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 フローラは目を瞑る。マーガレットの花咲く丘で、秘密のキスをしたふたりのことを。ギターを逆手に構えて、綺麗な音を聴かせてくれたペギーのこと。そして何も知らないまま彼女の『卒業』を祝福し、真実を知った時のオリガの苦悶。

 次に『卒業』するのはオリガだ。フローラの悪い想像は刻一刻と拍車をかける。オリガが自分のことを忘れてしまう。あの雨の中のペギーと同じように、まるで他人のように振る舞うオリガ。嫌だ、そんなの嫌だ。自分の大好きなオリガが全てを消されて、忘れてしまうなんて。嫌だ。そんなの、絶対に嫌だ!

「ねえ、オリガ。……これって」

 フローラは文面の末尾に記載された一文を指し示す。聞いたことのない地名と数字の羅列。新しいペギーは、あの雨の中にいたペギーはそこで暮らしているらしい。

 ハイランズ州、オールテア。

 聞いたことのない地名。どこにあるのかも分からない街。そこにはペギーがいる。そこに行けばペギーに会えるかもしれない。

 たとえ全てを忘れていたとしても。自分たちの知っているペギーとは、別人になっているかもしれないけれど。

「オリガ。もう、調べているんだよね?」

 ハイランズ州オールテアが、どこにあるのか。

「……」

 オリガは黙りこくって目を伏せた。『沈黙は雄弁だ』とよく言うけれど、その通りだとフローラは思う。

「ここから遠いの?」

「……うん」

「電車に乗る?」

「……うん」

 ただ電車に乗るだけではない。乗り換えだってしなくてはいけない。途中、車だって必要だ。バスがあるかもしれない。でもこの孤児院にある地図だけではもう、そこまで調べるのが限界だった。

「……」

 オリガ同様、フローラも押し黙るしかなかった。手の中にある手紙を握りつぶさないように気をつけながら、感情がこぼれないように体に力を入れる。自分たちはここでの暮らししか知らない。外の世界のことなんて、映画や小説の中で聞きかじっただけ。そしてそれが本当に正しいことなのかも分からない。

 それでもひとつだけハッキリしていることがある。このままここに留まっていれば、いつか全てを忘れさせられる日が来てしまう。オリガはフローラのことを忘れてしまい、きっと自分だって、オリガのことを忘れてしまう。

 人格を消される。今ここにいる自分が、思考も感情も記憶も思い出も、何もかもを奪われてしまう。

 それは、自分たちに与えられた運命だった。それでも今このまま、座して運命を受け入れるのは嫌だった。

 どうしても、嫌だった。

「オリガ。行こうよ、そこ」

「……え?」

 ずっと死んだ魚のようだったオリガの目に、ようやく生きた光が灯る。その光を逃すまいと、フローラは彼女の肩をつかむ。

「地図、見たんでしょ? ハイランズ州オールテアっていうのがどこにあるのか、もう調べたんでしょ?」

「……う、うん」

「なら、行こうよ」

 フローラは食い下がる。オリガの目の光を、わずかな希望を、このまま逃してはいけない。

「行こうよ。行けるよ。わたしたちふたりなら、きっと行けるよ!」

 ふたり。

 オリガは顔を伏せた。その動作だけで、フローラは全てを理解した。自分がこう言わなければ、どうせオリガはひとりだけで行こうとしていたのだろう。

 未知である外の世界に、たったひとり。それはきっと、ものすごく心細いはずで、

「行ってわたしたちで、ペギーを救おうよ」

 マーガレットの花咲く丘で、オリガが優しいキスをすれば、ペギーはきっと全てを思い出す。少し大人で、でもいたずらっぽい笑顔の、自分たちの知っているペギーに戻るはずなのだ。

「でも……」

 オリガはまた俯く。こういう時のオリガは本当に臆病だと思う。その感情は分からなくもない。未知の世界への不安。困難な道のり。勇み出て行った後、どうせすぐに捕まって、連れ帰られてしまうのではないか。もし連れ帰られてしまったら、自分たちはその後、どうなるのか。そして何より、ペギーは本当に、自分たちを思い出してくれるのだろうか。

 上手くいかない材料ばかりが並べられて、オリガだけでなくフローラまでも俯いた。挫折と失敗の可能性が、頭にのしかかって首が折れそうだ。

 もし、オリガがキスをしても、ペギーが何も思い出してくれなかったら。

「……」

 恐怖。

 オリガの顔に、色々な表情の色が浮かんでは消えていく。マーガレットの花咲く庭でキスしたあの日のこと。ペギーのギターに合わせて歌を歌ったあの日々。手紙を残していったペギーの、悲壮な覚悟を思い浮かべる。

「……フローラはさ、怖くないの?」

「わたしは」

 もしペギーが本当に、全てを忘れてしまっていても。

「……怖いよ。怖いに決まっているじゃない」

 ペギーに忘れられてしまうことも。いつか自分たちも、その運命をたどることも。

「……でも、それでもわたしは、行くべきだと思う」

 ハイランズ州オールテアへ。

 今のペギーが、マーガレット博士に上書きされたペギーに、会わなければならない。

「オリガ。ただ待つなんて……。わたしは、嫌だよ」

 ただ座して、運命を待つなんて嫌だ。

 全てを消される運命が待っていたとしても、自分たちの尊い日々の思い出や、その中にいた自分たちの存在が消されるのは、絶対に嫌だ。


      ※


 そしてその日の晩、予想していた通り、イライザ先生はフローラを呼び出した。

 十五年間暮らしていても、イライザ先生の自室になんて何回も入ったことはない。暖炉があった。大きな机があった。電話があった。ゆったりくつろげるようなソファーがあって、琥珀色の床はピカピカに磨かれていた。

