第18話 G・Y ~第20話エピローグ―愛と恋の行方

 加古は自分のアパートで慶菜と一緒に、ゴールデンウィークの予定を立てていた。

最近の慶菜は、服装の露出度が控え目になっている。コンタクトも外してメガネをかけていた。もう誰の目を惹く必要もないからだろう。普通のロンTにデニムだ。加古も着古した服装でリラックスしている。

「ディズニーランドは行きたいでしょ?」

「うん、そうだね。ただ混みそうだから、いっそその直前の平日に行かない?」

「それもそうね。じゃあ旅行とか」

「旅行は、まずケイちゃんのご両親に挨拶してからだよ。あ、それで、僕の和歌山の実家に来る?何もないけど海はキレイだよ。食べ物は絶対東京よりおいしいしね」笑顔で加古は言う。

「行きたい。行くっ!ねえ、ウチの両親に会ってよ。おとうさん怖くないわよ」と微笑む。

「じゃあ、ご両親の都合を聞いておいてね」

「うん。お姉ちゃんはヤキモチ焼きそうだけど」と声を上げて笑った。加古もつられて笑う。

 そのとき、つけっ放しのテレビにニュース速報が出た。

『岸村健一さん殺害容疑で逮捕されていた水巻崇が、証拠不十分で釈放されました』

「ええっ!」二人同時に驚いた。

「だったら」

「犯人は誰なのよ。まだ捕まってないってこと?」

 すぐにネット検索をすると、もうニュース動画が上がっていた。どうやら他の容疑者を確保している様子だが、詳細は警察が発表しないらしい。『別の容疑者を調べている模様』というのは、そう解釈していいと思った。

「結局さ、いろいろ動画を見て、怪しいのは警察内部の人間だよね」

「そうね。だけどその場合、うやむやになるか、誰かが辞任して終わりじゃない?」

「うーん、まあね・・・」大人の事情は嫌いな加古だった。

 加古が実家に電話すると母親が出た。

「かあさん、ゴールデンウィークに帰るかもしれない」

「珍しいわね。正月や夏休みもロクに帰省しないあんたが。そういえば勉さんもあんたも怪我したんでしょ。大丈夫なの?」

「野津さんは腹を切られて大変だったけど軽症で済んだ。オレは古傷の左肩を亜脱臼しただけだよ。でね、もし帰るとしたら、彼女が一緒なんだ」

「へえ。大学になって初めての彼女かい。ぜひ連れて来なさいな」

「まだ向こうのご両親に挨拶してないから、承諾を得られたら、だけどね」

「分かった。2日前までに連絡頂戴ね。準備の都合があるから。そう言えば言ってなかったけど父さん今度校長になるのよ」

「へえ、ついにか。よかったね。何をプレゼントしようかな」

 慶菜は実家に電話して、今度の日曜ならと話が決まった。

「じゃあその前の金曜日にディズニーランドは行こうか」

「うん、いいわね。どんな服着て欲しい?」

「ええ?エッチな服」加古は笑う。

「またあ、アトラクションでパンチラとかやだ。じゃあ外国製のピチピチホットパンツ穿いたげる。ヨシくん、興奮しないでよ」慶菜も笑っている。

「日曜日はどんな服装がいいのかな。学生らしい格好で清潔感があればいい?」

「そうね。当日、わたしが迎えに来るから、そのときチェックしてあげる。吉祥寺から中央線で八王子からタクシーが一番ラクだからさ。タクシー代は気にしなくていいわよ、わたしに任せて」

何かと加古の財布を気にしてくれる優しい慶菜だった。まあ、小遣いも慶菜は多く貰っているので加古はありがたくお世話になっている。

 矢野と陽晴の取り調べ中、高柳は警視庁の辻に指示を仰いでいた。

「実行犯が明らかになる模様ですが、麻薬や要人の供述が出たらどうしましょう」

「麻薬はマトリの担当だから情報を流すしかないが、要人の話しが出たらさりげなくストップさせろ。それ以上の調査は警視庁の分担になると言え」

「分かりました。いま陽晴がヤバい供述をし始めたので、止めに入ります」野津と岩田が署長室に入ると、

「矢野と篠崎の取り調べは進んでいるか?」と高柳が岩田に訊く。

「はい、ここへ来て急転直下気味に進捗しています」

野津は横を向いて笑いを堪えた。

「どこまで分かった?」

「藤中組のヤクの在処は陽晴が知っています。梶谷と岸村は陽晴、あとの二件は矢野が実行犯というのも確定でしょう。すぐにマトリに報告しますか?あと一連の殺人の主犯格も分かりそうですが」

「主犯格?ウィクトーリアとかいう架空の名義のことか?」

「そうです。陽晴は見当がついているようで」

「待て。見当程度で動くな。それは警視庁案件かも知れない」

「そうですね」と岩田が言ったとき、野津が高柳のデスクに近寄り、

「この部屋に盗聴器があるのでは?」と言った。

「そんなバカな。ここには掃除婦も入れていないし」高柳が怪訝な顔をする。

「ちょっと失礼します」と野津はデスクの下を覗く。何かを取り出した。

「署長、盗聴録音機が仕掛けられていましたよ」

「なんだと?それができるのは・・・」

「この部屋に出入りできる人間だけですよね」野津は不敵に微笑む。

「お前だな!仕掛けたのはっ!」

「いえ、わたしはいま発見しただけですよ。これはかなり長時間タイプの録音機が付いていますね。早速分析させていただきます」としれっと答えた。

「それをこっちに渡せ」と高柳は慌てている。

「重要なことが盗聴されているかも知れません。極秘に調べさせてください」野津は冷静だ。

「お前はわたしに盾突くつもりか?」声高な高柳は野津を睨む。

「盾突く?どういうことでしょうか。署内のことは署内で解決したいではないですか。だから単純に聴いてみるだけですよ。何か都合の悪いことがあるのですか?」

 高柳はぎくりとして諦めた様子になった。

「野津、本当に署内で処理するつもりだな」

「内容にもよりますが。どなたと話していたかは重要ですから」

「ふざけるなっ」また高柳を怒らせた。岩田が間に入る。

「まあ、署長に隠したいことがないのでしたら、分析させてください。内容は必ずご報告しますから。勝手に署の外へ漏洩したりしませんよ」と取り成した。

「マトリへの報告は署長にお願いします。具体的な場所は篠崎に詳しく聞きますので」

「分かった。勝手にしろ。ただ、お前らに無理な案件には手を出すなよ」辛うじて虚勢を張る。

 

