ⅩⅤ
■十五.
てめえふざけんな。
殺すぞ。
貴族の名門に生まれた礼節をかなぐり捨てて第七軍の兵たちは城壁の上のユリウスに下から罵声を浴びせていた。
タキトゥスとても例外ではなかった。叶うならば壁面を這い登ってでもユリウスの首を取りたいほどだった。憤怒の形相で第七軍は砦の中庭から塔の上にいる第六軍の将ユリウスを睨み上げていた。
喇叭を吹き鳴らして絶体絶命の荒野に突入してきたのは皇軍の騎馬だった。
「あの旗は禁衛軍だ」
皇帝直属の第一軍は気高い喇叭の音と共に雪崩れ込んでくると瞬く間に九度軍を蹴散らして追い払ってしまった。
九度軍の軍勢が反転して地平の向こうに消えるのを、皇軍は追わなかった。剛矢で射抜かれたアフロディテの死を見届けた九度軍もそれ以上長居しようとはしなかった。侵攻が目的ではなく、九度軍の要求はあくまでもアフロディテ姫の生け捕りだったからだ。
砦にはアフロディテの死を悼んで弔意の黒旗が掲げられていた。第一軍に危ないところを救われた第七軍は一つに集められ、皇帝の命令で第六軍の将ユリウスのお預かりになっていた。彼らは国境と帝都の中間に位置する砦に留め置かれた。その措置は双方にとって憤懣やるかたない結果となった。
罵られたユリウスは塔の上から中庭に向かって唾をとばした。
「原隊から抜け出して勝手な行動をとり、軍規に違反をしたのはお前たちだろうが。軍律違反だぞ」
「うるせえ、この蛙野郎」
武装を解かれた将兵たちは城壁の内側の庭に押し込められ、食事を与えられる他は自由な行動を禁じられ、今後の処分を待つ身だった。
荒野に居た者もそうでなかった者も、やけくそになっていた。男たちはユリウスに当たり散らした。
アフロディテを救う為とはいえ勝手に行動したことは事実なので処分が下されることは覚悟していたが、砦に軟禁されるのはともかくも、男たちの不満とうっ憤はここに至って遠慮なくユリウスに向かって爆発していた。正当な理由もあった。自軍の将を弓矢で飛ばした男を赦すわけにはいかなかったのだ。
「会心の一矢だったのだぞ」
我慢できずにユリウスも塔の上から怒鳴り返してきた。
「あんなことは俺の他の誰にも真似が出来ないぞ。生涯最高の出来だった。お前たちはあのまま全滅したほうが良かったとでも云うのか」
「なにが生涯最高だ」
「それしか取り柄がないくせに得意げにしやがって」
七軍の怒号は壁を破壊せんばかりに強くなった。エトナも悔し涙を流しながら立ち上がりユリウスに噛みついた。
「武術大会のたびにアフロディテさまから華を持たせてもらいながら、よくもやれましたね」
そうだそうだと唱和が上がった。もっと云ってやれエトナ。
「弓競技に出てわざと衆目の中で負けて下さっていた姫さまに恩を仇を返すようなことがよくも出来ましたね」
「そうだ、あいつは男の風上にもおけない奴だ」
「ぶん殴ってやるから降りてこいよユリウス」
「皇帝の命だったのだ」ユリウスは叫び返してきた。
「見損なうなよ、第七軍。俺だってアフロディテさまを御救いするためにやったのだぞ」
「射抜く必要あったか」
タキトゥスは真下からユリウスを睨んだ。
「剛矢で姫を射抜く必要があったか」
「射ぬかなければ九度軍は姫を諦めなかったぞ」
ユリウスは云い返してきた。
「射ぬいたところを見せつけなければ青鎧があんなにあっさり退くことはなかったぞ。俺の矢でアフロディテ姫が死んだと想ったから青鎧は軍を引いたのだ」
云われっぱなしのユリウスはわめいた。
「いい加減にしろ、無礼だぞお前たち」
云い合いは果てしなく続いた。
「侮辱罪で軍法会議にかけるぞ」
「かけるならかけてみろ」
タキトゥスは高い壁の内側に背をつけて座り込んだ。ストラボとマイウリも両脇に同じように座った。荒野で負傷したマイウリは手当をされていたが、しばらくは腕が動かせぬということだった。
「アフロディテさまは無事。ということでいいのか」
「あいつの云うことを信じるならばな。嘘をついているようには見えないが」
「貫いていたように見えた」
