それは二人の結末(未完成)

 体が、動かない。ベッドの上に横たえられて、天井を眺めるだけの視界が、心なしか曇って来ている。いつかこんな日が来ることはわかっていたけれど、それでも、やっぱりここまで来ると、怖い。自分がどうなるかわからないということが、心細くて仕方ない。

 あの人は、どこに行ったのだろうか。さっき目を開けた時には、僕を覗き込んで笑いかけてくれていたのに。少し皺の増えた、けれども昔から変わらない微笑で。

 大きな音をたてて、ドアが開くのがわかった。体が動かせないので、そちらを見ることは叶わない。ただ、誰かがこの部屋に入って来たのが音と、それから例の感覚でわかる。あの人だ。右手の手首から先が欠けているため、片腕で大きな袋を抱えている。中身は、氷や冷却材の類らしい。僕の熱を、体外から物理的に下げようとしているのだろう。

「やめてよ……たぶん、無理だって……」

 伝えようとしたが、殆ど声が出なかった。擦れた様な音に、しかしあの人はすかさず反応して、僕の枕元にやって来た。僕の目の前で、また、あの微笑。

「無理かもしれなくても、私は諦めない。やるだけの抵抗はやる。文句は言わせないよ」

 僕は、苦笑。苦笑したつもりになっただけで、何一つ出来はしなかったが。相変わらず、僕はあの人に絶対に敵わない。本当に、強い人だから。

 がさがさと、袋から取り出された氷が、太い血管のある首筋や太腿にあてがわれていく。だが、僕には、既にその温度を感じるだけの感覚が無い。ただ何かが当たっている、というくらいの認識だけがそこにあって、自分が世界から弾かれつつある存在なんだということが、よくわかる。

 既に、僕の指は殆ど残っていない。灰になって、朽ちてしまった。仰向けに寝かされ、末梢の部分から砕け落ちていく。最後には、このベッドを子供一人分に相当する大量の灰が覆うのか。掃除、片腕で大変だろうな。

 あの人の左手が、僕の頬を撫でるのがわかった。撫でるたびに、その振動で少し皮膚が剥がれ落ち、灰になる。枕もとに置いてある椅子に腰掛けて、あの人は、寂しげに笑った。

「まだラボにいた頃のこと、覚えてる? 青瓶っていう、変な薬を私が作ってさ、君に飲ませると、電撃が使えるようになるってのあったじゃない。キルケの研究所でも少し話題になって何度か使ったけど、私、ずっと、君に謝らなきゃいけないと思ってたんだ」

 そんなこと、気にしなくてもいいのに……。

 でも、そんな話もいいかもしれない。二人で暮らし始めてから、あんまりあの頃を思い出すこともなくなった。楽しかったけれども短かった、僕の生まれたラボでの生活のことも、エルマールのように良い人も多かったけれど、辛いことや嫌なことの方がもっと多かった、キルケの研究所のことも。そして、僕達の元を巣立って行ったあの子のことも。もう少ししたら、走馬灯のように、全ての思い出が早足で頭の中を駆け抜けていくのかもしれないけれど、そんな素敵な機能、僕に付いているのかどうかわからないし。

「あの能力の一番効率的な使い方、結局ずっと秘密にしていたけど、実は答えは、伸ばした人差し指と小指で相手の目を貫いて、その奥で放電させて脳にダメージを与えるっていうやり方だったんだ。……酷いだろ? 私は、そんな攻撃を、当然のように、君にやらせようとしていたんだ。今更謝っても仕方ないのかもしれないけど、さすがに私も少し後悔してたから、言っておきたかった。ごめん……」

 律儀に頭を下げている様子が視界の外れに映る。

 確かに、それはさすがに覚悟出来なかったかもしれない。残酷に過ぎる。あの頃は、軽度吸血発作症候群の患者は、『出来損ない』とか呼ばれていて、各国で当然のように軍隊が出動して、銃火器で薙ぎ払うようにして『駆除』が行われていたけれど、たぶん僕にはその彼らの目を突いて攻撃する勇気は無かった。