 野津と岩田は笑顔で廊下を歩いていた。

「いつ仕掛けたんだ」と岩田。

「女性二人を仮釈放するお願いをしに行ったときに、書類を受け取りながら付けたんですよ」

「ノリベンもなかなかしたたかになってきたな」岩田は野津を小突く。

「あれ?提案したのは誰でしたっけ?」と野津は笑う。

 捜査本部に行って、世田谷のメール発信地点をもっと詳細に調べて欲しいと頼み、二人は取調室に戻る。

 4月下旬だというのに東京はバカ陽気だ。最高気温は30度を超えていると天気予報が告げた。太り気味の岩田は、上着を脱いでもシャツに汗染みができている。元々代謝が高く汗っかきなのもあった。野津は筋肉があるが加古と同じ痩せ型なので、そう汗は出ない。

「ガンさん、替えのシャツ持ってます?」

「いや、着替えは持ってないよ」

「そのままじゃ色川さんに嫌われますよ」野津は笑いながら言う。

「きょうはデートじゃないって」岩田が照れている。

 陽晴に出前を取ってやり、二人はコンビニ弁当で済ませた。午後に少し取り調べをすれば、きょうは時間が余りそうだ。

「ガンさん、色川さんは忙しいんですか?」

「さあ、きょうはどうだかな」

「定時で帰れそうですよ。たまにはガンさんから誘ったらどうですか?」

「そう言われるとこっちから誘ってないなあ」

「ほら、電話してみたらどうですか?」

「うん」と岩田は席を外して電話を掛けに立った。すぐに戻って来て、

「空けられるってさ。ただし、きょうは彼女のお家デートだ。晩飯作ってくれるって」嬉しそうに話す。

「よかったじゃないですか。わたしも妻に電話します」野津も立った。しばらくして、

「定時で帰ると言ったら、吉祥寺のお好み焼き屋に行きたいそうです」と笑顔だ。

「あ、普通の家みたいな店だろ。あそこは安くて美味しいからな」

「ガンさんとも行ったことありますね」野津の声も弾んでいる。

「さっきコンビニで替えのシャツとトランクス買えばよかった。夕方に行くか」と岩田。

「だったら、着替えの前に宿直室でシャワー浴びて行けばいいじゃないですか」

「ああ、そうだな。私用で借りるのは気が引けるけどさ」と頭を掻く。


 午後の日射しが眩しい取調室で、野津と岩田は篠崎陽晴と対峙した。

「まず、ブツの在処を教えて貰おうか。マトリがいまだに探している物だ」岩田が訊く。

「紙ください。青山のほうなんですけど」と陽晴は手書きで地図を描いた。

「これは神宮球場の近くだね」と野津。

「そうです。この交差点の近くに、貸しトランクルームがあります。鍵は僕の所持品の中にありますよ」

彼の所持品を持ってくると、キーホルダーにナンバーが刻印された変わった鍵があった。

「これか?」野津が尋ねると、陽晴は、

「それです。僕は留置されますよね。でないと確実に藤中組に殺されます」言う内容に反して冷静だ。書記に吉永を呼ばせて、鍵と地図を渡して署長へ届けさせた。

「当然殺人容疑だけでも留置だよ。で、岸村のときに一緒だった二人は?」

「名前も何も知りません。ゼッケンがあって、みんなメールで支持されて集まり、ゼッケンで仲間と確認しただけです。後で会ったりもしていません」

「そのゼッケンを教えて貰おうか」

「僕は2025、仲間の二人はえーと、1948と3352ですね。うん、間違いない」

「年恰好は?」

「一人は学生ぽかったです。もう一人は僕と同世代くらいかな」

「ジ・アンダーテイカーの頭は誰だと思う?」ここが重要と思い岩田が訊く。

「だから明京大准教授に警視監の息子がいると言ったでしょ。それが正体ですよ。アイグレーも彼に操られているはず。ウィクトーリア自身の代理でメールを送り付ける暇があるんですから、世田谷の実家から発信していたのはその准教授ですよね」陽晴は事も無げな口調で答えた。

「で、MEAという団体を知っていると思うがあそこはどうなんだ」

「ああ、痴漢撲滅同盟ってやつですか。あれは独立組織ですが、活動資金は賛同している弁護士や政治家、一般人からの寄付で運営されているようです」

「それほど潤沢な資金はない様子だがね」と岩田は葛城を想像しながら言う。

「幹部が高齢で、寄付金から月給を出しているから活動資金が乏しくなるんですよ、おそらく」

「なるほどな。これは秘密だが、明京の准教授というのは英文科の湯浅賢太郎だよな」と岩田は小声で囁くように訊く。

「ええ、そうですよ。さすが警察、特定が早いですね」

 湯浅の父は剛之介という警視監で、親子とも世田谷の豪邸に住んでいる。その程度はデータ班が簡単に上げて来る時代だ。

 陽晴を留置に切り替え、野津と岩田は盗聴の内容を聞くことにした。小さな部屋を特別に貸し切りにして貰う。事由は極秘作戦会議としておいた。 

 しばらく沈静化していたSNSと憶測報道が再燃した。

「水巻釈放って、じゃあ誰が容疑者?矢野とか篠崎きょうだいとか?」

「決め付けるにはまだ早くない?矢野が犯人だったら仲間殺しで草」

「矢野と篠崎陽晴は留置されているらしいよ。少なくとも彼らが実行犯じゃないの?」

「反社より怖いのは民間人かwwww」

「麻薬の件は陽晴がゲロッたみたいだよ。限りなく怪しいね」

「反社がマトリに捜査を受けてもブツが見つからなかったのは、陽晴が隠してるとか?」

「殺人容疑者から外れる代わりにヤクを預かった可能性もあるしね」

「ウィクトーリアって勝利の女神でしょ。そんな偽名で犯罪とはwww」

SNSの情報には高柳のリークも含まれていた。

 テレビのワイドショーでは犯罪心理学者などが持論を展開して大騒ぎだ。

「陽晴容疑者は、姉の罪を隠すために実行犯になったとも考えられます」

司会者はボードの命令系統想像図を指して言う。

「矢野も陽晴も、このウィクトーリアからのメール指示で動いていた様子です。ですが、たまたま二人の利害に合致していたので犯行に及んだのではと」弁護士の一人がフォローする。

