灰になる迄(後篇)

「もしかしたら、本当に近いうちにラボを出ることになるかもしれない」



 あの人が、タイミングを窺うようにしながらも唐突にそんなことを言い出したのは、特殊部隊の襲撃から三日が経った後だった。

「……そんなにまずい状況なの?」

 色々と考えることはあった。あの事件で服も身体も血塗れになった僕は、通路で泣き止むや否や、脱衣所に連れ込まれ、服を脱がされ、隣接した浴室に放り込まれた。基本的に新陳代謝というものと無縁のためか、これまでお風呂の世話になったことなど一度もない。その存在さえ知らなかったのだ。使い方のわからないノズルと格闘していたら、あの人が全裸で登場し、まあ、その、色々とあった後で脱衣所に逃げ戻ったところ、新調された部屋着一式が置いてあった。それに袖を通しながら、ふと、この服は一体いつどのように手に入れたものなのか、まずそれが気にかかった。間髪を居れずに、『出来損ない』とのヴァーチャル戦をやるかと尋ねられ、人間の肉を突き破る拳の感触を思い出して咄嗟に断ってしまって、しまったと思ったのにあの人は少し嬉しそうにこちらの頭を撫でてくれた。無理はしなくても良いから、と見たこともないような笑顔で言ってくれた。その意味を考えた。ラボに戻った後、端末でとにかく吸血鬼関連の最新ニュースを追うように指示された。それから、ちょくちょくあの人がラボの外に出掛けるようになり、戻ってきても特に何も言わない、ということが何回も続いた。気になった僕は、次の日の真夜中、あの人の腕を抜け出してこっそり起き上がり、闇の中でも見通せる瞳――どうやら僕は、正確には視覚でない何かを通じて物を捉えることが可能らしかった――を頼りに扉を抜けて、恐る恐る真っ白な廊下を進んでいったのだけど、壊れて外れていたはずの第九扉が閉まっていて、どうやっても開かなくて、諦めて引き返した。ベッドに戻る時にやたらと冷たい手が僕の胴を捕えて、気にしなくても大丈夫だ、というような意味の言葉が甘い吐息と共に耳元に注がれた。そのまま、あの人に包み込まれるようにしながら眠りについた。

「まずい状況……。まあ、吸血鬼用神経毒とやらの効果次第なんだけどね。開発直後にあれだけ短絡的に行動して、相当大きな被害を出したわけだから、向こうもしばらくは自重すると思う……。ただ、開発報告以降、徹底してメディア露出を避けているし、手の内が見えない不気味さというか、嵐の前の静けさというか、それが気になるんだ」

 当然のことなのかもしれないが、僕達のところに国軍所属の特殊部隊を送り込んで返り討ちにあった、という身も蓋もないニュースは一向に流れなかった。ただ、とってつけたように、数百人規模の『出来損ない』の集団が各地の地下避難施設付近で出没し、特殊部隊が順次それらに対応しているという、比較的どうしようもない類の虚偽情報が広められていた。各地の『出来損ない』集団を駆逐するたびに死亡者、行方不明者の数が増えていき、最終的にそれは、僕達と戦って失われた戦力の数とぴたり一致するのだろう。独断専行で吸血鬼に戦いを挑んだことは元より、特殊部隊が一度に大量の死者を出したことが発覚しても国家の威信に傷がつく。そんな風に考えたのかもしれない。

 そして、時を同じくして、例の神経毒についての情報が、一切メディアに流れなくなった。まるで全てが夢か幻であったかのように。発表からわずか二日間での報道管制。これに関しては質問と抗議が殺到し、国営ラジオ局への回線と吸血鬼対策委員会のホームページのサーバーはパンクしてしまった。何を勘違いしたのか、吸血鬼駆除が可能になって地上が安全になったと思い込み、外に飛び出したきり戻って来ない人もいるとかいないとか。

 僕がそんなことをあの人に伝えると、あの人は僕の頭を撫でて頬にキスをしてから、また出掛けることを告げた。無理を言って見送りのために第九扉の前まで付いて行ったら、扉の下に固着されていた薄っぺらな割にやたらと頑強な何か――押して開けるドアを手前から止めるストッパー……まさかね――を力ずくで取り外し、あの人は簡単に扉を開けてしまった。扉の向こうは相変わらず、今歩いて来たのと同じ、白いだけで無機質な通路が繋がっていた。……明らかに妙だった。

 ついこの前の惨状の、その形跡が一切残っていなかったのだ。

「何回来ても追い返せばいいんじゃないの? その内、向こうも諦めるかもしれないし」

 それから僕は、何となく解剖学のサイトを覗いていた。人間の、筋肉、骨格、臓器、神経、その繋がり。僕が壊せたもの。力いっぱい殴るだけで、形が崩れたもの。血管。飛沫をあげる赤を僕の脳裏に焼き付けたもの。他人事のように、ただ羅列されているその配置と名称と。それをだらだらと眺めながら、右手は電撃のための握りになっている。解く。

 青瓶は、あれ以来飲んでいない。

 飲んで練習すると無駄に疲れてしまうし、そもそもあんまり練習する気が起きなかった。何のための力なのか、それがわからない内は、向き合いたくなかった。

 無理はしなくてもいい、とあの人も言った。

 あの日の内に五人を五秒で倒せなかったから、あの人のことを教えてもらえなかった。でも、今となってはそれはそれで良いのかもしれない。そんな気がしていた。

 襲撃を退けた後、あの人は僕の名前を呼んでくれた。そして、泣いていた僕をただ黙って抱き締めてくれた。

 それだけで、良いのだと思えた。

 もっと深く踏み込むと、僕は僕を保てなくなって、変わってしまうような気がする。あの人もあの人でなくなって、変わってしまうような気がする。

 嘘でも何でもいいから、今の状態が続いて欲しかった。

 終わりつつある世界の中でも、永遠に。

「私もそう考えていたんだが、場合によっては、それが駄目になるんだ。簡単な話、次に来た時、襲撃者が私達の手に負える存在である保証がない」

「……つまり、ミズが人間に負けるってこと?」

 そっと、膝の上の右手を覆う感触があった。ふと我に返ると、端末の前に座る僕のすぐ隣に、膝立ちで視線の高さを合わせたあの人が居た。左手が、僕の右手に添えられている。白衣のポケットに入れていたのか、ほんの少しの温もりが伝わってきた。

「信じられないかい? この前の戦いで、君も吸血鬼の強さの一端に触れたから、そう思うかもしれないけど……。私達は、例の神経毒の脅威を実は一つも味わっていないんだ。予想通り、ガス状兵器と、それから長銃の換装弾としてわずかに使用されていただけだったから、楽に対応出来た。でも、これはそれだけの話だ。この毒について情報を統制し始めたのは、たぶん、詳しい特性や有効利用のための武器装備、さらには新型の開発事情を知られるのを恐れたためだろう。メディアは、吸血鬼にも人にも平等だからな。……ということは、だ。相手は今回の敗戦を憂慮して、全く新しい戦略や装備で次戦に臨むと思われる。次が駄目ならまた次。試行錯誤を繰り返してくる相手に対し、現状維持が精一杯の私達に勝ち目があるのかな」

「……それは、例の神経毒が、どの程度のものになるのかにも拠るね」

「そうだな。例えば、体内に一定量入っただけで即死するような恐ろしい代物になったとすると、地理的に袋小路に追い詰められている形の私達には勝ち目がない。今度も前みたいに簡単に避けられる弾丸とは限らないからな。マシンガンの弾が全て毒入りだったらアウトだし、もっと突拍子もない作戦で来るかもしれない。ほら、釘とか鉄の塊とかが全方向に勢い良く炸裂する物騒な爆弾とかあるだろ。あれがこの研究室に放り込まれたとして、その欠片を全部避ける自信はあるか?」

 あの人は、飛んできた釘のつもりなのか、人差し指で僕の身体を突付きながら尋ねた。ふと、あの人が少し力を込めるだけで、この指が僕の身体に本当に突き刺さるのだと考えて、ぞっとした。

 吸血鬼。それは、そういうことなのだ。

「神経毒がもっと弱くて、吸い込むと眠くなって意識を失うだけとか、体内に入っても効果が現れるまで時間がかかるとか、それくらいだったらある程度は大丈夫だろうが……、そんなレベルの代物であれだけ大々的に発表を行うとは考えにくい。楽観的であるよりは悲観的である方がいい。特に、こういう状況だ。最悪の事態を考えて行動しよう」

 両手でかき混ぜるように僕の髪を撫でると、鼻先に口付けてからあの人は立ち上がった。

「だから、覚悟だけはしておいてくれ。急な出発になった時のことも考えて、持ち出したい物はどこかに纏めておくのもいいかもしれない。尤も、君の場合、着の身着のままで飛び出してもあまり変わらないだろうけどね」

 そう言って、あの人はラボを見回した。確かに、この部屋にあるのは殆どがあの人の研究資料や実験道具であり、僕の物など殆どないのだ。僕の所有物といえば、今着ている服と、青瓶と、ノートパソコンと、それから、デスクの椅子に架けっぱなしになっている最初の日に貰った白衣くらいか。……最後のやつの所有権は極めて怪しい。毎日注射されている僕用のアンプルは一応僕の物だろうけど、結局中身がわからない上にあの人が管理しているから、これも微妙だ。仮に僕の物であっても全く嬉しくないというのが本音だし。

 考えてみれば、僕のために与えられた物は、自分で思っていたよりも遥かに少なかった。最低限必要な物しか身の回りにない、というべきか、わざと多くを与えられていないというべきか。そういえば、必要最低限のことだけを教えるつもりだとあの人も言っていたし、余計なことを一切省こうとする姿勢には何か、通底する深い理由があるのかもしれない。

 理由……例えばどんな?

 わからない。

 わからなくてもいい。

 …………本当に?

 好きなのに? こんなに大切な人の近くにいて、何かをしてあげたいと思っていて、向こうもこちらに心を開いてくれようとしているのに。それなのに、相手のことを知らなくてもいいのか? 殆ど何も知らなくても、いいのか?

 心が、ざわざわと不穏に揺れる。

 これは、衝動だ。一過性のそれだ。

 探究心の暴走という言葉がなぜか頭の中に浮かんだ。

 抑え付けなくてはいけない。そうしなければ、きっと、僕は僕でいられなくなる。一線を踏み越えてはいけない。でも知りたい。知ればこの関係は終わる。きっと終わる。知らなければ一緒にいられる気がする。永遠に。僕が、少しの我慢をすれば、それだけで保証されるに違いない。この関係を維持していくだけなら、ずっとだ。頭を優しく撫でてくれるし、キスもしてくれるし、ちょっとだけ僕が嫌がるようなこともしてくれる。毎日笑ってくれるし、抱き締めてくれるし、夜一緒に眠ってくれる。僕が、全ての考えることを放棄して、今をありのままで受け入れるだけで、そんな日々が待っているのだ。

 壊せ。

 知ってしまえば、きっと歯車は狂う。軋む。僕は全てを受け入れたふりをして、亀裂を隠し切れなくなるだろう。そんな気がする。だって、あの人は、必要最低限を教えてくれるはずで、つまり、それ以上は無駄でしかなくて、むしろ足を引っ張っていくに違いないのだ。安寧の中での生活を、阻むものだ。そうだろう。だって、あの人の過去はきっと僕の想像よりも遥かに陰惨だろうし、心の内だって全くもって不透明で、何か屈折した感情の塊がどんよりと居座っているに違いなく――

 ヤルシカナイ。

 やるしかない? 何を? 落ち着こう。前々から、僕は時折ひどく分不相応なことを考えている時がある。あの人と一緒にいたいというそれだけのために、自分はおろか、当のあの人本人をも否定するような、不条理な思考。理不尽な心情。それだけはいけない。僕は信じなければいけないのだ。

 誰を?

「ねえ、ミズ」

 心の中の声に耳を貸してはいけない。

 心の中の声にしか耳を貸してはいけない。

 それは嘘だ。どちらが?

 自分の声がひどく遠くから聞こえてくる。耳の奥では誰かが喋り続けている。自分を篭絡しようとする自分の声。何かに向かって傾きかける心の斜面。斜度は、直角を越える。

 言うべきことを言い終えて立ち去ろうとしていたあの人の白い背中がゆっくりと振り返る。ゆっくりとゆっくりと。亀のような速度で。その異常な遅さが、僕の速さであると気付けた時、既に僕の箍は外れかかっていた。

 信じるしかない。心臓のない胸が高鳴り、脳のない頭が痛む。

 あの人を。自分を。自分の中で響く自分の声を。その、文字通りを。

 そのどれかを、どれかだけを。

 だってそうすればぼくはきっとあのひととえいえんにいっしょにいられるのだろうしいやちがうそうじゃないそんなことがもんだいなんじゃないきっとおいしいにちがいないきもちいいにちがいないあのひとのあのしろいくびすじをみたかあのやわらかいはだにきばをつきたてるそのときぼくはようやくほんものになれるのでありきっとあのひとの血は

 血は



「ねえ、ミズ、お願いがあるんだ」



 ヴァイスの声におかしな色はなかった。ただ、全体的にはあまりにも奇妙に過ぎた。彼の使う言葉は、まるで私の知らない言語圏のものであるかのように、私の耳に届いていた。

 その発音のスピードが、異常に速かったからだ。

 私にも経験がある。吸血鬼は、凄まじい筋力を発揮出来る。だが、人間社会で暮らすために人間並みの力になるよう抑制してそれを揮うことは、存外に易しい。人間がシュークリームを掴む時にいつも握り潰すことなどないように、吸血鬼もドアを捻る時いつも引き千切るようなことなどないのである。ただし、それはあくまで平常時の場合、だ。突発的な事態に襲われた時や、吸血衝動に襲われた時、不意に何もかもぶち壊したくなった時など、歯止めが効かなくなり、思わず全力でことに当たってしまうことがごく稀にある。その際、大小の頬骨筋や口輪筋などの働きも人間離れしたものとなるため、結果として普通に発話したつもりでも無意味なほど大きく、そしてありえない程速く唇が動くため、とんでもない言葉が飛び出して来ることになるのである。

 そう、つまり今回も、そういうことが彼の身に起こったわけであり――

 …………!

