ⅩⅥ 終章

■終章


 

 母から先に殺されるはずだった。

 母を庇った父が先に斬られた。一本の綱で身体を繋がれて父母は黒い沼に落とされた。

 大丈夫よ。

 アフロディテ、大丈夫よ。

 そんな怖ろしいことはさせないわ。

 あの皇子はあなたの実の兄なのだから。

 母は幼い娘を抱きしめてそう云った。力尽きた父が錘になって父母は沼に沈んでいった。

 その姫をどうするつもりなのです。

 母の叫びに岸辺にいる者は誰も応えなかった。苦しみ藻搔いて溺れて沈む寸前、母は虚空に手を伸ばした。

 助けて。

「お前の命は助けてやろう。わが娘よ」

 知らない女がそう云っていた。沼の対岸には少年がいた。アフロディテに似ていた。女の冷たい手がアフロディテの頭を掴んで少年の方に向けさせた。

「あれなるは未来の帝国皇帝」

 駈けつけた傅役が女の手からアフロディテを奪い取った。皇弟夫妻を殺害されたのではあるまいな第一皇妃。

「ご自害なされたのだ」第一皇妃は眉ひとつ動かさなかった。

 冷然と第一皇妃は云い渡した。

「それなる遺児は、もっとも尊い血をもつ姫君。大切にお育ていたせ。娶る者は強大な力を持つだろう。いずれわが子の皇妃にしてやろうぞ」



 ミュラに跳ね返された細剣が銀光を引いて落ちてきた。アフロディテは剣を掴み取った。タキトゥスに教わった通りに利き手ではない腕でミュラに斬りつけた。それを避けたミュラはアフロディテの手首を掴んで振り回し、壁に突き飛ばした。

 壁にぶつかったアフロディテは皇帝の足許に崩れ落ちた。皇帝はそのアフロディテを踏みつけた。

「闘うのだ、剣闘士たちよ」

 タキトゥスとミュラは音を立てて剣を打ち付け合った。ミュラがタキトゥスの腹を蹴り、タキトゥスの拳がその顎を殴っていた。寝台の柱を蹴って跳んだタキトゥスを追ってミュラの剣が走った。

「闘うのだ」

 皇帝が激しく咳こんだ。アフロディテは皇帝の足許から逃れようとしたが皇帝に倒された。皇帝が女の上に乗りかかっているのがタキトゥスの視界の端に見えた。

「アフロディテをはなせ」タキトゥスが叫んだ。

 皇帝の両手が鉄の縄のように女の首を絞っていた。助けてやる余裕がない。アフロディテは皇帝に抗いながら床から苦しい声を上げた。

「我に構うな」

 タキトゥスの気はそちらにそがれた。アフロディテを救わなければ。急にミュラが動いた。ミュラが鋼のような体躯で皇帝に体当たりしていた。その隙に皇帝の身体の下からアフロディテが這い出した。

 横跳びしてきた剣闘士の勢いをまともに受けた皇帝は転倒したまま起き上がれなかった。皇帝を退けたミュラがタキトゥスを振り返ってわずかに笑った。同じ剣闘士には分かった。逆の立場ならタキトゥスもそうした。剣闘士の闘いに邪魔は不要だ。

 皇帝が身を二つに折った。ミュラの当身をまともに受けて皇帝は血を吐いていた。全員の眼がそちらに向かうほどの尋常ではない発作に皇帝は襲われていた。

 その間にアフロディテは皇帝の手の届かぬ処へ逃れた。剣闘士たちはもう皇帝に構わなかった。

 タキトゥスは剣を真横にした。円形闘技場で戦闘を開始する時と同じようにタキトゥスは一度だけ剣を顔の前に真横にした。呼吸を鎮めた。刀身の光がタキトゥスの眼光になった。

 剣を構え直し、タキトゥスは大きく前に跳んでいた。ミュラの剣と十字に交差したかに見えたタキトゥスの剣は、ミュラの肉体を斬っていた。負傷しながらもミュラは次のタキトゥスの剣を受け流した。ミュラの肩からは血が出ていた。寝台の柱を蹴り、タキトゥスの身が高く宙を舞った。ミュラと眼が合った。ミュラの眼には他の剣闘士が浮かべてきたような怯えはなかった。

 殺さないでくれ。

 闘技場の剣闘士は最期にみな同じ眼をしていた。ミュラにはそれはなかった。ミュラの眼は懇願していなかった。殺してくれとも、殺さないでくれとも云ってはいなかった。剣闘士はただ剣闘士であることを選んでいた。見栄えがするぞ剣闘士。幻の歓声がタキトゥスの耳底に響いた。

