第26話 ほんとうの幸福への一あしずつ

 仏教は、この世のすべての存在(「一切いっさい衆生しゅじょう」)がさとりを開いて仏になる可能性を持っている、と説きます。「衆生」は普通は「すべての人」と認識されますが、「人」には限りません。

 その「仏になる可能性」を「仏性ぶっしょう」といいます。

 この世の生が終わっても、その先には仏になるための長い道のりが待っている。

 「それがただしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから」

と銀河鉄道に乗っていた灯台守は言います。

 賢治は、人間だけでなく、化石になった古生物にも、そして自分の書いた原稿にも、その「ほんとうの幸福に近づく一あしずつ」の道のりを認めていたのではないかと思います。

 原稿も「さとり」に達して「仏」になるまで、原稿が「ほんとうの幸福」に到達するまで、完成ということはありえず、手を加えられ続けるのだ、と。

 突飛な発想ではありますが、自分の創り出した詩も物語も、最終的に「仏」になってほしかった。原稿も詩も物語も「ほんとうの幸福」に達してほしかった。

 だから、たとえ、途中で、清書とか発表とかいう形で区切りが来ても、それは「ほんとうの幸福に近づく一あし」を進んだだけで、そこは終わりではない。

 そうだとすれば。

 校本全集で作品の「地層」を確定し、その「地層」ごとに「先駆形」や「第○次稿」などとして公表しているのは、その原稿がたどってきた「一あしずつ」を刻印した。そういう意義があるのではないかと思います。

 そういう意味で、校本全集という全集の形態は、宮沢賢治の作品らしい出版のされ方なのではないかな、と。

 その校本の編集作業の中心の一人だった天沢退二郎さんはこの世とは異なる異世界に行ってしまわれました。天沢さんといっしょに作業の中心を担った入沢康夫さんもすでに亡くなっています。

 しかし、賢治の原稿が進む「ほんとうの幸福」への道のりはまだ続きます。

 たぶん、私たちが賢治の作品を読んで、何かを感じ、何かを考えることで、その原稿が「ほんとうの幸福」へといたる道は先へと進んでいくのでしょう。

 そんなことを感じながら、このエッセイを「完結済」にしたいと思います。

 ありがとうございました。

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「銀河鉄道の夜」の「版」について 清瀬 六朗 @r_kiyose

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