 私は咄嗟に白衣の内側に手をやった。自分で縫いつけた内ポケットが、用のホルスター代わりになっている。銃把に触れ、そのぬるさに触れ、冷たい血の流れる自らに触れ、しかし取り出すことはせずに私はそのまま振り向いた。背後にいなければならないのは、ノートパソコンを前に椅子に座った、黒髪黒目の少年であり、その彼の言うお願いというのは、ああ、一体何なのだろう、何であれば良いのだろう。当り障りの無いこと、あるいは自分にとって都合のいいこと、もしくは多少くらい都合の悪いこと――

 言い換えれば、以外のことであれば何でもいい……。

 それ自体が、どうしようもないほど都合の良い願望だとわかっていながら、それでも私はそう祈らずにはいられなかった。どうしてなのだ。どうして。

 振り向いた私の視界に飛び込んできたのは、何にせよ、当たらずとも遠からずといった様子のヴァイスだった。身体はノートパソコンの方を向いたまま、首だけをこちらに曲げており、その視線は私に向けられている。だが、焦点が全く定まっておらず、彼の眼差しは私を容易く通り越して、そのままどこか遠くの方に注がれていた。

 彼の身に何があったのか。私が目を離していたほんの何秒かの間に、彼の中で何が弾けたのか。どうしてそうなってしまったのか。

 ヴァイスの瞳は、真っ赤に変わっている。

 表情の無い顔が、首の上に座っている。そしてその目が、輝くような不気味な赤に染められて、茫洋と見開かれているのだった。吸血鬼の象徴的変化であり、私が未だに自分の中で結論を見出せてない現象の一つでもある。その、怖いくらい馴染んでしまっている血のような色調。吸血鬼として……、何と言うか、すると発色する、その狂気の色。

 それが、愛すべき少年の瞳を塗り替えた。

 私は、戦慄の中、迷いの中、相手の出方を窺った。勿論こんな事態を予測しない私ではないし、混乱も衝撃も愛執も、全てがごちゃまぜになった真っ黒な心も、最善手を鈍らせるほんの僅かな指先の震えにすら繋がらない。

 きっとだ。

 私も本気だからなのか。次に少年が口を開くまで、随分の時間を待った。右手は懐に。抜き撃ちの自信は? あるわけは無い。だが、それが最速。おそらく最善手。

 ヴァイスがゆっくりと口を開けた。それがゆっくりである内は、私に分がある。

「喉が、渇いたんだ。これまで襲われたことなんてなかったけど、これが、そうなの? そうなんだ。そうに違いない。だから僕は、欲しているんだ。この、渇きを癒すものを。喉の渇き、心の渇き、何でもいい。枯渇したら潤さないといけないんだ。永遠を、永遠に、守り続けるには、この、思いが、どうしても」

 ああ、どうして。

 私は、ヴァイスの小さな唇から紡がれるその言葉に、身を引き裂かれそうな思いで銃把を握った。引き鉄に指をかける挙動と、右腕を懐から引き抜く挙動は同時に行う。

 これまで、大丈夫だったではないか。

「どうしても、必要で、いや、わからない、僕にはわからないよ、ミズ。どうして、僕はこんなことを言っているの、だって、ミズは、僕が、吸血鬼で、『出来損ない』の細胞の塊だって言ったのに、優しくて、ずっと、血が、血なんて吸わないのに、吸血鬼なのに、だって、それって、変じゃない?」

 支離滅裂な言葉と、そして、瞳から零れ落ちる雫。表情が消えている彼の、しかしその赤い目から流れる涙は、何よりも悲痛な叫びとなって、私の心を打ち据えた。

 吸血衝動、か。

 わからない。これまでアンプルを射ち込んで抑制していた反動が一気に来たのか。だが、ヴァイスよりも長期間に渡って吸血行為から離れている私は、まだ大丈夫だ。基本的には同じ薬を使っているし、薬剤に対する耐性が形成された様子もまだヴァイスには見られなかったはず。なのにどうして、いきなり……?

「ミズ、ミズ、ミズ、僕は、血を、違うんだ。ただ、ミズのことをもっと知りたいそして血が飲みたい。その冷たい肌に流れる赤い血潮にまみれて、そうしたら、僕達は永遠に、永遠を、ああ、違うんだ、誤解しないで、ミズ、ミズ、ミズ、ミズ、ミズ、ミズ、ミズ、僕は、僕は、だって、絶対に僕はミズと一緒にただ一緒に血が」

 水、水、水、と何だかそれは砂漠で道に迷った冒険家が死の間際に虚空を見ながら呟いているような、人生で最期の切なる懇願を思わせた。縋るように、「白」の名を持つ少年が口にする、私の名前となった液体の名。

 そして、それと裏腹に彼が今本当に求めている液体の名は。

 血液。

 正確には、違うのだ。そんなことは、嫌と言うほど自分について研究を続けた私にはわかっている。吸血したいのだ。血を得ることが目的ではない。それはただ甘く、吸血行為を誘うための撒き餌のようなもの。血を吸う時の、あの、全てを受け入れたような、腕の中の相手を征服してやったような、名前も、年齢も、国籍も、何もかもを個人から剥奪し、自分の存在と同じものあるいはそれに近しいものに引きずり落とすという、背徳感と不思議な達成感に満ちた、身悶えるほどに荒々しい快楽を――

 落ち着け。そうだ、何をしている。

 引き鉄を引け。銃口はヴァイスの胴に向いている。しっかりと構えられている。距離はわずか二メートル、大丈夫、外れることは無い。当たっても死なない。

 忘れたのか、こんな時のためにヴァイスを創る際、クロロホルムに対してのみ寛容となるよう、彼の身体を弄っただろう? いかなる麻酔薬、筋弛緩剤、毒薬に耐性を持っていた『出来損ない』の幹細胞に手を加え、都合の良い条件の個体を作り上げたわけだろう?

 たかだか麻酔銃なのだ。引け、引き鉄を。

 涙が流れる少年の頬を見ていた。白く、きっといつものように柔らかいそれを。

「僕は、出来損ないなの? だって、だって、僕は、こんなに、ミズが好きなのに、こんな風に考えてしまっている、色々なことを考えて、それで、ミズが、嫌いになるような悪いことを考えていて、だって、そんなの、ミズがそんな風に優しいから悪いんだ、だって、ミズ、ミズ、僕はミズと一緒に眠っていて、その首筋に噛み付こうと思ったことなんて一度もないのに、今は、それが不思議で仕方ない、とめて、とめてよ、ミズ、だって僕は血が吸いたい、ミズ、ミズ、血が吸いたい、ミズのことを知りたいのに、壊れるから血を吸って、お願い、ミズ、僕を止めて、そして」

 パン、と空気が弾けるような音がして、麻酔銃から羽根のついた薬液入りの弾が飛び出した。先端は注射針のようになっており、そこに衝撃が加わると圧縮された気体に押し出されて薬液が自動的に浸出する仕組みで、機構自体は一般の麻酔銃と変わらない。

 だが、初速は圧倒的に拳銃の弾丸より速い。発射機構に、普通の銃とかけ離れた特殊な構造を有しているからだ。そもそも普通の弾丸など撃ち出したところでヴァイス相手には何の効果もない。迷い無く飛ぶ羽根つきの弾を目で追いながら、私はただ、あの時のことを考えていた。

――ヤシマ君……貴方の、血が欲しいの……――

 あの時の私の瞳も、こんな風に赤かったのだろうか。そしてあいつも、こんな気持ちで、私を眺めていたのだろうか。上半身裸になったあいつを見て、とうとう自分の中にある邪で不気味な欲望に屈した。そんな浅ましい私のその瞳も、本当の化け物だという圧倒的な説得力をもってあいつに迫ったのだろうか。……いや、今更、どうでも良いことだ。

 クロロホルムの満たされた弾が、ヴァイスの横腹に突き刺さった。と、思った。

 ヴァイスは動いていた。

「ミズ、お願い、血を吸わせて」

 一瞬、彼が正気に戻ったのかと思った。依然、瞳は狂気の色を呈していたが、その顔にいつものような豊かな表情が宿り、ほんのわずかな時間だけ笑顔が向けられたような気がしたからだ。ただ、例の高速発話により彼の口を飛び出したその音と、その内容、それと同じ程の速度で霞むように動いた彼の左手。被弾する前に捉えた麻酔弾を握り、確かに椅子に座っていたはずの次の瞬間には私の目前に迫っていた小さな身体。全てが予想を裏切っていた。

 不意をつかれた。否、認識が甘すぎた。この私としたことが。

 二発まで撃てるその銃の引き鉄を引く暇など与えられなかった。どこにそんな度胸をしまっていたのか、ヴァイスの左手が、銃を持つ私の右腕に叩きつけられる。間違いなく本気の一撃だった。不意打ちであった。セロリを割るような間抜けな音と共に、腕を通る二本の骨が綺麗に折られた。衝撃でヴァイスが握っていた麻酔弾が破裂し、クロロホルムの独特な臭気が舞う。骨が折れようが神経が断裂しようが、それでも右手の指を動かして発砲することは出来る。だが、腕が折れた拍子に銃の先端が明後日の方向を向いてしまったことが、亜音速で戦う吸血鬼には問題だった。手首を捻る時間が致命的なタイムロスに繋がる。慣れない類の危機的な焦燥感に戸惑う。

 びしっという硬い音と同時に、頭突きをするような角度でヴァイスの身体が顔から上に向かってきた。私より随分と背の低い彼が、首筋から血を吸うためには、跳躍が必要なのだ。今の音は、跳躍前に振り下ろされた裸足の足が床にぶつかった時のものか。硬化処理の施されたタイルが、罅割れたらしい。別に首筋からでなくとも吸血は出来るわけだが、ありがたいことに、ヴァイスはそれしか思い浮かばなかったようだ。最も隙の出来る手段で私に迫って来てくれた。私に半ば体重をかけるようにしながら、首の後ろに両手を回そうとしてくる。そして、やはり表情の消えた覚醒の目を持つその顔面が首筋にまで迫った時、ぱん、と発砲の音が響く。

 折れた右腕を捻り、ヴァイスの胴体にゼロ距離からクロロホルムを撃ちこんだ。人間であれば、吸入ではなく体内に直接投与されている時点でおそらく致死は免れ得ない方法。彼にとっては、ある程度の時間無力化させられるという、それだけの効果しか及ぼさない。

 意識を失うに足る量の注入には成功したが、効果が現れるまでのタイムラグは存在するし、突撃の慣性までは殺せない。遠慮も容赦も躊躇もなく、大口を開け、尖った犬歯を光らせたヴァイスに、食い千切られるような力で喉笛に噛み付かれる。実際、血を吸われるというより肉を抉られそうだったので、首に力を込めて、牙が深部へと侵入するのを拒絶した。筋肉に締め付けられてびくともしなくなっている犬歯に戸惑った彼は、何をして良いのかわからなくなったらしい。私の首に噛み付くその口だけで全体重を支えつつ、クロロホルムが体中に回るまで、動けるはずの時間すらずっと微動だにしなかった。ようやく力尽きたのは、十秒以上も経った頃だ。白目を向いてぐったりとなる。私は、優しく彼の背を支えながら、ゆっくりと首の力を抜き、束縛から解放してやる。つ、と唾液が喉と唇の間に糸を引く。血が一筋流れるだけで、早くも首の傷が塞がったのを、例の感覚で悟る。

 いつの間にか、私は泣いていた。

 膝をつき、腕の中のヴァイスを横たえさせる。上半身だけ起こし、頭は左手で支えてやった。クロロホルムで濡れそぼる右手を懐に入れて、麻酔銃を内ポケットに戻す。真っ二つに折れていたはずの尺骨と橈骨は、当然既に元通りになっている。

 鼻を啜り上げる。

 白衣の右ポケットから例のアンプルを取り出す。二四時間以上効き目のあるはずだったそれ。注射針を注射筒に取り付け、キャップを外す。薬液を、追加分ということで、二目盛りだけ吸い上げる。片手だけで器用にそれをこなす。アンプルはしまっておく。

 静脈注射。

 目元を拭う。涙が止まらない。

 もしかしたら、無意味かもしれない投薬。頭のどこかでは理解していた気のする、それ。自分の存在理由を汚される気がして、研究者のプライドが瓦解する気がして、これまでの成果がゼロに戻ることを危惧し、真実から必死で目を逸らそうとしていた。いずれ突きつけられる現実。

 静脈注射。右腕が震えて、言うことを聞いてくれない。この私にも、クロロホルムの効果があるとでも? 骨の折れた後遺症があるとでも? そんな可愛げがあるとでも?

 揺らぐ。逃避だったのだ、全部。そう、全部。ここに閉じ篭って吸血鬼の研究を続けたのだって、ヴァイスを創ったのだって、いや、そもそも彼を創るきっかけになった、元々逃げたかったからこその代物なのだ。

 自分が招いてしまった地獄のような光景と、そして、その責任から。本気で開き直れれば幾らかはましだったのに、虚勢を張って、そうする振りしか出来なかったどうしようもない私の、自己欺瞞と自己満足。罪悪感に後押しされた、罪悪感の上塗り。闇への供物。

 静脈注射。先端恐怖。大昔の自分を思い出す。

 落ち着け。私は、やることはやってきた。この二年間だって、自分の思う通りに仮説を立て、実証し、あるいは反証し、少しずつ少しずつ、吸血鬼と人類の歩み寄りのための研究を続けてきた。あの可哀相な例の人形を創ったのだって、私自身の暴走への保険のためであり、その副産物のせいでテーマが少し横道に逸れたかもしれないが、全体的に見れば吸血衝動抑制剤は進化を続けているし、そうに違いないし、ヴァイスはこんなにも可愛い。これで良かったのだ。全てが私に幸福を届けてくれるはず。

 目を閉じる。傷口から血液が染み出すように、閉じた瞼の隙間から涙が溢れ出る。

 私の吸血衝動抑制剤が、最初から吸血衝動を抑制する力をこれっぽっちも持っていなかったなんて、そんなことあるわけがない。

 現に、私は今、吸血を断ってどれくらいになるだろうか。血を吸いたいと思うことなど最近殆ど無いし、茶瓶の効果時間が目に見えて短くなって来ているのは、耐性が出来てしまっているという証拠で、それはつまり私の身体に良きにつけ悪しきにつけ、何らかの影響を与えていることを如実に示している。

 ……そんな、わけは、ない……。

 静脈注射。何故か、腕ではなく、彼の首を狙った。何のつもりか。やられたらやり返す。そんな精神からか。まるで人間のような復讐心。ピストンにゆっくりと力を込める。薬液が、ヴァイスの血管の内側にぬるりと流れ込み、どす黒い血に混じり入る。どろりと、見えてもいない独特の質感を知覚する。

 茶瓶の耐性が出来ているのは、薬の効果がある証明ではない。効果が切れる直前、時限式に発生する強烈な不快感。私の体は、それに対する適応を進めているだけだ。よりスムーズに体内の全細胞にシグナルを伝えるようになってしまった結果、発現まで一定の時間を必要とするはずの合図が、短時間で行われるようになってきた。それだけのこと。吸血衝動の抑制とは別件に、耐性が確立してきただけのこと。

 茶瓶の効果を保証するのは、自らの吸血衝動の有無だけだ。

 針を、ヴァイスの細い首筋から荒々しく引き抜いた。キャップをつけ、ポケットに、そのまま放り込む。これも全て片手で。左手はずっと、彼の頭を支えている。

 プラシーボ効果という言葉がある。ニセ薬でも、本物だと信じ込ませれば相応の効果を持つという臨床での事例が本当に存在し、「病は気から」をある意味で医学的に証明してしまっているそれは、さて、吸血鬼にも通用するのではなかろうか? 私はこれまで、文字通り毒にも薬にもならないものを飲んで、悦にいっていただけではないのか?

 ……そうなのか?

 ヴァイスの首筋に粒となって小さく流出する赤い液体。甘い液体。

 我知らず、喉が鳴った。

 ふと、涙は止まっていた。

 吸血衝動は、確かに謎が多い。私は最初、性周期にリンクして定期的に現れるものだと思っていた。だが、文字通り発作的に突然血が吸いたくなることもあり、そもそも男性にはそんな周期はない。法則性や原因が全く見えて来なかった。ただ、精神安定剤の投与によって自分の吸血衝動が治まった気がしたので、そういうアプローチの仕方でメカニズムが解析出来ると思った。そう思い込んだ。

 でも、ヴァイスは衝動に負けた。

 私のせいだ。

 もう一度、喉が鳴った。

 何の気負いも無かった。何事もなく、ごくごく普通のことであるかのように、白い首筋にぽつんと置かれた一点の赤に吸い寄せられた。唇を寄せ、それに触れる。舌に広がる、色褪せたようなわずかな甘さに酔う。鼻に抜けるその心地良い風味に浸る。我に返る。

 私の瞳は、何色か。

 自戒。

 首筋を舐めるな。舌を這わせるな。牙を剥くな。笑うな。すぐ先に得られる快楽を想像して呼気を荒立てるな。興奮するな。口を開けるな。牙を立てるな。流れ出る液体を貪るな。味わうな。

 血を吸うな!

