「あなたは作家になれます」

朝吹

あなたは作家になれます

 あなたは作家になれます。

 この言葉を云われたことがありますか? わたしはあります。


 「え、あるんだ……」と思うでしょう。その言葉を云われてもいいのは万単位の読者を抱え、上位を独走し、実際にも書籍化されるような方々ばかりだと。

 ところが、PVゼロから一桁でうろついているわたしのような書き手でも、云われることはあるのです。小学生の頃から社会人まで、云われなかったことがない。


 お話を作っている方の多くは子供の頃から読書が好きで、文章も上手で、他の科目はだめでも国語だけは良かった、作文は得意だった、賞をもらった。そんな方が少なくありませんよね。読書家として名を馳せ、早熟で、ものを書くと褒められる。食事をするのも忘れて本を読んでいて親から怒られていたのではないでしょうか。制服の裾に香水をつけてちゃらちゃらしていたわたしですら、賞をもらえる人でした。複数のプロ作家から、「あなたは作家になれます」と真顔で云われたことすらあるのです。

 「え、あなたが……」と思うでしょう。なお、まったく系統の違うものを書いていたのでネットに投稿している作品からは何の参考にもなりません。あしからず。


 「あなたは作家になれます」

 云われるたびに、わたしは無表情でそうですか、と受け取ってきました。云われ慣れていたのももちろんありますが、そこで舞い上がらなかった最大の理由は、自分の未熟さが分かるだけに恥ずかしかったのと、もう一つ、遠縁に男性作家がいたからに他なりません。

 日本文学史というものがこの世にある限り、必ず記載されていくであろう作家が、家系図の中にいるのです。


 そんな親族をお持ちの方は少なくない。偶然わたしも過去に何人かお逢いしたことがあります。意外と身近にいらっしゃるものです。

 同じ立場の人たちならば、彼らの才能と自分の文才はまったく別もので、文才にDNAは一切関係がないと、身をもってお分かりになるはずです。100%ありません。もしあるのならば文豪の親も文豪ぞろいでなくてはならない。無理やり関連を探すとすれば、親が作家で家の中に文学的な雰囲気と本が沢山あったとか、そのへんです。           

 我が家は親が転勤族でした。荷物を減らしておく必要性からも重たくてかさばる書物はまっさきに処分される対象でした。小説は今のように端末で読むものではなかったのです。


 国語便覧に名が載るような作家。これが家系図を辿ればいる。これ自体はべつに珍しいことではないと思います。彼らの芸術とわたしのそれも一切関係ありません。

 問題は、「文士」と呼ばれていた時代の、彼らの振る舞いにあります。迷惑な死にざまだの痴情のもつれだの借金踏み倒しだの銀座で豪遊だの。それが当時の文士の流行だったことを割り引いても、わりと皆さん、倫理観欠如で破天荒ではないでしょうか。

 身内にいたらどう思うとおもいますか。


 日本文学史に載っている作家だろうが、親兄弟からみれば、とんでもなく迷惑な血縁者にしかすぎません。とくに因襲の強い封建的な田舎の人たちにとって、醜聞で新聞を騒がせるような身内がいることは外を歩くのもはばかられるような恥辱でした。作家を輩出した家はお堅い家でしたから、もともと奇行の持ち主であったその作家に対する心象が悪く、ただの放蕩者、堕落者、頭のおかしい変人としか見做していなかったふしがある。

 当時の親族たちからすれば、作家がスキャンダルを起こすたびに塩を撒いて戸籍から追い出したいほどの、苦しみをもたらす悪魔以外の何者でもなかったのです。


 「あの作家の身内と云ってはいけないよ」というのが古い時代の親族一同の暗黙の了解になっていました。少なくとも親の時代まではそうでした。既に関係者は全員鬼籍に入っていますが、作中におかしな具合に書かれてしまった肉親たちは死んでも死にきれないほどの苦しみを味わい、また田舎ゆえに後ろ指もさされ、呪いころしてやりたいほど作家を恨んでいたといいます。当然その作家の作品など一切家の中にはありません。苗字が同じでも無関係を貫きます。凶悪犯罪者なみの扱いでした。

 親の時代でようやく薄れ、さらにわたしの代になるとほぼ完全に小説の中の誰かさんも赤の他人で、そのあたりの恨みつらみは遠い昔のことになりましたが、おかげさまで「作家になりたい」という夢だけは一度たりとも持たずに成長してきました。なにやら凄まじく大変なことになるという印象しかなかったのです。

 そんなわたしが云われるのです。「あなたは作家になれます」と。


 「あなたは作家になれる」

 この言葉をかけてくれた人々は事情など知りません。わたし単体を見て本当にそう思ってくれていたのです。なのにこれらの言葉が降り注ぐたびに、小中学生の頃のわたしは複雑な想いで首を横にふっていました。驕りをくすぐられる一方で、社会不適合者と宣告されたような気がしたからです。

 あの作家の遠縁だからか。わたしもあのような社会不適合者に見えているのか。否わたしとその作家は関係ない。これはわたしが一から書いたものだし、こんなにも下手なのだから、あの作家には関係ない。第一逢ったこともないし、わたしが生まれる前には死んでいたじゃないか。

 十代の子どもらしいそんな反発心がありました。


 文士というものが背徳や退廃と隣り合わせであり、狂気を掠めてぎりぎりの崖っぷちを孤独に歩く、ある種の特異な存在であり芸術の粋であり特別であった時代はとっくに過ぎ去りました。現代ではどうかするとふっと手が届いてしまう職業の一つであり、趣味としても学校や社会と適合しながらPCかスマフォをカフェの片隅で開いて生活の片手間に楽しくやっていける身近なものとなっています。しかし刷り込みというのは怖ろしいもので、長い間わたしの想像する作家とは、選ばないほうがよさそうなものとして、なんとなく隅っこに追いやっておく魔物に等しいものでした。

