世界の終わり


 いつか、こんな日が来る様な気がしていた。

 目の前で自分に向けて拳銃を構えている女がどうして泣いているのか、それはよくわからなかったが。

 吸血鬼特有の、五感以外に存在する例の感覚で、自分の家の敷地内外合わせて、半径五〇メートルの間に、四〇人近くの人間が潜伏しているのが分かり、さすがに警戒に手を抜いていたことを後悔した。たぶん、背後の窓の遥か向こうから、直接俺を狙っているスナイパーもその中には含まれるだろう。アンチ・Vという何の捻りもないネーミングでとうとう商品化までされた対吸血鬼用の毒素。殺鼠剤と同じくらいお手軽に手に入るそれのおかげで、対吸血鬼戦の装備は民間の業者ですらしっかり揃えている。神経伝達物質のみならず、吸血鬼特有のある種の細胞間情報伝達物質の働きを完全に抑制するらしいアンチ・Vは、取り込まれた組織からどんどん麻痺を進行させていき、物理的行動を抑制する。その段階までなら、麻痺した箇所を切り落とせば助かるが、吸血鬼の中枢たる大脳辺縁部にこの毒が到達すると、ありとあらゆる行動が不可能となる。つまり、ものを考えることも、体を動かそうとすることも出来ず、細胞単位では生きているのに何一つ組織立った自律活動が不能な、まさに生ける屍と言うべき塊が出来上がるのだ。毒の効果は、吸血鬼の驚異的な薬剤耐性のため、実際は数分間で駆逐されてしまうらしいが、酸素マスクのような形で、強力かつ強制的に神経毒を供給し続ける装置も用意されていて、生ける屍となった吸血鬼はそれを着けられたまま、国ごとに定められた特定の施設に搬送される。そこで、アンチ・Vに満たされた棺桶程の大きさの密閉容器に移されて、液体窒素の海の中に沈められ、半永久的に封印されるらしい。

 ……それが、俺の末路だ。

 最初の吸血鬼が発見されてから僅か三年で世界は、いや、人間の社会は滅ぶ直前まで追い詰められ、一転してこの国でアンチ・Vの前身が開発されるや否や、僅か二年で徹底した吸血鬼対策が確立した。……驚愕すべき事態だ。人類の、生存への欲求は常軌を逸している。多くの動植物を絶滅の憂き目に合わせておいて、いざ自らの順番になると自然の摂理に逆らって現世にしがみ付きやがったのだ。

「シュウ、私ね、気付いてるかもしれないけど、エレヴ社のエージェントなの。最初から、あなたが吸血鬼かもしれないっていう情報の真偽を確かめるために、あなたに近付いたの」

 俺に銃を向ける女は、そう、何と言ったか、マリアだかメアリーだか、やけに有り触れた名前だけを名乗り、後は、地上の安寧が確保されて政府から安全宣言が出された一年前まではどこそこの集団避難シェルターで暮らしていた、みたいな当り障りの無い情報だけを俺に寄越していた。肉感的な体付きなのにそれを誇示せずにむしろ覆い隠そうとする控え目なファッションと、潤いのある薄い唇、完璧なアイラインに惹かれた。そんな彼女が、民間企業としては世界でも一、二を争う吸血鬼駆除組織であるエレヴ社の人間だとは想像も出来なかった。まあ、家に来るなり拳銃を向けられた今となっては確かに気付かざるを得ないが、清楚で落ち着いているように見えるが実は勝気で我の強い、『はねっ返りのお嬢様がそのまま大人になったような』彼女の姿とのギャップは、今も埋められないでいる。

 その彼女は、何故か涙を流しながら、震える腕で銃を握っている。

 似合わない。洗練された無駄のないデザインの赤いドレスに、無骨な拳銃は似合わない。

 涙は、何となく似合っている気はした。ドレスに関係なく、彼女に。雫となって頬を伝い流れる様子は、まるでそれ自体が宝石であるかのように優美だった。

 銃を向けられてただ立っているのも癪だったので、両手を上げて降参の意志を伝えてみた。こんな事態には慣れていないので、マニュアル通りに無抵抗を提示出来た自信はない。

「参ったな。これでも俺は、吸血鬼であると全く疑われない生活をしてきたつもりだったんだぜ。他の人間さまと同じように、安全宣言が出されるまで四年間も共同地下シェルターに隠れていたし、そこでも人間の血は吸わなかった。時折、『出来損ない』の首筋に噛み付いて渇きを癒してやり過ごしたんだ。勿論、その後は首を落として心臓に杭を打って完全に殺した。人間さまの役に立っていたという自負はあるが、今更こんな風な目に遭わなけりゃならん筋合いはない」

 マリア……いや、メアリー……?は、俺の軽口に、ひっくと喉を鳴らして泣き、銃を持っていない方の手で涙を拭い、鼻を啜った。丸っきり自分を剥き出しにしてしまっている。この女との付き合いは一ヶ月くらいになるが、そんな様子を見たのはこれが初めてだった。

 まあ、逆に言えば、これまではそれくらいの関係だったってことだ。

「吸血鬼は、人間社会の維持のためには、根絶されなければならないの。身元の判明している吸血鬼は、全世界で九割方駆除された。中でも最も早く安全域まで駆除されたのは、この国。安全宣言が出されて以来、表立った大々的な健康検査で住民に紛れ込んだ吸血鬼を捜したり、その裏で独自調査による感染経路の特定も行われているわ」

 涙ながらに、長々と弁舌を振るう。微妙な男女関係のセンチメンタリズムに浸っていた俺も、その勝手な言い分には腹がたってきた。

 根絶、駆除、感染。

 他の言い回しは無いのか。人間さまにとって、俺達はそんなものなのか。病原体と同じ扱いをしやがって、人権だの何だの、そういったものは考えられないのか? お得意の人道主義はどうした? 吸血鬼は人外のものであるというレッテルを貼って、それでお終いか。吸血鬼を巡る事件の最大の被害者は、ある意味であいつ以外の全吸血鬼だというのに、誰もそんな事情は考えてくれないわけか。

 苛立ちに軋む胸の中に、形容しがたい色をした感情の亀裂が走る。

 表面的には皮肉の一つでやり過ごす。

「だとしたら、尚更おかしいんじゃないか? 感染経路の特定だなんて言うが、あいつの過去をちょっと漁れば、真っ先に俺に行き着くはずだろう。今更エージェントが来るのは、明らかに遅すぎだ。職務怠慢じゃないのか?」

「ええ、あなたから見ればそうかもね」

 マリアだかメアリーだか、おそらく本名でない名前を名乗っていた女は、思いの外冷静に受け流し、引き鉄から指を外した。銃把を五指で握り、銃口は依然こちらに向けている。

 呼吸を落ち着けてから、唐突というに相応しいタイミングで、告げた。

「ジェスリー・ウォルフという名前に聞き覚えはないかしら」

「な……」

 絶句。まさか、ここで奴の名が出てくるとは思わなかった。学生時代、つまり、五年前あの事件が起こるまで、俺が作っていたバンドでボーカルを担当していた男である。

「親友だった男だ。あの事件で死んだはずの」

「とんでもない。生きているわ。いえ、生きてはいないわね。あなたと同じよ」

「……吸血鬼……?」

「ええ。彼は、あの『魔女事件』で吸血鬼となって生き残った……まあ、語弊がある言い方だけど、そういうことになるわね。そして悪いことに、彼のお父さんは、この国のVIPだった。ジェスリー・ウォルフはそれを利用して、自身やあなたのことを揉み消していたの。記録上、あなたはこの国で生まれてからすぐに地球の裏側へ引っ越して、そのままそこで暮らし続けていたということになっていて、『魔女事件』や、あの娘との関係は全く存在しないように偽装されていた。あの事件に巻き込まれた人で、本当の意味での生存者は居なかったから、証言は殆ど得られない。文書を偽造されたら、それだけで調査は困難を極めた。だからこんなに遅くなったのよ」

 はあ、と女は疲れたように息を吐いた。目元が赤く、まだ潤んでいるが、落涙は止んだ。

 ……ジェスリーが、吸血鬼?