タキトゥスは拳を握った。ユリウスがもしこの中庭にいたら止める者がいてもユリウスを撲殺してしまいそうだった。
「剛矢に貫かれて血が出ていた」
ストラボが立ち上がって塔の内側に隠れたユリウスに大声で訊いた。
「ユリウス将軍。姫さまは本当にご無事なのか」
無事だ、という返事が大声で戻ってきた。
「アフロディテさまは今、何処におられるのだ」
「皇都だ」
ユリウスはもう姿を見せなかったが、応えだけは律儀に返って来た。
「医師をつけて丁重に搬送済だ。諸外国には戦死と伝わっているから極秘だぞ。今頃は帝都の皇帝の許におられるはずだ」
「最悪」
近衛隊は天を仰いだ。誰もが呻いて頭を抱えた。あれほどに皇帝から逃げ回っていた姫さまが、負傷した身で皇帝の許に運ばれたという知らせは今度こそ男たちを打ちのめした。
その夜、彼らは石や歯を使って毛布を引き裂いた。裂いた布を縒り合わせて長く結び、丈夫な綱にした。満月だったが月を隠す雲が多かったのが倖いした。音を立てるなと声を掛け合い、兵士たちは壁際に並んで手と膝をついた。土台となったその上に別の者がまた手と膝をつき、重なって階段を作った。見張りの兵は手刀を浴びて気絶していた。
「頼んだぞ」
男たちの背を踏むたびにそんな声が密やかにかけられた。繋いだ紐を肩にかけたタキトゥスは男たちが組んだ階段を素早く駈け昇ることでそれに応えた。
壁の上に着いた。一緒に上がってきた数名が壁の上で綱を支えた。タキトゥスは残りの綱を手に持ち、石壁の向こうの夜に独りで身を躍らせた。
地面に着地して合図を送ると、綱が引き上げられた。
衛兵の詰所の厩舎にしのびこんだ。馬を宥めて馬具を付けると外に連れ出した。先刻まで月を覆っていた雲が流れて青い光が街道を照らしていた
皇帝は皇居にタキトゥスを入れてくれるはずだ。皇帝に雇われたタキトゥスにはその確信があった。
馬を駈けさせるタキトゥスの影を月光が追った。
アフロディテ。
横たわる女の名を呼ぶ声がした。耳に口を寄せてその者は名を呼んでいた。痩せた輪郭の影が寝台の敷布に落ちていた。
呼びかけに応えてアフロディテは眼を開けた。そこが何処なのかは分かっていた。
皇居は静まり返っていた。皇帝は一切の人間を皇帝の私室のある棟から退去させていた。人払いは徹底しており、僅かな護衛ですら皇帝の命令で庭に出されていた。全てはそこに運び込まれたアフロディテの為にそうされていた。アフロディテは荒野で九度軍に殺されて戦死したことになっていた。
死んだはずの姫を極秘のうちに寝所に入れる為に皇帝の周囲から人が消えていた。夜の皇居では篝火のはぜる音までが暗い廊下に響いていた。
「アフロディテ」
一音一音を区切るようにして女の名を呼び、皇帝は寝台のアフロディテに口を寄せていった。
「アフロディテ」
眼を開けたアフロディテは皇帝の顔を見た。ずっと避けてきた顔がそこにあった。被さってきた皇帝と唇が合わさった。皇帝の舌先が女の口に触れた。皇帝は身を引いて笑った。
「戦場の風と埃が残っている」
「矢を受けた時に噛んだのだ」
アフロディテは手の甲で唇を拭った。
「淑女がたとの甘やかな接吻とは趣きが異なり、皇帝を失望させたのではないか」
乾いてひび割れた薄い唇だった。荒野の戦いの傷を残してまだ血が滲んでいた。アフロディテは、はっきりと目覚めていた。
「我の唇に接吻しようとする物好きは皇帝だけだろう」
「胸の怪我はもう痛まぬか。姫」
「ユリウス殿の腕前は確かだ」
剛矢を受けた時の強い衝撃で青痣は膚に出来てはいたものの、鎧のいちばんぶ厚いところを見越した矢は骨も掠っていなかった。
「痛みはするが、打ち身と同じだ。あの距離から狙いを違わず風まで計算に入れて射抜く業は、六軍の将にしか出来ない」
「そなたは、あの荒野で戦死したのだ。わが従妹よ」
全てを知る眼をしてアフロディテは皇帝を見上げた。
「我は死んだのだな」
「そなたが射抜かれたことで九度軍は目的を失い引き上げていった」
「死人はこの国から出ていかなければ。誰かに見つからぬうちに」
「皇帝がそなたを匿い、護ってやる。皇帝の許で生きてゆくのだ」
