唱えの日

朝吹

唱えの日

 放棄された城に来た。すでに崩れ落ちており、中庭から伸びてきた樹木が外壁を突き破っている。敵に攻め寄せられて陥落した城だった。

 昨夜の雨でできた水たまりを陽が照らす。頭巾を深くかぶらないと眼が痛い。

「何を唱えている」

 隣りを歩く修練士が何か唱えている。耳を傾けると「帰りたい」と愚痴を云っているだけだった。

 朽ち果てた城址に行き、そこで死んだ王子を慰霊してこいとの命令を国王から受けたのだ。確かに王子はこの城で死んだ。証言もある。しかしそれから何年経ったと想っているのだ。

「百年ですね」

 修練士が、にきびの残る顔で嘆息した。

「お姫さまの病気が篤いのは、ここに葬られた昔の王子のせいだと国王夫妻を唆した者のせいです。いい加減すぎる」

 わたしもまったく同感だが、王家の悪口はいただけない。窘めようとして修練士の方を振り返った時だ。

「お師匠、あれは」修練士が悲鳴をあげて、水たまりに片脚を突っ込んだ。

「勝ったのかしら?」

 城の前に、少女が立っていた。

「王子にやっと逢えるのね」

 少女は微笑んだ。


 第十三番聖典を唱えよ。それを唱えれば悪しき邪魔者は去り、それと共に唱える者もこの世から消えるであろう。

「唱えるべきでしょうか、お師匠」

 修練士の歯の根は合っていなかった。かくいうわたしとて背筋が凍り付いていた。少女はこの世のものではなかった。全体がぼやけて、硝子の人形のようなのだ。

「唱えたければ、お前が唱えろ」

「いやだ」修練士は首を横に振った。

「では、わたしが唱える」

「駄目だ、お師匠。消えてしまいますよ」

「やってみなければ消えるかどうかは分からぬ」

 すごいねお師匠、そういうところ尊敬します。感心している修練士を押し退けて、わたしは第十三番聖典を唱えはじめた。

 我ながら全篇を憶えていることに感心した。学生の頃から記憶力だけはいいのだ。

 ところで王子はどうした。

 王子の墓標はこの城にあるはずだ。どうせ亡霊が出てくるのならば、王子にお逢いしたいものだ。もしもし、国許では貴方のせいだと云われていますよ。お姫さまが病から快癒しないのは王子のせいですか。

 そしてこの少女は誰だ。

 少女は長い髪を指先に巻き付けて、小さな欠伸をもらした。聖典を唱えている者の前でなんたる無礼。

「消えませんね。あの子も、お師匠も」

 第十三番聖典を唱えれば悪しき者は去るというのは嘘なのか。もし嘘でないのならば、導き出される答えは一つだ。

「少女が邪魔者ではないということ?」

 修練士が鋭いところをみせて、消えるどころかありありとまだそこに存在しているわたしと少女を見比べた。


 我々は城の中に入った。昔は強固に閉ざされていたであろう大門もすっかり腐り落ちていた。屋根の落ちた城の内壁に転がっている石材には焼け焦げた跡。

「君、幽霊だよね」

 修練士が少女に訊いていた。こんな処で何をしていたの。

「わたし、王子と恋仲になったのよ。王子は云ったの。今から戦をしなければならない。それが終わればまた逢おう。勝てば修道士が門を開く。城の前で待っていて、と」

 わたしは修練士と視線を絡ませた。戦には負けたのだ。王子はこの城の中で討ち死している。

 何かを云おうとした修練士を遮って、わたしは少女に求めた。

「王子はこの城においでになる。そなたが探すといい」

「いいの?」

 少女は顔をかがやかせた。

「なんて大きなお城だろう。なんて豪華なタペストリー。わたし、お城の中に一度でいいから入ってみたかったの」

 幽霊の眼には昔日の城のすがたが映っているようだった。

「天井を見て、照明が三段重ねよ。高価な蝋燭がひまわりのように並んでる。この踊り場だけでもわたしの家よりずっと広いわ」

 瓦礫の中を少女は歩き回り、わたしと修練士の眼には見えないものを見て、いちいち感嘆の声を上げていた。

 やがて二階にいる少女が「王子」とはずんだ声をあげた。わたしと修練士は同時にそちらを見た。誰もいない。何も見えない。

「王子。待っていたの。この日をずっと待っていたの」

「あぶない」

 歓喜の声をあげて少女が駈けだした。先が崩れ落ちて床のない、渡り廊下のその向こうへ。

 その少女を誰かの腕が巻き取るようにして宙で抱きとめていた。

 修練士が「あれが王子なのでは」と囁いた。確かにそれらしき、もやもやした若者がいる。

 王子がこちらを睨んだ。痴れ者め邪魔をするな。王子は吼えた。こちらが何か云う前に王子が何かを唱えだした。待て、それは。

「第13番聖典」修練士がおののいて叫んだ。


 水たまりに夕方の雲が映っていた。城址すら消えていた。

「邪魔者が我らだとすれば、王子が唱えたことで、我らが彼らの世界から消えたということですか。王子が我らの世界からも、消えたということでしょうか」 

 分からない。

 分からないが、城の存在は忘れられていくのだろう。この世から忘れられた城になるのだろう。

 わたしは夕陽を仰いだ。夜が来るのがひどく不安な心地で、修練士に「帰るぞ」と促した。


[了]

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唱えの日 朝吹 @asabuki

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