「結局ウィクトーリアの正体が分かれば事件は一件落着ではないですか」と司会者がまとめる。

「さて、正体が露見されるでしょうか。警察官僚が絡んでいれば部下の辞任で幕引きもある。そういう事件は過去にも山ほどありますよ」と元警視の老人が言った。

弁護士はちょっと憤慨して、

「それでは警察の闇は、闇のままで終わってしまう。それには不快感を禁じ得ないです」

「まあ、世の中、きれいごとだけで構成されているわけではないでしょ」と元警視。

「そりゃそうですが、今回は四人も殺されて麻薬まで流通してます。清濁併せ呑むには濁りが多過ぎますよ」

司会は「まあ、憶測の部分が多いのでこの辺でCM行きます」と遮った。


 野津と岩田は長時間録音を聞くのに、会話以外の部分は早送りしていた。警視庁の辻という警視と千堂との会話はすでに少し聞き取れた。48時間の録音中に高柳の秘密の会話が多く含まれていると推察される。定時で上がる予定なので、きょう中に全部は無理だ。野津も岩田も約束を反故にできないので、岩田がコンビニに行きシャワーを浴びる間を除き、ギリギリまで二人で録音を聞いてメモし、野津は吉祥寺、岩田は荻窪に急ぐことになった。

「仕事以外で、例え一駅でも一緒に電車に乗るのは初めてじゃないか?」

「そうですね。ガンさんは武蔵小金井だから方向が逆ですもんね」

「さて、スイッチをOFFにするか。ノリベンもそうしないと蓄積疲労になるぞ」

「β-エンドルフィンが出ることをすればいいんですよ」野津が小声で言って笑った。

「脳内麻薬か。ははは、最近そういえば疲れが残らなくなった」岩田が微笑む。


 その頃、高柳は辻警視と電話していた。

「盗聴器だと?なぜ気が付かなかったんだ、バカ者が。違法捜査だと言って取り返せ」

「本当に申し訳ありません。ただ、外部に漏らす気はないようでして」

「問題はそこじゃない。お前が内通者だということと、警察上層部の人間が危ない」

「はい、本当にすみません」と相手に見えないのに頭を下げた。

「とにかく、ある警視正に相談する。状況によってはお前の昇進は見送りだ」辻のほうから電話を切られた。

 高柳は椅子の背もたれにガックリと身体を預けた。部下に暴かれるとは思っていなかった。自分の油断に腹が立った。下手をすれば昇進どころか左遷である。妻子を抱えて地方に飛ばされてはたまったものではない。そもそも、家族になんと説明したらいいのか。高柳本人も家族も東京と神奈川にしか住んだことがない。遠くに飛ばされたら、子供も苦労するだろう。


 自宅にいる千堂に玉置警視正から電話があった。

「なんだ、夜分に」

「いや申し訳ありません。が、一刻を争う事態ですので」

「え?何があったんだ。水巻釈放で変だとは思ったがね」千堂の不安は的中した。

「篠崎陽晴が岸村殺害と、藤中組からヤクを預かっていることを自供したんです」

「なんだって!わたしとの関係はバレないだろうな、どうなんだ」つい声が大きくなる。

「限りなくマズいです。保管場所がわかったのでマトリが没収に行き、藤中組を堂々と捜査しています。今夜中にも先生のところにマトリが行くかも知れません。いずれ真相が解明されるとしても、当面は何も知らない、何のことだ、と白を切って時間稼ぎをしてください」玉置は緊急事態なので早口になっている。

「分かったよ。自宅にはまったく隠していないから、あとは別居している娘に処分させる」

「いえ、お嬢様のところには、もうマトリが行きました。ですから、お嬢様個人の問題と言い張ってください」

「マトリは動きが早いからな。娘がホントのことを話したら終わりだよ」

「いま、警察上層部に相談中です。とにかく1分でも時間を稼いでください」

「分かった」と言ったとき、インターホンが鳴った。

「もうおいでなすったようだ。そっちも早く対処してくれ」と電話を切る。

 使用人がインターホンに出て、

「麻薬取締官だと言ってます。強制家宅捜査だそうです」と慌てている。

「仕方がない。入れろ」と千堂は静かに言った。

 マトリはリビングにいる千堂のところに案内されて来て、

「瑞穂さんのお住まいから麻薬が発見されましたので、ここも捜査させていただきます」

「麻薬?娘がそんな物を?」と演技賞ものの驚き方を千堂はする。

10人ほどの捜査官が広い邸宅を一斉捜査し始めた。

「瑞穂個人が所有していた物だろう。わたしは関係ないし、ウチをいくら探しても何も出んぞ」と叫んだ。

「あなたに政治献金をしている人物や団体を調べたところ、あなたから薬を貰ったというウラは取れていますよ」代表の捜査官がピシャリと言った。眼光の鋭さは千堂を超えていた。

 千堂は身体の力が抜けるような感覚に襲われ、ソファに倒れ込んだ。もうダメだ。政治家としては終わったなと思った。人に対しての口止めは案外脆いと後悔もした。労民党には迷惑をかけることになる。が、議員辞職は免れない。

「誰に聞いたんだ」と声を絞り出した。

「国際商事という会社の社長を問い詰めたら吐いたんですよ」千堂には覚えがある。

「なるほどね」口が堅そうな人物と思っていたが、マトリの厳しい捜査に音を上げたか。


 翌朝、野津は朝のニュースで『労民党の千堂聡介党首が、突然の議員辞職です。千堂議員は麻薬取締法違反で逮捕され、今朝になって党首辞任と議員辞職が労民党から発表されました』

野津は特段驚きもせずにそれを聴いた。史代が言う。

「あなたが調べていたのはこの事件なのね。単なる連続殺人かと思ったら、ずいぶん入り組んだ事件だったのかあ」と感心している。

「まだ完全に事件が終わったわけじゃない。主犯格が誰かを突き止めるのがゴールだから」と野津は答える。

「そういう正義感は好きだけど、あんまり無茶しないでよ。いつもわたしの存在を忘れないでね」と懇願気味に言いながら朝食を口にした。

「いつでも美味しい物を食べられるように、か」野津は微笑んでいる。

「子供ができたらもっと大事な人になるのよ」史代の口調は柔和になった。

 