寝台に横になったままの従妹の額に皇帝は手をおき、姫の眼を覗き込んだ。
「そなたはこの皇帝の妃になるのだ」
「皇帝は死んだ者と婚姻なされるおつもりか」
「なんとでもなる」
若い皇帝は笑った。
「九度軍の前にいたのは偽物の姫。あれは影武者で、本物のアフロディテ姫は最初から帝都の皇帝の許にいたと云えばよい。全てはお前次第なのだアフロディテ」
「側女になるか死ぬか」
覚めた口調でそう云い、アフロディテはもう一度、口許をこすった。皇帝の接吻を拭い去ろうとしているかのようだった。
「存在が隠された女たちを皇帝陛下は閉ざされた地下牢に多くお持ちだと聴いている。皇族の我もそのうちの一人に加えようというのか」
「アフロディテ。アフロディテ」
皇帝は端正な顔を歪めて陰気に苦笑した。笑いながら男の影が姫の上に重なってきた。寝台に投げ出されていたアフロディテの手足が長身の皇帝の身体の下に隠れた。皇帝はアフロディテに寄り添うように半身をかぶせてきた。
皇帝の寝所は広く、壁は遠く、贅を尽くした調度品も寒々しく眼に映った。
「こんなに近くから拝顔するのは初めてだ」
「一度、踊っている」
ああ、とアフロディテは遠い眼をした。そんなこともあった。
「忘れていた。我は憶えが悪いようだ」
女の返答に皇帝は笑った。
皇帝を避けていたアフロディテと、アフロディテを逃し続けていた皇帝は、燭台の影が落ちる豪奢な寝台に身を並べて、いま初めて見るかのように互いの顔を見つめ合っていた。
「アフロディテ。先帝があのアイストスにそなたを嫁がせた時ほど、苦しいことはなかった」
痩せこけた皇帝の腕がアフロディテの背に回った。
「仲もよく、あまりにも妬ましくて父帝に申し上げたのだ。アイストスは他の貴族の女と結婚させるべきだと」
「それでよかった」
寝台の天蓋を見上げながらアフロディテは心からそう云った。
「それでよかったのだ。我にはもったいない御方だったのだ。アイストスであろうと誰であろうと我らの闇に引き込むべきではない」
「アフロディテ。はじめてこの地上を治めた高祖の血をひく者よ。尊き血をもつ高貴な姫よ」
「婚礼をお望みか」
「我らの結びつきは、他の血統を凌駕する」
「妹であっても」
「知っていたのだな」
アフロディテは天蓋を見つめていた。皇族の彼らにしか分からないものがそこにはあった。皇帝は眼を光らせた。
「知っていたのだな、アフロディテ」
「我は従妹ではない。あなたの実の妹だ」
「いかにもお前は予の妹だ。いつそれを知ったのだ」
「我の父母はその秘密を知る者だったから殺された。第一皇妃の計略を知った皇弟夫妻は、黒い沼に沈められていった」
母上に逢いたい。父上にお逢いしたい。あのまま一緒に死んでしまえばよかった。
眼の前で殺された養い親への思慕はアフロディテにしか分からないことだった。
妹よ。皇帝は呼び掛けた。
「妹アフロディテ。ついにそう呼べる」
「我はあなたからもう逃げられないようだ。皇帝陛下。兄上」
洟をすするとアフロディテは自らの手で胸元を詰めている紐を緩めてほどいていった。
「同父母の兄妹が契ると獣が産まれるのではなかったか」
アフロディテは上衣を脱ぎ捨てた。皇帝は低い声で笑った。
「恥じらいというものはないのか、妹よ」
「皇帝がお望みのようだ。手っ取り早くすませよう」
「女から衣を剥ぎ取る愉しみを少しは残せ」
「相手は兄だ」
アフロディテは結わえていた髪もほどいた。長い髪が女の胸の傷を隠した。
「我が上になろうか」
「アフロディテ」
兄と妹は間近から向き合った。そうしてみると、彼らには濃い血の繋がりがあることがはっきりと見て取れた。近親にしか生まれぬ類似が片方を病質に、片方を風に揺れる草のように見せていた。
「我はいずれ皇帝になる兄上に嫁ぐために、生まれ落ちたその日から皇弟の家の子とされたのだ。従妹であれば婚姻できるゆえ」
「もう離さぬアフロディテ。戦場にも戻さぬ。誰にも触れさせぬ」
「死んだ第一皇妃がそれを決めたのだ。我らの母上が」