 俺は、複雑な思いでそれを受け止めた。

 あいつ、やっぱりあの時まだ童貞だったのか。何だよ、あの野郎、恋人が三人いるとか、毎晩毎晩熱い夜を過ごしているとか、行きつけのバーの地下では乱交パーティーが月一で催されているとか、適当なことばっかり言いやがって、無駄な見栄張って、こんな形で陳腐な嘘が見破られるなんて、とんでもない間抜けじゃないか。馬鹿な奴だ。

 ……馬鹿な奴だな、ほんとに。

 『出来損ない』になり損ねて、死に損ねたのか……。可哀相に。

 良い奴だった。俺がと喧嘩するたびに、ジェスリーは仲直りのためのサプライズ企画を考えてくれた。いつもいつも、本当にとんでもない計画を立てて――例えば、花束で埋め尽くしたオープンカーでデートに誘い出す、とか――それが失敗するのがまたおかしくて――当日どしゃ降りになってまともに出掛けられなかった挙句にレンタカーが青臭くなって罰金を払わされた、とか――、一緒に笑うことが仲直りの合図になっていた。

 ジェスリーの唄は、凄かった。マシンガンのような速度で英語の歌詞をまくしたてて、高音域に響くあの歌声は、魂を揺さぶるというか、聴いていて感動すら覚えたものだ。ただ、楽器はまるで駄目だったし、作詞の才能も全く無かった。それでも英語詞にこだわるもんだから、ヨハンが辞書を引きながら作らされていたな。

 楽しかった。あの頃は、本当に。

 もう絶対に戻れないからこそ、思い出は過剰なほど美しく見えるのかもしれない。

 あの頃胸を焦がしていたあらゆる苦悩を遥かに上回る現実が、今、眼前に聳え立っている。これは、揺るぎようの無い事実だ。

 半端だったあの頃のような甘えは、もう許されないのか。期せずして、溜息のような妙な吐息が漏れた。頬が歪む。

「ジェスリーは、もう……やられたってことだな?」

 駆除、殲滅、殺害。どれもこれも、使いたくない単語だったり正確でない単語だったりで、良い言葉が思いつかなかったので、代動詞を使ってニュアンスを伝えた。

 女は、拳銃をすぐ脇のテーブル上に置いて、俺の目を真っ直ぐ見た。涙は、もう完全に止まっており、薄い化粧が剥がれた跡となってそこにあるだけだった。

「……ええ。彼の駆除は、一月ほど前に完了したわ。私があなたに出会った、その三日前くらいに。だからこそ、私があなたのところに来たんだもの」

 …………。

 今日まで、俺は、ジェスリーに助けられて生きてきていたのか。独力で上手く隠れているつもりで、その実それは全て、俺の知らない領分で行われていたジェスリーの隠蔽工作のおかげだったというわけか。

 …………。

 そして、奴がやられた今、俺を庇護する者はおらず、エレヴ社は何十人目だか何百人目だかの吸血鬼駆除を成功させようとしている。

 …………。

 馬鹿馬鹿しいにも程がある。俺は、身の程をわきまえずに行動していただけなのだ。

「最初はね、本当に、ただ、調査のつもりだった。吸血鬼である可能性がとても高いと教えられていたし、いざという時のためにアンチ・Vは手放さなかったわ。だけど、だけどね、シュウ……」

 女が、何事か喋っている。俺は、銃口が向けられてもいないのに上がりっぱなしになっていた両腕を下げ、もう一度、六番目の感覚を周囲に向けて放出、拡散させる。自分を中心に円を描くよう、三六〇度を知覚する。

 包囲は狭まっている。確実に。

 必殺の範囲に入るまで、この女はうだうだと時間を稼ぐ役であるというわけか。

「私は、あなたのことが本当に、本当に好きだったのよ……」

 ああ、なるほど。

 そういうことにしたいわけか。だから泣いていたんだな、最初から。

 悲劇のヒロインを演じているエージェントに騙されて隙を見せたが最後、それが俺の吸血鬼人生の終焉となるわけだ。

 吸血鬼を確実に追い詰める良い戦略だ。それは認めざるを得ない。現に、俺自身もここまで追い詰められている。

「……こんな、こんなことになって、今更だって思うかも知れないし、信じてくれないかもしれない。でもね、シュウは、本当に、普通の人間と同じだった。優しかった……。私は、あなたに逢えて、本当に嬉しかった……」

 吸血鬼に接近する役のエージェントの単独不意打ちによる襲撃は、あまりにも成功率が低い。重武装していたところで、一対一で吸血鬼に勝てる見込みは薄いからだ。だが、かといって単純に大部隊で攻め込めば良いかというと、今度はその数がたたって、存在を察知されて逃げられたり、あるいは思わぬ逆襲を食って多くの犠牲者を出すリスクも拭い難い。一国の軍ならまだしも、民間団体では上手くない。ローリスクでハイリターンを狙うには、不意打ちも可能だったはずのエージェントが時間を稼ぎ、吸血鬼が大部隊の包囲網に気付いても動くに動けない状態に持っていくのが一番賢い。

 吸血鬼も、鬼ではない。良心くらい持ち合わせている。

 自分が心を開いていた相手がエージェントだったと知ったからといって、即座に敵と見なして殺してしまえる冷徹な人間はなかなかいないだろうし、それは吸血鬼にしても同じ事だ。まして、相手も苦悩していると知らされて、心が揺らがない者はいないだろう。

 そこに、確実に隙が出来る。

「……聞いてる、シュウ?」

 女が、俺の名を呼んだ。

「ああ、聞いているさ。聞いているとも」

 まずい。本当に助かりたいなら、そろそろ動き出さないと、さすがにまずい。

「わかっていると思うけど、今、この家の周りを、私の会社の対吸血鬼特別編成チームが取り囲んでいるわ。もうすぐ、狙撃も始まる」

 ふざけたことを言うな。

 狙撃なんて、いつ始まってもおかしくない。

 お前が銃をこちらに向けていた時から、ずっとだ。ただ狙撃手は、お前を殺さずに済み、俺に回避される可能性が少ない、最適なタイミングを窺っているというだけの話だ。

「私の権限では、それを止めることは出来ない……。でも私ね、あなたを、殺したくなんてないのよ……」

 止まったはずの涙が、また流れる。実に演技の達者なことだ。まあ、エレヴ社の人間であることを隠したままこの一ヶ月吸血鬼と交際していたのだから、それも当然か。

 素早く思考を巡らせる。

 地下シェルターへの逃げ道はまだあるか? だが、相手にしてもこの家の下調べは既に済んでいるはずだ。逃げ込もうとすることすら計算の内だろうか? シェルターに逃げ込めば袋の鼠となるが、袋の中にいる限り安全だ。しかし、外から駆除する手筈を整えられて万事休すかもしれない……。やってみる価値は無くは無い、と言ったところか。