 暗い竪穴に落下して、そこで何かを呟きながら、時折おちてくる雨や浸み出してくる湿り気をじっと見つめ、はるか遠い空を仰ぎながら、力の足りない手足を壁にぶちあてて嘆いている。そんなわたしの姿を、地上から覗いて見下ろしているのはわたしなのです。そのわたしの暗い洞穴のような冷やかな眼。

 執筆中のこの繰り返しは自分で自分を常に否定しているような、なかなかしんどい精神状態といってよく、書いている時のあの吸い込まれるような恍惚感から覚めて書き終えると、毎回、下手くそな文章しか書けない自分に疲れ果てて放心していたものです。そして想っていました。わたしに作家になれると云った人たちの眼は節穴だ。わたしの才は偉大な先達者たちに遠く及ばない。


 ああ一度でもいいから「あなたは作家になれる」なんて云われて、素直に「いける! わたしには特別な才能がある!」と跳ね上がってみたかったものです。わたしにそう告げた側も、わたしの反応のあまりの鈍さ、暗さ、この部屋から出たらもう忘れますねとでも云いたげな、覚め切ったしらけ具合に愕いていたのではないでしょうか。むしろ十代の頃のわたしはそれを云った人たちを軽蔑すらしていたかもしれない。そんな生半可なものではないと。

 わたしには小説家になれる素質があったのでしょうか。それとも、ただの作文優等生だったのでしょうか。いずれにしても、一つだけ分かっていることがあります。

 わたしはわたしの中に、このような書き手でありたいという、ある基準があるのでした。


 「絶対に作家になるのだ」と決意を固めて、みなさんは小説を書き始めたでしょうか。本が好きで物語が好きで自分でも書き始めたら「あなたは作家になれます」と云われるようになったでしょうか。

 一度でも、あなたは作家になれると云われた経験をもつ人はこの界隈には大勢いらっしゃることと思います。その時に、みなさんはこの言葉をどう受け取りましたか。


 作家の資質があるか否かは文章が巧い下手ではないといいます。作家になれる素質とは、空をとぶ鳥や海を泳ぐ魚ほどに、文章が書けます小説が書けますといったものとはまるで違うのだそうです。

 少し脱線しますが、浅井健一さんという方がいます。はじめて浅井健一の歌声を聴いた時には、そのあまりの音痴ぶりに愕然となりました。クラシック音楽を習っていたのでなおさら衝撃でした。

 声変わりの途中のような甲高い掠れ声。音程はずれ。なのに名だたるロック評論家からアーティスト、巷のバンド小僧まで、こぞって奇跡のようなバンドだと云い、大ファンだと表明している。これはこの悪声を魅力と思って聴けばいいのか……?

 しかし次第にそこに込められた万年中学生のような痛いほどの感受性と歌詞の中の純粋な攻撃性に魅了されてしまいました。浅井健一さんはひどい音痴です。でもそれを超えて聴き手を惹きつけるものをお持ちです。

 また、アヴェマリアという曲があります。あの曲を聴きたいなと想った時に、ある人のものだけをYOUTUBEから選び取ります。多くの人が演奏している聴きなれた曲であるのに、「この人のアヴェマリアは他とは違う」という違いが出るです。貧しくて安物の楽器を使っていたそうですが、その方の生み出すヴァイオリンの音色がわたしにとってのアヴェマリアになってしまいました。


 大勢の人の作品を眺めていると、読みやすい、映像が浮かぶ、構成がしっかりしている、情感がある、斬新だ、設定が緻密だ、さまざまな美点が数え上げられると思います。皆さん本当にお上手だと感心することしきりです。

 その中でも、特に惹かれるものに出逢うことがあります。後ろ髪ひかれるものを見つける時があります。

 同じ楽譜を弾いていても、ある人の演奏だけはとび抜けてよく聴こえることがあるように、何年経っても、もう一度あの演奏を聴きたいと想い出すような、記憶に刻まれる音色。小説にもそれがあるのです。

 それは熟練の筆で平坦に書かれていようが、若さと熱意の弾む感動作だろうが、わずか数行の詩だろうが、技術の高低もプロか素人かも、まるで関係がないのです。その人の言葉がすぐ耳もとにあるような、研ぎ澄まされた感性が心の深くまで降りてくるような感じなのです。魂の色合いが元からわたしたちとは違うような、文字や音色がその人の心からそのまま出てきてこの世を揺らしているようなのです。


 「あなたは作家になれます」そう云われるよりは、わたしはまず、そのような存在でありたかった。職業としての作家を目指すのではなく、わたしが昔から憧れて希求してやまず、なんと素晴らしいのだろうと心を打たれてきたのは、空をはばたき海に潜る、そんな創作者たちの作品のもつ、胸に何かが飛び込んできて現世を荒らして去るような目覚ましい魔力でした。いつまでも尾を引き、何度も振り返らずにはいられない。

 それがわたしにとって、何かを創ることの意味だったのです。

 一端なりともこの心から、彼らに近づくものを生み出すことがわたしにも出来たら。


 みなさんは、そんな創作者に巡り合ったことはあるでしょうか。

 イカロスの飛行を胸を詰まらせながら眺めているような憧憬と、墜落すらも必然のことに想えて美しい、そんな感情が入り混じっていつまでも忘れられない、そんな創り手を何人知っているでしょうか。

 時々わたしも「この人」という人をネット小説の中から見つけることがあります。巧い人もいれば、まだ拙い人もいます。明らかに他とは違います。

 

[了]

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「あなたは作家になれます」 朝吹 @asabuki

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