろう。オリガは小さく頷く。

「……うん」

「敷地も、思ったより狭いね」

「うん」

 大きな建物だと思っていた。広い敷地だと思っていた。それが今は夜闇の中、まるでドールハウスか何かみたいに小さく見える。

 思ったよりもずっと小さな建物と、ずっと狭い敷地。あの小さな孤児院には、ダフネを筆頭にたくさんの女の子たちが、人格を消される未来のために暮らしている。十五歳になるまで何も知らされずに。その鳥かごから、自分たちは飛び出した。

「ペギー、きっとわたしたちのこと、思い出してくれるよね?」

 オリガの目が、小さくなっていく孤児院をひたと見つめながら、

「うん。……きっと」

 マーガレットの花咲く丘で、オリガが優しいキスをして。そうすればあのペギーは、フローラが雨降りの中で出会ったペギーは、自分たちの知っている元のペギーに戻ってくれるはずなのだ。

 マーガレット・リッケンバッカー博士ではなく。いたずらっぽい笑みを浮かべた、自分たちの親友のペギーに。

 食堂から放たれる光の粒が、砂みたいに小さくなる。

 小さな建物と狭い庭。マーガレットの花咲く丘と、その上に立つ一本の木。女の子たちだけの、閉じられた静謐せいひつな暮らし。ただそれだけが、自分たちの知っている世界の全てだった。

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