「ここから、逃げて」

 勿論そのつもりだ。

「私は、たぶん無理だと思うけど、外の人たちに、攻撃を止めるように頼んでみる。攻撃自体はたぶん止まらないけど、困惑して隙が出来ると思うの。だから、その間にどうにかして逃げ切って」

「お前は、どうやって逃げるんだ?」

 俺を狙う銃口、特に、窓の向こうから狙う銃口は幾つだ? 壁を貫通してこちらにダメージを負わせるほどの重火器があるとは思えない以上、最初の一撃は窓から飛び込んで来るはずだ。部隊の突入よりも先に、絶対に狙撃がある。アンチ・Vはその特性上、吸血鬼の身体に直接撃ち込む必要がある。呼吸器から吸入させるのが脳への到達速度も早く簡便だが、残念ながらそんな危機的状況下でのんびり深呼吸してくれるお人よしの吸血鬼はいない。不死者に呼吸は必要ないからだ。呼吸とは、「エネルギーを作り出すのにとても効率の良い一手段だから普段は使っている」くらいの認識でしかない。そこで、アンチ・Vを体内に送り込む手段として最も容易なのは、毒入りの銃弾を命中させることだ。

「心配してくれるの? 優しいのね」

 ……そうだ、いきなり思い出した。メアリーだ、こいつの名前は。

 あの日、買い物帰りに何人かの暴漢に追いかけられていたという、今にして思えばふざけ切ったシチュエーションで出会ったこの女は、その日の内に俺の家まで押し掛けて、誘うような仕草でそう名乗ったのだ。純粋そうに見えて、二人きりになった途端に大胆になる奴だな、と楽しくなった。

 発作的に、血を吸いたくなったのを覚えている。

 あの時血を吸おうとしていたら、アンチ・Vの接射を受けて昏倒でもしていただろうか。いっそそうなっていた方が、楽に死ねたかもしれない。もしくは、相手がエージェントであると気付いて深入りする前に殺害し、周囲の警戒に力を入れるきっかけに出来たかも。

 今更後悔してみても遅い。結局、吸血衝動を性衝動に置き換えるという、昇華という言葉で括るにはひどく邪な適応規制で俺はあの場を乗り切ったのであり、体の相性はばっちりで二人ともお互いの肉体に夢中になり――少なくとも俺はそう錯覚し――、その延長として今のこの状況がある。完全に自業自得だ。

「私は、大丈夫よ。心配しないで。いくら裏切ったからといって、まさか仲間に殺されることもないでしょ」

 裏切る、か。簡単にそんな言葉を吐く人間が、一流企業のエージェントの中にいるわけがないだろうに。この女は、本当に俺を騙せていると思っているのだろうか。

――いつか、貴方みたいな人に出逢えると思ってた――

 現実は厳しい。

「……ふざけるなよ」

「え?」

 文字通り、俺の目の色が変わったのを見て、メアリーがびくっと身体を震わせる。

 瞳が血のような赤色に染まる。闇を映すような漆黒から、それを照らすような真紅へと変貌を遂げる。

 別段、どうということもない。自分でもよくはわからないが、気持ちが昂ぶった時に、それと自覚していなくても、吸血鬼の目は赤く光るものらしい。最初、鏡で確認した時には驚いたが、今ではもう慣れ切った。見なくてもそれとわかるほどに。

「わけのわからないことを言いやがって。そちらの魂胆はわかりきってるんだ。俺がまるで人間と同じで、とっても優しかったから好きになって、だから俺を助けるために仲間を裏切る、だと? 本気で騙されるとでも思ってたのか? これまで同じ手口で何人騙した? 何人殺した? そいつらもさぞや優しい吸血鬼だったんだろうなあ」

「シュウ……。やっぱり、信じてくれないか……」

 女は、悲しそうに目を伏せてみせ、一度は机に置いた拳銃にのろのろと手を伸ばした。

「……何のつもりだ」

「今更、信じてくれなんて都合の良いこと言わないわ。怒って当然だもの。ただ、私は私のやりたいようにやるだけよ」

 メアリーは、やけに手馴れた様子で銃口を自分のこめかみに押し付ける。絶句する俺の前で、よくわからない笑みを浮かべた。糸の様に細くなる目。慈悲深いとすら錯覚させられる、柔和な顔。こんな状況でなければ、心が洗われるように感じていたかもしれない。

「大丈夫、自殺するわけじゃないわ」

――大丈夫、私はそんなに弱い人間じゃないよ――

 迷い。何かを具現化した幻が頭をちらつく。

 今更だ。包囲は狭まっている。この期に及んで何かを考えている余裕があるわけでもない。この女を盾にして突破するとか。無理か。女が捨て駒にされる可能性が否めない。やはりここは単純に地下に立て篭もり――

「おい」

 メアリーは、拳銃を自分に突きつけたまま、俺の方に近付いてきて、そしてその横を通り過ぎた。背後の窓にかかるカーテンを開け、クレセント錠を外して窓を全開にする。芝生の敷き詰められた、広くもない庭が見える。手入れは行き届いている。逆光の夕陽を受けて、女の流れるような金髪が輝いた。向かいの家の駐車場に停めてあるワゴン車の陰。そこに、狙撃手がいる。そんな気配がある。弾丸の初速とこの距離から考えて、回避はおそらく――可能。

 メアリーの指が引き金にかかる。

「ねえ!」

 それは、誰に向けての呼びかけなのか。無線を使うでもなく、大声で、辺りにいる全ての突入部隊員に聞かせるように、女は言った。

「私の命が惜しかったら、彼への攻撃をやめて」

 ……馬鹿な。

 こんな茶番があるわけがない。それでもまだやるか。

 あり得ない。この女が、俺を本当に助けようとすることなどあり得ないのだ。

 紛れもない。少し頭を働かせれば、わかる。本当に俺を助けようと思うなら、どうして? 特殊部隊の出動を要請しておいて、今更、助けたいだ何だと騒いだところで、説得力は皆無だ。俺は騙されない。

 俺を売ったのは、この女なのだ。

 この女が偽りの報告さえしていれば、薔薇色というには汚れ過ぎている、空虚でそれ故に幸福な、ソープドラマのような恋愛ごっこに興じていられたのだ。俺が人間だと、エレヴ社と全ての人類を裏切って報告していれば。たったそれだけのことで、この一ヶ月の嘘が、本当へと変わったかもしれないのに。