アフロディテには皇帝がアフロディテに求めるものが分かっていた。分かるからこそこの兄を避けていた。兄の姿を見るだけで、底なしの闇に閉ざされる気がした。
「皇帝。貴方こそ独りだったのだ」
アフロディテは骨ばった皇帝の頭を胸に抱えた。地獄の闇があるとすればそれはこの皇帝の中にある。
「我には自由があった。外の世界に生きた。我らの結婚はいとこ同士のものと認められるだろう。我らが血の繋がった兄妹であることは我らしか知らぬ」
「そなたの胸の矢傷の痕からも血の匂いがするぞ、アフロディテ」
「我らの父であった先帝は生まれた女の赤子を密かに弟の家の子としたのだ。第一皇妃がそう勧めたからだ。懐妊も出産も隠されていた。皇弟夫妻の方が血筋がよかった。出自に劣る引け目のあった母上は娘の我を皇弟の王女と騙らせることで、息子のあなたと娶わせようとしたのだ」
「アフロディテ。この胸の下に流れる血は帝国の皇后にこそ相応しい」
「兄上」
今度はアフロディテの方から男に唇を寄せた。女の求めに応じて男が深くその口を吸った。アフロディテは両腕を兄の首に回した。同じ血のはずだったが、その味は錆びついていた。
「誰かがいれば寂しくはないのだろうとずっとそう想ってきた。兄上と同じだ。胸の引き千切れそうなこの寂しさを知っているのはこの世で唯一人、帝国の皇帝だけだ。そのことをずっと我は知っていた。しかし兄上、我はやはりあなたに云わなければならない。我を好きにしたとしても、なにも変わらない。寂しさは誰もが独りで抱えていくものだ」
「長く待った」
皇帝は女をかき抱いた。胸を患っている皇帝はわずかに咳をしていた。
「ずっとお前はこの兄から逃げていた」
「兄上にはお分かりではないだろう」
「実の兄妹だと知っていたのならば、逃げ回っていた今までの態度にもすべて合点がいく。もう想い悩むことはない。お前は帝国の皇后となるのだ」
「我は妃になりたいと希ったことは一度もない」
「お前の望むことは全て叶えてやろう、小さな妹よ」
皇帝の手がアフロディテの痩せた身体を這った。アフロディテは兄の肩に顔をつけていた。窓の向こうに広がる星月夜は燭台の灯りに遮られてそこからではよく見えなかった。
「皇妃や皇后になるより、鳥や馬を追って暮らしたい」
「妹に甘えられるのは気分のよいものだ」
皇帝の手がアフロディテの頬を撫でた。
「欲しいものをねだるがよい。皇帝である兄が叶えてやろう」
「皇帝には何も望まない」
「今なんと云った」
「鳥や馬を追って暮らしたい」
皇帝を見つめ返すアフロディテの眸は澄み切っていた。皇帝が抱いているのは皇帝が望んだものではなかった。皇帝はそのことに気が付いた。
「アフロディテ」
広い寝所の隅の影がひときわ濃かった。タキトゥスは皇帝とアフロディテの会話をそこに隠れて聴いていた。剣を持ち、存在を消し、息を殺して、タキトゥスはその時を待っていた。
馬を走らせて帝都に到着したタキトゥスを皇居の寝所に招き入れたのは皇帝だった。来ることを知っていたかのように街道から都に入る外門に皇帝の使いが待っていた。
アフロディテが宮殿にいると教えたのも皇帝だった。無人なので易々と内部に入れた。そこに控えていろと云われたとおりにタキトゥスは皇帝の寝所の衝立の後ろに潜んでいた。タキトゥスは、想いがけず皇家の秘密に触れて愕いていた。
しかしタキトゥスは今は寝所に潜むもう一つの気配のほうが気になっていた。後ろ毛が逆立つこの感じには覚えがあった。目隠しをされて闘わなければならなかった円形闘技場での試合前に似た差し迫る緊迫感がタキトゥスの全身を覆っていた。アフロディテと皇帝の声を聴く剣闘士の筋肉は緊張し、剣を握る手には次第に力が入っていた。
「血筋など幻だ」
タキトゥスがそこに居ることを知らないアフロディテが皇帝の身体の下から云っていた。
「いちばん濃いと云われた青い血など我には最初から流れてはいないのだ。血統の強みなど第一皇妃が渇望した愚かな夢に過ぎない。それでも我は先帝の子にして皇帝の妹」
「すべて良いようになる。身も心も皇帝にあずけるのだ」
皇帝の手が女の顎にかかった。