 ミュラの剣先がタキトゥスの脇腹をかすめ、ミュラの身体にタキトゥスの剣が埋まっていた。ミュラはのけぞり、呻き声を吐いた。

 タキトゥスは床に片膝をついた。ミュラが崩れるのを待った。タキトゥスの背後で、やがてミュラは倒れた。ミュラは重い音を立てて床に倒れ、二度と動かなかった。

 アフロディテが声を出した。

「タキトゥス」

 タキトゥスはすぐにアフロディテの許に行った。タキトゥスは落ちていた上衣を拾い上げ、アフロディテの肩に着せかけた。

「美しい妹よ。生気に満ちて、その眸の美しい」

 咳込みながら皇帝は二人に迫った。老人のように萎びて痩せた指を動かして、皇帝はアフロディテの姿を宙になぞっていた。骨でも折れたのか苦痛に顔をひき歪めていたが、皇帝は動いていた。

「どれほど誇らしかったか。お前の全てがどれほど妬ましかったか」

 その痩身が男の執念で倍になったように想われた。

「そなたは陽光の下に歩くもう一人の皇帝。手に入らぬのなら、この手で殺してしまおう」

「我は死んだ」

 アフロディテは皇帝を睨んだ。

「もう妹はいない。アフロディテは死んだのだ皇帝。分かっていた。こうなることが分かっていた」

 皇帝を睨みつけるアフロディテの頬に涙が伝い落ちた。

「わが兄は苦しみや哀しみを抱えられぬ心弱き者。それが分かっていた。我はあなたのそんな姿を見たくなかった」

「逃がさぬ」

「我はあなたの望みには応えられない、皇帝」

「この女を殺すなどお前に出来るわけがない」

 タキトゥスは皇帝にむかって怒鳴った。出口との距離をはかりながら、タキトゥスはアフロディテを背中に庇った。

「俺が殺させはしない。お前にはこの女を殺せない」

「剣闘士。勇敢な女を眼の前にして抱くその気持ちは予と同じものだ」

 皇帝は口を歪めて笑った。

「お前が誰にもアフロディテを殺させないと想うように、予も他の誰にも殺させはしないと望むのだ」

 詭弁だ。云い返そうとしたがタキトゥスにはそれが出来なかった。タキトゥスの内心を読んだかのように皇帝は嗤った。

「戦場でお前もそう想ったはずだ。誰かに渡すのならば、この女を自分の手で殺してしまおう。他の者に渡すくらいならば殺そうと。そしてお前はそうしたはずだ。予もそうだ。誰にも渡さない、他の者にはこの女を殺させはしない。そう希うことの、どこに違いがある」

 まったく違う。タキトゥスは否定したかったが、戦場でアフロディテを殺めかけた時のことを反芻してみれば、確かに皇帝の云うことに違いはないように想われた。女の為と云いつつもあれは男の為だった。第七軍の男たちもそうだった。みんな同じだった。男たちはアフロディテを誰にも渡したくはなかった。だから殺そうとしたのだ。

 いつかこの手で殺してやろう。誰にもさせない。殺すなら俺がやる。アフロディテをこの手で殺そう。

 タキトゥスは立ちすくんだ。光と風を浴びて戦場を駈けるアフロディテを殺したいとずっと願ってきたのは九度軍であり皇帝であり彼だった。

「アフロディテ」

 声を枯らして皇帝は近寄ってきた。

「誰にも渡さぬアフロディテ。剣闘士よ、最初の命令を果たすのだ。その女を殺せ。剣闘士」

 タキトゥスは皇帝の眼光からアフロディテを隠した。タキトゥスは皇帝に圧倒されていた。皇帝には死相が出ていた。

 皇帝は最期のあがきを振り絞っていた。生きている人間には到底果たせぬと想われる、昏く巨大な力と影を引いて皇帝はタキトゥスたちに迫ってきた。

 痺れたように剣闘士は動けなかった。闘技場でどんな猛獣や蛮族を眼前にしても怖れなかった彼が、痩せた病人を怖れた。背の高い皇帝の影が男を呑み込もうとしていた。帝国皇帝はタキトゥスを圧していた。

 女の声がした。

「逃げるぞタキトゥス」

 あなた以外に何もいらない。

 あなた以外のものは欲しくない。

 タキトゥスは振り返った。アフロディテはタキトゥスの背後から皇帝を真っ直ぐ見ていた。

 黒い沼を挟んで彼らは同じ沼から生まれ、同じ沼に還ろうとしていた。皇帝の伸ばす手をアフロディテの眸が拒んでいた。兄が死臭を漂わせるのなら、妹は生命の力で立ち向かっていた。