 あ、変な約束を思い出した。

 五人を五秒で倒せたら、一つだけ好きな質問に答えてくれる。

 ヴァーチャル空間での模擬戦。負けっぱなしで出てきてしまったな、そういえば。今、あのラボはどうなっているのだろうか。取り壊されたろうか。何十年も経っているし、残っていても相当荒れ果てているんだろうな。

 ……何十年、か。一言では語り尽くせない程、長く生きて来られた。

 基本的に生きていない存在だと言われ、キルケの研究所での解析の結果、吸血鬼因子による自律活動細胞株の樹立が擬似生体環境下で成立している事例だと判明し、詰まるところ厳密な定義では本当に生き物ではなかったことがわかった。ホムンクルス、とか皆に呼ばれた。吸血鬼因子の次世代における応用の一例として、最近変な注目を浴びた。

 僕はそれくらい、長く生きた。

 色々、他にやりたいこともあったけど、基本的に満足出来るだけの生き方をしてきた。

 あの子のことも、しっかり育て上げた。研究所総出になって誕生祝いをしてもらった。身長なんてすぐ追い抜かれた。あの子が僕より大きくなってからも、僕が父親面で叱ったりする様子は、さぞ滑稽だったろう。エルマールにもよくからかわれたっけ。時世を考えると、大変に厳しい境遇で申し訳ないくらいだったけど、皆に可愛がられたこともあって、ひねくれることなく成長してくれた。実験に借り出されそうになると、あの人が研究員を恫喝して止めてた。あれは恐かったな。あの子も毎回泣いてたけど、それは決して実験が恐かったんじゃないよ。ああ、でも、怒られるとわかっていても、無断で研究所を抜け出す癖は、直らなかった。

――お母さん達、仲良すぎだよ。良い歳して、恥ずかしくなっちゃう。それに、私がいるとお邪魔みたいだし――

 突然訪れた、別離の時。拗ねたような口調で、研究所を出て独立することを告げた。あの子はあの人に似て、綺麗ですらりと背の高い女の人になっていた。研究所員が懸命に説得したけど、頑として受け入れなかった。あの人は、見たことの無いような母としての表情を浮かべ、幸せになりな、とそれだけ言った。あの子は顔を真っ赤にして、俯いた。

――私にも、大切な人が出来たの――

 僕は、父親らしいことなど何一つ言えず、強く抱き締めてから送り出した。向こうが僕を子供扱いして、ぽんぽん、と二、三度頭を叩いて来た。少し寂しそうに笑った。あれから連絡の一つも無いけれど、似たような境遇の彼とやらと、上手くやっているんだろうか。いや、上手くやっているに決まっている。何しろ、僕達の子供なのだ。

 僕とあの人の、娘。

――じゃあ、この子の名前は、何にする?――

 あの時みたいに、すぐ決まった。純潔の花言葉を持つ白い花の名前。

「…………」

 回想から意識を引き戻すのに時間がかかる。そのまま深い海の中でまどろんでいたかった。

 誰かの名前を呼んつもりだったけれど、今度は全く喉から声が出ない。空気の移動すらなかった。視界が、急激に暗くなる。

「覚えているかい? 最初の約束だ。私が、まだ君のことを、『寄せ集めの塊』みたいな認識をしていた最初の頃だ。まさか、こんな風に、外界で暮らすことになるなんて思いもよらなかった頃のことだ。私は君にこう言ったんだ。『君が灰になる迄、寂しくないよう私が君と共に居てあげるよ』と。どうやら、約束を守ることが出来たみたいだね。珍しいことじゃないか? 褒めてくれよ。私を褒めても何の褒美もないけどね」

