第2話 英雄の帰還

「……くっ!」


 何度繰り出したかもわからない男の剣は、巨大な鉄槌によって阻まれる。二つの得物が交錯し、鉄を打ったような甲高い音が修羅場に響いた。

 お互いの力は一瞬だけ拮抗を見せたものの、すぐに男の剣が思い切り跳ね上げられ、遥か後方にはじき飛ばされて強かに背中を打ち付けた。


 男は数瞬遅れて襲った両手の痛みに耐えながら上体を起こし、前方を睨みつける。


 魔術陣から悪魔が出現してからどれだけ時間が経ち、どれだけ剣を振っただろうか。

 体感にすれば数えきれない程に剣を振り、永遠とも思われるほどの時間に渡って男は目の前に立ち塞がる牛頭の悪魔アークデーモンに立ち向かった。両手で構えた魔法の剣はその先端が欠け落ち、薄茶色のグローブの間からは赤黒い鮮血が絶え間なく滴り落ちる。


「はあっ、はあっ……クソがっ! ここまで差があるのかよ……!」


 満身創痍の状態で、男は前方に目を向ける。そこにはかろうじて人型を保っているものの、人間とは似ても似つかない姿の災害が立ち塞がっていた。


 男の五倍以上の体躯をはちきれんばかりの筋肉が覆い、その剛腕には柱のように太く重厚な鉄槌が握られている。一撃でも食らえば、良くて即死。当たりどころが悪ければ、今までの人生で経験したことのないほどの激痛と恐怖に晒されながら苦痛にまみれた死を遂げるだろう。あえて言わずとも、明らかに分不相応な相手だった。


 ——畜生め、冒険者の俺が逃げるわけには行かねえか。


 どう足掻いても勝てない相手だということは、最初に対峙した時に痛感した。何度立ち向かっても、彼の剣術や体術の尽くがその鉄槌に、剛腕に、そして見たこともない魔術に阻まれた。

 しかし、守るべきもののため、己の使命のために彼は再び剣を取った。それ以外に男の信じる道はなかった。すでに親子は瘴気に当てられて気を失っており、絶対に逃げ出すわけにはいかなかった。


『それでこそ愚かな人間だ! 勝てないと分かっていて牙を剥くか!』

「生憎、利口に生きたかったら冒険者なんかになってねえよ!」


 牛の頭で醜悪に笑う悪魔の挑発に対し、乗る以外に選択肢はなかった。

 その手に持った剣は半ばから折れてはいるものの、男の心は、抗いようのない運命へと剥いた牙はいまだ折れていない。そう誇示するかのように、その手に持った剣が青白い光を放ち始める。


 魔力によって輝き出した剣を掲げ、男は悪魔の懐に向かって駆け出した。強化された脚力での全力疾走により、非我の距離は魔術戦の間合いから白兵戦の間合いへ。さらに、男が踏み出すごとに槍の間合いから剣の間合い。ついには拳が届くほどの至近距離まで踏み込み、男は思い切り体を捻って振りかぶる。


「スペリオルスラッシュ!」


 剣術の上位技能は、上位冒険者の証明。磨き上げたこの技で、この剣で、彼は数多の魔物を屠ってきた。そして、今回も。男は根拠のない、それでいて確かな希望を刻み付けるように悪魔の体を袈裟に切り裂いた。


 ——これで……どうだ!


 硬い皮膚を切り裂くような、確かな手応え。たとえ剣が折れても技能スキルが発動できない道理はない。そして、今まで戦ったどんな相手でも、男の持つ最も破壊力の高い剣技を耐え抜くことは叶わなかった。

 戦いはこれで終わるはずだった。いや、終わらなければならなかった。


「……これも効かねえか。硬すぎてもはや笑えてくるな」


 しかし、現実というものはそう簡単に覆らないこともまた、事実だった。

 男の剣技は、確かに悪魔の厚い胸板を大きく切り裂いた。しかし、彼が切り裂き、その剣を振り切った頃にはその傷は完全に塞がり、やがては小さな傷痕も残さず修復される。


『脆弱な人間の分際で、なぜ他者のために危険を犯すのか理解に苦しむ。が、どのみち負の感情を生まないというのなら貴様はもう用済みだ』


 そう言って、無傷の悪魔はつまらなそうに鼻を鳴らして鉄槌を大きく振りかぶる。

 一方の男はすでに魔力を使い果たし、切り結ぶどころか回避する意思も持たずに立ち尽くすだけだった。そうして、彼にとっては永遠にも思えるほどに長い時間の中で、鉄槌は無情にも振り下ろされる。


 ——あとは頼みましたぜ、先生。


『……終わりだ』


 そうして、無慈悲な悪魔のささやきと共に、『不屈のギル』と呼ばれた冒険者は静かにその目を閉じた。



 ——なんだ……? 俺、死んだのか……?


 不可解な状況に、男は薄らと目を開く。本来ならすでに悪魔の鉄槌に打ち付けられ、命を落としているはずだった。しかし、いつまで経っても鉄槌が、衝撃が、痛みが、死が彼の元に訪れることはなかった。


『……なにをした! 人間!』


 男の視界に光が戻るのと同時、彼は驚愕に目を見開く。振り下ろされた鉄槌は彼に直撃する直前に何もない空間で静止しており、彼と悪魔との間に割り込むように、一人の少女が鉄槌にその手をかざしていた。


 白銀に光るその髪と白い肌は、周囲が赤黒い瘴気にまみれていても尚美しくまっすぐな輝きを放ち、まるで我こそが希望の光であると言わんばかりの神秘的な神々しさを放っている。


 その姿に男はしばし見惚れるように呆けていたものの、すぐに状況を理解し、いつもの不敵な笑みを浮かべて軽口を叩く。


「……遅いですよ、領域守護者様エリアマスター!」

「いえ、あなたのおかげで間に合いました。感謝します」


 ——そうか、間に合ったのか。


 少女の背中越しに放たれた凛とした声に、男は内心で安堵する。途端に、戦いの最中には感じなかった身体中の痛みが押し寄せ、意識が遠のき始める。


 肉体の限界など、とうに過ぎていたのだ。それでも、男は倒れなかった。すでに戦う力どころか立っているだけの精神力も残っていないが、彼は自分の限界に挑戦し、極小の希望を掴み取った。救われるには十分すぎるだろう。


 男が安堵している間にも悪魔は幾度となく鉄槌を少女に向かって振り下ろすも、少女が手をかざすだけでその悉くが空中で静止し、薄紫の波紋を残すだけだった。

 その光景に男が見たのは、絶対的な安心感ともいうべき信頼感。どれほど強大な魔物が相手でも、目の前の少女を傷つけるどころか触れることすらできはしない。そう確信しながら、少女の背中に目を向ける。


「まったく、エリアマスターは美味しいところばっかり持っていきやがる。あと少しで倒せたかもしれないってのに」


 最後の最後。男が精一杯に虚勢を張って見せると、少女はゆっくりと振り向き、微笑んだ。


「ええ、あなたの勇姿に敬意を表します。あとは私に任せて、ゆっくりとお休みください」


 その言葉を最後に、男は今度こそ笑顔で冒険の幕を閉じたのだった。

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領域守護者の冒険譚 白間黒 @dodododon2

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