――僕達の愛は、これで永遠だね――

 禍々しい、グロテスクなあのセリフを思い出してしまった。

 。嘘が本当へと変わったかもしれないのに。

「もう、やめろ」

 夕陽を浴びて、その女の瞳も赤く見えた。髪も、もともと赤いドレスも、そして白い肌も。全てが赤く染まっていた。

 自分のよく知る赤と違う、優しい色彩。

 覚悟を決めたような、女の引き締まった横顔。震えることなく、一点、自らのこめかみを正確にポイントする銃口。銃把を握る右手。トリガーにかかる指先。

 にやりと笑う俺。ありえない程に伸びた、その犬歯。五年前に手に入れた、吸血鬼の牙。そして、その本質。

「お前ら、調子にのりすぎだ」

 とうとう仮面を脱ぎ捨てる。

 俺の瞳の色は、もう元に戻っているだろうか。人間であった頃のような、透き通る黒色に。こんなにも落ち着いているが、絶対にそれは無いだろうと、そんな確信だけが脳内に猛烈な勢いで広がった。

 今、俺の瞳は赤く輝いている。何故なら俺は吸血鬼だから。人間では、ないからだ。

「馬鹿馬鹿しい。詰まるところ、それが合図なのだろう? お前が直接、指示を出して俺を狙撃させるんだろう? 俺がお前を止めに行くとか、そういった致命的な隙を窓の真ん前で作らせて、それで俺を仕留めるわけだろう? 舐めるなよ、人間が」

「え、え?」

 吐き捨てるような言葉に、初めてメアリーが動揺を見せた。俺は、彼女が盾になって自分を狙撃出来ないような位置を選んで立ち、彼女の背中から話し掛けた。

「お互いに堅苦しい演技をするのは愚の骨頂。この際だからはっきり言ってやるよ。俺は、なんだよ。俺が優しいだとか何とか、わけのわからんことを言いやがって。調べたはずだろ。知ってるはずだろ。俺が、

「…………」

 女は、背後からでもそれとわかる様子で、喉を鳴らした。唾液を無理矢理嚥下する音。そのさらに向こう、道を挟んだ車の陰から、自分では隠れているつもりらしい銃口が覗く。目ではなく、感覚でそれを捉える。それは明らかに俺を狙っていたが、その斜線上には、自殺直前のような体勢のメアリーがいる。そう思い切って発砲は出来まい。

「さっきも言ったがな。地下シェルターにいる間、俺は人間の血は吸わなかった。ただ、非処女であることを確認、または既成事実として女の首筋に噛み付いて、だけだ。お前らの言う『感染』は、唾液の注入だけで成立するからな。何度も言うが、俺は人間が大嫌いなんだよ。。だから、『出来損ない』の女を創って、好きなだけ喰って、飽きたら壊した。その繰り返しだ。吸血鬼の血の方が、美味いんだ。俺が最初に知ったのがその味だったからかもしれねえが……あれは病みつきになる。かといって、一人の女の血だけじゃどうしようもない。おんなじ味が続くと気も滅入る」

 ここに来て、メアリーの腕が大きく震えているのがわかる。銃口が、こめかみ周辺をふらふらうろつく。周囲の全方向に注意を払いながら、俺はその背に近付いていく。

「なあ、メアリー……」

 そっと、ドレスで大きく開いた白い背中に手を触れる。ぞわり、と女の肌に鳥肌が立つ。

「本当に盾になるつもりだとしたら、別にいいよな?」

 背中から肩、そこにかかる金髪をどかし、白く美しいうなじ、美味しそうな首筋を順に撫でる。

「自分に噛み付いたら一斉に俺を撃つ、と、今度は俺を脅してみるか? 今更? この場から逃げる方法が多くないからと高を括っていたのかもしれないが、それはお前の身の安全を保証する要素にはなり得ないんだぜ」

 左手をうなじに這わせたまま、右手で拳銃の砲身を握り潰す。自殺してもらうわけには行かない。後ろ向きに抱き寄せる。

「道連れ、だ。お前なんかに出し抜かれる程、俺は甘くない。人間なんかに出し抜かれる程、吸血鬼は温くない。おめおめと逃がしはしない。お前は、『出来損ない』になって理性を失って、吸血衝動だけで動く化け物と化して、同僚に狩られるんだ。もうその頃には痛みもなく、辛くも悲しくも何とも無いかもしれないが、人間としての尊厳も綺麗に死ぬ権利も、何もかも剥奪されて、無様に、首を刎ねられ、心臓を杭で一突きにされ、あるいは脳を抉られ、銀弾を打ち込まれ、吸血鬼として駆除されるのさ。……勿論、時間の許す限り、『出来損ない』となったお前の美味なる血液は俺が戴く。いや、お前は特別だ。『出来損ない』になる前からしっかり吸血してやろう。ずっと考えていた。お前の血は生のままで美味そうだ。吸血鬼狩りであるお前は、ある意味、もう既に人間ではないのかもしれない。俺は人間は大嫌いだが、お前のことはそれほど嫌いではなかった。だからこそ、逃がさない――」

 ざくり、と何かが刺さる感触が腹部を襲った。見れば、どこから取り出したものか、剃刀のような物がメアリーの左手に握られていて、それが後ろ手で深々と俺の脇腹に突き刺されていた。周囲に注意を向けている間、灯台下暗しとなっていたようだ。

 俺は迷わず剃刀を抜き、傷口をえぐる。

 シャツの上から、思い切り良く、一掴み分。腹の肉を握り、そのまま千切る。毟り取る。

 アンチ・Vが体に回るよりも早く、患部を根こそぎ奪い取る。肉塊を投げ捨てた。

「演技はどうしたんだよ……? 今更抵抗だと? ふざけるなよ……」

「い、や、やめて――」

「やめてたまるか」

 そして俺は、メアリーの背後から、リンスの香りのする髪をよけ、首筋に犬歯を突き立てる。身長差があって、不自由な体勢になる。

「ひ、痛――」

 皮が破れ、肉が裂け、血管に傷が付く。すべらかな肌に唇を押し付け、溢れて出てくる赤の流れを余さず吸い込んだ。

――甘い――

 人間ならば鉄の味がして、生温く気持ちの良いものではあるはずのない、それ。どういう変化か、それを甘いと感じさせる吸血鬼の味覚。そしてさらには、品種改良を成功させ過ぎた果物のようで甘過ぎて不快だと感じる俺の感覚。

 一方で、えもいわれぬ浮遊感に包まれる。欲求が成就した達成感が頭の中を駆け巡る。じわじわと広がっていく、本能で感じる幸福。

 舌の先端を、傷口を削るように、こじ開けるように動かす。こんこんと泉のように溢れ出す赤い液体をしゃぶり尽くす。

「や、やめて――」

 抗うその声が、嗜虐心を刺激する。捥がいても無駄。足掻いても無駄。後どれくらい、理性が持つか。瞳から正気の色が抜け、徐々に血の味が淡白に変わり、こちらの腕を掴んでいるその握力が何倍にも膨れ上がり、血を吸われることへの抵抗と、その逆の行為への欲求を抑え切れず、奇声を上げながら俺に踊りかかるのだろうよ。

 ざまあみろ。

 そして俺は、満たされながら、死ぬのだ。メアリーの変貌を目の当たりにした狙撃手が耐え切れずにアンチ・Vを撃ち出して、それを合図に突入が決行され、ガス弾が放り込まれ、弾薬がばら撒かれ、俺は全身麻痺の中意識を失って駆除されるのだ。

「シュウ……」

 切ない吐息にしか聞こえなくなった力の無いメアリーの声。だが、そこに込められた不穏な響きに、俺は気付かざるを得なかった。

「……道連れなのは、貴方よ」

 女の首筋に顔を埋めたまま、しかし俺の感覚は確かに捉えていた。

 俺に向けて、前方から殺到する、無数の弾丸の存在を。

女は、まだかろうじて『出来損ない』になっていない。血液内にどれほど吸血鬼の唾液が混入するか、その度合いによって症状は進行する。今俺が吸血を止めたら、この女の体力から考えて、ぎりぎり人間に踏みとどまれるかもしれない。そのくらいのタイミング。

 特別仕様の弾丸は、飛来してきていた。

 ……どうして?