 野津が署に出勤すると、岩田はすでに出勤していて、

「おい、早く録音を聴かないと、何かが揉み消されそうだぞ」と立って来た。

「昨夜のお食事はどうでした?」と野津が訊く。

「いや常人の手料理の域じゃなかった。ネットで調べたと言っていたが、センスがなければあそこまで美味しい物は作れないと思ったよ」岩田は少し浮かれた様子だ。

「それはよかったですね。頭脳明晰でかつ家庭的とは」訊いてくれて嬉しいんだな。そう野津は心の中で笑った。

早速録音機を持って、昨日取った部屋に行き録音の続きを聴く。会話以外を早送りすると約2時間で聞き終えるはずだ。

「ガンさんこれって」野津がリピートする。玉置警視正の声で、

『湯浅氏』と言っている。不明瞭だが『ウィクトーリアは謎のままで』と続いている

「陽晴の供述のウラが取れたな」岩田が納得する。

 急いで続きを聴くと、辻の声で『さやかを犯人としてリーク』『瑞穂の逮捕令状は出さない』『バイオレットピープルは摘発を控えろ』など続々とおもしろい発言が出て来た。

「これは警察内部の陰謀だよな」岩田が厳しい顔になる。

「あ、ガンさん、首の後ろ。キスマークが」と野津はひやかした。

「ホントか。マズいな。それより、これをどうするか、だよ。署長も曲者だったな。おそらく昇進を餌に、情報操作や我々の監視をしていた模様だな。署内の各所に隠しカメラがあると思う。この録音を違法と言われたら、署内監視も違法と言って対抗しよう」岩田が本気モードだ。

「わたしが調べた限りでは盗聴自体は違法ではありません。むしろ、無断で署内を監視してたほうが罪に問われる可能性があります」野津は予めネットで調べたことを述べた。


19.終末ラプソディー


 そこへ高柳がノックもせずに入って来た。

「その盗聴器をよこせ。違法捜査だぞ」偉い剣幕である。岩田が落ち着いて答える。

「いや、違法じゃないようで。それより、なぜ署内を監視しているのですか?」

「監視だと?そんなことは、してない」徐々に音量が下がった。

「例えば取調室とか、よく調べてみましょうか?」岩田が問い詰める。

「いやいい。分かった。じつは上からの命令でしたことだ」高柳が降参した。

「湯浅氏、というのは湯浅剛之介警視監ですよね。矢野のリストにG・Y58歳とある。珍しいイニシャルで58歳というのも一致します。警視監が合意痴漢グループのメンバーでは都合が悪いんでしょうね」野津が追い打ちを掛ける。

「そ、そんなことまでは知らない。本当だ。ただ、合意痴漢なんて単なる理想で、実際はサインの誤認で一般人に迷惑をかけているだろう。だからバイオレットなんたらのメンバーに警察内部の人間がいたら、それはマズいに決まっている」

「迷惑?確かにそうですね。でも、あらゆる趣味趣向は、厳密に誰にも迷惑でないものはありませんよ。そもそも、『需要があるものは供給されるべきだ』という梶谷光のスローガンがある。警察だって、犯罪抑止や犯罪解決という需要があるから民間人に迷惑がられても供給されていますよね。痴漢行為も、需要の存在は明らかなんです。一概に『犯罪です』と言い切るのはおかしい。それだけは覚えておいてください」野津は一気に理屈を言い切った。

「まあ、もちろん強姦や痴漢は女性の心の傷になる場合もありますから、他の趣味趣向と同一視はできませんが。でも痴漢させて示談金を狙う悪辣な事案も起きていますからね。女性専用車両程度の対応で解決できない複雑な問題です」


三鷹北署に来ている滝口警視に岩田が相談すると、

「監視カメラ?そんなもの、すぐに取り外せ。高柳が全部知っているだろう?」と答えた。署長室に行くと落ち込んだ高柳にカメラの場所をすべて聞き、人員を手配して取り外した。

 滝口に湯浅警視監のことも話すと、

「それは一警視がどうにかできることではないが、SNSに流せば、上層部も反応せざるを得ないだろうな」と慎重に言葉を選んだ。

 試しに野津の個人的アカウントで湯浅の名は伏せて呟くと、一気に噂が広まり、「警察に合意痴漢がいるなんて」という非難に対して、少数ではあるが「誰でも変わった趣向があっていいじゃないか」との擁護もあった。午後には5000以上リツイートされて、コメントが莫大な量になっていた。

 夕方、警視庁に動きがあった。緊急記者会見とのことで、テレビで放送されるという。捜査本部の多数の捜査員がテレビの前に集まり、記者会見が始まった。警視総監と見慣れない人物が現われ、マイクの前に座る。警視総監が話し出した。

「このたびは、連続殺人事件と合意痴漢、ならびに麻薬取締の件で、皆様に大変ご迷惑をおかけしました」と立ち上がってお辞儀をした。隣の人物も同様にした。着席した総監は、

「警察上層部に合意痴漢グループのメンバーがいるとのことで、早速調査しましたところ、わたしの秘書である、この池吉幹夫であることが判明いたしましたので、池吉秘書官を辞任させる運びとなりました」