 衝動ではない。まだ、私は、ここにいる。離れろ。ヴァイスから離れろ。深呼吸だ。落ち着け。見失ってはいけない。異常事態だ。このままではいけない。壊れる。また、あの時のように。可哀相な例の人形のように。この世界のように。

 自壊。

 ああ、私は、これ以上誤ってはいけない。謝ってはいけない。覚悟を決めろ。自分が自分として生きていくための、覚悟を決めろ。灰になる迄、本当にヴァイスと一緒にいてやる、覚悟を決めろ。そのために必要なことは何だ? 最低限やらなければいけないことは。

 血を、吸わないこと。

 そうだ。だから離れろ。それ以上、欲しがるな。……引き返すんだ。

 だが、確固たる意志に反して、私の体は金縛りにあったかのように全く動かない。温い首筋に口付けたまま、血管を流れる偽りの命の鼓動を感じる。むやみやたらに高まっていく、自分自身の拍動を聞く。喉をうまく通らない空気の味を知る。

 造作も無く、一線を越えられるような気だけはした。私の心が、どちらに傾きかけているのか、そんなのは長年自分をやっているこの私が一番良くわかっていた。本当に一線を踏み越えたら、どれほど後悔するか、どれほど自己嫌悪するか、どれほど泣くか喚くか、そんなこともわかり切っていた。

 それでも、私は、この一線を飛び越えてしまうのだ。

 考えた時点で、私の負けなのだ。私は弱い。辛抱することなど出来ない。美味しそうな少年がいて、きっと彼も私を受け入れてくれるはずで、そんな状況を正しく認識してしまった今、どうしてそれを看過出来ようか。据え膳食わぬは何とやら。

 ほら、言い訳だって完璧だ。こうやって二の轍を踏むのだ。同じ過ちを何度も繰り返すのだ。ヴァイスを創ったその理由を、自分の性的嗜好によるものに貶め、彼の人間性も何もかもを飲み込んで、あの時のような、狂乱と堕落の交錯する日々に舞い戻るのだ。そんな自分自身に向かって皮肉げに片頬を引き攣らせて嘲笑し、しかしどうしようもなく悦楽に溺れていく様子を目の当たりにし、暴れ叫びながらラボにある鏡という鏡を叩き割った、ある意味で一番私らしくあった私に戻るのだ。

 ほら、この滑らかな肌だって、あの、人形にそっくりだ。

 忘れろ。踏み止まることを思い出せ。私は、学んだはずではなかったのか。だからこそこれまで、ヴァイスを見ても極力あの可哀相な人形のことを考えないようにして来たではないか。一度心に浮かび上がったら容易には消えてくれない、あの笑っているのか泣いているのかわからない表情も、血にまみれるまで乱れ果て一緒に眠った後味の悪い夜も、最後に私の手元に残った細い肢から零れ落ちた赤も、全て、ヴァイスとは関係のないことだったはずではないか。上手くやり過ごしてきたではないか。今日のこの瞬間まで。

 そうだ、あれはヴァイスではない。ヴァイスとは関係ない。同じ運命を辿る必要は無い。

 たとえ、、――――

 ああ、今、全てが壊れて行く。

 想いは屈折している。ヴァイスは、衝動に負けた。私は、その事実に負けた。血を吸わなくても、人並みに暮らせると信じていた。そうなれば、吸血鬼は、人間と共存出来る。でも私は、ヴァイスの血を吸いたかった。きっとここではそれでも平和に暮らせるはずだから。そのために作り出した鎖された楽園だから。まやかしの王国だから。

 だから今、ちょっとだけ、その願いを……。

 首筋に、牙を立てる。

 違う。そうではないのだ。必死に思い返す。人並みに暮らすためには、絶対に血を吸ってはいけないのだ。外でもここでも同じことだ。血を吸って得られる快楽に身を任せてから、私の世界は一気に崩れた。我慢しなくてはいけないのだ。今を今として続けるためには。吸血は日常を破綻させる。あらゆる意味で非日常的な、現在の私の生活にしても同じこと。

 我に返る。横抱きにしたヴァイスに縋りつくようにして、自分の中に蠢く、穏やかでない感情を抑える。開いた口から、唾液が流れ伝い落ちる。

 違う。それも違う。そういう問題ではない。血は、問題ではない。そんなものは、吸血鬼の言い訳に過ぎない。弱い私の言い訳に過ぎない。吸血に全ての責任を押し付けて、その異常性の陰に確かに存在していた大切な何かから、懸命に目を逸らしていた。

 異常だったのだ。あの可哀相な人形は。壊すために健康な体を創り、壊すために全てを話し、壊すために血を吸って抱いて寝た。

 ヴァイスは、違う。一緒に暮らすために不可思議な体を創り、一緒に暮らすために多くを隠し、一緒に暮らすために注射を射って抱いて寝た。

 再度、問う。私の瞳は何色だ?

 私の右手が、裾の方からヴァイスの洋服の内側に侵入する。痩せているが、それなりに引き締まった腹を撫でる。温かい……。その温度。人間の体温には決して届かず、吸血鬼の私よりも若干高いだけの、生温い、その温度。生命体と死体の、境界とも言える絶妙の温度。私の、大好きな温度。馴染みのある、ぬくもり。

 私は泣いているのか。それとも涙など見せず常人ならざる者の瞳で目の前の真っ白な首筋を見据えているのか。あるいはもう全てが手遅れでこの夢のような心地の中でヴァイスの首筋に犬歯で傷をつけてそこから零れ出る温い血潮で喉を潤してしまっているのか。何をしているのか。その全てをしているようなそのどれもしていないような、ひどく曖昧なこの認識の内に篭って、ぼんやりと、ただ、ここで座り込んでいられれば、きっと、幸せだ。幸せに違いない。

 衝動ではなかった。誘導か、あるいは誘惑か。私を衝き動かしたのは、夕食直前の子供の前に突然置かれた駄菓子のような、比較的どうしようもない、緩やかなそれだった。仕方ないじゃないか。ヴァイス、子供がお菓子を好むように、私も君が大好きなんだ。

 ああ、それは違うか。子供にとってのお菓子と同列の「好き」、ではないかもしれない。

 確かに、両方ともとても美味しいのだろうけど。話が違ってしまうよね。

 ヴァイス。親愛なるヴァイス。

 私の牙は、今、君に刺さっているのか?

 それともまだ、君の肌を撫でるに留まっているのか?

 どちらとも知れない。私は、私の感覚でものを考えられない。何にせよ、遅かれ早かれ私は君の血を吸うだろう。そして、その後で泣くだろう。謝るだろう。縋るだろう。キスをするだろうし、抱き締めるだろうし、髪をくしゃくしゃとかき混ぜられてはにかむ君を見て弱々しく笑うだろう。そんな私を許して欲しい。私は、君が思うほど強い人間ではないし、そもそも人間ではないし、とても弱い吸血鬼なんだ。

 仕方が、無いんだ。君は、いつか言った。私にだったら何をされても良い、と。今更そんなことを言質に持ってきて盾にするのは卑怯かもしれない。でも、私はそれに甘えさせてもらうしかない。ただ、勘違いしないで欲しい。私は、吸血を言い訳にしない。私は、本当に、君のことを考える。これは、衝動に負けたわけじゃない。ただ、私は、純粋に、いや、純粋じゃないのかもしれないけど、君のことが好きで、そして、よく考えた末に、血を吸いたくなった。だから吸ったという、ただそれだけの話。二人の未来を支える、他愛無い儀式。大人になるための通過儀礼。

 …………。

 



「…………ミズ…………」



 ……………………。

 その日は、そうやって何事もなかったように終わった。僕達は二人ともとにかく泣いて、ただただお互い謝り合って、慰め合って、抱き締め合って、眠りに落ちた。

 あの人は震えていた。小さな声で、僕の知らない名前を呼んだ。

 次の朝起きると、あの人はラボのどこにもいなかった。そして書き置きが一つ。



「ちょっと出掛けてくる。とても大事なことを決めてくるから、ヴァイスも覚悟を決めておくように。以上。君の大好きなミズより」



 第八扉を越え、階段室に辿り着く。一階層分だけ繋ぐ、無骨で小さな折り返し階段を上がると、すぐさま第七扉が立ちはだかっている。そしてその向こうには、最下階と似通った、気持ち悪いほどに一様な通路が再び続いている。遥か前方には第六扉、左手側には等間隔に銀色の小扉が並び、あとは天井の蛍光灯がわずかに自己主張するだけ。それ以外は、壁も床もとにかく真っ白だ。白と銀以外の絵の具を全て忘れてきた画家が、苦し紛れに物差しを使った描画を試みたような、幾何学的で温度の低い風景。

 足音を立てない歩き方も出来るはずだったが、これ以上人間味を失うのもどうかと思い、私はコツコツと硬い音を響かせながら、目的地まで歩を進める。一九個並んでいる小部屋の、手前からも奥からも同じ距離にあるその扉。十番目の扉は、他の扉たちと何一つ替わることなく、全く個性の無い顔と体で私を出迎えた。足音が止んで、ノブに手を伸ばす。鍵は、やはりかかっていない。多少埃っぽい空気が、開いた扉の隙間から流れ出す。

 そこに居座るのは、濃密な闇と、そして一つの気配。例の感覚で、見えなくとも手にとるようにわかる間取り。壁一面を埋め尽くす蔵書の山と、床にまで散らばる本。そして、壁際の本棚の一つが冗談のように真横にスライドしており、そこに露出している地上への隠し通路。彼専用の通り道。

 電灯は、色々な理由から外してある。私は扉の間から滑り込ませるように部屋の中に入り、後ろ手でドアを閉めた。廊下からの明かりも完璧に断絶し、部屋を真の闇が満たす。呼吸を止めても聞こえてこない、相手の息遣い。彼は、本当に必要な時以外呼吸をしない。部屋の片隅。古めかしいデスクに向かい、キャスター付きの肘掛け椅子に深く腰掛け、のんびりと暗闇の中でくつろいでしまっている、一人の吸血鬼。暗闇の中でも読んでいたらしい机上の本を、そこだけは人並みに音をたてながら、ぱたんと閉じた。

「久しぶり。そんなに警戒しなくても、俺は俺だよ。確かに電話で話すだけなのと実際に逢うのでは雲泥の差はある。それはわかってるけど、長い付き合いなんだ。数少ない味方同士、リラックスしていこうじゃないか」

 いつものようにまくし立てるような速さで喋りながら、キャスター椅子の方向を変えてこちらに正面を向けた。この闇の中でどれほど意味のある行為かはわからないが。私は、ぎこちなく、それでも少し安心して、唇を緩めるように笑った。

「……本当に久しぶり。わざわざ呼び出してごめんなさい。それから、いつもありがとう」

 挨拶を全てまとめて言ってしまうと、彼は大仰な素振りで肩を竦め、

「どういたしまして。……早速だけど、本題に入ってくれ。知っての通り、俺にはやることが多い。君のためにいくらでも時間は割くけれど、その分だけ、他のことが疎かになってしまうのは避けられない。吸血鬼と人類の未来のために、それは得策ではないね」

 と、冗談と本気の間の口調で返してきた。彼の声は闇に吸収されるように消え、狭い部屋だというのに、反響音の残滓すら残らない。

「わかっているわ……ジェスリー」

 ジェスリー・ウォルフ。私の、唯一にして最高の協力者である。今の私がここにあるのも、ひとえに彼のおかげだった。事件直後で荒みきっていた私の心の内側にするりと入り込み、ぬるま湯のようないつもの笑顔で、私を助けると言ってくれた。彼から死を奪ったのは私なのに、ありがとうと言ってくれた。吸血鬼と人類の共存という話をしたら、きっと出来ると励ましてくれた。

 しばらくの間吸血行為に付き合ってくれた。

 彼は、国家権力の中枢にパイプを持っていた。私は、それを利用する形で、情報操作や牽制を駆使し、一滴の血も流さず、このラボを占拠し、閉じ篭ることに成功した。身の回りの物、必要な物は、ジェスリーがこの通路を使って届けてくれた。直接会うのは本当に時々で、普段は電話でやりとりをしていた。

「この前の襲撃の件……そろそろ本当に本当のことを教えて欲しいんだけど」

 私は、ここ数日間もっぱら話の中心となってきた特殊部隊の襲撃について、ここでも口にした。軍には既に根回しが済んでいて、一国の戦力をもってしても対応出来ない化け物の根城として認知されていたこのラボは、基本的に不可侵が原則であったはずなのだ。現に、これまで本格的にラボが軍部の攻撃対象とされたことは無かった。吸血鬼に有効な神経毒の開発という大事があったとはいえ、あの襲撃は暴挙以外の何物でもなく、何らかの裏があったと見るのが正しい。そうなると、俄然怪しいのは、軍に圧力をかけていた張本人であるジェスリーである。彼が、何らかの意図で上層部にはっぱをかけたか、あるいは直截に攻撃を唆したのではないか、と私は、既に何度も電話で問い詰めてきた。

 ジェスリーは、僅かに肩を竦めて見せた。

「君もしつこいね。あれについては、報告した通りさ。確かに、申し訳なかったとは思うよ。でも何度も言ったろう。ついこの間、政局に異変があって、そのせいで今は俺の父の政敵が軍部の実権を掌握しているんだ。このラボに対して過剰な警戒を促して、手を出さないよう繰り返していたのが仇となったらしい。父を出し抜くために、まさかあんな行動に出るなんて、さすがの俺にだって予想出来ないよ。ただでさえ神経毒についての情報収集に奔走していて、そっちの方にまで手が回っていなかったんだから、仕方ないだろ」

 それも聞いた。何度となく聞いた。私は、小さく首を振った。

「第九扉からこっち、兵士の死体がいっぱい転がっていたわよね? それから、血や脳漿が至るところにこびりついていたはずだし、弾痕だって、床といわず壁といわず、そこら中に残っていたはず。そして第九扉自体、私が派手に殴り壊した。後始末は任せろ、と貴方は言ってたけど、どうやってその全てを一日や二日で元通りに直したわけ? ……あの襲撃、一体何だったの……?」

 襲撃の日の電話で、彼は後片付けを引き受けてくれ、次の日の朝、様子を見に行った時には既に第九扉は元通りになっていた。何故か扉が開かなかったのでその向こう側までは確かめられなかったが、午後になると、もう片付けが終わったという報告が来た。

 そしてその言葉通り、第九扉の奥で私は、戦場の痕跡を綺麗さっぱり剥奪された、純白の回廊を目にすることになった。私にはその光景がどうしても信じられず、平然と構える白壁や傷一つ無い床面が、そこに広がっていたはずの惨状よりもなお、グロテスクで不気味なものに映ったのだった。あの時の全てが偽りであり幻でありまやかしであったかのような、自身の全てを疑いたくなる根源的な恐怖を覚えた。何度も足を運んで、殺戮の行われたはずの通路を事細かく調べた。しかし結局どこにも、吸血鬼によって尽くされた暴虐の痕跡は見つけられなかったのだった。

 そうなってようやく、私はあの襲撃が偽物で、ヴァーチャル空間を用いた狂言であったのではないかという、そんな疑惑に到達した。

「……君はひどく疲れているんじゃないか?」

 ジェスリーは、私の質問と全く関係の無いような言葉を返してきた。

「ええ、そうね。それは否定しないわ」

 苦笑する。疲れているという紛れの無い事実と、そして、今更ながらこの口調に。

「あの襲撃が、仮想空間での出来事なんじゃないか、って疑っているんだろう?」

 図星を指された。

「ヴァーチャルと現実の差に気付けないというなら、相当重症だよ、ミズ。俺達吸血鬼は、第六感による認知能力があるんだから、そんなものに騙されはしない。君だってわかっているはずだろう。君は確かに国軍の特殊部隊による襲撃を受けたんだ。俺自身、あの第八扉と第九扉の間に広がっていた惨状を、この目で確認した。世界各地のありとあらゆる地獄絵よりも遥かに忠実に、本当の地獄って奴を再現していたね。悪夢を見ているようだった。少なくとも、三次元であそこまで真に迫った制作を俺は一度たりとも見たことが無い。リアリズムも、突き詰め過ぎると芸術に昇華し得ないもんだ。どれだけ目を逸らしたかったか知れない。君の言う通り、現実でなかったらどれほど救われたか。あれは、贋造でも幻でもない、純然たる事実として無造作に撒き散らされた、大量の受肉した死そのものだった。受け入れがたい気持ちもわかるが、真実は真実として認識しておかないと、大変なことになるぜ。あの通路の修繕については、遺体を運び出した後に床と壁と天井を全て張り替えただけのことだ。こっちの方が地道な清掃なんかよりも遥かに手っ取り早い。表層部を全部取り替えるだけなんだから、人手があれば一日でも出来るよ」