 ……何故?

 何故、そんな、攻撃を?

 メアリーが『出来損ない』になったと誤認して狙撃した?

 そんなわけはない。傍から見ても、彼女が正気であることは明らかにわかるはずだ。

 では、元より彼女を見捨てる計画だった?

 そんなわけもない。それならば、これまでに俺を撃つチャンスは何度でもあったはずだ。

 だったら、何故。

 このタイミングでこんな攻撃が成されなければならないんだ……。

 不意を突かれたことも手伝い、この体勢では、完全な回避は間に合わない。全て叩き落とすにはあまりにも数が多い。盾にするには人間の身体は脆すぎる。……終わった。俺の命運もこれまでだ。

 それは、遅かれ早かれ来るだろうことだったから、今更どうでもいい。

 今更、助かろうと足掻くなんて、きっと見苦しいだろう?


 俺はその瞬間、首筋から唇を離し、メアリーを思い切り横に突き飛ばした。


 連続する発砲音。全身を次々と貫いていく銃弾。何人か、遠過ぎて見逃していた狙撃手もいたようだ。数が多過ぎて、傷口を削り落としたりする間もない。明らかな致命傷だった。アンチ・Vによるものだろう、不自然な刺激が強弱をつけ、網目のようにさあっと全身を駆け巡った。一拍遅れて麻痺が始まり、一気に体の各部が動かなくなる。バランスが取れなくなる。

 銃撃の勢いのままに後ろ向きに転倒する。硬い床に背中から激突し、白い天井が見えた。

 思考はまだ出来るが、如何せん身体の制御が利かない。視界はぼやけ、不透明で、体の感覚は遠く、鈍い。

 ……終わる、か。

 思いがけない形で訪れるとは聞いていたが、こんなにあっけないものなのか。

 俺の、世界の終わり。

「……どうして最後、あんな真似をしたの?」

 ぼやけた視界の中、横から覗き込むメアリーの顔が見えた。詳細は確認出来ないが、どうやら被弾は免れたらしい。位置から考えて洋服箪笥に思い切り強打したのか、額が割れて血が滴っているようだ。

 答えようにも、口は上手く回らなかった。

 それ以前に、答えもよくわからなかった。

 強いて言えば、抵抗したかったからか。相手の狙い通りに、二人で道連れになって死ぬのが許せなかったからか。メアリーだけが人間としての死を迎えることに我慢ならなかったのか。殉死という栄光を享受するその様を直視していられなかったからか。

 あるいはただ、純粋に彼女を守りたいと思ったからか。

――信じてたのに――

 今更、だ。

 裏切りの代償は高くついた。永遠を途絶させる鎖された永遠。閉じ込められるのだ、俺は、あの闇の中に。このまま、何も考えられなくなって、何も感じなくなって。

 死を奪われ、生を奪われ、無と変わらぬ存在として葬られる。

 幾つもの硬い足音が響いて来る。厚い戦闘用ブーツが、俺の家を蹂躙する音色。

「おかげで、また死に損ねたわ」

 メアリーの呟きが、頭の中に反響する。

 死に場所、か。

 何となく、からくりがわかった。俺は徹底的に敗北していた。

 元より死ぬつもりのエージェントと、人道的措置としてそれを認めない他の部隊員。その妥協点が前もって定められていて、狙撃はそれを合図に行われる。吸血鬼がエージェントを庇うという確信のもとで迷いなく。

「何故かしらね。吸血を始めた吸血鬼は、その対象が人として死ぬことを極端に嫌がるの。……嫉妬、かしら」

 俺は、奇を衒ったつもりで、吸血鬼として当然の行動をしたまでだったらしい。

「貴方のこと、本当に、嫌いではなかったわ。キスが、とても上手だったしね」

 女の顔が、ゆっくりと降って来る。唇に、わずかに何かが触れる感触があって、靄のかかった視界が歪む。味覚だけは、鮮明に。甘い甘い、みずみずしい果実の味。

 目尻から頬に、何かが流れ落ちていく。何故だろう。俺は泣いてしまっているようだ。涙なんて、しばらく流した覚えがなかった。吸血鬼になっても、普通に泣けるんだな。

……どうやらメアリーも同じように泣いているらしい。いつまでも触れ続け、震える唇がそれを伝えて来る。何だこれは。どんな喜劇だ。もう、どうでもいいというのに。

 まるで他人事のように、成すがままに、離れて行く彼女を見送る。

 終わる。閉ざされる。痛くも痒くもないのに。何も感じないのに。

 いや、何も感じないから、か。

 耳鳴りが聞こえる。暗く、視界が狭まっていく。

「さよなら」

 耐え切れないほどに耳鳴りが酷くなる。眠くなってくる。世界が、もうすぐ終わる。

 捥がけない。足掻けない。不気味なほど穏やかな、終焉。

 鼻と口をすっぽり覆うように、何かが被せられ、唇を割って、細いチューブが差し込まれ、喉を突き、なんだそれは、やめろよ、気持ち悪



 今思い返してみれば。

 俺の狂気の本質は、吸血鬼になったこととは全く関係のない、別な所に由来していた。

「ねえ、お願いがあるんだけど……」

 あれは一八歳だった。大学への入学を目前に控えた八月。家賃だけで選んだ立て付けの悪い安アパートに、あいつを呼んだ。

 本当かどうかは知らないが、結果的に歴史上最初の吸血鬼と呼ばれることになる少女。

 ロザリー・オルトレーゼンを。

 色白で、ブロンドの髪はナチュラルにカールしていた。人形のように整った顔立ちをしていて、いつも何かに怯えるような瞳と内向的な性格を併せ持つ彼女は、ハイスクールの女子どもにとっては格好のいじめの対象だったらしい。さほど痛手では無い微妙な嫌がらせが、決してエスカレートすることなく、ねちねちとずっと続いていたそうだ。陰湿ではあるが、軽度である分悪質でなく、それ故に誰に相談することも憚られるような、極度の圧迫感を伴った均衡状態だ。考えるだけで吐き気がする。何事もないかのように毎日振舞っていた彼女の胆力には敬意を表する。