 荒野で女を殺そうとしたが男は果たせなかった。耀く灰色の眸が男たちの手が届かぬどこかへ女を遠く引き離していた。

 あの時と同じだった。殴られて倒れた床から身を起こし、女はあの眸で希ったのだ。生きたい。男に身をあずけて女は希った。生きたい。

 連れて行って。

 何かに突き動かされるようにしてタキトゥスは現に引き戻された。片手を伸ばして女の手を取った。あの時と同じことをタキトゥスは選んだ。

 タキトゥスは云った。

「行こう」

 瀕死の皇帝をそこに残して二人は皇帝の寝所から身をひるがえした。

 皇居は広すぎて何処にいけばよいのか分からなかった。アフロディテが教えてくれた。月明りが差し込む無人の宮殿を女は踊るように駈け抜けた。皇帝の従妹は素足で月光を蹴り、夜風を歌のように全身で浴びていた。

 柱の影を通り抜け、銀河の野を走るしなやかな獣のようにアフロディテは入り組んだ宮殿の中をタキトゥスを導いて走っていた。みるみる引き離された。なぜ今まで少年のような身体だと想いこんでいたのだろう。

「どうした」

 第二皇子は現れた彼らに眼を丸くしたが、アフロディテに外套をくれて急いで外に出る手段を考えてくれた。

「皇帝から逃げてきたのか」

 すぐに第二皇子は目立たぬ馬車を用意してくれた。皇子の紋章が入っているから誰にも怪しまれることはないという。

「お別れなのだな」

 第二皇子は馬車の窓ごしにアフロディテの手を握った。儀礼的なものではない力がその手にはこもっていた。第二皇子はアフロディテを見つめた。

「アフロディテは死んだことになるのか」

「遠からず第七軍の将の戦死が公布されるだろう」

 アフロディテも第二皇子の手を握り返した。

「我は亡き者としてこの国から出ていく。皇子には迷惑はかからない」

「迷惑をかけてくれても良いのだが」

 第二皇子は首を傾けて少し笑った。

「何もしてやれなかったが、最後にわたしを頼ってくれて嬉しいよ」

「早く」御者台に乗ったタキトゥスがせかした。

「結婚できなくて残念だアフロディテ。従妹どの。これでも君が好きだったのだ。母を許してやってくれ」

 第二皇子は思いやりのある声をかけて、アフロディテの手を放した。

 本来、彼らはいとこ同士ではなく異母兄妹なのだ。やはり皇家の血縁関係は複雑怪奇で理解できない。

 タキトゥスは馬車を真夜中の帝都に走らせた。行き先は傅役の邸宅だった。



 アフロディテを送り出した第二皇子は皇子宮に戻らなかった。第二皇子はその脚で皇帝の宮に向かった。

 人払いをしてある皇居はひっそりと静まっていた。誰にも止められることなく第二皇子は皇帝の寝所に入って行った。

 皇帝の寝所の床に剣が落ちていた。何度か見かけたことのある男が死んでいた。剣闘士だということは知っていたが、男の名までは知らなかった。

 探すまでもなく、第二皇子の目当てはすぐに見つかった。死んでいる男の反対側で、皇帝は床に倒れて胸をかきむしっていた。喉が痛そうに鳴っており、顔色は石灰のように白く、かなり具合が悪そうだった。

 皇帝の豪奢な寝所を第二皇子は見廻した。すぐにそれを見つけた。

 壁際の卓上にそれはあった。第二皇子はそこへ行った。第二皇子は壁の前に立つと、悶えている皇帝に教えた。

「いつもの水薬は此処です。皇帝陛下」

 第二皇子は皇帝にそう告げた。そしてそこから動かなかった。皇帝が何か云ったが、第二皇子は無言だった。皇帝は薬を求めて床を這った。這いながら第二皇子と水薬の方に近付いてきた。

 一度ならず皇帝は立ち上がりかけた。その身が崩れて床に沈んだ。痙攣と息切れをおこしながらも皇帝は第二皇子に向かって少しずつ動いていた。

 第二皇子はその様子を壁際から見ていた。皇帝の腕が前に伸びては爪で床を引っ掻いた。緩慢に這い進んできては、咳をして激しく身を跳ねさせていた。

 床を這う皇帝の痩せた長身が伸びては縮み、止まったかと想えばまた動いた。ぴくぴくと唇を動かして皇帝は何かを命じていた。壁際にいる第二皇子は直立不動のまま、その口許だけを見つめた。彼は皇帝の言葉には意識を払わなかった。