 言葉で言うだけなら、彼の言う通り、本当に簡単なことなのだ。『張り替える』。だが、それだけの言葉で表現可能なその行為が、実際にはどれだけの困難を伴うのか。民家の壁紙を張り替えるのとは訳が違うのだ。決して交通の便が良いと言えない地下施設に、大量の建材を運び込む手間を考えれば、理に適った行動であるとは言えないのではないか。

 私は、そう考えたからこそ、更なる疑惑を持つに至った。

「確かに、人手があれば、一日で修復出来るのかもしれないわね。でも逆に、だからこそ訊くわ。どうしてそんな風に、人手が必要なことを、わずか一日で成し遂げなければならなかったの? 貴方は忙しかったんでしょう? 殺戮現場の事後処理なんて、最優先にするような事柄ではないはずよ。なのにどうして、そんなに急いで現場を片付けたの?」

 襲撃は仮想現実などではなかった。論理的に考えた末、私はやはり自分でもその結論に着地した。嗅覚と味覚を再現出来ないはずのヴァーチャル空間で、噎せ返るような血の匂いを感じられたはずがないからだ。

 そうしてから思い至った、今回の事件が腑に落ちない根本的理由。全てはジェスリーが、事前策を全く取れぬほど出し抜かれていながら、事後処置は目を見張るほど迅速であったという、その不一致に端を発していたのだ。

「……何が言いたいんだ、君は? 俺を疑いたくなる気持ちもわかるし、君の質問に対して、客観的に妥当と見なせるような上手い答えも見つからないが、これだけは断言出来る。君の考えていることは妄想の域を出ないよ。第一、今更俺が君を陥れたところで、俺に何の得がある? 疑心暗鬼に囚われると、容易く闇に飲み込まれるぞ。君は大丈夫か? この会話が、既に危険なことに気が付いているのか? 相手を疑い始めると、その人間関係には必ず小さなひびが入る。俺と君と。お互いがお互いを必要としている共依存にある俺達にとって、それは致命傷にもなり得るよ」

「……脅しているつもり?」

「違う!」

 ジェスリーは思わず叫ぶように強く反駁し、気まずくなったのか声のトーンを落とした。

「俺は君と敵対するつもりは全く無い。それをわかって欲しい。今回の襲撃の責任の一端が俺にあることは認めよう。それについては全面的に謝罪する。だが、それだけだ。君の気はそれでも晴れないだろうけど、俺に出来るのはここまでだ。君のたくましい想像に付き合って、今回の襲撃の黒幕であることを暴露する予定もないし、これまで演じていた好青年の仮面を剥がして悪役に堕するつもりも無い。俺には身に覚えのないことだからな。俺は最初から最後まで君の協力者でありたいと願う、しがない吸血鬼さ。わかってくれ」

 ……わかっていた。

 名探偵と真犯人の対決シーンでもあるまいし、私が彼を理詰めで論破出来る筈がないのだ。ジェスリーの言葉、ジェスリーの態度は終始誠実であって、自らの罪を咎められて必死に言い逃れようとする、見苦しい激昂などは一つもなかった。私達の関係を案ずるが故に、心の底から自らの無実を訴えていた。

 つまるところ、結局はそういうことなのだろうと思う。それが真相なのだと。

どれだけ私にとって不自然に見える状況だったとしても、ジェスリーを信じる以外、私には道が無いのだ。確かに、安易に彼の裏切りを想定している時点で、私達の関係は既に真っ当なものではあり得ないかもしれない。しかし、一方的に私の側から破綻させようとしているにも関わらず、それだけでは彼が私の協力者であるという前提は崩れなかったのだ。そうである限り、私はこの依存関係に甘んじて、彼の言う通り納得するしかない。

 つまりは、そういうことなのだ。

 これが、私の現在の立ち位置。鎖された楽園を維持するため、外世界に隷属を余儀なくされた内部管理者。……そこまで攻撃的な物言いは相応しくないかもしれないが、私はこの呪縛から解き放たれなければならない。けじめをつけなければならない。

 ジェスリーが息を吸う音が小さく聞こえた。肺に溜め込んだ空気を使い果たし、このままでは正常な発声に支障をきたすと考えたのだろうか。暗闇の中、彼の顔が苦々しく歪められているのを知覚しながら、私は口を開いた。

「……不安なのよ、私は」

 突然の弱音に、ジェスリーがわずかに身じろぎする気配があった。

 馬鹿な話だった。私は、吸血鬼であるより科学者であるより前に、一人の弱い女だった。

「願いは叶わない。祈りは届かない。こんな世界で、人間が吸血鬼に本格的に牙を剥いたら、その先にあるのは本当の暗黒、絶望の残響だけ。考えてみた? 吸血鬼にも効く神経毒なんて、人間自身の首を締めているようなものよ。お互いに殺し合って、どんどんとその数を減らしていくことになるだけ。目に見えるようだわ。死に物狂いになった人間が、獲物としての吸血鬼を追い込んで、その結果、死に物狂いの抵抗を受けて死んでいく。その逆もしかりよ。みんな、生きたくて必死なの。殺したら殺される。単純な、けれどもそれ故誰にも止められない、破滅に向かう因果応報の連鎖。それがわかっていたのに、私は人間を殺した……殺すしかなかった……。私は、この手で、二度目の引き鉄を引いてしまった。世界は、滅亡に傾いていく」

 あれは示威行為に近かった。襲撃者達を、殺戮という形で撃退したことは、私の意志でありながら、私の意志に反していた。人類の絶滅危機の原因を作った自分と、共存のために研究を続けていたつもりの自分。あの襲撃は正義であり悪であり、私は悪であり正義を気取り。この世に正義も悪も無いんだなんて、綺麗事を並べてみたところで、既に取り返しの付かない事態に対する言い訳にしかならない自分。理論武装は不可能で、だからこそ私は、襲撃自体の不明瞭さに付け入って、自分を正当化させるためにその舞台裏を偽作しようとした。あれが自分を陥れるための何らかの罠であると信じたかった。そうであってくれれば、自分の戦う理由が出来るはずだと、そういうを求めていた。

 そんな人類なら滅ぼしても構わない、と誰かに言って欲しかった。

 信じていた協力者に裏切られたという、悲劇的な背景が欲しかった。

 壊れる理由。

 壊す理由。

 それに足るような、可哀相な自分の演出。

 したたかな性根。

 心の安息を得るためだけに、私は自ら疑心暗鬼の闇に囚われた。そして昨日――

「全てが言い訳だった。私は、それに気付いてしまったの。吸血鬼と人類の共存のために研究をする……。それは、私が生きていても良い、とそう誰かに言ってもらうための免罪符だったの。吸血鬼にも効くという神経毒が発明されて、自分が死ぬかもしれないという状況に立たされて、あの特殊部隊の来襲を受けて、……色々あって、私は初めてそれに気付いた。本当に殺される覚悟もないのに、吸血鬼の攻撃衝動と正当防衛を理由に人を殺め、でもそれが単なる逃げ口上だと思っていなかったから、自分を疑おうともしなかった。全てが、エゴ。自分を支える自分が欠けているのに、独りよがり。それこそ、本当に恐ろしい心の闇よ。学生時代から自分の全てを調べたつもりだった私が、唯一踏み込めなかった心理分析という領域……。そのツケが今回ってきたのかしらね」

 突然、背中と後頭部に手が回され、強く抱き竦められる。

「もう、やめてくれ」

 いつの間にか私の直近まで迫っていたジェスリーは、ゆっくりと正確な言葉で、それだけを囁いた。私の両手は白衣の裾を握ったまま、彼の抱擁に応じようとはしない。ジェスリーの左肩に頬を寄せながら、私は続けた。

「ジェスリー……疑ってごめんなさい。そしていつもありがとう。私を助けてくれてありがとう。私を励ましてくれてありがとう。私を好きと言ってくれてありがとう。その気持ちに答えられなくてごめんなさい。そしてそれでも私をずっと支えてくれてありがとう」

 泣いてはいけない、とそれだけを思う。

 優しく、彼の腕を解いて、抱擁から抜け出す。一歩、小さく間を取って、暗闇の中、同じくらいの高さにある彼の瞳を見る。決して赤く光ることのない、その瞳を。

「私は、ラボを出る。そして、貴方を裏切る」

 今、別離の時が来た。

 ジェスリーは、何とも言えない表情で、こちらを見ていた。困ったように頭の後ろを掻き、その癖が人間時代、学生の頃と全く変わっていないことに気付く。

「久しぶりに会いたい、と言ってきた時に、悪い予感はしていたんだ。俺は、ロザ……ミズのことをすっかりわかった風な顔をしてきたけど、正直昔から、何を考えてるんだか全然わからなかった。だからこそ、興味本位的な部分で君に惹かれたというのもあるんだろうし、心のどこかでは底の知れない君を恐れていた。君は、やっぱり色んな意味で俺らと違う。俺は、出来る限り君に近付こうとして色々やってみたし、最大限君の手伝いをしてきた。それは、君のためになると思ってのことだったけど、逆に君を追い詰めていたのかもしれない。俺は、純然たる君の味方でしかなくて、人類にも他の吸血鬼にも敵対する覚悟を辞さなかった。君は、そんな自分のシンパを手に入れたことで、免罪符を得、言い訳に依存することを覚えた。二人を繋ぐはずの協力という名の歯車は、残酷なことに全く噛み合わずに空転を続けていた」

「……そのセリフ……ヨハンが乗り移ったみたいね」

 喉から思わず笑いが零れた。

 学生時代、やたらと人間関係を歯車で喩えていた友人の顔を思い出す。あの事件の時、廊下に立ち塞がって私を止めようとした、決意に満ちた泣き顔と、そして震える手に握り締められた肉厚の狩猟用ナイフ。

 それから最期の言葉。

――どこで、噛み合わなくなってたんだろう?――

 自嘲的に、笑う。笑うしかない。

 噛み合わずに回る歯車は、既に歯車ではない。車輪。最初から、違っていたのだ。

 狂うも自由、逃げるも自由。立ち向っても、目を逸らしても良い。何の束縛もないままでは、噛み合わないに決まっている。全てをわかり合うことなど出来ないし、何もわからない振りも出来はしない。妥協という言葉を認めずに、それでも歪んだままで隣に居続けることをも厭わない。他人と付き合うというのは、その覚悟を決めることなのかもしれない。

 空転する車輪を介在させながら、それでも動き続ける二つの車輪。

「……ジェスリー、これまで、本当にありがとう。私は、やるべきことをやるために、貴方の庇護下を離れる。そのうち、貴方と敵対することもあるかもしれない。その時はごめんなさい。私は、きっと容赦しないわ」

「……謝ることはない。結局、自己満足だったんだ、お互いに。究極の利他信仰の下で行われていたために、後味の悪さがないことだけが救いだ。それに、これまでは俺だけが君を裏切れる立場にいたんだ。これでようやく平等になれる、それだけのことだ。具体的に君が何をしようとしているのかは、聞かないよ。……ただ、頑張って」

「……本当に、ありがとう」

 静かに、頭を下げる。泣いてはいけない。暗闇の中、それでも泣いてしまえば彼にはわかってしまう。顔の奥の方で、こみ上げてくる感情がある。呼吸を止めるように、感情の流れを堰き止める。気を抜いたら、涙が零れることはわかりきっていた。喉が震えてしまう。もう一言もまともに喋れないだろう。このまま回れ右して背後のドアから逃げ帰りたい。話す言葉はもうないはずだ。涙声でジェスリーに甘えて良い時期はとうに過ぎた。彼への依存が私を私に変えた。我が身可愛さを第一に考える、禍々しいほどに利己的な自分に。罪と罰を意識しなくなった自分に。

 それでも本当に、ありがとう。

 自責の念に駆られ、発狂寸前にまで追い込まれた私を優しく抱き締めてくれたあの日。激情のままに暴れ回って、人間だったらば致命傷になるほどの傷を負わせながら、それでも血に濡れた穏やかな笑顔で私を包んでくれたあの日。首筋を貸してくれたあの日。

 私は、貴方のおかげでここまで来た。

「……今度は、人形を幸せにしてやりなよ」

 ぽん、と頭を軽く叩かれた。それから、壁際に開いた専用の隠し通路に向かって遠ざかっていく気配が一つ。不気味なほどに無音。靴音を立てず、私よりも吸血鬼らしく生きる一人の元人間は、こうして私の前を去って行った。私は顔を上げず、感情の波が収まるのを待っていた。咳き込むように嗚咽を抑え、誤魔化すように目元を拭う。

 しばらくして顔を上げた時、私の心を満たしていたのは虚無ではなかった。

 晴れ晴れした気持ちと、大切なものを失ってしまった心持ち、その半々くらいの曖昧な意識。決して、不快ではない。……そして訪れる、覚悟の時。

 部屋を後にする。闇の中、ドアノブに手をかけ、捻るだけのその動きが、ひどく落ち着かない。そうしてようやく、ドアに踊る綺麗な筆記体に気付いた。他愛の無い落書き。目の見えない闇の中、何故かそれだけはくっきりと、私の網膜に飛び込んできた。

『Happy Birthday, Ms. Vampire! (誕生日おめでとう、吸血鬼さん)』

 血液で書かれたそれは、要所要所で血がどろりと下方に垂れ流れるせいで、ひどくグロテスクな代物になってしまっていた。一見すると、ホラー映画の一シーンのような印象を受ける。普通の人にとっては嫌がらせにしかならないだろう。誕生日、か。そういえば、そろそろだったかもしれない。日にちの認識が甘いので正確なところはわからないが。ジェスリーも、妙な演出をするものだ。

 あ。

 私は、踵を返して部屋の奥に向かい、ジェスリーが最初に座っていたデスクの下を覗き込んだ。案の定、そこにはいつものように食糧や日用品の差し入れと、それから見慣れない包みが置いてあった。床に四つん這いになって、デスクの下からそれを拾い上げる。

 一目瞭然、造花の花束だった。永遠に枯れることのない、色とりどりの花達が、束ねられ纏められ、包装紙の中で柔らかく揺れている。香りもなく、生花特有の鮮やかさにも欠く。けれども、永遠に褪せないその色合い。……私とおんなじだ。

 ありがとう、ジェスリー。

 お礼の言葉は言い尽くしたつもりだった。感謝しても仕切れない。本当に、お世話になりました。こんな別れ方になって、ごめんなさい。最後まで、あなたに対しては身勝手でごめんなさい。本当にごめんなさい。とにかくごめんなさい。