 とはいえ、ロザリーがいつの間にか俺と付き合っていたことに、いじめの事実はあまり関係がない。何を隠そう、俺はそれに気付いていなかったのだ。いじめられているところを颯爽と助け出したとか、俺と仲良くなってからいじめがぴたりと止んだとか、ドラマのような気取ったエピソードは一つも無く、この国に戻って来たばかりで言葉にすら多少の不自由を強いられていた俺の方が、余程彼女の存在に救われていた。何故かロザリーは、流暢な日本語を喋ってくれたから。帰り道が一緒だったことが彼女と話すようになった直接のきっかけで、二人で歩いている時だけ、俺は本当の俺でいられた。たどたどしい発音と怪しげな構文で、クラスメイトに話を合わせようとする、そんな不様な俺ではなくて。

 もしかすると、傍目から見れば、孤独から逃れるためにお互いの傷を舐め合っているような、惨めな二人組だったのかもしれない。若かった当時の俺達には、外から自分を眺めるような余裕は勿論なく、何かの冗談で手を繋いで帰った同じ日に、別れ際の十字路で最初のキスをした。そこにどんな感情が介在していたのか、今となってはわからない。当時は恋だ愛だと騒いでいた周囲の雰囲気のままに、自分も同じような感情を喚起されているのだと盲目的に信じていたものだが、果たして、、今の俺にはもうわからない。顔を真っ赤にしながら逃げるように走り去ったロザリーの後ろ姿を見送り、俺は体内を巡る血の熱い滾りを感じた。耳元で鳴り響く、早鐘のような自らの鼓動を聞いた。息をするのも忘れる、という言葉の意味を長い影と共にじっくり味わい、真っ白になった頭で遠ざかる足音を拾った。

 両手に残る、震えていた細い肩の感触は、。唇に残る、震えていた柔らかい唇の感触は、やけにリアルだったので昂奮に直結した。その時すでに、自分の中にある歪みに気付いていた。ハイスクールで浮いていたのは、言葉の壁のせいだけではなかったのだ。

 その日家に帰ってから、眼鏡を粉々に割った。歪んだフレームをゴミ箱に叩き込み、ガラスは庭に撒いた。街灯を浴びてきらきらと瞬いていたそれらを、俺は綺麗だと思わない。

「お願い? 何? 僕に出来ることなら何でもやるよ」

 引越しが終わったばかりで、片付けがまだ済んでいなかった。部屋には大きなダンボールが二、三個転がっている。引越し祝いと差し入れを兼ねて持ってきたらしいインスタント食品を適当に投げやって、ロザリーはこちらをじっと見つめた。

 この国の夏は暑い。冷房がなく、さらに南向きの大きな窓という最悪の間取りだった俺の部屋は、それに輪をかけて蒸していた。首からタオルをかけ、上半身裸になってだらけていた俺に対して、夏用の喪服かと思うような真っ黒なワンピースに身を包んだロザリーは、陽炎の立ちそうな部屋の中で、顔色一つ変えずに立っていた。……いや、顔色は明らかに変わっていた。普段の、病的な白さがそこには無く、肌つやが良いというか、若干紅潮しているというか、妙に血の巡りの良さそうな顔をしていた。気温が高いせいだと思い込んでいた俺は、そんな違いを気にしていなかったのだ。

 まさか、清楚な彼女が『興奮』しているなど、思いもしなかった。

 艶かしい唇が、言葉を選んで逡巡する。窓は開いていたが、涼しい風は一向に入って来ない。裏通りを大きな車が通るたびに、その振動で風鈴が涼やかな音色を響かせている。偽りの清涼の囁き。

「ヤシマ君……貴方の、血が欲しいの……」

 最初、何かの比喩かと思った。

 血の繋がりという表現に思い至り、子供が欲しいと遠回しに言い出したのかと。つまり、そういう行為に及びたいのかと。……余りにも突飛過ぎたけれど。

 日本と異なる種類の、礼儀を知らない蝉達が騒いでいた。鳴き声が耳障りなところは、日本とまるで変わらない。地上で一週間しか生きられないとはいえ、地中で何年も静かに生きていたのなら、最後まで我慢してもらいたいと思った。

「な……何? どういう意味?」

 純粋な質問のつもりであったが、適当に話をはぐらかそうとしているように見えたかもしれない。事実、そういう意図もあった。

 暑さの為だけでない、落ち着かない汗が顔面に踊る。一言で言えば、俺は初心だった。

「そのままの意味。私、もう、我慢出来ないの……」

 ……喉がひりつく。唾液まで渇ききり、飲み込むものがない。

 混乱する頭の中に、『抱く』という言葉の最も卑俗な意味が乱れ飛ぶ。そういうことでいいのか? やはりこれはそういうことを要求されているのか? 誘惑? まさか。彼女が? こんな純粋そうな彼女が……?

 恥じらいを捨てた女に、『我慢出来ない』と言わしめるなど、男冥利に尽きるというものだが、この時の俺は、幾つかの意味でそれどころではなかった。

 一歩、ロザリーがこちらに近付いた。ベッドの端に腰掛けている俺には、不用意な動きが出来ない。無理矢理に飲み下した唾液はもちろん喉を潤さない。そんな俺を気にした風もなく、ロザリーは右手を胸元に当てて、静かに口を開いた。

「駄目なの。私は、血を吸いたくなるの。貴方が、私をどうにかしたいと思うように、それと同じようにごく自然に、私は、血を吸いたくなるのよ……」

 いつもの彼女と、大体同じような調子であったからこそ、真意が量れなかった。その時、俺の頭の中では既に、吸血鬼という単語が徐々に形をとり始めていたが、それを受け入れることは出来なかった。当然だ。吸血鬼の実在が認められてからならまだしも、それが空想上のものでしかなかった当時、そんな空想を突きつけられて、すんなり許容できる人間などいるはずがない。しかも、その事実には何ら明確な根拠があるわけでなく、小さなアパートの一室で、一人の女が恋人に向かって口にしたちょっとした発言に基づく一つの理解に過ぎないというこの状況下では尚更。

 誰が、それを、信じる?

「……ええと、それは、冗談か、何か? もしかして、俺に不満でもある……?」

 当り障りの無いセリフというのは、実は譲歩に過ぎない。本来自分が言いたいことを全て押し殺して、相手に対して安全圏にある言葉を投げかける。その譲歩は相手に気付かれることはなく、あくまでも対等の振りをして懐まで潜り込み、決して相手を傷つけることなくほんの僅かな活力だけ与える。こうして遠距離にあるため全く噛み合っていない二つの歯車を、両方別々に回転させることによって、円滑な人間関係が成立するのだ。当時はまだ知らない大学時代の友人、ヨハンの受け売りではあるが。

 そんな俺の譲歩は、むしろ相手にも計算ずくだった。端から信じてもらえるとは思っていなかったのだろう彼女は、

「吸血鬼って言葉、私は嫌いなんだけど、聞いたことあるでしょう? 私は、たぶんそれ」

 口の端を軽く上げて、そこにある犬歯を光らせた。初めて見る表情だった。普段から、八重歯が目立たなかったわけではない。アイスクリームを食べる時に、知覚過敏なのか何なのか、前歯では無くその歯を使って噛み切るのが可愛くて、それを茶化したら、以来俺の前でアイスを食べなくなった。だから印象に残っていた。彼女の犬歯は、大きくて鋭いのだ、と。……容易く首筋に食らいつける、牙のように。

 足音のしない歩み。ごくり、とロザリーが唾を飲む音が聞こえてきて、はっと気付く。彼女は既に、手の届く距離にいる。

 真夏の昼下がり、何故か寒気を覚えた。空気が変わったわけではない。彼女の雰囲気が変わったわけでもない。ただ、自分の中で突然に、恐怖という感情が湧き上がった。ホラー映画で、幽霊や怪物を信じていない人間が真っ先に襲われる時の顔。自分にとってありえないはずだった存在を目の当たりにした時の畏怖。悲鳴。足りなかった覚悟。断末魔。取り留めのない連想が脳を揺さぶる。

 ……あり得る……か?

