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二〇二一年十二月十一日 土曜日
今振り返ってみれば、わたしとオリガの立てた計画はずいぶん急ぎ足で、稚拙で、それでいてたいへん
人格を消される運命に生まれついた身として、わたしはイライザ先生のことを恨まずにはいられません。でも同時に、多少なりとは感謝もしているのです。わたしは今でもあの人のことがよく分かりません。トーストにも紅茶にも、気でも狂ったみたいなシナモンをかけるイライザ先生。マヌエラ先生や他の大人たちとは違い、ある程度、本当にある程度ですが、わたしたち個人の人格と自由を尊重してくれた人。多分あの人の教育がなかったなら、わたしもオリガも、ペギーに会いに行こうだなんて考えもしなかったでしょう。
※
二〇二一年の夏。フローラが真実を知った夏。オリガと手を取り合い、ペギーに会いに行く決意をした夏。
それからの数日間は、文字通り、嵐のように過ぎていった。
用意するべきものはたくさんある。パントリーから保存の利く缶詰なんかを少しずつ盗み、小さなリュックサックがパンパンになるまで荷物を詰めた。必要なものは色々あるはずだけれど、でもその全てを用意できるわけではなかった。寝袋や、もちろんお金も。
後から考えれば、金の算段が立てられない段階で、この計画は杜撰だったのだ。
脱走前夜、皆が寝静まった頃合いを見て、ふたりはキッチンに忍び寄った。保存の利かない食べものを拝借し、最後の荷造りを整えるためだ。
お互いの顔すらも満足に見えない闇の中、目だけで頷いて、ふたりは棚を漁った。パンの一袋や二袋くらい、なくなっても誰も気づかないだろうと、フローラはリュックサックの隙間にパンを押し込んだ。荷物に圧迫され、パンがつぶれる手応えがある。そんなフローラの視界の隅に何かが光って、ハッとして振り返る。
「オリガ……?」
オリガがナイフを手に、暗闇の中に立ち尽くしていた。彼女の目が、ナイフの刃が、青黒い闇の中で非現実的な光を帯びて、白く輝いている。
「ナイフなんて、必要?」
もう余計なものを入れる隙間は、少しだって残ってはいないのに。
「木を削れば矢が作れるし、それで狩りができる。そして、動物だって捌ける」
それを聞いて、フローラは思わず笑った。思わず笑って、ハッとして口を押さえた。闇に慣れてきた視界。オリガはブスッとした不満げな表情で、
「おかしい?」
「いいや、おかしくはないけど……」
笑いをこらえると、鼻から得体の知れない息が漏れてくる。彼女は一体どこに行くつもりなのだろう。
ややあってから、オリガが、
「私は外の世界のこと、ほとんど知らないから」
彼女が本を読んでいるところを、フローラはほとんど見たことがない。多分外の世界に対するオリガの知識は、ロビンソン・クルーソーか何かで止まっているのだろう。
計画が順調に進めば、明日の今頃にはもう、自分たちはここにはいない。
アリバイ工作はダフネに頼んだ。脱走の発覚が少しでも遅くなるように、やはり協力者は必要だった。そしてフローラがそれを頼めるのは、自分たちの次に年長である彼女に他ならなかった。
施設を逃げ出す。外の世界に行く。外の世界に行って何をするのか。それは言わなかったし言えなかった。ダフネは不審そうにフローラを見つめていたが、ややあってから、「分かったわ」と頷いた。
「フローラ。あんたが私にお願いをしてくるなんて、初めてね」
ダフネはフローラにとって、すぐ下の『妹』だった。十五年間一緒に暮らしてきて、彼女に物事を頼んだのは、確かにこれが初めてだった気がした。
ダフネはベッドの下からキャスケットを取り出した。軽く埃を払ってから、ポンとフローラの頭に乗せる。
「ダフネ、これ……」
これはいつかの誕生日に、イライザ先生からダフネに贈られたものだ。彼女がそれをかぶっているところを、フローラは一度も見たことがなかった。
「本当は『卒業』する時にかぶろうと思ってたんだけど……。今はあんたに貸しておいてあげる」
そのひと言で、合点がいった。だからダフネは、このキャスケットをずっとベッドの下にしまい込んでいたのだ。いつか『卒業』する時に、それをかぶって、旅立つために。このキャスケットは、ダフネが外の世界に抱く、『夢』みたいなものなのだ。
「フローラ。帰ってくるつもりよね?」
「……分からない」
本当に、分からなかったのだ。ペギーを見つけられるのか、彼女の人格を取り戻せるのか。そしてその先、どうなるのか。自分たちがここに戻って来られる保証もない。だから当然、ダフネにこの帽子を返せる確証もなくて。
ダフネは戸惑うフローラの手を握った。
「ねえ、約束して。帰ってきたら、外の世界がどんな風なのか教えて」
「え……?」
「私も早く『卒業』して、外の世界に行くのが楽しみで仕方ないの。あんたが一足先に行くのが、悔しくて仕方ないけど……」
ダフネの誕生日は年明けだ。何も知らない彼女の目は、希望にキラキラ輝いていて、見ているだけで心が抉られていく。
「ダフネ、あのね」
いっそ、真実を告げてしまおうかと思った。自分たちは人格を消されるために生まれてきた。自分たちはクローン。自分たちには自由も、人権も、望む人生を送れる未来もない。
「何?」
「い、いいや。なんでもないの」
ダフネはまだ、夢を見ているべきなのだ。たとえそれが半年程度の期間だったとしても、その幸せな時間を奪う権利はフローラにはない。
「ダフネはさ、外の世界に行ったら、将来、何をしたい?」
「そんなの決まってるわ。ファッションデザイナーとして有名になるの」
オシャレな服を着て、綺麗な靴を履いて。このキャスケットをカッコよくかぶるダフネの姿が目に浮かぶ。フローラの想像の中で、未来のダフネは裁ちバサミを片手に、数々の色鮮やかな布を切って、ステキな服を仕立て上げる。
想像の中のダフネが、現実の彼女の姿に重なって消える。
「その時はあんたにも、服を作ってあげるわ」
とっておきのオシャレな服を。誰かが選んでくれたお仕着せの服ではなく、フローラが着たいと思った服を。
「じゃあ、それを着て、お出かけしよう」
みんなで出かけよう。オリガもアンもジェニファーも。そしてもちろん、ペギーも一緒に。
「出かけるって、どこに?」
「ジュラシックパーク」
「言うと思った」
ダフネは笑い、フローラも笑った。日は少しずつ傾き始め、窓から入る空の色は群青色に変わっていた。
「さ、食堂に行こう。ご飯、なくなっちゃう」
「うん」
グリーンヒル女子孤児院。ここで生まれ育った、クローン人間の自分たち。
食堂へと駆けていくダフネの背を見て、フローラは思う。自分たちに基本的人権はないけれど、それでも十五歳までは、真実を知らされるその日までは、幸せに生きる権利があるはずだ。たとえそれがウソとまやかしで覆い隠されたものであったとしても。
「ダフネ」
フローラは思わず、友人の背中に呼びかける。
「……帽子、ありがとうね」
階段の下のダフネは、困ったように笑った。
「……変なフローラ」
フローラも釣られてふふっと笑い、食堂への階段を駆け降りる。
もしここに帰ってきた時、自分が『今の自分』とは違う誰かになってしまったとしても、せめてこの帽子だけはダフネに届けたいと、心の底からそう思った。
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