 「身代わりだ、こんなの!」と野津が声高に叫んだ。捜査員たちにざわめきが起きた。池吉と言われた人物が、

「このたびは警察官として大変お恥ずかしい事態を招きまして申し訳ございません。わたしの辞任をもって、捜査に収拾をつけたい所存です」と述べた。

「まだウィクトーリアとかいう架空の人物が特定されてないじゃないですか」

「主犯格を捕まえずに事件は終わりませんよ」

記者たちが口々に叫んだ。総監は動揺した様子もなく、

「ですから、この池吉がウィクトーリアです。彼を一連の事件主犯格として逮捕し、厳重に処罰いたします」とむしろ重々しく言った。

 取材記者たちの怒号は続いたが、

「それではこれで会見を終わります」と司会役の者が言い、二人は退室してしまった。


 野津は岩田に、

「矢野も陽晴もすでに殺人犯確定ですから、湯浅のことを証言させて罪状を少しでも軽くなるようにしたらどうでしょう」と提案した。

「だよな。あの池吉という秘書が可哀そうだし、合意痴漢グループと殺人を同一視されるのは納得がいかない」岩田は賛成する。

 まずは矢野を呼ぶ。岩田は、

「湯浅剛之介、もちろん知ってますよね?」と訊く。

「ええ、メンバーの一人でした」

「せがれの湯浅賢太郎は、あなたの後輩准教授ですよね」

「はい。それが何か?」矢野はきょとんとしている。

「すべての根源は湯浅剛之介で、ウィクトーリアはそいつだ。メール送信は主に賢太郎が代理でしていたと思われる」

「ええっ!あの大人しそうな湯浅が?」

「賢太郎自体には大して罪はない。父親がバイオレットピープルもジ・アンダーテイカーもアイグレーも操作していたんだよ」

「そ、そんな・・・」矢野は放心している。

「藤中組とも関係があっただろうな。水巻が陽晴の身代わりだったことで分かる」

「つまりは、麻薬にも関与していたと?」矢野はゆっくり呟いた。

「そうだ。あんたには湯浅が合意痴漢のメンバーだったことを証言して欲しい。少しは罪状が軽くなるのを祈っている」

 呆けたようになった矢野を連れ出させ、今度は陽晴を呼んだ。

「きみはジ・アンダーテイカーのヘッドは湯浅准教授ではと言ったよね。でも、その父剛之介がバイオレットピープルのメンバーだったんだ。どう思う?」野津が尋ねた。

「そうなんですか?」と陽晴は驚きながら「でもあり得ますね。対抗分子を作り、却ってグループの結束を強める。心理学的には理に叶っています。フェミニスト集団の操作も、一見肯定しているようで品田や多和田などを利用していますよね。バイオレットピープルメンバーに問題が起きたら、自分の保身のためにはどうとでもできるようにしていたと感じます。僕は指示が自分の都合に合致していたから犯罪を犯した。でも矢野さんは騙されたのでは?」

「矢野はね、言いにくいんだが、お姉さんさやかのトリックに騙されたんだよ」岩田が顔をしかめて言う。

「姉のトリック?」陽晴は目を見開いた。野津が宥めるように言葉を繋いだ。

「『揉み消してくれ』の『揉み』を京くんのいたずらで削除されて転送してしまったら殺人が起きた。二件目と三件目は敢えて『揉み』を削除して転送したそうだ。あ、三件目はきみか。さやかさんも、まさか実行犯が弟になるとは予測不可能だったよね。お姉さんは未必の故意だが、殺人教唆に準じる罪になると思う。あと麻薬の流通にも一役買ってしまったし」

「それにはまったく気付かなかった。気付きようがないですが。『1000万払うから消してくれ』とメールが来たので、まさか揉み消しの資金とは思わなかった。岸村のケースは3人で1500万と来たので、明白に殺人依頼ですが」

 そのとき部屋にデータ班の女性刑事が入って来た。

「世田谷の発信場所が細かく特定できました。千堂家ではありません。もう少し東の、その」

と言い淀んだ。

「湯浅警視監宅なんだろう?」と岩田が声を掛ける。

「あ、はい。湯浅邸も広いので、隣と間違えているとは思えません」

「ありがとう。重要な証拠になります」野津も労った。


19.終末ラプソディー


 岩田と野津は改めて陽晴と話し合う。定時は過ぎているが今夜はまだ帰れない。警視庁の処分を覆すには早さも必要だ。

「さて、証拠も揃ったし、岸村殺しとアイグレー関係、麻薬、つまり藤中組だが、湯浅絡みだと証言してくれるね?矢野にも頼んだが、罪状が幾分軽くなると思うから」岩田が説得する。

「僕なんか死刑で結構ですけど、姉や千堂の役に少しでも立つなら喜んで。警察上層部の罪だって絶対許せませんしね」陽晴はきっぱりとそう言った。

「矢野ときみの供述書に湯浅剛之介の名前を記述するので、殺人実行犯といえどもうまく行けば実刑ですらないかも知れない。何しろ主犯格は湯浅だから。一件目の殺人のときに『違うだろ』と言って来なかったのも、殺しでもいいと湯浅が思ったからだろう」野津はそう説明した。

 20時を回っていたのでさすがに野津と岩田は帰ることにした。

「明日朝、二人同時に調書を作ろう。オレは矢野に付くから、ノリベンは陽晴を頼む」

「今晩は気合が入って眠れないかも知れません」

「そういうときは」

「β-エンドルフィン」二人の声が重なった。思わず笑う。

 野津は帰宅すると、

「明日は勝負の日になりそうだ。ちょっと肩に力が入ってる」と史代に言う。

「じゃあ、まず夕飯をしっかり食べてくださいな」そういう史代をそっと抱き締める。

「え?今夜も、もしかして?二日続けてなんて新婚以来よ」

「リラックスして眠りたいから協力してくれよ」と野津は史代の顔を覗き込む。

「いいわよ、もちろん。ふふふ」史代は嬉しそうに笑った。


 翌朝8時半には野津も岩田も出勤していた。

「ノリベン、よく寝たか?」

「ええ、7時間ぐっすり。β-エンドルフィンでね」もうギャグになっている。

「9時になったらすぐ始めるぞ。コーヒー飲むか?」

「ええ。あ、すいません」岩田が二人分のコーヒーを持って来た。

「珍しくオレが淹れたんだ。気合入ってるからかな」苦笑している。

 そこへ捜査本部の男がやって来て、

「篠崎が言ったゼッケンから、彼と岸村殺害をした二人が特定できました」と言う。

「お、早いね、さすがだ。どうやって?」と岩田。

「ジ・アンダーテイカーの闇サイトに侵入したらゼッケンでやり取りしていたので、あとは簡単でした。一人は貧乏学生。もう一人はブラック企業の社員でした。500万なんて言ったら喉から手が出るほど欲しい人間が、いまの日本には多いってことですね」

「出頭は?」

「それぞれの自宅で身柄確保済みです。岸村は警視庁案件なのでそっちの留置になってます」

「あ、そうか。陽晴は連続殺人もあるからウチで預かられているわけだね」岩田は納得する。

 8時55分、岩田と平岡、野津と江頭の二組に分かれて別室で矢野、陽晴を待つ。9時ちょうどに供述書作りが始まった。

 矢野は理路整然と話すので、書記が打ち込むのが間に合わないほどの速度で供述書ができていった。彼の場合、間違った指令で犯した殺人だけなので余計に早い。11時過ぎには完了した。陽晴のほうへ岩田が行くと、彼も頭がいいが事情が複雑なので少し手間取っていた。

「岸村殺害の経緯を書いたら終わります」と野津が言う。

「12時に終わらなかったら飯食えよ」と言って岩田は自席に戻る。

12時半頃になって野津は自席に戻って来た。

「終わりましたよ、ガンさん」笑顔で言う。

「一緒に蕎麦屋行こうと思ってたのに、コンビニ弁当にしちゃったよ」

「ああ、すいません。もう少しで終わりそうだったので、仕上げてしまいました」

「データは保管して、印刷したものを警視庁に持って行こう」

「いまの時代、コピーも不要だからいいですね。証拠隠滅もできない」


 伊集院警視正、滝口警視を伴って、野津と岩田は車で警視庁に乗り込んだ。伊集院は最初渋ったが、これが事実と押し、なんとか説得した。

「捜査一課に来ました。三鷹北署の野津と岩田です」岩田が受付で言う。

受付の婦人警官は内線で確認を取った。

「どうぞ。乃木一課長がお待ちです」

 四人は捜査一課の部屋に入り、奥の課長個室をノックした。

「ようこそ、みなさん、というか三鷹北署のお二人」と一課長は軽んじたように言い放つ。

「篠崎陽晴と矢野和親の供述書です。二人の供述には警視庁が伏せたい事実が書いてあります。端的に申し上げると、ウィクトーリアの正体、湯浅剛之介氏のことです。これをご覧になっても真相を隠されるのでしたら、供述書のデータもございますし、現代は便利なことにネット社会ですので」と岩田は堂々と述べた。