 疑念は恐怖と相性が良い。それは混乱とも手を繋ぐ。

「きゅ、吸血鬼が、いや、まさか、ちょっと待って。待って。えーと、大蒜とか十字架とか銀とか、あと、日光が苦手なんじゃなかったっけ。満月は、関係ないか。あれ、えーと、吸血鬼、でしょ。トマトジュースで代用とか、いや、何言ってんだ、俺。ちょっと待ってよ。吸血鬼って、噛まれた方も吸血鬼になるんだっけ? あれ、それは狼男?」

 見るも無惨なほどに俺は狼狽した。

 ロザリーは、ぞっとするほど冷たい手で俺の肩に触れた。

「ごめんね」

「え?」

 速い。上半身を屈めるようにして、座っている俺の唇を自らのそれで塞ぐ。彼女らしからぬ積極性と、そして、鼻孔から漏れる激しい息遣いに面食らう。舌が絡まるより前に、ロザリーの唇が、動いた。舌でなぞるように、顎から、そして喉へ流れる。

「おい……」

 咄嗟に押し退けようとする。細い肩を掴んで引き剥がそうとしても、彼女はびくとも動かない。俺の肩に乗せられたロザリーの指に力が篭るのがわかる。喉仏を柔らかい舌がくすぐり、そこから左側へ水平移動。ぴたりと、

「おい……」

 止まった。

 静かな吐息が、首筋を撫でる。

 いつの間にか、爆発するような拍動。どくどくと、早鐘のように打つ心臓と、それにあわせて締め付けられるように痛むこめかみ。孫悟空が頭に填めていた環を思い出す。

「待てって、おい……」

 唇を当て、ぺろぺろと舌を出して首の一部を丹念に舐めていたその動きが、突然やんだ。頭の向きが、わずかに傾いだ。リンスの匂いに、ほのかに汗の匂いが混じっている。

 刺さった。

「痛」

 反射的にそれから逃れようとして身体を後ろに思い切り捻る。バランスを崩したと言うよりも故意に倒れこみ、ベッドに仰向けになる。首筋の痛みは消えず、ロザリーもそのままくっ付いてきた。俺の上に倒れこみ、柔らかい感触が密着する。

「おい、当たってるぞ、ちょっと、待て」

 自分が何をすれば良いのか、全くわからなかった。何に抵抗すれば良いのか、抵抗して良いのか、そもそも何をやっているのか。

 困惑の極致。五感の全てが動悸に直結している。首筋には痛みと、そしてそれを撫でるざらついた感触。蠢く舌。

 吸血?

 まさか。ブロンドの髪が揺れる。

「ビックリした?」

 ……?

 …………?

 ……………………?

 あれ。

「え?」

 目の前に、ロザリーの顔があった。微笑と悲哀の間くらいの、やたらと曖昧な表情で、俺の上に乗っかっていた。思ったより、人間の身体は重かった。

「……え?」

「いやー、まさか、本気にするとは思わなかった。途中から、ヤシマ君、目が凄かったよ。ほんとに怖がっちゃって、もう、男の子って意外とこういうの弱いんだね」

 調子は殊更に明るい。上機嫌の時、もしくは強がっている時、ロザリーは人が変わったように陽気になる癖がある。

 首筋の痛みが引かない。倍増している脈拍数が全然元に戻らない。

「あら、血、出ちゃったね」

 何が何だかわからない。やけに不気味な荒れ方をしている自分の呼吸と、爆発するのではないかと心配になってくるほど脈打つ心臓。つ、とロザリーの指が傷口に触れる。

「……ごめんね」

 その言葉が、決め手だった。

 じくじくと湿っぽい痛みを訴えてくる首筋に触れる冷たい指の感触。俺の上に全身のしかかっている少女の、その目の色を見た。そこにある、迷いの色を見た。

 そしてそれと裏腹の、本気の色を見た。かんかん照りの日の光を受けてか、いつもより赤らんでいる瞳。まさか。それくらいで瞳の色が違って見えるわけがない。きっと、カラーコンタクトか何かだ。

 俺にとっては、もうどうでも良かった。何が本気なのか、ロザリーの本心がどこにあるのか、そんなことはきっと自分に考えてもわからないだろう。そう確信すらした。混乱も、狼狽も、羞恥も、焦燥も、期待も衝動も興奮も、全てが飲み込まれつつあった。どろどろとした、マグマのような何かが、自分の中で鎌首をもたげ始めている。全てを委ねてしまえばひどく気持ちの良くなりそうな、そして、引き返せなくなりそうな、禁断の心の奔流。

 その川面に触れたのだ。

「……おい」

 怒っているように、見えたのだろうか。ロザリーの顔が弱々しく歪み、今にも泣き出しそうに変わる。俺の上に乗ったままであることに気付き、慌てて起き上がろうとベッドに伸ばした左手を、掴む。挫く。

 バランスを崩して倒れこんでくる顔を押さえる。左手で強く、ロザリーの首を支える。文字通り目と鼻の先で、視線が交錯した。く、と小さく女のうめく声がする。瞳の色は、赤。

「僕は、本当に君のことが好きなんだ」

 自分の口から滑り出してきたのは、意味のわからない言葉だった。実際、これは何語だっただろう。日本語ではなかった。偽りであるとは言い切れない、しかし本心ではあり得ない、揺らぎの言葉。イカサマ師が手札を一枚一枚開いていくように、ゆっくりと、欺きの儀式は進行する。誰を欺くのか、その答えをすら知らないままに。

 俺の傷口に触れていた冷たい指先が、小さく震えて驚きを伝えてくる。近すぎて表情が見えない顔を眺め、絡み合いそうな左腕に力を込める。細く、今にも折れそうな首。だが、生物の身体はそんなに柔ではない。気道も血管も骨の形もわかる。ロザリーが唾液を飲もうとして喉を動かすのを感じる。直に。

「血を吸いたいんだろ? 吸血鬼なんだろ? いいよ。くれてやる。今だけは、君に全てを任せる。後にも先にも、今日だけだ。引越し祝いだ。後悔しないようにしてくれよ」

 左手を引きつける。顔面を激突させるような勢いで、唇を貪る。鉄の味がする。絡みつく舌の感触全てが、とにかく不気味だった。困惑が伝わる。ロザリーが、強引な俺に応じながら、しかし何一つ理解していない。