 貴方の好きだった笑顔で別れられなくてごめんなさい。

 左手に花束。右手に差し入れを持って、立ち上がる。

 ハッピーバースデイ、ミズ・ヴァンパイア。

 いかにも軽薄そうな口調でそう言う、彼の声が聞こえた気がした。

 さようなら、ジェスリー。

 私は、貴方を忘れない。世界で一番優しく、紳士だった貴方を。

 そして、さようなら、ロザリー・オルトレーゼン。

 私は、貴女も忘れない。自己に溺れて全てに負けた、憐れで可哀相な女を。

 そして誕生日おめでとう、ミズ・ヴァンパイア。

 これから大変だけど、どうぞよろしくね。



「ただいま、ヴァイス。大事な話とかをしよう」



 不覚にも、泣いてしまった。

 心のどこかでは、あの人はそのまま帰ってこないんじゃないか、と思っていた。昨日のこともあるし、そのまま消えてしまっても不思議ではないと思わせる雰囲気はあった。やたらと不安で落ち着かなかった。気分を鎮めるために、第九扉の前まで歩いて行ってみたり、戻って来てラボの中をうろうろしてみたり、ベッドに横たわってごろごろ転がったり、ありとあらゆる不審な挙動をこなした。結局は、ベッドの上で落ち着いた。あの人の匂いが残っている毛布を、頭から被って座り込み、顔だけ出して帰りを待っていた。

 両手とも荷物で塞がっているあの人に、飛びかかるように抱きついた。わざと少しよろめいた後、あの人は大丈夫、大丈夫、落ち着け、と、荷物を置いて僕を撫でてくれた。

 覚悟を決めておけ、と言われたけど、結局何も考えていなかった。

 僕が離れると、あの人は地面に置いた紙袋を差し出して、

「たぶん、ケーキか何かが入ってると思うから、テーブルまで運んでおいてくれ」

 と、告げた。僕は言われた通り、食べ物が主に入っているのがわかるその袋を、朝食の片付けがまだ終わっていないテーブルに運んだ。テーブルといってもそれは小さな座卓で、クッションを椅子代わりにして床に座って使うやつだ。ベッドのすぐ近くに置かれている。

 あの人は、テーブルと逆方向に歩いて行き、棚の上で埃をかぶっていた花瓶を下ろした。大事そうに持っていた花束をそこに活け、外側を白衣の袖で綺麗に拭ってから、僕の所まで持って戻った。花瓶をテーブルの上に置いて、僕の向かいに座る。

「……それ、どうしたの?」

「貰った」

「誰から?」

「……妬いてるのか?」

「……うん」

「大丈夫。ただの誕生日プレゼントだ。他意はない。ケーキが入ってただろ? それも同じさ」

 紙袋の底の方に隠すように、でも潰れないように入れてあった、手作りのバースデーケーキ。でたらめに立てられた蝋燭と、僕の知らない言葉で、おそらく誕生日を祝っているのであろうチョコレート文字。僕の知らないあの人のこと。

「……ミズ、今日誕生日なの?」

「いや、わからない。今日の正確な日付を私は知らないし、そもそも、私の誕生日は、私が勝手に作ったもので、本当の生まれた日じゃない。だから、祝える時に祝う」

 僕は、何かを言おうとして口を開きかけたが、何を言っていいのかよくわからなかったので、やめた。あの人は、白衣のポケットから実験でガスバーナーに火を点ける為によく使っているライターを取り出した。慣れた手つきで、蝋燭に火を灯していく。

「取り皿と、フォークと、あとナイフ。欲しければ飲み物も持って来て」

「……大事な話するんじゃないの?」

「焦らない焦らない。言っただろう? 大事な話とか、だ。大事な話だけじゃないよ。誕生日を祝うくらいの余裕は、まだ多分あるし」

 何かを吹っ切ったような、これまでのあの人と違う表情がそこにあった。僕は立ち上がり、青瓶の入っている戸棚に向かう。食事用の道具も、大体その下の方に入っている。実験器具と日用品が自然に同居してしまっている。そんな混沌と秩序の境で、僕という存在はこれまで生活してきた。あの人と一緒に、暮らしてきた。

 飲み物は要らないと思い、フォーク二つと皿二枚とナイフを一本持ってテーブルに帰る。

 座卓に肘を付き、頬を手の平で支えた気だるそうな格好で、あの人は蝋燭の炎を見つめていた。全部で五本。何を表した数字なのかはよくわからないが。

「……電気、消した方が気分出るかな?」

 それはまるで子供のような口調だった。わくわくしているというか、何と言うか、あの人が本当にこれを楽しもうとしている様が、そのセリフからは垣間見えた。

「……それじゃ、僕電気消してくるよ?」

「暗くなるからって、変なこと期待してないか?」

 少し照れながら、苦笑。若干図星だった。

 返事はせずに、皿などをテーブルに置いてからそのまま引き返す。資料に埋もれたデスクの間を抜け、部屋の電灯のスイッチを消しにいく。窓のないラボでは、これが太陽と同じ。黄色ランプと蛍光灯の二種類の電灯があり、さらに場所ごとに区分けされているためスイッチは全部で六個ある。その全てを、一つずつ押して消す。部屋の奥の方から徐々に暗くなって行き、暗闇の中で、あの人のいる辺りだけが淡い蝋燭の炎で照らされる。暗くなると、少し落ち着く。これは『出来損ない』の習性だろうか。

 暗くなっても、明るいところと遜色なく動くことが出来る。苦もなく定位置まで戻った僕は、あの人の正面に陣取りようやく一息ついた。何だかあの人が戻って来てから慌しい。

「お疲れ様。歌おうか」

 喋る言葉に合わせて、蝋燭の炎が揺れる。暗がりの中に浮かぶあの人の顔。炎の灯りを跳ね返し、赤く光る瞳。幻想的な雰囲気に飲み込まれる。

「歌う?」

「誕生日の歌。知らないか。歌い終わった後に蝋燭の火を吹き消すんだ」

「風習自体は知ってるけど、歌はわからないや」

「じゃあ、諦めてこのまま話そうか」

「え?」

 僕が何かを尋ね返す前に、あの人はさっぱりとした口調で続けた。

「君は、だ」

 それはこれまでで一番自然な口調の言葉だった。灯火は揺れ、あの人はこちらを試すような笑みを浮かべている。頬杖をつきながら楽しそうに、僕を、そして自分のために用意されたケーキを、眺めている。

「……どういう意味?」

 自分の中にあった均衡は一気に崩された。誕生日を祝う雰囲気のままで、不意に始まってしまったそれは、これまであの人が決して触れることのなかった領域の、その一端だった。僕にはそう認識するのが精一杯で、状況を読むことも空気を読むことも出来なかった。あの人が、外に出て一体どんな大切なことを決めてきたのか、そして、僕は一体どんな覚悟をしておけばよかったのか。わからないことをわからないとだけ意識して、困惑の境地で答えを待つ。

 あの人は、何の躊躇もしなかった。

「そのままの意味だ。私は、君よりも前に、君のような、人間の形をした塊を創ったことがある。喉が渇いた時にそれを潤すため、『出来損ない』の細胞を使って閉鎖血管系を持った人形を人工的に合成した。そうしたら、何故か意識が芽生えた。だから、育ててみた。……違うか。壊すために飼ってみた、と言った方がいいかもしれない。本当に、君が思うよりもずっと気持ちの悪い本性を、私は持っているんだ」

 喉の鳴る音が聞こえた。あの人の仮面の裏側が、白日の下に晒されていく。全く知らない顔。全く知らない過去。知りたいと思う反面、知りたくない、知ってはいけないと何かが警告する。あの時感じたのと同じ。抑圧。葛藤。無い筈の心臓の軋み。

 渇き。

「落ち着け、ヴァイス。大丈夫だ」

 耳に響いてくるあの人の声。頭の中で反響し、その意味が体に溶けていく。

 炎の灯りに揺らめく、優しい笑顔。

「私は、君を壊したりはしない。君に全てを話すだけだ。ただ、前のその人形は、私の全てを聞かせることで壊した。結局、同じ事をしようとしている。だから、君には覚悟を決めて欲しい。私の全てを聞いても、壊れない覚悟を持って欲しい。それがどういうことなのか、少し考えて欲しい。ゆっくり、私を受け入れて欲しい」

 ケーキのクリームの上に蝋が流れていく。暗闇の中、二人、明かりを囲む。黒い鎖で繋がれた、ぬるま湯の中の関係。広がっていく波紋を見て、片方が小さく頷いた。

「昨日、私は君に助けられた。あの時、君がああ言ってくれたからこそ、私は決心した。君はきっと、あの人形とは違う。もう、同じ轍は踏まない。全てを話すことで、私達はあるものを手に入れ、逆に、あるものを放棄しようと思う。でもその事実を、君ならきっと受け入れてくれる。気付いてくれる。まずは何の話をしようか。君の訊きたいことは何? それから話すよ」

 数日前の約束が頭をかすめた。考えるだけで少し切なくなる。五人を五秒で。諦めた僕。拳を握らなくなった僕。血脂にまみれて穢れた拳が恐くなった僕。

「……その、僕の前に創られた人形は、灰になったの?」

 灰になる迄一緒にいてくれる。

 教えられた、数少ないこと。

 拳の握り方と、それから、僕の末路と。あと何があったっけ。

「わからない。おそらくそうだろう、としか言えない」

 愉快でも不愉快でもなく、ただ淡々と、知っている物語を教えてくれているだけのような、そんな暴露。昔話のように続く、あの人の過去。

「その塊は、このラボから逃げ出したんだ。未成熟な自我に、どす黒い感情や過度の愛情を注ぎこまれた結果、情緒のバランスを崩した。理性と欲望と葛藤と、それから衝動と、壊れそうだった私のありのままを投射してしまったからな。今思えば酷いことをしたと思う。髪の色が――」

 と、僕の方を指差して、

「そんな風な、羨ましくなるような黒だったんだけど、その塊は過酸化水素水を浴びて自ら色を抜いた。私がそれを愛でながら、同時にの影をそこに見ていたと教えたからだ。不気味なくらい冷静に、私はその様子を分析していた。その塊が私に好意を寄せていながら、近くにいればいるほど苦痛を覚えるようになったのが、傍から見ていてもわかった。求めれば応えてくれた。褒めれば喜んでくれた。しかし、純粋性の失われた感情には痛みが付き纏い、最後の方になると、自分でも意識していないのに泣いていたり、表情筋の動きが引き攣ったり、殴りつけた時ほど安心した顔を見せたりした。私が壊したんだ」

 他人事のように、あの人は言った。

 他人事のように、僕は聞いた。

「好きだと言ってくれるたびに血を吸った。衝動と関係なく。その塊の血は、美味しかった。吸血行為の快感に溺れ、終わった後に襲われる自己嫌悪のままにその塊を傷つけた。その塊にも吸血を覚えさせた。恐る恐る私の首筋に噛み付くその顔が、今でも忘れられない。痛みを感じないはずの私が、よく幻痛に襲われた。唇が離れたら即座に塞がったはずの傷が、いつまでも疼いている気がした。丁度、この辺りだ」

 白い喉を灯りに晒して、あの人は指差して見せる。口の中に唾液が溢れて来るのを意識して、思わず目を逸らす。

「そろそろ限界だと思っていたある日、私は言った。、と」

「へ?」

 聞き間違いかと思ってあの人の方を見ると、艶のある表情で僕を試すように眺めていた。わざとらしく唇を真っ赤な舌でゆっくり舐め回して、

「大体、あの日もこんな感じだった。部屋の電気を全部消して、血を吸うとか何とか適当な理由で服を全部脱がせて、ベッドに誘った。それから言った。子供が欲しい、って。その塊はいつもみたいに、泣きたいのか笑いたいのかわからない顔で、でもそれだけは何故かはっきりと拒絶した。私は……赦さなかった」

 突然、あの人が咳き込んで話を中断した。蝋燭の内、最もあの人に近かった一本の火が消える。ほの暗いラボの中で、闇の濃度がいや増した。

「大丈夫?」

 右手で喉の辺りを何度も叩き、左手で心配そうな僕を制する。

 それは、何かの発作であるなどというより、今にも破裂してしまいそうな感情を無理矢理抑え込もうとしているように見えた。まるで、泣くのを我慢しているみたいに。

「本気で、その塊をベッドに押さえつけた」

 少しだけ、声が震えた。

「吸血鬼の私に、『出来損ない』の力で敵うはずはないと思っていた。だが、思った以上に抵抗された。反撃もされた。私はその塊を何度も殴りつけ、投げつけ、そして、逃げようとする肢を掴んで、捻り切った。嗅ぎ慣れた甘い匂いと、生温い液体が飛び散って、私は高らかに笑った。……本当の狂気だ。自分が何をしたかったのか全然わからない。今覚えていない、というだけでなく、あの時も既によくわからなかった。どうして子供が欲しいなどと言い出したのか、少なくとも口に出した一瞬は本気だったが、それすら既にどうでも良かった。壊れる瞬間のその塊の顔を見た。暗闇の中、真っ赤に光る眼で、だが全てから解放された、生まれたばかりのような無垢な表情をしていた。血で穢れた透明な笑顔で、叫びをあげた。転がるように、痛みで悶えながら私の手を掻い潜り、血の跡を引きながら扉を開けて出て行った。声が、ずっと聞こえていた。腹の底から搾り出したような、憎悪とも何ともつかない、もっと直截に心を穿つ、根源的感情に彩られた声だった。私の邪悪を共鳴によって粉々にする威力を持っていた。救いを求める祈りにも似ていた」

 もう一度、あの人が咳き込んだ。その拍子に、俯いた瞳から雫が飛び散った気がしたが、正面に顔を戻した時、その目には涙の跡など無かった。

 僕の方が居たたまれなくなって、泣きそうになり、手の平で目元を拭ってから、

「後悔してるの?」

 と、尋ねた。あの人は、しばらくそのままの姿勢で固まっていたが、不意にナイフを手に取り、蝋燭の刺さっていない部分に二箇所ざくざくと切れ目を入れ、皿に取ってこちらに寄越した。

「せっかくだから、食べよう」

 もう一つ、自分の分を切り分け始めるあの人を後目に、一口、柔らかいスポンジケーキを口に含む。ケーキというものは、知識では知っているが、食べるのは初めてだ。

「……甘いね」

「ケーキだからな」

「美味しいね」

「ケーキだからな」

「……後悔してるの?」

「……ああ」

 手を止めて、上目遣いであの人の様子を窺う。フォークを使って、小さく切ったケーキの塊を口に運んでいた。両肘をテーブルについたまま、味わっているのか他の考えに囚われているのか、全く読めない顔で僅かに口を動かしている。

「名前、付けてやらなかったんだ」

 呟くように、あの人は言った。

「最初の頃、君のことをあんまり名前で呼ぼうとしていなかったのも、同じだ。君のことをどう扱うべきか、私は迷っていた。また、その塊の時みたいに、慰み物として、道具のように弄ぶことになるかもしれなくて、そのためにあまり感情移入したくなくて、どこかで線引きをしようと必死だった」

 フォークを持つ右手が、震えている。

「それに、私の名前も教えてやらなかった。あなたと私。二人だけの世界だったから」

 唇も、頬も、震えている。

「あんなに私のことを好きだと言ってくれていたのに、実験のつもりか憂さ晴らしのつもりか、私は戯れにその塊の心を壊してしまった。基本的に『出来損ない』と同じ体だから、きっとその塊は何処かで直射日光を浴びて、灰になってしまっただろう。日の当たる表面部から、侵蝕されるように生きながら朽ち果てて行く。ぽろぽろぽろぽろ、細胞が灰になって剥がれ落ちて行く。凄まじい恐怖だろうな。きっと、私を呪ったに違いない。日光を浴びたら灰になるという、肝心なことだけ私は教えなかった。『出来損ない』なら本能的に日光を避けて活動するが、その塊は狂気の中にあった。無意識下の恐怖感なんて一顧だにしなかったろう。私の呪縛を逃れて自由に羽ばたいたつもりが、地上に出て朝になって、太陽の光を浴びた途端に、存在そのものを否定される。……名前も無く、何一つ痕跡を残さず掻き消えていく。最低の仕打ちだ。……後悔もするよ」