 寂しくないように、か。本当に、その通りだ。僕は、これまで寂しいと思ったことは無かった。いつもいつも、あの人が横にいてくれた。どんな時も。

 僕の横に、笑顔で、泣き顔で、真顔で、怒り顔で、共に居てくれた。

 つらい時も、悲しい時も、嬉しい時も、苦しい時も、抱き締めて、キスをしてくれた。

 灰になる迄、一緒にいてくれた。

 そうか、今、灰になっているんだ、僕は。

「でも、君は約束を守らないつもりみたいだね。私が骨になる迄支え続けてくれるんじゃなかったっけ? どんどん灰になってるけど、私のことを置いて逝くつもり全開だね。あーあ、誓約書でも用意して、違反した方にペナルティでも用意しておけばよかった」

 少し、声が聞こえづらくなってきた。

 骨になる迄、一緒にいてあげたかった。

 寂しい思いをさせてしまうね。

 僕の横にあの人がいてくれたように、あの人の横にはいつも僕がいた。

 あの人の横に、笑顔で、泣き顔で、真顔で、怒り顔で、共に居た。

 つらい時も、悲しい時も、嬉しい時も、苦しい時も、抱き締めて、キスをした。

 ごめんね。僕は、自分勝手だね。勝手に灰になって、寂しい思いをしなくて済むけど、寂しい思いをさせてしまうね。

「でも、気にしなくても大丈夫。私は、身勝手だからね。君が先に灰になってくれて、自分の約束が守れて安心しているところだ。何も気にせずに、先に天国か地獄か、好みの方に逝っててくれ。私は、あの子の行く末を見届けてから、ゆっくり後を追うよ」

 声が、震えているのがわかる。泣いているのがわかる。また、泣かせてしまった。強いのに、よく泣く癖があるよね。僕は、でも、そんな時に励ます立場だったから、ちょっとだけ嬉しかったりしたんだ。泣いてると、子供みたいで可愛かったし。……駄目だね。

 ミズ。ミズ。

 泣かないで。

 いつかのようにそう伝えたいけど、それは無理みたいだ。どこもかしこも、僕の体の細胞たちは、生きることを止めて灰になろうとしている。言うことを聞く組織なんて一つも残っていない。やれやれ。肝心な時に、何も出来ないのは、昔から変わらないな。

 ああ、死にたくないな。

 でも、死ねるからこそ、僕達は僕達でいられたんだよね?

「もしも君が天国で待つというなら、私は今から頑張って、善行を積む。今更間に合わないかもしれないけど、気合でどうにかするさ。まあ何にせよ、少しの間だけ、お別れ、ということになるね。……聞こえているかい? 私は、まだ諦めてないよ。もしかしたら、今君が何事もなかったかのように元気に起き上がるかもしれないって、そんな風にも考えているんだ。本当だよ」

 崩れていくのがわかる。耳も殆ど聞こえなくなった。もう、本当に長く持たないだろう。この期に及んで、最後に出来ることは何かあるだろうか。何かやり残したことは?

 ありがとうとか、ごめんなさいとか、伝えたい言葉をどうにかして伝えるとか。

 そんなの、今まで死ぬほど伝えてきた気がするし、今更だよね。

 あの子によろしく、とか。

 そんなの、何になるんだ。あの子はきっと僕なんかより遥かに強く生きている。遠くにいる僕達の存在を糧にして、真っ直ぐ前だけを向いている。

 そうだ。

 何事もないように元気に起き上がって、おはようのキスがしたいな。

 きっと、ビックリするし、喜んでくれる。

 ……無理さ。そんな願いは、天変地異が起こっても叶わない。

 叶うとしても、そう、そんな風に、あの人から僕の方に近付いてきて、優しく僕に口付けて、ああ、甘い、味覚は残っているんだ、あの人の甘さだ、唇の感触も無いのに、ただ甘いだけなんて、そんなの、キスの内に入らないかもしれない。けど、でも、だからこそ、

 それくらいの半端な願いの叶い方なら、


 ねえ、     ミズ、



 この世界は、


 とても穏やかに緩やかに幸せに、


                   滅びていけるんだよね?





 ねえ、ミズ  





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灰になる迄 今迫直弥 @hatohatoyama

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