領域守護者の冒険譚
白間黒(ツナ
第1話 悪魔の襲撃
平素なら閑静な住宅の広がる魔術街リオの住宅区は、たった一体の悪魔の襲撃により凄惨極まる様相を見せていた。
街を守る城門は崩壊し、民家は入り口から近い順に煙を上げ、もはや人間が生活するための機能は備わっていない。実際、すでにほとんどの住民は町の外れに設置されたシェルターへ避難を終え、いつ訪れるかもわからない救いを待つばかりだった。
そんな廃墟とも見紛うような街並みの中において場違いな人影が二つ。いや、正確には三つ。比較的被害の色が薄い大通りの石畳を蹴り付けながら、町の外れへと向かっていた。
先頭を行くのは上半身に革鎧を纏った冒険者の男。そしてその後ろを、まだ小さい娘を両手に抱いた女が男の背中を追うように、強大な何かから逃げているように。息を切らしながら今も走りつづけている。
「早く走れ! シェルターはもうすぐだ!」
「は、はい!」
男は、目を閉じて今にも転倒しそうになりながら走る女を呼び起こすように、喚くように大声で叫んだ。対する女は一瞬怯えた表情を浮かべるが、すぐに気を引き締めるように唇を噛んで走り続ける。が、すぐに息も絶え絶えになり、その速度はだんだんと落ち始めていた。
まだ若いとはいえ冒険者である男とは違い特に鍛えているわけでもない一般人の脚力である。加えてその腕にはまだ幼い娘が抱えられており、これ以上の速さで走ることは難しいだろう。
代わりに抱えて走ろうにも、それでは魔物に追いつかれたときに戦うことができなくなる。冒険者の仕事は街の治安を、そして市民の安全を守ることであり、そのためには女の走る速度に合わせながらシェルターへと誘導することが最も合理的な手段だった。
そんな自分ではどうしようもない現状に、男は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて歯噛みする。
——俺にもっと力があれば、相手が
現状は脱兎の如く逃げ出すことしかできないでいる男だったが、彼は決して弱者ではない。彼の強さを表す冒険者としての等級は、単独で龍をも落とす最上位の恒星級から数えて二番目の流星級。冒険者ギルドに所属している中では最も等級の高い冒険者だった。
そんな高位の冒険者でも逃げることしかできないような、正真正銘の化け物が現れたということだ。
「きゃあ!」
「ど、どうした⁉︎」
ふと、耳を
それは何かにつまづいたと考えるには不自然な体勢で、明らかに何か別の外的要因によるものだった。
「これは、
何かに怯えるように座り込んだ女の前方に目をやると、大通りを塞ぐほどの大きさに淡く光る円形の幾何学模様、つまりは魔術陣が目に映る。
少し遅れて周囲の空気が、足元の地面が細かく振動し始める。そして、それに同期するように、原始的な恐怖に突き動かされるように。男の体全体が彼自身の意思に反して小刻みに震え出した。
——まったく、一体なんの魔術陣だよ。こんな複雑なのは見たことねえな。
男は手の震えを、恐怖を抑えるように頭を掻いてから腰の剣に手を触れ、重心を低くして魔術陣の真正面で構えを取る。冒険者として幾百もの魔物を屠ってきたその佇まいはこれ以上なく様になっており、背後に座り込む女にとって英雄のように映ったことだろう。たとえそれが精一杯の虚勢であっても、強大な力に立ち向かおうとするその勇気だけは虚勢でも偽りでもなかった。
しかし、そんな勇気を嘲笑うかのように、希望を持つにはあまりにも絶望的な光景が二人の目の前に現れる。
「……おいおい、悪魔ってのは地面から生えてくるのかよ」
大地の振動は加速度的に激しさを増し、あたりに濃密な魔力が充満し、周囲の景色は水面に鮮血を垂らしたような薄紅に染まり出す。
ついで、準備は整ったとばかりに魔術陣が赤く発光し、ねじれを帯びて禍々しく湾曲する
「立てるか?」
「す、すみません。腰が抜けてしまって……」
女の言葉に、歯を食いしばる。もはや逃げることは不可能。ましてや、一般市民を置いて逃げるなどありえない。それは冒険者組合の規則が、そして、彼の冒険者としての矜持が許さなかった。
今にも魔術陣から出てくるであろう悪魔を前に男は腹を括り、戦う覚悟を決める。
「……そうか。どうやら、ここが俺の
そう言って、男は剣を握る腕につけたスカーフを乱れた赤髪の下に巻きつけ、力の限りに引き絞る。
力を持つものにはこの世界を創造した神による制限が、そして、それを乗り越えるための試練が与えられる。信仰心の薄い部類である男にとってはどこの誰かもしれない聖職者から聞き齧っただけの知識だったが、それが今この瞬間、この場所だと考えればこれ以上ないほどに納得がいく。
それが墓場になるか、英雄の聖地になるかは神のみぞ知る話だ。どちらにせよ、冒険で死ぬような間抜けは等しく絶望を顔に浮かべて命を落とす。であれば、この状況にふさわしいのは絶望に青ざめた表情ではなく、これ以上なく冒険者らしい不敵な笑顔だけだった。
たとえ死ぬとしても、無様な死よりも笑顔の死。そして、彼には死ぬつもりなど毛頭ない。
「
無理やりに笑ってそう叫ぶと同時。それを召喚の合図とするかのように魔術陣が眩い光を発し、街を破壊した張本人がその姿を現した。
『……愚かな人間よ。絶望し畏怖するというのなら貴様は見逃してやろう。貴様だけ、だがな』
「決まってんだろ。お前を倒して、1人残らず生き残る!」
悪魔のささやきに対して戦意を剥き出しにした男の声が響くのと同時。戦いの火蓋が切って落とされた。
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