「きみたち、身分がどうなってもいいのかね?」と一課長がずしりとした声で言う。

「こんなことで身分がどうかなるのでしたら、それはまた問題ですし、クビでも左遷でもしてください。どうせしがない所轄の刑事です。惜しむような肩書もございません」野津は凛として言い返した。

「分かったよ。湯浅は定年間近の警視監だ。天下りが早まるのと再就職がしょぼくなるだけだ」

「再就職?殺人指令を出していた人物は実刑確定の犯罪者です。課長のご認識を改めていただきたい。指令を発信した地点も特定できているのです。単なる合意痴漢グループのメンバーではございません」岩田の語気も荒くなっている。

 捜査一課長乃木大輔は、『え?』という表情で、腕組みをする。メガネを外しデスクに投げ出す。苦渋の顔をして、しばしの沈黙のあと、

「うーん、捜査一課の威信に賭けて、湯浅剛之介を主犯として逮捕せざるを得ないな。当面、警察の信用はまた落ちるだろうが、事実なら仕方ない。今回はきみたちに負けた。わたしだって潔くないのは嫌いだ。思えば、昨日の記者会見は三文芝居だったな。もう一度、本当の記者会見をお願いしようじゃないか」と渋く微笑む。幾多の経験で、むしろ人柄が丸くなっていると伺える。

二人は、もっと手間取ると思っていたが、乃木の英断であっさり決着した。

「ありがとうございます」野津と岩田は同時にそう言って最敬礼をする。


 二日連続の警視庁記者会見で、報道陣も慌てて駆け付けた様子だった。テレビも臨時ニュースを流したり、中継の用意に追われている。

 会見は警視庁捜査一課長の単独だった。

「昨日は事実誤認の会見をして誠に申し訳ございませんでした。情報が錯綜しておりまして、本日改めて記者会見の運びとなりました」座ったまま頭を下げた。野津たちは会見場に居残って、目の前で見ていた。

「これから申し上げることが真相です」と一度言葉を切る。

「痴漢加害者と岸村健一さん殺人の犯人が判明しました。また薬物の問題は報道の通りです。みなさんご存知の主犯格『ウィクトーリア』は警視庁警視監である湯浅剛之介と申します。警察上層部から主犯格が出たことは、いくらお詫びしてもし切れないほど重大なこととして受け止めております。殺人実行犯の矢野和親並びに篠崎陽晴ほかは、一部は篠崎さやかの責任もあり、しかしながら、指令を発信したのは間違いなく湯浅でございます。えー、殺人事件の詳細については囲み取材やニュース報道でお知らせできると思います。では失礼致します」とここで立ち上がって深々と礼をした。逮捕された湯浅剛之介警視監はすべてを供述した。「ウィクトーリア」を名乗ったのは「死に対する勝利」の意味が込められていたという。彼の述懐によれば、近年同世代が他界し始め、自分の「残り時間」に恐怖を感じていたらしい。合意痴漢グループに参加したのは、たまたま乗った電車で痴漢希望と思われる女性に遭遇して味を占めたと供述した。ただ、自分の性癖が世間にバレるのは手段を選ばず防ぐ覚悟だったとも言った。

 アイグレーの殺人幇助罪に問われる、現場で被害者を囲んでいた人物特定もでき、逮捕者は歴代の連続殺人事件でも屈指の人数に達した。自殺の強要、また加古を襲った多和田茜はもちろん、恢復した品田風美も偽の痴漢被害者として逮捕された。とはいえ、茜は全身の痛みを訴えて警察病院に入院した。やはり線維筋痛症だという。犯罪に病状悪化のストレスは付き物だ。

 ジ・アンダーテイカーのメンバーは、殺人罪の三人以外はマトリの捜査で数人の逮捕者が出た。千堂瑞穂も、すでに親の威光は利用できず、篠崎さやか、千堂聡介と一緒に書類送検である。

 さやかと千堂の罪状は非常に微妙な部分が多く、検察がどこまで事実に迫れるかが焦点になった。瑞穂は単純な傷害罪で済むだろう。さやかに関しては未必の故意がどの程度の罪になるか、おそらく執行猶予にはなると思われた。ナイフ運搬と麻薬に関しては不問かも知れない。千堂は藤中組との接点がどうかだが、麻薬取締法違反だけで済めば実刑にはならないはずだ。

 殺人実行犯の矢野と陽晴そしてアンダーテイカーの二人は湯浅の殺人教唆の罪状次第で、実刑か長い執行猶予付きになるか、裁判結果を待つしかない。 

 三鷹北署長高柳は、野津たちが盗聴を公開せず、かろうじて地位を保った。二人に大きな借りを作ったが。

 警察内部的には、三鷹北署をメインとして、捜査に参加した練馬西署、立川南署のメンバーの功績が認められた。とりわけ野津と岩田は一階級昇進した。野津は警部、岩田は警視となった。彼の勤務先は本店つまり警視庁になる。乃木捜査一課長が、ぜひウチに欲しいと言ったからだ。


 「何年一緒にやったっけ」と岩田が野津に話しかける。

署の庭に出てベンチに座っている。草いきれの匂いが初夏を思わせる陽気だ。

「7年ですね。わたしが28歳で巡査部長に成りたてのときからです」

「お前はまだ結婚してなかったもんな。聞き込みで史代さんに出会ったのは翌年か?」

「そうですね。ガンさんもまだ35だったんですね。いまのわたしと同じですか」

「いつの間にか40過ぎていた。内心、結婚は無理かと諦めかけていたよ」

「警視庁勤務の警視なら、色川さんに引け目を感じずに付き合えるでしょう?」

「まあな。彼女は『肩書や収入には拘らない』と言ってはいたけど」岩田は笑顔で、 

「ノリベンの新しい相棒は吉永だろ。大卒1年目のノンキャリだが、彼は独特のセンスがあると思う。うまく育てればいい刑事になるよ。お、噂をすれば」

 吉永が笑顔で二人に近付いてきた。軽く礼をして、

「野津さん、駆け出しでご迷惑をかけますが、よろしくお願いします」と敬礼する。

「まあ、覚えることは山ほどある。やってみないと分からない仕事もあるよ」野津は微笑みながらおだやかに言った。


 加古と慶菜はゴールデンウィーク前の金曜日にディズニーランドに行った。慶菜は何度も来ているので、加古は慶菜を案内役に行動した。擦れ違う人の多くが振り返るのは慶菜の服装のせいだった。下半身の形丸出しの薄手の生成りホットパンツで、少し尻がはみ出している。出かけるときに加古が、

