第25話 死と変容
化石はその生き物が生きていたときの完全な姿ではありません。
その生き物の個体が死を経て変容した姿です。
しかし、変容しても、その生き物は化石として生き続けて、私たちに何かを伝えてくれる。
その生物の進化とか、その生物の生活とか、その生物が生きていた時代の環境とか。
ばあいによっては、どうやって死んで化石になったか、とか。
賢治は、この「死を経て変容した姿」を、化石にだけ追い求めたのではありませんでした。
「青森挽歌」(https://ihatov.cc/haru_1/052_d.htm)には
それらひとのせかいのゆめはうすれ
あかつきの薔薇いろをそらにかんじ
あたらしくさわやかな
日光のなかのけむりのような
かがやいてほのかにわらいながら
はなやかな雲やつめたいにおいのあひだを
交錯するひかりの棒を
われらが上方とよぶその不可思議な方角へ
それがそのようであることにおどろきながら
大循環の風よりもさわやかにのぼって行った
とあります。
賢治はすぐ下の妹のとし子をとてもたいせつに思っていました。そのとし子が若くして亡くなった後、賢治は何篇もの詩を書きます。そのうちの一篇がこの「青森挽歌」です。
この詩(賢治はこれは「詩」ではなく「心象スケッチ」であると主張しました)には、青森県を走る列車のなかで現実に見ているもの、回想、幻想が、ひと続きの「心象」としてはっきりと区別されないままに書き連ねられています。その一部分で、死んだとし子が、死後にどのように姿を変え、どこへ行ったたかが描かれているのです。
この列車が、北に向かって走っているはずなのに、南に向かっている、という幻想を含めて、一連の詩には「銀河鉄道の夜」と共通するものがいろいろとうたわれています。「銀河鉄道の夜」の銀河鉄道も、北十字(はくちょう座)のあたりから出発し、さそり座を経由して南十字を通り過ぎますので、北から南へと走っている鉄道です。
ただの幻想じゃないか、と言われるかも知れないですが。
たしかにこの詩の語り手は「幻想」とも認めてはいるのですが、一方で、これは異世界からの「通信」であると言ったり、むかしからの多数の実験で証明されてきたことだと言ったりもしています。
人間にとって死は終わりではない。死のあとに人間は変容する。私たちにはとても感じにくい、でも完全に感じることができなくはない異世界に行くのだ、と、賢治は認識していたようです。
そして、そういう過程をはるかにたどりながら、人間は仏になっていくのだ、と。
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