 皇帝と第二皇子の双方の額に脂汗が浮かんでいた。

 どのような脅しにも恫喝にも、呪詛にも命令にも、第二皇子は動じなかった。彼は屈しなかった。感情など、人を動かす動機にはなってもそれ自体には小石すら積む力はないのだ。

 第二皇子は事象だけをみていた。藻掻いている皇帝の動きを見つめてただそこに立っていた。しかし彼は男だった。一度は眼の前の死にかけから服従を強いられるという屈辱を舐めさせられていた。時々第二皇子の口端には抗えない報復の笑みが掠めるようにして浮かんだ。恥ずべき嗤いだったが、皇子は自分にそれをゆるした。

 石像と化したかのように第二皇子は皇帝の水薬が置かれた壁際から一歩も動かなかった。皇帝のわずかな動きや微かな息だけを追っていた。

 永劫の時間に想われた。

 やがて皇帝が動かなくなった。第二皇子はそれでも待った。夜明けまで待った。夜は長かった。

 最初の光が室を照らしはじめた。仄かな光に浮かび上がったのは死者の顔だった。眼を剥いて硬化している皇帝の横顔は死人のものだった。血の泡を吐いて完全に死んでいた。王座に繰り上がる第二皇子はわずかに身じろぎした。彼はそれでもまだ待っていた。

 死を告げたのは昇る太陽だった。窓から入る太陽光が死体を照らしつけた。

 やがて第二皇子はゆっくりと両腕を上に上げた。ぎこちなくそうした。次第にもっと高く腕をかかげた。声を立てぬまま第二皇子は叫んだ。

 彼の顔は天を仰いだ。頭上で拳を強く握った。朝日を浴びながら皇子は両腕を突き上げた。皇子は無音の咆哮をあげた。何度もそうした。彼は皇帝になったのだ。



 第七軍の将が戦死したと正式に公表されたことで、第七軍は頭を失った。そうではないことを知っていた者たちも口を閉ざし、将の戦死を事実として受け止めたふりをするしかなかった。緘口令のために男たちは口を堅く閉ざした。

 皇帝と皇帝の従妹を同時に失った帝国は喪の行事に追われた。

 将を亡くした第七軍を第六軍と合併してはどうかという案が軍議で出た時、双方から絶対に嫌だと猛烈な抗議の声がでた。

 第六軍の将ユリウスは「こっちに来るな」と云い、第七軍は「これでもう終わりだ」と自軍の解散を求める騒ぎになった。

「決闘だ」

 なぜか決闘が行われることになった。練兵場で第七軍の腕自慢とユリウスが一対一で決闘することになった。

 ユリウスの放った矢が七軍の腕自慢の剣を跳ね飛ばしてユリウスが勝った。

「卑怯者」

 ふたたび怒号が噴き上がり、「近寄れるなら近寄ってみろ」弓矢を構えて怒鳴り返すユリウスが練兵場を逃げ回った。

 新しく即位した皇帝は命じた。

 第六軍は新しく弓矢隊として刷新されること。将軍はユリウスのまま留任されること。

「第六軍は今後、弓隊を強化しながら一方で工兵を育成する隊とする。砲台および攻城車の開発と運用も六軍が担っていく」

 新しい皇帝は第六軍に技術者と設計師を集め、兵器の開発を命じた。

「空席となった第七軍の将であるが、当面は、第五軍の将をあてるものとする」

 第五軍の伊達将軍が七軍を率いることになった。そして伊達将軍の後釜には、伊達将軍の奥方が臨時に第五軍の将となることも通達された。

 第五軍の将兵はこの決定に何の不満も異論もなかった。彼らは夫君と共に長年従軍してきた奥方を心から尊敬して親しんでいた。

「皇族のみが第七軍の将軍になれるというのはただの慣例であって、帝国の定める法ではない」

 新皇帝は云った。

「望ましき法とは自由と発展を拓くものだ。予の治世の間に予はその可能性を限りなく証明してみせよう」

 新皇帝は手始めに帝都の古い違法建築住居を解体して更地にすること、帝都中の水道管を新しいものに変えることを宣言し、帝都の壁の外に新しい居住区画を広げる都市計画に着手した。

 光のそそがれる帝都に新しい石材が積み上がっていった。



 女の後ろ姿をようやく街道の先に見つけた。安堵のあまりタキトゥスは落ちたこともない馬鞍から滑り落ちそうになった。

 もしこの道が違っていたり、すれ違いになっていたらと想うと、手分けして街道を探している間も気が狂いそうだった。もう逢えないかもしれないと考えるだけで胸も苦しくなるほどだった。