「アフロディテ。その心を兄に寄こすのだ。皇帝がこれほどまでに欲した女はいない」
骨と皮ばかりと云われていた皇帝だったが女を抱く力はその痩身からは分からぬほど強かった。アフロディテは無駄とみて一切の抗いを止めていた。
「心と身体の区別が我にはよく分からない」
「今からそれをお前に教えてやろう」
アフロディテは男を迎えるために自分から膝を開いた。
「女にはそれがあるという。我には分からない。我の心と身体は同じだ。兄上にはその区別があるのか」
「身体には男が訊こう。心は何と云っているのだ妹よ」
覆いかぶさってきた皇帝を見上げて、兄に抱かれようとする女は唇をうごかした。考え深げにアフロディテはそれを口にした。
「皇帝を愛することはこれからもないだろう」
針金で縛るような抱擁だった。皇帝は動きをとめた。もう一度女の身体を開きかけて皇帝はやはり手を止めた。
「長い間、離れ離れだったのだ。急ぐことはない」
掠れた声だった。皇帝はゆっくりとアフロディテの半身を寝台の上に引き起こした。
宥めるように皇帝の手が女の頭を抱いた。
「小さな妹よ」
兄の手は乾いており、喘ぐその息の底にアフロディテは皇帝の怒りを聴き取った。
「同じ血を分かつ妹よ。どれほど夢にみたことか。どれほどお前が成長するのを待っていたことか」
アフロディテの後ろ姿は動かなかった。隠れているタキトゥスは半歩踏み出した。
「遠くから見守り愛しんできた小さな妹。この髪も。唇も血も。お前は兄であり皇帝である予のものだ。だが皇帝に逆らうことは許されぬ。反抗は許されぬ、そのことを今からお前に教えねば。これからの為にも。畏れを欠いた代償をこの場で払うのだ」
隠れ潜んでいるタキトゥスからは皇帝の顔が見えていた。こちらからは背中しか見えぬ姫の薄い半身を抱く皇帝の落ち窪んだ両眼が獣のように血走っていた。
「アフロディテ」
皇帝は女ではなく隠れているタキトゥスの顔を見ながらアフロディテに云いきかせていた。皇帝は暗がりのタキトゥスに視線を合わせていた。剣闘士は深く息を吸い呼吸を整えた。
「許してやろう。離れていた年月の分だけ離さぬ夜を与えてやろう」
皇帝の長い指がアフロディテの肩に喰い込んでいた。
「許しを乞え。お前の悲鳴がききたいものだ」
皇帝の眼が殺せと云っていた。この女を殺せ。
タキトゥスは隠れていた衝立の後ろから躍り出た。アフロディテに向かって剣を斧のように振り下ろした。剣は同じように反対側の物陰から出てきたフラミニウスの従者ミュラの剣と絡み合って音を立てた。
この女を殺せ。
アフロディテを襲うミュラの剣と、それを阻むタキトゥスの剣がぶつかり合った。剣をひいた二人の男は同じことを同時に叫んだ。俺は剣闘士だ。
「その女を殺すために皇帝に雇われたのだ」
ふたたび剣闘士ミュラの剣がアフロディテを襲った。タキトゥスの強い剣がそれを撥ね返した。二人の剣闘士の剣が火花を散らした。アフロディテを逃がすつもりだったがミュラの剣を防ぐのが精一杯だった。
寝所に皇帝の癇性な高笑いが響いた。アフロディテの腕を掴んだまま皇帝は哄笑していた。殺し合え。
「闘技場での闘いのようにわが寝所を血で染めよ。剣闘士たちよ、勝者の褒美はこの女だ」
狂ったように皇帝は嗤っていた。打ち込まれたミュラの剣はタキトゥスの肩の骨にまで響いた。ミュラは女の首を刎ねる前に邪魔をするタキトゥスを先に片付けると決めたようだった。寝所を満たす激しい鋼の音に皇帝の笑い声が混じった。
「血筋だけは良い女だ。抱くなり屠るなり好きにせよ」
「タキトゥス」
アフロディテが鋭い声を上げた。ミュラと対峙しているタキトゥスはそちらを見ることなく細剣を女に投げた。投げられた細剣をアフロディテは宙で掴み取った。
「皇帝。我はあの荒野で死んだ」
皇帝の手を振りほどくとアフロディテは寝台を踏んで跳んだ。ミュラに向けて振り下ろされた細剣を、ミュラは剣先で受けて跳ね飛ばした。
》続く
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