「凄過ぎない?」とビックリして言うと、

「アメリカなら若い子はこのくらい露出はするわよ」と平然としていた。

 二人共ジェットコースター系が好きなので、それを軸にして夕方までほぼノンストップで列に並んではアトラクションに乗った。昼食は並びながらハンバーガーを食べる。夜のパレードを見てから二人はレストランで食事をし、加古のアパートに帰った。

「脚がパンパンだ」と加古が笑うと、

「運動不足じゃない?わたしは全然平気。ほら演劇部って鍛えるからね」と擦り寄って来た。

「きょう、たくさん人に見られて、ホントは興奮しちゃったの」

「あさってはケイちゃんのご両親に挨拶しに行くんだから、ほどほどにね」

「そんなこと言って、ヨシくんだってわたしのお尻見てたでしょ」とつむじアンテナを触る。汗をかいても加古のくせ毛は立ってしまう。結局、疲れているのに2度もHした。

 

二日後慶菜がやって来て、加古の服装をチェックする。

「髪型よし。服装よし。あとはどの靴履いていくの?」

「一番新しい革靴。茶色いやつ」

「OK。白・カーキ・茶で配色もいいわ」慶菜も露出控え目のキャンパスにいるときの服装だ。

 八王子からタクシーで1500円ほどの場所に高島家はあった。京王線には近いらしいが、かなり時間がかかるそうだ。慶菜が、

「たっだいまー」と元気よく玄関に入る。加古は後ろから続く。

母親と姉と見える二人が出て来て、

「おかえり。久し振りだね」と口を揃えた。

「えっと、いま付き合ってる加古くん」と加古を前に押し出す。

「初めまして。加古と申します」とお辞儀をした。

「まあ、どうぞお上がりなさい。おとうさんは庭でゴルフやってるけど」

 案内されるまま、高島家の広いリビングに通された。父親も庭での打ちっ放しをやめて上がって来た。

「和歌山の方ですか。ご両親は先生をね。デキの悪い娘ですがよろしくお願いします」父親は柔らかい物腰の人だった。持ち土地にアパートを建てて家賃収入を得ながら、小さな会社の役員をしているという。

「ケイはマイペースだから大変でしょ」と姉の直美が笑う。

「いえ、そんなことないです。料理も上手ですし」横で慶菜が微笑む。

「わたしがおねえちゃんと一緒に小学生の時から手伝わせて仕込んだんですよ。今風の料理じゃないですけど、お口に合いますか?」と母親がニコニコしている。

「あ、はい。味付けが濃くないので関西人の僕も凄く美味しいです」加古の肩の力も抜けて来た。隣で慶菜が嬉しそうにしている。

「ご実家にお邪魔して、ホントにいいんですか?」と父親が言う。

「はい。キレイな海と食べ物が美味しいくらいしか取り柄のない漁師町ですが」

「ご家族は?」

「祖母と両親と妹です。母はもう教師を辞めています。父は小学校の校長になったそうです」

「ほう。御立派な方だ。かあさん、あれ持ってきて」と母親に言うと、何やらキッチンから紙袋を持って来た。

「少し重いけど、お土産に持って行ってください。この辺でも東京ならではの野菜が採れるんですよ。変わった物はないけど、日持ちがするのを選んだから」

「却ってすみません。僕の提案で帰省するだけなのに」

「だって、この子が何日もお世話になるんだから」と慶菜を見てから加古に目線を移す。


20.エピローグ—愛と恋の行方


 岩田は3日有給を取って、色川の家に泊っていた。岩田は昇進のことを真っ先に話すと、

「え、凄い。捜査一課の警視なんてドラマや映画でしか見たことないですよ。嬉しいな」

「ドラマみたいに派手な仕事じゃないけどね。喜んでくれるならよかった」

「話はそれだけ?」と色川は暗に催促する。

「いや、真面目な話をします。付き合ってください。結婚を前提に」岩田は緊張した。

「その言葉を待っていたのよ。わたしは下の事務所を管理するだけにして、ハーフリタイヤしてもいい?ちょっと収入は減るけど、子供を産むことも考えれば暇が欲しいの」

「うん、大丈夫だよ。それほど高給取りじゃないけど、ここに住んでいいなら余裕だ。そういえば、奥の空き部屋は?」

「不思議に思ってたでしょ。子供部屋として作って置いたのよ」

「それは準備がいい。きみらしい計画的な発想だね」

「じゃあ、お願いがあるんだけど、今夜から避妊しないで」

「え?まだ結婚したわけじゃ」

「できたら籍を入れればいいでしょう?入籍が先になるかも知れないけど。ねえ、もうここに住んでくださいな。いつでも引っ越して来て。荻窪のほうが警視庁にも便がいいでしょ。あなたの家賃ももったいないし、ね」

「なんだか申し訳ないけど、そうさせて貰おうかな。オレも早く子供が欲しい」

 色川はそっと岩田の肩に顔を埋める。目尻から一筋の涙が流れた。


 史代は野津が有給を取ってゆっくりしているので上機嫌だった。岩田と勉の昇進も喜んでいる。昼間からベッドで寄り添ってテレビを見ていた。

「ねえ、話があるの」と史代が少し甘えた声で言う。

「うん?」

「あのね、部屋がもう一つ必要になるわよ」

「え?・・・」

「鈍感ねえ、できたのよ。赤ちゃん」少し恥ずかしそうだ。

「ああ、えっ!ホント?嬉しいな、昇進を待ってたみたいなタイミングだ」野津ははしゃいだ。

「1週間以上アレが遅れていたから、検査薬で調べたら分かって、きのう婦人科で確定よ」

「2LDKは欲しいよな。三鷹のマンションなら12万くらいかな」

「あのさ、いっそローンで家買わない?」史代は思い切ったように言う。

「家か。そうだな。3500万円までなら、家賃と同じくらいの支払いで買えそうだな」

「場所にもよるけど、この辺だったら、三鷹の新川とか下連雀とか。ちょっと駅は遠くなるけど。それとも武蔵小金井か田無あたりでどうかしらね」

「よし、あとでネット検索しよう。いまは史代を検索する」と笑う。

「隅々まで検索して。まだあなたの知らないわたしがいるわよ」と含み笑いをした。


 篠崎さやかと千堂聡介は、在宅起訴なので自由が制限されていたが、電話で話した。

「豊里の出世頭だったのに、こんなことになって本当に申し訳ない。罪を償ったら小さな会社でも作って大人しく暮らしたいものだ」と千堂はすっかり意気消沈している。さやかは、