 糸杉と平野の間に延びる石畳の街道を女は独りで歩いていた。もう見失うことはない。

 地平の先に女を見つけたタキトゥスは馬から降りた。馬の手綱を握りながらゆっくりとその後ろを附いて歩いた。

 眼に痛いほどの青空だった。透き通るような雲が絡み合って千切れながら低いところを流れている。手が届きそうな空だった。円形闘技場から外に出された日もこんな青空だったが、あの日の風とは違っていた。

 やがて男の歩幅が女の足に追いついた。しばらく黙って並んで歩いた。

 ようやく、女は顔を上げて遠くの山並みをタキトゥスに指し示した。

「あそこに行きたいのだ」

 タキトゥスは女の教える方角を見遣った。地平線に山脈が連なっている。

「ずっとそう想ってきた。あの山の向こうまでは帝国の支配が及ばない」

 蒼い山々だった。タキトゥスは姫に応えて頷いた。

「行きましょう」

「そなたは帝都に戻れ」

 歩き疲れたのか歩みを止めたアフロディテは道端に腰をおろした。薔薇ちゃんと百合ちゃんが「姫さまに渡して」と涙ながらに詰めてくれた荷はタキトゥスの馬が背負っていた。

「我はもう皇女でもなければ将でもない」

「次の町で姫さまの馬を買いましょう」

「我は独りでも大丈夫だ」

「まさか本当にお独りで黙って出ていかれるとは。探して追いつくのが大変でした。エトナくらいお連れになればよろしかったのに」

「それでは、傅役のじいが寂しいだろう」

 早馬が時々すごい速さで街道を行き過ぎた。皇帝の崩御と新皇帝の即位を受けて帝都中の早馬が全土に駈け巡っていた。早駈けの馬が小石を撥ね飛ばしてまた過ぎていった。

 タキトゥスはアフロディテを抱き上げて、道から横にそれた木陰の切り株に座らせた。馬はのんびりと草を食んでいた。

「もう戻れ」

「俺はずっと姫のお傍にいたのだが。お気づきではない」

「皆には迷惑をかけた」

 そうではない。これは時間がかかりそうだった。

「アフロディテさま」

 呼んでみた。まったく美しい名だった。美しい名がこの世で一番大切な女についている。

 タキトゥスはもう一度呼んでみた。何千回でも呼びたかった。なにぶんにも女の初恋相手が最高の御仁であるし、この胸に抱いて呼べる日はかなり先に想えたが構わなかった。

「アフロディテさま。鳥や馬を追って暮らしたいと云われたではありませんか」

 姫の灰色の眸は空の虚空のどこかを追っていた。薄い色をした髪が風に吹かれていた。重圧のせいかいつも頬がこけて顔色が悪かった女だが、今は太陽を受けて少し健康的にみえていた。タキトゥスは隣りに立っていつまでも待った。

 アフロディテは蜜を求めて花々を飛び回る蝶の羽ばたきを見つめていた。花の中にひらひらと動く色を追うその落ち着いた灰色の眸が美しかった。

「ウィトルウィウスには悪いことをした」

 女の腰帯には巣環国領主からもらった細剣があった。女の持つ荷は袋一つとそれだけだった。

 剣の柄にアフロディテは手をおいた。アフロディテが使えるように柄も刀身も細く仕上げてあった。

 ウィトルウィウス卿は全くへこたれてはいなかったが、その領土はアフロディテを探しに来た九度軍に踏み荒らされていた。畠の多くが焼き払われ、領民にも被害が出ており、今年の収穫量が大幅に損なわれていた。領主ウィトルウィウスは向こう三年の年貢を減らす代わりに治水工事に手をつけて、領主自ら現場に出向いて領民を指揮して働かせているということだった。

 日差しが眩しいのかアフロディテは眼を閉ざした。いつものようにアフロディテは仮眠をしていた。そよ風が眠る女の髪を揺らし、女の座る切り株の影が少し伸びた。痩せた膝と少し荒れた薄い手に午後の木漏れ日が落ちていた。その全てをタキトゥスはいつまでも見ていられた。

 短い眠りから目覚めると、アフロディテは物憂げに嘆息した。

「我は、我に関わる男たちを酷い目に遭わせてばかりいる」

 これから追々この女に教えなければならないだろう。男が女の為にすることには、その女にそれだけの価値があるからなのだ。

 俯いたままアフロディテは微かに首をふった。

「こんな我のことを好いてくれる男などこの世にはいないだろう」

 身を支えていた剣の柄から手を放し、アフロディテは休憩を終えた。アフロディテは立ち上がった。女は今はじめてそこに居ることに気が付いたかのように、傍らの剣闘士を見上げた。




[皇帝の従妹・完]

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皇帝の従妹 朝吹 @asabuki

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