「さあ、そこに座って」

 先生の声は優しくて柔らかいけれど、今はそれがひどく不気味に聞こえる。先生の表情はいつもと変わらない。いつもと同じ微笑みを浮かべたまま、ソファーにちょこんと座るフローラを見やって、

「楽になさい。フローレンス」

 イライザ先生はかしこまった話があると、フローラのことを必ず『フローレンス』と呼んだ。フローレンス。せいぜい一年に一回しか呼ばれないその名前を、この歳になってもまだ受け入れられない。フローラだけではない。真面目な話をする時、ペギーだって『マーガレット』と呼ばれていた。生徒をニックネームではなくて、本当の名前で呼ぶ。それはイライザ先生にとって、真剣な話をはじめる時の儀式みたいなものだった。

 先生は自ら紅茶を振る舞ってくれた。添えられた砂糖とミルクは普通の分量だった。

「大事な話があるの。……驚かないで、聞いてちょうだい」

 イライザ先生の微笑みに、悲しそうな影が落ちる。手元では紅茶にとんでもない量のシナモンパウダーを振りかけて、あまつさえそれをシナモンスティックでぐるぐるかき回している。相対するフローラもまた、用意された砂糖とミルクを全部入れた。いつもなら「あまりたくさん入れてはダメよ」と咎める先生も、この時ばかりは何も言わなかった。

「……その感じだと、もう知っているみたいね」

 十五歳までひた隠しにされてきた真実。人格を消される、その目的のために生み出されたという、過酷な運命。

「オリガから聞いたのかしら?」

「いいえ、自分で考えました」

 ウソではない。事実、フローラは本当に、自力で真実にたどり着いたのだ。オリガはただ、答え合わせに付き合ってくれただけ。

 イライザ先生は「ふっ」と声を出して、

「そうよね。フローレンス、あなたは賢い子ですもの。……図書室で、あの論文を読んでいるあなたを見た時『ひょっとしたら』って思ったのよ」

 先生は紅茶をすする。芳香を通り越してもはや刺激臭になり果てたシナモンの匂いが、テーブル越しのここまで漂ってくる。イライザ先生は微笑みを崩さない。まるでフローラが真実にたどり着いたことを、なんとなく喜んでいるような、そんな感じだった。

「もう全て分かっているのね?」

 人格を消されることを。今ここで、考えて思って感じている自分の全てを、消される未来のことを。

「はい」

「……それなら、私から話すことは何もないわ。フローラ。あなたから何か、訊きたいことは?」

『フローレンス』が『フローラ』に戻った。鼻を刺激していたシナモンの匂いにいつの間にか慣れ、それでも先生は物足りないと言わんばかりに、またシナモンのびんを振り始める。

 訊きたかった。「先生、わたしのオリジナルはどんな人なんですか?」と。オリガは誕生日に問い詰めて、教えてもらったと言っていた。

「……フローラ?」

「いいえ、なんでもないです」

 質問は飲み込んだ。それを訊くのは、今ではない気がした。だってフローラはまだ、自分の運命を受け入れていないから。一体誰のために人格を消されるかなんて、どこのフローレンスにこの体を受け渡さなければいけないかなんて、その時が来たら考えればいいことだから。

 今はまだ、他に考えるべきことがある。

 闘志の炎がフローラの瞳を光らせる。それに気づいてかいないのか、イライザ先生は目を伏せたまま、カップの縁を指でなぞっている。

「フローラ、戸惑っているわよね?」

「はい」

「どうしていいか、分からないわよね?」

「はい」

「辛いし、苦しいし、悲しいと思う。……でも、フローラ。あなたにはまだ、一年の猶予が残されているわ」

 一年。たった一年。

「その間に、ゆっくり考えればいいの。そして時間をかけて、ゆっくり受け入れればいいの」

 かつて他の上級生がそうしていったように。そしてペギーが、そうしたように。

「運命を?」

「そうよ」

 そして今この瞬間、オリガがそうしているように。

「人格を消されるために、この世に生み出されたことを?」

「……そうよ」

 先生の言葉が、ほんの少しだけ揺れた。

 その微笑みはいつもと同じように毅然としているのに、表情の端々から、悲しそうな、哀れみにも似た何かが滲み出ている。

 なんで先生はそんな顔をするのだろう。それは先生の運命じゃないのに。

「フローラ。私はあなたのことを……。いいえ、あなたたちのことを愛しているわ。たとえ全てを消される未来が待っていたとしても……。私は、あなたという人間を愛している」

 信じなくてもいい。偽善だと罵ってくれて構わない。先生は消え入るような声でそう言って、ぬるくなった紅茶の残りを飲み干した。

 イライザ先生の言葉はしょせん、他人事だ。先生は人格を消されたり、消されることを前提として育てられたわけではないのに。全てを消されて忘れさせられることなんてないくせに、なんで自分たちに情をかけたり、気持ちを知ったかぶったりするのだろう。


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