 一瞬、あの人の顔が大きく歪んだ。力の入れ加減を間違えたらしく、フォークの柄が折れ曲がっている。そこに、どんな感情が介在したのか。恐ろしいほどの心の闇に、痛ましくなって再び目を背ける。

「ヴァイスの服、大体はジェスリーっていう協力者に手に入れてもらってたんだけど、幾つかはその塊のお下がりだよ。あと、

 背筋が凍りつくような、絶対零度の寒気。寄せ集めの塊、というその意味が、冷たく不気味に僕の上を覆った。身体中の細胞という細胞がそれぞれ別の顔を持っているような、現実感のないビジョンが頭をかすめる。全体と言わず、個と言わず。僕という集合体。寄せ集められた欠片たち。『出来損ない』であり、あの人に壊された人形であり、混ぜ合わされた結果としてある今の僕。そして今の生活。

「……僕は、何のために創られたの?」

 ずっと訊きたかった、訊けなかった質問。僕が僕になってから、飲み込み続けた問い。

 あの人は、折れ曲がったフォークでケーキを食べることをやめない。何かをしていなければ、平静を装えない。

「偶然とは言え、吸血鬼細胞において、意識の発生を実験室的に再現出来たことは、私の知的好奇心を刺激した。研究者というのは、そういうものだ。だから、その研究のためにもう一体創りたかった、というのが建前としての耳触りの良い答え。青瓶を飲むと両拳から電気が出せる、というあれは、脳内の電気パルスを増強するために色々やっていたら副次的に可能になったおまけみたいなものだし、そういう意味では実験というのもあながち嘘ではない」

 拳を握ってみる。別に青瓶が無くても、圧倒的な力で人間の命を奪える、小さな手。圧倒的な力で人間の命を奪った、血塗られた手。

「吸血衝動に襲われた時に、それを治めるための血の通った人形が欲しかった。つまり、前回のあの塊と同じ考え方で創ったというのも、きっとある。否定しても仕切れないだけの前科が私にはある。今更、あの頃の私を飾る必要も無い」

 昨日噛まれた首筋に触れてみる。あの人の、荒れた吐息とぬめる唾液の感触を思い出す。

「ただ、私は、寂しかったんだ。に裏切られて以来、ジェスリーという親友の一人が助けてくれたが、人間不信になりつつあった私を気遣って、自ら距離を置いてくれた。でも私は、たぶん誰かと一緒にいたかったんだ。それも、自分を絶対に裏切らない従順な相手と。……身勝手だろう? そんな人形を創ったら壊したくせに、やっぱり私は誰かに傍にいて欲しかった。今度は、血を吸うためじゃなく、一緒に暮らすための、人形が欲しかった」

 唇を、舐めてみる。今はクリームの甘さしかない。時折あの人が触れてくれる、あの人の甘さを思い出す。

「自分でも、本当によくわからないんだ。それでも、これだけは言える。君を創って良かった。私は君に救われていた。色々なことを考えた。色々なことがあった。君は、私の身勝手さに純粋さで応えてくれた。私の歪みに気付いた時、それを受け止めようとして一緒に歪んでくれた。自分の中でそれを抑圧することなく、吐き出してくれた。いつでも私の傍にいてくれた。本当にありがとう」

 けほっ、と自分の咳き込む音に自分で驚いた。両目から、ぼろぼろと涙が零れ落ちて、何かを言おうとして開いた口が、空気を吐き出せずにむせる。嗚咽を噛み殺し、瞳をぎゅっと閉じ、袖で目元を隠す。鼻を啜る。

 何をいきなり号泣しているのか、僕は。あの人にどんな目で見られているだろうか。

 ……いや、そんなことは今更どうでもいい。君を創って良かった。その言葉で、僕は僕でいられるのだ。『出来損ない』ではなく、あの人に壊された人形ではなく、ヴァイスという名前を貰った、僕としての僕。存在理由を持った、個としての僕。

 ……ありがとう。

 大好きだ、ミズ。

「……泣くなよ。男の子だろ」

 いつもの口調であの人の声が聞こえて、テーブル越しに頭をくしゃくしゃと撫でられる。見えていないのに見える、あの人のはにかむような照れているような、曖昧な微笑み。

 ありがとう、ミズ。

 僕を創ってくれてありがとう。



「……私の最初の記憶は、お墓の前で泣いているところなんだ。五歳くらいかな。雨の中でね、傘も差さずにずっとずっと、一人きりで立ったまま、わんわんわんわん泣いているんだ」



 静かに、淡々と次の話を始めた時も、私の手はヴァイスの頭の上にあった。ケーキの上の蝋燭は随分と短くなり、傾いていた一つが消えて、残りは三本だけになっている。

「何で泣いているのか、それもよくわからない。というより、何もわからないのにそんなところにいたから泣いていたのかもしれない。びしょ濡れになって、すごく寒くて、でも自分が誰なのか、どこに行けば良いのか全然わからなくて、泣くしかなかった。どれくらいそうしていたかわからないが、いきなり後ろから声がかけられた。『泣くんじゃない、運命は受け入れるしかない』。そんなセリフだったと思う。墓場で泣き喚く五歳の子供に、それは無いと思うけどね。……私の養父は、そんな人間だった」

「……養父?」

 涙の混じる声で、目尻を拭いながらヴァイスが尋ね返してきた。

「私は、警察に行っても身元がわからなかった。いくつかの孤児院を盥回しにされて、最終的にはその人の養女になったのさ。そしてようやく、戸籍上の名前を与えられた。ロザリー・オルトレーゼン。世界で最初の吸血鬼事件、『魔女事件』の犯人の名前と一緒だ。偶然でも何でもなくて、要するに私がやったんだけれどね」

 ヴァイスは、別段驚くでもなく、その事実を冷静に受け止めたようだ。最後にもう一度だけ髪を撫で、右手を手元に引き戻す。折れ曲がったフォークを拾い、食べかけのケーキをつつく。

「子供時代は、特に何事もなく父一人子一人の生活を続けていた。当時から何度となく、がむしゃらに暴れ回りたくなる衝動に駆られたが、それは傍目には幼い子供が癇癪を起こしたようにしか見えなかったはずだし、血を吸いたいとは思わなかったので、問題化しなかった。怪我をしてもすぐに治ったので、時々怪しまれたりしたみたいだけどね。思春期に入って、二次性徴が始まると、無性に血を吸いたくなる夜が増えて、自分で手首に噛み付いたりもしてみた。不思議なことに、自分の血は全く美味しくないんだ。泥水を啜っているような気分になる。トイレですぐに吐き戻して、そんな自分を見て我に返った。禁断症状はこの頃には無かった。おかげで、養父の血を吸うという考えは浮かんで来なかった。ただ、自分が気持ちの悪い異常な人間であることを自覚して、ひどく悲しくなった」

 吸血衝動を認識しながら、それでもどうにか世界と折り合いをつけ、人間として生きていた頃があったのだ。それを改めて確認し、決意を固める。話を続ける。

「ハイスクールでは、クラスの女の子からいじめを受けていたけれど、私はそれをどうにかしようとは思わなかった。心のどこかで、こんなおかしな自分が迫害を受けるのは当然なんじゃないかと思っていた。破壊衝動を隠すために、執拗に大人しい人間を演じたし、暴力から最も縁遠い道を模索して歩いた。そうしている内に、同じクラスの一人の男の子を好きになった。好きになった理由はよくわからないけど、帰り道で色んな話をしたことだけを憶えている。日本語を話せるもの同士、馬が合った。私が何故日本語を話せるのかはよくわからなかったが――たぶん、記憶に無い五歳以前に関わることなんだろう――、その独特な音の響きが印象的で、この国の言葉よりも英語よりも好きだった。彼の名前は、シュウヘイ・ヤシマ。東洋人特有の黒く艶やかな髪が、とても綺麗だった」

 ヴァイスが、何かを気にしたように口を開きかけた。だが、そのまま黙ってケーキを口に運ぶ。私も真似るようにケーキを一口。正直、このケーキは予想していたよりも美味しい。大部分の人間が地下での生活を余儀なくされているというこの状況で、よく材料を確保したものだ。ジェスリーの行動力にはいつも驚かされる。

「あいつと出会ったことが、全ての発端だった。何年か健全な交際が続いた後、大学に入る直前くらいかな。上半身裸だったあいつを見て、湧き上がる衝動を抑えられず、血を吸ってしまったんだ。あの時の血は格別だった。あまりの美味さに、彼が失神するまで飲み続けた。下手すれば失血死させていたかもしれないね。幸か不幸か、あいつは当時童貞だった。『出来損ない』ではなく、真性の吸血鬼へと変身したたため、見た目には殆どその変化が現れなかった。そもそも、他人の血を吸ったのなんて初めてだから、感染するということ自体考えていなかった。吸血鬼が実在するなんて思ってなくて、まだ自分のことを、血を吸いたがる異常な人間という括りでしか捉えていなかったからね。吸血の後に、私とあいつは貴重な初体験を済ませたわけだけど、もしもその順番が逆だったら、あいつは『出来損ない』になって、私は吸血の恐ろしさを理解して、――それが最初で最後の吸血鬼事件になっただろう。『魔女事件』は起こらなかったはずだ」

「……ミズは、『出来損ない』のことを知らなかったんだね?」

「ああ。『出来損ない』を見たのは、『魔女事件』が最初さ。それまで、私はあいつ以外から吸血を行わなかったから」

 それは、言い訳に過ぎない。だが、言い訳に過ぎないが、事前に『出来損ない』のことを知っていたなら、私はあんなことをしなかった……。

 後悔ばかりが募る。

「シュウヘイは、急に犬歯が伸びたことと、傷がすぐ治るようになったことを不審に思って、『吸血鬼が感染した』と伝えてきた。冗談みたいにね。……その事実を知った時、少なからず動揺したけど、でも、不死身ならば二人で永遠に愛し合いながら生きていけるのだと気付いて、私はむしろ喜んだ。吸血衝動が来たら、お互いに相手の血を啜り、まあ、気が向いたらそのまま……楽しむ。そんな関係が続いた」

 ふと、不機嫌そうなヴァイスの視線とぶつかる。

「……何か、不服なことでもあったのか?」

 わかりきったことを尋ねると、憤然としながら彼は答えて来た。

「大丈夫、ただの嫉妬だから」

「……君は、妙なところが私に似てしまった気がするね」

 思わず、苦笑する。人間特有の複雑な感情を、やはり彼らは理解しているのだろう。そしてその情念とどう付き合っていくのか、或いはどう処理するのか、どうやり過ごすのか、その辺の方法論が、長く一緒にいたせいか私に似通っている。そんな気がする。

 割り切り方が本当に上手ければ、こんな風に強がって見せる必要もないのだろう。相手との距離感を見誤らない才能は、それだけで一つの美徳だと思えた。私に決定的に欠けているのが、その才だった。

「君のもやもやが晴れるように、蜜月期の話は大幅に省略すると、ある日養父が死んだ。しかも、やたらと不可解な死に様でね。集団自殺のような、大量殺人のような、とにかく無茶な状況で二十人くらいが死んだんだが、その中に養父が混ざっていた。『六司祭事件』って聞いたことないかな? 半年後に例の『魔女事件』が起こって、全世界のニュースが吸血鬼に席巻されるから、それに比べたらインパクトは小さいんだろうが、そこそこ大きな事件だったんだよ。聞きたいか?」

「……ミズが誰かといちゃいちゃする話を聞かずに済むなら」

「そういうのも含めて、全て受け止めて欲しいんだけどね。とりあえず『六司祭事件』は、カルトな新興宗教団体の総本山を舞台にした、推理小説も真っ青な奇怪な事件でね。三重密室の中に首無し死体が転がっていたとか、聖なる短剣で割腹した人が血文字で『HEX』というメッセージを残したとか、首吊り服毒飛び下り感電リストカット一酸化炭素中毒全ての痕跡が見られる自殺死体の死因が調べてみると放射線障害だったとか、とにかく奇天烈な状況で遺体がわんさか発見された。名探偵がいなくても警察はそこそこ優秀だったみたいで、何かへの生贄として人間を葬った、あるいは自ら命を絶って供物となった、というのが一連の状況の真相で、この教団の経典の見立てになっていたらしいことが発表された。教祖が架空の人物で、実在しなかったことが発覚し、死者の中で特異な法衣を着ていた六人の男女が、教団内で司祭と呼ばれていたことが明らかになって、結果的に彼らが中心人物もしくは主犯格と目された。だからこの事件が『六司祭事件』なんていう呼ばれ方をされるようになったという顛末だ。運の悪いことに、私の養父はその内の一人でね。私も、色々と警察から取り調べを受けた。事件のことどころか、教団のこと自体何も知らなかったので、私は首を傾げるばかりだったな。謎の多い人だったが、最後までわけのわからないことをしてくれたよ」

「……ミズは、その人のこと嫌いだったの?」

「いや。大好きだったよ。何せ、私を十数年間育て上げてくれた人だからな。普段どんな仕事をしているかはわからなかったが、家では優しい父親だった。お酒が大好きで、思い出すことは全て酒絡みだな。夕飯の後、いつも一人でウィスキーを傾けていて、酔っ払うと陽気になって、何でも好きな物を買ってやる、というその場限りの無責任な約束をするんだ。子供の頃は、何度もそれに泣かされた。クリスマスには私にもシャンパンを飲ませてくれたし、二十歳になったら行きつけのバーでビールを飲み交わそう、なんて笑っていた。いざ二十歳になったら、その頃には既に一人暮らしを始めていてね、結局一度も一緒に飲んだりはしなかった。それが、少し心残りだな。もっと色々な話をしたかったような気がする。養父の死んだ次の日、私は、学校を休んで一日中泣いてたよ。警察の事情聴取もあったけどね。今だから普通に話してるが、当時は本当に大変だったんだ。精神的にも肉体的にも、限界だったね。司法解剖が終わるのを待って、数日後にひっそりと身内だけで葬儀が営まれ、養父は墓の下に埋められた。首から上が見つからないままで」

 ひくっとヴァイスの喉が鳴る。

「それから、一週間に一回くらい、この国の各地で小規模な集団自殺……のように見える死体の発見が相次いでね。その裏に教団の影がちらついた。事件の本当の中心人物はまだ残っているんじゃないかってことになって、現代社会に仇なすオカルティズムという構図が耳目を惹いたこともあり、マスコミはこぞって騒ぎ立てた。教祖不在の教団で、こちらもいるのかいないのかわからない不気味な中心人物、ないしは信仰の対象に対して『魔女』という符丁が使われるようになった。これは、先程ちょっと出てきた『HEX』というダイイングメッセージが、『HEXE』つまり、この国の言葉で『魔女』を意味する単語の書き途中なのではないか、という素人探偵からの投書が元だそうだ」

「ん、もしかして半年後に起こる『魔女事件』って……」

 ヴァイスが、思いついたようにそれを口にした。私にとって、あまり思い出したくない忌まわしい過去だが、いつまでも目を逸らしているわけには行くまい。逃避はもう充分だ。

「その通り。マスコミが躍起になって追っていた『六司祭事件』の黒幕『魔女』こそが『魔女事件』の語源になった。結局そこで言われる『魔女』は、黒幕でも何でもなくて、単なる吸血鬼だったんだけどね」

 結局、吸血鬼の登場とともに、『六司祭事件』はうやむやになってしまった。私は、父がどうして死なねばならなかったのか、今でも全くわからないままだ。マスコミの言うように教団の中心人物が他にも生き残っていたのか、そもそも彼らが何を目的として常軌を逸した儀式を執り行ったのか、全て藪の中だ。知りたい気持ちは勿論あるけれども、捜査の進捗状況について文句を言う権利は、私には無い。