「身分や収入より、あなたがわたしを選んでくれるなら、喜んであなたの子を産みたいわ」と本心から言い慰めた。

「きみには無駄に罪を犯させた。一生掛けて幸せにしたい。京くんの将来もあるし。でも、メールの内容をいじったのは何のためだ?」

「それは当然、政治家であるあなたと、わたし自身を世間から守ろうとしたからですよ。労民党党首が離婚と再婚するとなれば、マスコミに詮索されると思っていたから」

「そうか、そうだよな。いらぬ気を遣わせて悪かった。もう一般市民だから、ほとぼりが冷めれば話題にもならないだろう」

「じゃあ、結婚してくれると信じていいんですね」さやかは真剣に確認した。

「もちろん。妻は離婚調停に応じるだろうし、橋爪の遺産も入る。そう高額の財産分与は求めて来ないと思う。ここ世田谷の家は残るし、事業を起こすくらいの資産は守る。離婚が成立したら、すぐにでも婚姻届けを作ろう。男はすぐに再婚できるから」

「ありがとうございます」言いながら涙声になった。


 ゴールデンウィーク前に新幹線切符を買った加古と慶菜は、予定通り朝ののぞみに乗った。新大阪で降り、あとはひたすら在来線なのだが、早く着く方法として加古がレンタカーを提案し、実家の近くに乗り捨てできる車を借りた。帰りも同じ方法を使う予定だ。家にも車はあったが、父親に片道90分以上の送迎を頼むのは忍びない。昼は新大阪で食べた。

 実家のある街のレンタカーに車を返すと、10分ほどで家に着く。

「ただいまー」と加古が玄関で呼ぶと、母親がすぐ出て来た。

「ハイハイ、芳也おかえり。東京の彼女さんもよういらっしゃいましたね」

「高島慶菜と申します。芳也さんと同じ学科の同級生です」とお辞儀をした。

「まあ、なんだか東京の人は垢抜けていて眩しいですわ。ほんと、お美しい。さあ上がって。古い家でお恥ずかしいですけどね。おとうさん、美海、芳也と彼女さんだよ」

 上がってすぐの広い茶の間を通って、奥の空き部屋に行く。

「ここに荷物おいて、茶の間でゆっくりしてね」

戻ると父と美海がいた。

「わあ、お兄ちゃん!キレイな彼女さん連れてっ!あ、妹の美海です」と慶菜に挨拶した。

 父の達也はすでに座っており、

「東京で芳也がお世話になっとります。まあ、座ってくださいな」と笑顔で言う。

高島家で頂いた野菜の袋を加古は、

「お土産頂いてきたよ」と差し出す。

「おや、東京の野菜ですか。これはこれは。畑も持っておられるんですか?」

「ええ、そんなに広い畑ではありませんが、八王子という東京でも郊外ですので」

「ありがたく頂戴します。大地主で会社役員のお家だそうで。芳也から聞いて、そんなお嬢さん大丈夫かって言ったんですけどね」と満更でもない様子だ。

 加古は背中から箱を前に持ち替え、

「父さん、校長昇進祝い」と差し出す。達也は笑顔で受け取り、

「おっ、ネクタイ?見ていいか?」と箱を開ける。

「ネットにブランドの新品を安く売ってるサイトがあってさ」

「おい、シャネルじゃないか。これは高価な物を。いいのか?」

「だからほぼ半額の物なんだよ。ただし、去年のモデルだけどね」

「いやいやありがたい。オレも息子からこんなプレゼントを貰えるとは」と破顔した。いや、厳密に言うと泣き笑いかも知れない。

 寝ていた祖母も起きて来て、

「まあ、東京のお嬢さんかい。素敵な娘さんじゃあね。芳也、よかったねえ」と言う。耳が多少遠いと加古が慶菜に耳打ちすると、慶菜は声を張って、

「高島慶菜と申します。芳也さんにお世話になってます」と言った。

ばあちゃんは満面の笑みでしわしわの顔になった。

「うんうん」と呟く。


 お茶を飲みながらひとしきり話が弾み、日が傾いてきた。美海が絶対彼氏に会って欲しい。4ショットで写真撮ろうとしきりに言う。美海も大人びた顔になって来たなと加古は思った。

「ケイちゃん、海見たいって言ってたよね」加古が思い出したように言う。

「ええ、もう潮風の匂いが気持ちいいけど海辺に行ってみたいわ」

「よし、行こう。母さん、ちょっと海に出てくる」

「いいわよ。夕飯までに帰ってきてね」

慶菜は履きやすいカジュアルシューズなので砂浜も大丈夫そうだ。街や漁港でないほうの海へ出る。慶菜は何故か大きいトートバッグを抱えている。

「それ、何?」

「ま、あとで分かるわよ」といなされた。

 海辺に出ると満ち潮の時間帯だった。

「わあ!沖縄でもないのに凄くキレイな海」

「瀬戸内の端だけどね」

「海で焼けたり、泳ぐのはそんなに好きじゃないけど、潮風は大好き。浄化されるわね」慶菜はトートバッグを置き、深呼吸した。赤い夕陽が眩しく海面を彩っている。

「あのさ」と慶菜が切り出した。

「海に浄化して欲しい物があるんだ。この中身放り出させて」とトートバッグを指す。

「海に廃棄するのって本当はダメだけど、まあ今回はいいよ、危険物でなければ」

 無言でトートを持って波打ち際に行った慶菜は、バッグの中身を掴んで投げていく。それはすべて紫色の衣類だった。全部海に投げ終えると慶菜はスッキリした表情になった。

「ケイちゃん・・・」

「そうよ。わたしもバイオレットピープルメンバーだったのよ」

 振り返った慶菜の顔は逆光で見えない。海はそろそろ夕凪を迎える。


 

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コSign 浦世羊島(うらせしじま) @hitsujikantoku

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