 ……何故だか無性に、ウィスキーの匂いを嗅ぎたくなった。

「『魔女事件』が起こったのには、幾つかの前提がある。まず、その何日か前に、シュウヘイが私を裏切った。急に、私と別れたいと言って来たんだ。破局の原因は……何だろう。よくわからない。あいつに、他に好きな人でも出来たのかもしれないね。私は、大きな支えというか、真の意味での唯一の仲間をいきなり失ったことで精神のバランスを崩し、何を食べても吐いてしまうほど情緒不安定になっていた。二つ目に、私は大学の研究室にある機器を利用して、動物細胞の培養研究に隠れて自分の細胞を解析していた。その頃は、少し自暴自棄になっていたこともあって、痛みを感じないのをいいことに右手を切り落として培養液中に固定し、組織そのものの培養を行っていた。勿論、再生したので私の手首から先にも右手はしっかり付いていた。三つ目に、私は六司祭の一人の娘であるということが、少し有名になっていた。大学構内までマスコミが押し掛けたりもしたからね。友人達が支えてくれたので、明確な迫害は無かったが。そして四つ目。その日は、今にも雨が降り出しそうな、重く黒雲の立ち込める曇天だった。よりによってどうして、と後で思ったよ。最後に五つ目。これが決定的だ。私は、『出来損ない』という存在を知らなかった」

 過去は、どう足掻いてみても変えられない。だからこそ、時折考えてしまうことがある。

 起こった出来事は全て必然なのか、それとも単なる偶然なのか。

 今の私は、こう成るべくして成ったのか。それとも、不運の積み重なりで、転がり落ちるように来てしまっただけなのか。平行世界の私はみんな、もしかしてもっと上手く社会に溶け込んで暮らしているのだろうか。

 いくら考えても詮無いことだ。過去を変えられないのと同じように、私はこの私からどうしても逃れられないのだから。まるで、リセットの利かないゲームみたいに。

「私は、独りに耐え切れなくて、研究室にシュウヘイを呼び出して復縁を迫った。気が動転していたというか、あいつを繋ぎとめておかなければ、どうやって生きていけば良いのか、それすらわからなかったから、文字通り必死だった。どんなに自分たちがお互いを必要としているのか、そしてどれだけ異端な存在なのか、唯一無二の互助関係がいかに不可欠かを懸命に説いた。シュウヘイは、そんな私を憐れむような目で見下ろして、それから廊下に飛び出し、決死の形相で叫んだ。悔しいくらいに巧みな演技だった。『魔女だ。誰か、警察だ、警察を呼んで! 魔女だ、魔女がいる』。廊下はそこそこの人通りがあって、皆が一斉にこちらに注目した。私は、間の悪いことに彼の後を追っていて、しかもその手には例の培養中の右手を持っていた。女生徒の悲鳴が上がった。ざわめきが連鎖的に広がっていき、私は自分を遠巻きに囲む群集の奇異の視線に晒された。火付け役のあいつは早々とその場からいなくなっていたけど、騒ぎは収まるどころかどんどん加速して行った。六司祭の娘だの何だの、悪い噂ばかりが飛び交い、勇気ある体育会系の男の子達が、私を取り押さえようとしたのか、何人かで近付いて来た。私は、自分の置かれた立場が全然わかっていなくて、とにかく焦っていて、思わず振り払ったその手が手加減を忘れていて、相手の脇腹に文字通り突き刺さった。悲鳴が上がって、血飛沫が飛んで、蜘蛛の子を散らすように逃げていく群集を見て、私の中で何かが弾けた。致命傷に近い傷を負ったその人を助けるつもりが半分、衝動に駆られたのが半分で、彼の血を啜った。吸血鬼にしてやるつもりだった。シュウヘイの身代わりを立てるつもりだった。しかし、私の思惑は脆くも崩れ去り、『出来損ない』第一号が誕生した。頭の中は真っ白になって、その中心地から、救世主みたいな顔をしたどす黒い絶望がじわじわ広がって行った。私にはどうすることも出来なかった。その化け物を目の前にして、何をすれば良いのかわからなくなった。事件を知らずに通りかかった女の子が、血塗れの私に気付き、『どうしたの? 大丈夫』みたいなことを震えながら訊いてきた声だけは覚えているけど、次に気付いた時、その娘も『出来損ない』になっていた。『いたぞ、あいつだ』とか喚きながら金属バットを握って近付いて来た男は、目の前で肉の塊に変わっていった。自分の体を、誰かがどこかで遠隔操作してくれていて、それを内部にあるコクピットから覗き見しているみたいな感じだったよ。自分のことなのに他人事。殺して、壊して、血を吸って。誰一人、この事件を知る者を生かしておくわけにはいかない、という変な脅迫観念があって、逆に言うと、そうすればこれまで通りの生活がまだ続けられる様な幻想に浸ってた。だからもう、暴れられるだけ暴れた。私に出来ることは、それしか無かった。シュウヘイを捜していた。もう一度逢って、今度はちゃんと殺そうと思った。吸血鬼だから死なないだろうけど、だからこそ思い切り傷つけようと決めた。痛みはないだろうけど、だからこそ私の痛みを知らしめてやろうと考えた。出会う人全てを打ち殴り、捻り切り、あるいは噛み付いて血を吸った。私の創った『出来損ない』は、傷を受けて倒れた人間に群がって血を啜っていた。日光を遮る分厚い雨雲が災いした。『出来損ない』は灰になることなく、大手を振って屋外で暴れ回った。キャンパスはどこも真っ赤に染まって、さながら阿鼻叫喚の坩堝と化していた。私にとっては、甘い匂いに満ちた麗しの酒池肉林だったがね。そこで繰り広げられるは史上最大最悪の虐殺一人舞台。胸を震わす歓喜の昂揚に、思わず涙した。喪失感も、絶望感も、虚無すら吹き飛ばされ、止め処ない刹那的な快楽の連続に、全ての光景が美しく見えた。風のような疾走に乗せて猛スピードで流れ去る背景も、スローモーションの速さで逃げ惑う学生達も、焦りのあまりに足を縺れさせたその内の一人も、転んだそいつを足蹴にしながら安全地帯を求めて駆ける浅ましい教授も、手を伸ばして助け起こそうとしたせいで真っ先に私に襲われた小英雄も、大講堂に無事逃げ込めた幸運なグループも、その中に紛れ込んでいた『出来損ない』に真っ先に喰われた警備員も、映画の一シーンのように、克明にそして色鮮やかに、自分たちの役割をきっちりこなして私を楽しませてくれた。手に手をとって逃げる若いカップルがいる。この場合、どちらから喰うのが正しいのだろうか。男の方がかっこよくて美味しそうだが、レディーファーストという言葉もある。あるいは仲良く一緒に彼岸に送るか。そこに颯爽と現れ、私を止めようと立ち塞がる友人は、物語の主人公だろうか。私は、聖なる銀のナイフで胸を貫かれて死ぬのだろうか。でも、吸血鬼に有効とされるものは何一つ私を傷つけることが出来ない。それは、私が一番良く知っている。どう殺されてやれば良いのだろうか。ああ、何だ、華々しく散らせてやればそれで満足するはずだ。最後の最後、派手な死に様が彼の見せ場なんだ。ほら、やっぱり。戯曲のようにテンポよく、私にとっては限りなく虚構のまま、事態は悪化し破滅へと転がり堕ちて行った」

 一息。肺に足りなくなった空気を補給し、溜息のように深い息を吐くと、残っていた蝋燭の灯りのうち、二つが一辺にかき消えた。灯りの範囲が急に狭まり、ヴァイスの表情が見えなくなる。

「ふと我に返ったのは、雨が降り出したからだ。頬に散る飛沫に、血と汗と涙以外の冷たさを感じ、天を仰いだ。私の心を映したような黒雲から、ぽつりぽつりと大粒の雫が垂れ落ちた。周囲はまさに死屍累々。死者と、それに限りなく近い生者と、そこから血を啜ろうとする生ける屍とに埋め尽くされている。通報を受けて駆けつけた何台もの救急車のサイレンが、遠く近く、鳴り響いた。中にはパトカーのものも混じっていたはずだが。暴虐の限りを尽くし終えた私は、茫然とただ立ち尽くしていた。雨は本降りとなり、豪雨と化して、地面にこびりついた血糊を洗い流した。私の頭も急速に冷えて行く。最初に脳裡をよぎったのは、目撃者をちゃんと全員消せただろうかという心配だった。既に私は魔道に落ちていたらしい。被害者面して警察に保護を求める腹積もりだった。自らが招いたこの惨劇は、私の認識の中では身勝手に、どこか投げやりなまま終息していた。雨に打たれて下着までずぶ濡れになりながら、並木道を悄然と歩く。人影が見えたら、今度は打ち据えることも血を吸うこともやめようと思っていた。だが、出会うのは『出来損ない』の化け物ばかりだった。虚ろな表情で、覚束ない足取りで、人血を求めて彷徨している。空っぽのままで歩き続けると、突き当たりにT字路が見えた。工学部の敷地に続く左手から、『出来損ない』の大群がのそりと出て来た。そのままこちらには一瞥もくれず、大学敷地外に近い右手の方へ真っ直ぐ向かっている。止めなければ、という義務感に衝き動かされて、私は走った。少なくともそのつもりだった。銃声が響いた。被弾した『出来損ない』の一人がつんのめった。それを合図にするかのように、大群はT字路の右手、私の死角に殺到して行った。テロリストに速やかに投降を促す拡声器越しの声が、狼狽した射殺命令に変わり、途切れた。連続する発砲音と、小さくこだまする悲鳴。私を追い抜いて戦場に駆けて行く『出来損ない』の姿もあった。私の足は、一歩も動いていなかった。恐怖に縛り付けられていた。その右肩が突然叩かれた。私は叫び、背後に向けて右手を一閃させた。脇腹にめり込んだその腕が、破裂した内臓の感触を伝えてきた。『やだな、ロザリー、俺だよ』蒼ざめた顔のジェスリーがそこにいた。奴は、持ち前の冷静さを発揮して、地下倉庫へのドアをピッキングで開錠し、たった一人で息を潜めて隠れ続けていたらしい。信じがたいことに、この段階でただ一人、まだ人間を保っていた。私がこの事件の元凶であることも、自分が腹部に致命傷を負わされたことも理解出来ないようで、『さあ、早く。警察が奴らの気を引いている間に逃げるんだ』と、私の手を引いて先導しようとした。その一歩目で、冗談みたいに口から血を吐き戻して、倒れ伏した。小さく水飛沫が跳ねる。手指に妙な痙攣が起こっていた。『ロザリー。早く。逃げろ』血の塊と一緒に、単語を一つずつ震える唇から吐き出した。私は叫び続けた。ジェスリーの名を呼び、肩を揺らし、死んじゃ駄目、と身勝手な要求を唱え続けた。これ以上の喪失は耐えられなかった。自らの手がもたらす災厄が、私の心を殺しそうだった。一か八かで、血を吸った。『出来損ない』の理性を無くした醜悪な表情が頭をよぎった。人工呼吸の振りをして、唇を重ねた。文字通り、甘い口づけだった。彼の口から吐き出される血の塊を飲み込み、それから白い筋肉質の喉に牙を付き立てた。どうやったら感染するのか、この時の私にはそのメカニズムが良くわかっていなかった。出来るだけ多くの血を吸えば良いと思っていた。ジェスリーは、私の吸血途中に一度死んだ。少なくとも心臓は停止したはずだ。私は彼の血を飲み干してしまったのだ。最後の一滴まで喉越しは甘美で、背徳的な快感が背骨をぞくぞくと走り抜けた。土砂降りの中、放心したようにしばらく座り込んでいた。雨の音に紛れて、遠くで微かに喧騒が聞こえる。諦めかけた頃、ジェスリーがうっすらと目を開けた。大きな犬歯を見せながら弱々しく笑いかけ、『ロザリー、早く、逃げようよ』と三度目の誘いをかけた。得意の冗舌さを披露する余裕は微塵も無いみたいだった。私は泣いた。二人で手に手を取り合って、その場から逃げ出した」

 結局、誰も救われないまま、破壊と蹂躙の限りを尽くし大雨の中で私の事件は終わった。

 ヴァイスから何の反応も返ってこないことが、無性に心をざわつかせた。

「それから、その事件は『魔女事件』と呼ばれて世界中に報道され、それを追いかけるように、『出来損ない』や新たに生まれた真性の吸血鬼による被害も拡大の一途を辿った。『吸血鬼ブーム』はこの国全土をあっという間に席捲し、すぐさま世界規模で流行を始めた。勿論、廃れることのない不可逆的な方向でね。私は早い段階で全世界に指名手配され、自暴自棄の隠遁生活の果てに、ジェスリーの助けを借りてこのラボを乗っ取った。元々、放射性同位元素を取り扱う施設だったらしくて、閉鎖隔離環境は整っていたし、超遠心機なんかの生物実験用の高級装置も小部屋のどこかに揃っていたから、私にうってつけだった。で、その後は、独自に吸血鬼と人間の共存のための研究を続けたり……吸血鬼のモデルとしての人形を創ってみたり、まあ、そんなような三年間が続く。君の知っている私は、とても表面的な部分でしか無かった、わけだ」

 振り返ってみれば、あっと言う間の人生だった。自分の全ての行為に意味を求めて、しかしその悉くに失敗し、あっけなく、挫折と絶望の待つ落とし穴に落っこちた。取り返しのつかない過ちを犯し、失った物を取り戻そうと必死で手を伸ばし、結局事態を悪化させることしか出来なかった。そして、そういった過去の一瞬一瞬が、後悔と自責を弾き出す銃の引き鉄にしかならずとも、私はそれを胸に仕舞い込み、上辺だけ優しさを繕って、永遠を永遠として生きていくつもりだった。

「……こんな私を、恐いと思うか?」

 顎の辺りしか見えなくなったヴァイスが、頷くのがわかった。

「間違っていると、思うか?」

 こくん、と再び小さく上下する顎。

「こんな私は、嫌いか?」

 三度目の問いにヴァイスは、

「嫌いじゃない」

 力強く首を振った。

「今のミズも、『魔女』だったミズも、たぶん両方ミズなんだろうけど、でも、やっぱり違う。僕は、今のミズは好きだ。昔のミズまで受け止めるのなんてすぐには無理だけど、でも今のミズを好きだっていう気持ちは変わらない」

 私の全てを受け止めて欲しい。

 今の私だけを見ていて欲しい。

 相反する二つの感情が私の中にある。

 相手の全てを受け止めたい。

 今の相手だけを見ていたい。

 相反する二つの感情がヴァイスの中にある。

 あの人形の中にも、きっとあったのだ。

 そして、その二つを両方成そうとした時、あるいは両方成したつもりになった時、歪みは臨界点を迎えた。だから、爆ぜる。

 相手の全てを受け止めた時、そこには初めて真の理解が生まれる。しかし、全てを知ったからこそ、永遠を共にすることは出来なくなる。相手の嫌な部分、見たくなかった部分と向き合いながらずっと生きていけるほど、人間は強くない。殊に、それが本当に『永遠』ならば尚更だ。

 今の相手だけを見つめた時、臨機応変に自分の見せ方を変えるだけの狡さや適応力、あるいは優しさがあれば、永遠を共にすることは出来るかもしれない。だが、そこに真の理解は生まれ得ない。嘘偽りにまみれた虚飾の関係があるだけだ。それが『永遠』に続くことも、あるいは残酷かもしれない。

 どちらが良いのでも悪いのでもない。永遠を共に生きることの、難しさがここにある。死ねないということの意味。死ねない者同士であってもどうにもならない、人間関係の妙。全てを知ってはいけない。しかし、全てから目を逸らしてはいけない。きっとどこかで破綻する、波の上に浮かぶ天秤のよう。

 気付いていたんだ。

 自ら私を裏切って離れて行ったシュウヘイも、少し距離を置こうとしてくれたジェスリーも、『灰になる迄』とヴァイスに告げたこの私も。どこかで、わかっていたんだ。

 相手の全てを理解しながら永遠を生きることが、不可能だということを。

 シュウヘイは、私の全てを受け止めようとして、だからこそ私と共に暮らせなくなった。

 ジェスリーは、私と永遠に付き合っていくために、あえて少し遠く、お互いが深く干渉しない距離に立とうとした。

 そして私は――

「私達は、永遠を共に生きることは出来ない。覚悟を決めろ、ヴァイス。君は、灰になる。いつかはわからないが、きっと灰になる。日光に対する抵抗性を保持させたが、その分他に、君には致命的な弱点がある。毎日注射していた薬は、吸血衝動抑制剤のつもりだったものと、それからホルモン剤と何種類かの抗生物質だ。君は、ウィルスや細菌感染に対する免疫能を、一般人以下しか持っていない。もし、風邪や何かの病気にかかって四十度以上の発熱をしてしまった時、トリガーである熱ショックタンパク質がそれを感知すると、君の体は末端部から徐々に灰に変わるように調製されている。ああ、そう恐がることは無い。免疫機能が弱いということは、抗原に対して苛烈な反応を起こしにくいということで、治りの遅い分、発熱や発赤などの症状はむしろ穏やかなんだ。つまり、それでもなお高熱を余儀なくされるような重篤な病に冒された時こそが、君の最期というわけだ。……人間と似ているね。君は、熱にうかされながら、ことが運命付けられている」

 ヴァイスの顔が強張るのが分かった。生きていないはずのその身に告げられる、死の宣告。彼はそれを、どのように受け止めているのだろうか。

 残酷だったかもしれない。しかし、これが私の決めた道なのだ。

 私は、永遠を共に生きられなくても構わないから、真の理解と本当の信頼関係で結ばれた大切な相手と、暮らしたかったのだ。死ぬことが出来るからこそ築くことの出来る、そんなかけがえの無い関係の中に、身を置きたかった。それが私の願いだったのだ。

「昨日、私は君の声で戻ってきた。君が、、私は血を吸わずに、ただ君を抱き締めることが出来た。二人でとにかく泣いて、謝り合って、慰め合って、それでも安らかに、お互いの体温を感じながら眠りにつくことが出来た。私は、今度こそ踏み止まったんだ。信じて欲しい。全ての過去を背負いながら、それでいて私は私であることを。その全てを。私も君を信じる。私のせいで人を殺すことになった時の覚悟も、それ以来拳を握ることに覚える躊躇も、そこに息衝く確固たる信念も、私への従順とそれを上回る畏怖も何もかも、君の全てを受け止める」

 最後の炎が、消えた。闇の中で、不安のためか口を閉ざしたきりのヴァイスに、私は告げた。秘めた決意と、私が私であることへの矜持を言葉にして。



「ヴァイス、一緒にラボを出て、私のになってくれないか?」



 あの時、僕はあの人を止めた。昏睡から目を覚ました時、首筋に微かな痛みがあって、あの人がそこに噛み付いているのがわかった。瞬間的に、喜びが広がった。どんな形であれ、自分が求められていることは、僕の生きる意味になり得るのだ。これが、僕の願いだったものだ。そう納得しようとした刹那、想いとは裏腹に、やめて、と小さく僕の口が動いた。自分を騙すことは、僕には出来なかった。急速に喜びが萎えて行き、ヴァーチャル空間で『出来損ない』に襲われた時のような嫌悪が肌を撫でた。これはあれと同じだ。直観した。

 血を吸われると、全てが終わってしまう気がした。僕の全てが否定される気がした。そして、僕が否定されることは、そのままあの人自身を否定する不快に繋がるように思えた。

 だから、止めた。

 ミズ、やめてよ。

 首筋に刺さった牙を抜きながら、魂が抜けたような表情でのろのろと顔を上げたあの人に、僕はさらに告げた。

 そんなの、ミズじゃない。

 あの人は突然声を上げて泣いた。子供のように泣いて、それからうわ言の様に謝り続けた。すまない、すまない、私はどうかしてたんだ、ヴァイス、すまない、どうか、ヴァイス。いつまで経っても全然落ち着いてくれなかったから、僕はあやすように額にキスをした。そして、いつもあの人がしてくれるように、頭を抱きかかえてそっと撫でてあげた。大丈夫、大丈夫だから。繰り返し、口の中で呟き続けた。

 それから、あの人がだいぶ落ち着きを取り戻した後、今度は僕が泣いた。それまでの不安が一気に爆発した。それに、元はと言えば僕があの人の血を吸おうとしたことが悪いということにようやく思い至ったのだ。僕は何度も何度も謝って、髪を指先で優しく梳いて貰いながら、流れ落ちようとする涙を堪えた。男の子だから。いつまでもめそめそしているわけにはいかない。僕は強くなった。

 その後は、お互いに慰め合いながら、床の上にずっと二人で座り込んでいた。抱き締め合うと、心が安らぐのを感じた。僕はこの感情の名前を知らない。

 血を吸うこと。血を吸われること。

 血を吸わない吸血鬼。

 僕が知るあの人。

 あの人は、僕の望む通り、その場所に戻って来てくれた。でも、もし戻って来られなくても、僕はあの人を嫌いになったりしなかっただろう。それはそれで、きっと悲しかっただろうけど、僕は色んな理由を付けて納得していたに違いない。

 僕も、わかっていたんだ。

 変わらない。

 今しか見ないんじゃない。相手の過去を認めたくないんじゃない。

 あの人が好きだから。その感情だけは止められないから、あの人の良い所だけを思い浮かべて、好きの名目を見つけたかっただけ。それはつまり、どんな過去を知っても僕の想いは揺るがないということだ。

 全てを受け入れるのは無理だと言い捨てながら、全てを受け入れてしまえる盲信。それこそが、あの人への僕の想い。名前の付けられない感情。全てを知ってしまった時、関係が壊れると考えてしまったことすらも、杞憂に過ぎなかった。それは、僕の自分自身に対する恐れの現れだ。僕は時々、まるで自分が自分でないように感じていた。分不相応な思いに振り回されていた。元々自分がどうして創られたのかわからないという根源的な不安もあった。そういった、確かな足場を持たない自分への不信感が、強い感情の発露に信頼を置く際、重い足枷となって顕在化していた。

 そうさ。何を迷うことがあったのだろう。僕には本当に元々、あの人しかいないのだ。

 何をおいてもその前に、あの人の存在があったのだ。そんな盲信に気付いた今、割り切る事だって至って簡単だ。僕は、戸惑うために自ら好んで戸惑っていたに過ぎない。最初から迷宮に目もくれなければ、元より迷う必要など無かったのだ。

 君を作って良かった。その言葉さえあれば良かった。

 灰になる迄。

 そんな覚悟はとっくに出来ている。

 僕が灰になるのなら、そしてそれまであの人が一緒にいてくれるのなら、それが僕にとっての全てだ。僕は何を躊躇うことがある?

 あの人の不安そうな気配が知覚出来る。暗闇の中初めて、僕の心は明るい。

「僕は、ミズを信じるよ。僕にはミズしかいないんだから。どんなミズでも、僕は好きになる。理由になってないかもしれないけど、だって、それがミズだから」

 迷いなんて一欠けらも無く、心から嬉しいはずなのに、目から涙が零れ落ちた。

闇の中で影が動く気配があって、ミズがテーブルを回って僕の隣に立つのがわかった。後ろから、覆い被さるように僕にもたれかかって来る。

「泣くなよ、ヴァイス。男の子だろ」

 僕の胸の前で、あの人の両腕が交差する。左の頬を優しく吐息がくすぐって、涙の跡を下から上に柔らかい舌が撫でていく。僕は目を閉じて、先程のあの人の言葉を反芻した。

――ヴァイス、一緒にラボを出て、私の人質になってくれないか?――

 あの人は僕を誘ってくれた。外の世界に連れ出してくれるのだ。あの人の全てを受け入れて、導き出された僕の未来だ。僕のために用意された選択肢だ。僕はあの人と一緒にラボを出て、そしてあの人の人質になることが出来るのだ。

……人質?

 今更ながら、その妙な言葉に気付く。

「ちょっと気になったんだけど、人質って何?」

「……君は、人質を知らないのか?」

「いや、知ってるけど。ラボから出て、何で人質になるの、僕」

 目尻の近くで囁くように答えるあの人の息がくすぐったい。でも、心が満たされる。

「『八王子事件』を事件にしない方法さ。どこかの研究所に乗り込んで、私は自分の体を生きながらにして献体に出すことと、これまでの研究成果を無償で提供することを条件に、身の安全を保障してもらう。君は、研究成果という名目で勿論私と一緒に来るんだ。ただし、そこで君に酷い実験をするようなら、即刻出て行く。また、吸血衝動に負けて研究員の血を吸ったり、攻撃衝動に負けて傷つけたりしたら、例の神経毒を持つ軍を呼んで君もろとも殺してもらうことを誓う。君を守るためだと思えば、私はどんな衝動からもきっと立ち直れるだろうから」

「……でも、そんなの、取引に応じてくれるかどうかわかんないし……ラボから出て、どこか安全な場所で暮らすとか、旅して暮らすとかすれば――」

 顎を掴まれ、強引に顔の向きを変えられる。おもむろに重ねられた唇には、生クリームの甘さが残っていた。唇はすぐに離れて、優しく言葉が紡がれる。

「今、研究所は、生きた吸血鬼のサンプルを一番欲しがっているはずだ。国営の研究所で作られた神経毒と同等か、それ以上の製剤が作れれば、利権の関係で莫大な利益が得られる可能性が高い。民間企業は特に躍起になっているはずさ。だから、きっと彼らは私を受け入れてくれる。……けれども、それだけじゃ足りない。私はさらに要求する。本当に吸血鬼と人間の共存のために目指すべき道を示す。吸血鬼を人間に戻す方法を探させる。私自身も全力で研究する。吸血鬼は、感染する以上、原因となる因子が必ず存在する。そうである限り、治療する方法がきっとある。それが、科学というものさ! 吸血衝動抑制剤の作製だとか、根本的に私は視野が狭すぎたんだ。抜本的な解決を、狙う。何年かかるかわからない。何十年、何百年かかるか知れない。けれども、これが、世界を破滅に向かわせた私の罪滅ぼしだ。君は、もしかしたら途中で重い病気に罹患してしまうかもしれない。でも、君は人質だから、研究所的には死なせるわけにはいかない。きっとここにいるより遥かに素晴らしい措置を施してくれるだろう。つまり、安全に、一緒に暮らせるんだ。もしも吸血鬼から人間に戻る術が開発されたなら、その時、私の役目は終わる。そうなったら、人間になっているはずの私と、基本的な器官が足りてないから人間になれないはずの君で、研究所を辞めるか抜け出すかして、郊外の安アパートでも借りて、そこでまた二人で死ぬまで暮らそう。君が灰になる迄。……あるいは、私が骨になる迄」

 もう一度、キスをした。

「もしかしたら、そんな風に上手くいかないかもしれない。密告の可能性と、共倒れになる可能性の双方を考慮して、ジェスリーの助けを今日限りで断ってきた。何の後ろ盾もなく、吸血鬼と人類という壁を突破して、向こうで生活しなければならない。人類と吸血鬼は根源的にわかりあえないのかもしれない。外に出た途端に、待ち構えていた特殊部隊に射殺されるかもしれない。だが、それでも私は、後悔しない。もし今、君が私を拒んだら、私はきっと君を置いて一人でここを出て行く。最寄りの研究所に出頭する。そして、ラボで元気に暮らしているだろう君を心の糧に毎日を生きる。私が骨になる迄。あるいは永遠」

 鳥が餌を啄ばむように、唇を求め合う。あの人の言葉は止まない。

「決めたんだ。私は、世界を救いたい。世界が私を滅ぼそうとも、私を裏切ろうとも、私が世界にしてきたことを考えれば、そんな報いは当然。もう、負けない。私は、ミズ・ヴァンパイアとして、ロザリー・オルトレーゼンの不始末にけじめをつける」

 息が、荒くなる。口腔内で舌が絡まりあう。求められるままに、応じ、貪る。

「ヴァイス……、私の愛する君……、私を信じてくれると言った君……。一緒に外に出て、人質になってくれ。頼れる者のいない孤独な人間の世界で、私の支えとなってくれ。私を愛し続けてくれ。信じ続けてくれ。そして一緒に暮らそう、灰になる迄」

 泣いているのが、わかった。唇を重ねて、甘ったるいクリームの残り香を味わいながら、あの人は涙を流していた。僕が泣いているかどうかはわからなかった。むしろ、どうでもよかった。きっと泣いている。クリームの甘さと、あの人の味、そこに涙の塩気が混じる。

 答えは、二度目だ。

 変わるはずが無い。

 変わろうはずが無い。

「ミズ……、僕の大好きな人……、僕を信じてくれると言った人……。ミズが望むなら、僕は何だってする。そして、全てのミズを信じる。血が吸いたくなったら吸ってもいい。壊したくなったなら肢の一本くらいならくれてあげる。ただ、ミズがミズでいてくれればそれで良い。永遠を放棄して、僕はそれでもただひたすらにミズを支え続けよう。ミズが、骨になる迄」

 まるで、契約のようにその言葉の交換は成された。

 体を捻って、正面からあの人に相対する。僕は笑顔で、そして、あの人は泣き顔で。でも二人とも非常に似通った表情で。腰を下ろして座っているあの人に、僕は膝を立てて顔の高さを合わせる。

 闇は深く、見えないのに見える視界の中で、あの人が涙を拭いた。

「ミズ、お願いがあるんだ」

 あの人の両頬を挟むように手を添えて、優しく、唇を奪う。今更ながらの、口付け。

「お願いだって? 言っただろう。願いは叶わない。祈りは届かない。だから世界は滅ぶんだ。……でも逆に言えば、願いが叶う、祈りが届く、そんな世界なら、きっと滅びはしないんだ。さあ、言ってご覧。世界が滅ぶかどうか、私が決めてやる」

 苦笑をこぼすように、はにかむように、あの人は静かに呟いた。

 僕は、そのまま右手であの人の頭を支え、左手で右腕を掴んで、全体重をかけるように寄りかかった。力を抜いたあの人が、僕に組み敷かれる様に、冷たい床に横たわる。細いウェストの辺りに跨る。思わせぶりに、上着を脱いで行く。上半身裸になったところで、あの人が何かを思い出して体を強張らせた。

 僕は、あの人を安心させるように、ゆっくりと覆い被さって行く。乱れた白衣を剥ぎ、鼓動を確かめるように胸に手をやる。柔らかい弾力を感じ、僕はわけもなく癒される。

 耳元へそっと、唇を寄せた。

 小さな小さな声で。

 いつかの誰かの、壊れた願いを囁く。

 ただ、今度こそは過ちでない確信を秘めて。



「……子供を作ろう」



 一筋、熱い涙が私の目尻を流れ落ちた。

 弱みは見せたくなかったはずなのに。

 どうしてこんなにも、弱くなれるのだろう。

 生まれて初めて求められたこの記念すべき時に、私は上手く応じることが出来るだろうか。

 不安が覚悟に変わる。

 口を開き、そして告げる。

 ただ、想いのままに。

 懺悔からでも罪悪感からでもなく、自分の心にあるその感情に後押しされるままに。

 後ろめたさの無い、真っ直ぐな瞳で。

 決して、赤くない瞳で。

 歪みの無い、純粋な気持ちで。

 ――ただ、やっぱり少しだけ照れを隠しながら。



「ヴァイス……きっと世界は、滅びないね」





“Please Love Me, But Not Eternally” is over.

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