 握力の限り、左手を締め付ける。

 喉を絞られ、初めてロザリーが抵抗する。逃れようと必死に首を振ろうとするが、咄嗟にロザリーの舌を前歯で噛み止めた。彼女の左手が、俺の胸板を叩いた。首を掴む手を緩める。鼻から漏れる吐息が荒く、艶かしい。

 右手も、ロザリーの首筋へと、添える。

 唇を解放する。唾液が糸を引く。その色はわずかに赤いような気がする。それを断ち切るように言葉を紡ぐ。毒を吐く、蜘蛛のように。邪悪な罠を細い糸で編んでいく。自らをも絡め取る、無計画な設計で。

「さあ、君の首筋には、二つの狂気が絡まっている。僕の両掌の形をとって具現化しているそれは、きっとこのままでは君に害を成すだろう。息の根を止めてしまうだろう。それを止めるためには、どうすればいい?」

 もう一度、両手で顔を引きつける。唇が重なる。ここに来て、全身の感覚が鋭敏になってくるのを感じる。人間の重さを、そしてその感触を。肌触りの良い、その黒い服と、そして、白い素肌。細い、肢。

 唇を離す。荒い息をついて頬を紅潮させている少女から、引き剥がすように。絡め取られそうになる舌を捻るように取り戻す。

「僕の首筋には、一つの狂気が打ち込まれている。そしてそこに触れる正気が、崩れ落ちようとしている。君の犬歯によってつけられた傷と、君の可愛い指先の形をとって具現化しているそれは、このままでは均衡を保てない。何故かわかるかい」

 本気で。両手に力をこめ始める。徐々に、徐々に。じわじわと、嬲るように。彼女の首を締める。頭でものを考えるより先に動いているような、いや、むしろ頭ではないどこかに考えてくれる器官があって、その命に従っているかのような、理性的な暴走だった。ロザリーが爪を立てて俺に掴みかかる。左手は胸板に刺さり、五筋の赤い線を描く。痛みはどこかに置き忘れた。

 そして右手は――

 一滴、頬に水滴が落ちてきた。確かめるまでも無く、それは落涙だった。ロザリーが泣いている。そこにあるどんな想いをも解することは出来ない。何故なら俺は、全てを捨てていたから。

 首筋に、そこだけ感覚を別にしたかのような強烈な衝撃が走りぬける。細い人差し指の、その先端の尖った爪先が、傷口を抉っている。刺し貫くような熱が、鼓動に合わせて波となって脳に響く。自分の鼓動ではない。ロザリーの鼓動、リズムに合わせて、苦しみと痛みで蠢くその指先が伝える感触。

 これが。

 ロザリーの。

 ――――。

「君も、僕のことが、好きなんだ。だから、止められない……」

 突然だった。力尽きたように、俺の両手が、ロザリーの首から離れた。自分で意図したものではなかったが、何となくそうなるのが当然だと思う自分もいた。抉られた首筋に刺さる指先もそのままに、涙で濡れる、見慣れた彼女の茶色い瞳を見上げた。ぎこちない、そうとしか表現できない笑顔が、鬱血と興奮の狭間で奇妙な色をした顔に張り付いていた。

「さあ、どうぞ。据え膳喰わぬは何とやらってね」

 ぎこちない笑みは、俺も変わらなかった。声も、震えていた。頭のどこかが麻痺していた。胸の内のマグマは、煮え滾った暗部を奥底に隠したまま、表層だけ黒く歪に固まった。俺の頬に、もう一粒、温かい水滴が落ちてきて、そして唇に優しい感触が降ってきた。これ以上無いほど稚拙な口づけ。唇が静かに離れ、それから首筋に突き刺さっていた爪が離れる。どろり、と中から滑らかな何かが流れ出るのが自分でもわかった。リンスの匂いが、甘酸っぱい汗の匂いを覆い隠した。傷口にロザリーの唇が触れる。

 どうして彼女は、唇だけこんなに温かいのだろう……?

 こくん、と少女の喉が鳴った。それだけで異常な興奮を覚え、俺の手はロザリーのワンピースを乱暴にまさぐっていく。

 生気を吸い取られているかのような、錯覚があった。首筋から、明らかに何かが抜け落ちていく。ちゅうちゅうと、音を立てるほどの勢いで、ロザリーの口に血液が吸い込まれていくのがわかる。鼻息が、首筋に当たる。時折、息継ぎをするように、首筋から唇が離れる。鼻から抜けるように甘い声をあげ、吸血の手が止まる。

 雰囲気に酔って、わけがわからなくなる。

 違う。

 脳に血液が回らなくなって、意識が朦朧としてくる。

 貧血だ。

 胸に触れる。女に触れる。そこに存在する。

 重い。熱い。全てが溶けていく。

 蝉の声も風鈴の音も、衣擦れと吸血と喘ぎの三重奏に場を譲っている。

 あ。

 ……気持ち悪い。

 背徳の快楽の深奥からぞくぞくと一気に悪寒が噴出し、背中を駆け上がり、嘔吐中枢に刺激が走った。どうにか歯を食いしばり、喉を突き上げる不快感を飲み込み、だがそこに追い討ちをかけるように、吸血の感触が生々しく首筋を這って行く。

 やばいやばいやばいやばい暗い――

 暗い?

 視界が狭まり、そして白く閉ざされていく。反転する。世界が回るように、自分の周りで全てがひっくり返る。上下反転や回転や左右逆転のような単純な感覚ではなかった。三半規管の全てを無視したそれは、脳が裏返るほどの、まさに全てを覆すイメージだった。

 吐き気も裏返った。直立姿勢ならば、間違いなく倒れていた。

 ぷつりと、糸が切れるように視界が掻き消え、すとんと一瞬で闇に落ちた。

 線の細い少女は、抱き枕に似ていた。

 安息の中で意識を失った。



――打算があったことは確かだ。

 不死身という存在がどうして非現実的なのかといえば、人間には永久、永劫というものを絶対に保証出来ないからだ。半永久的、という表現がそれを裏付けている。身の回りに存在している如何なるものを考えてみても、永久に存在出来るものなど一つも無い。地球という惑星レベルでさえ、遥か未来における崩壊が既に予想されているのだ。

 そんな中、本当に不死身である吸血鬼を、アンチ・Vと液体窒素の海で永久に封じていられるだろうか?

 答えは、否だ。

 俺の世界は、終わらない。

 俺を閉じ込める装置は、間違いなくいつか壊れる。俺を閉じ込める人類は、間違いなくいつか滅びる。何万年、何十万年、どれほどのスパンで暗闇に閉ざされるかは想像だに出来ないが、しかし、いつか必ず『永遠』に綻びが生じる。

 俺は絶対に、いずれ目を覚ます。

 俺は心のどこかでそう考えていた。人類は、吸血鬼の駆除と言いながらその実、問題を先送りにすることしか出来ていなかったのだ。半永久的に無力化することと、完全に滅殺することの間にあった僅かな誤差。真の永遠を享受する者に、その誤差は致命的だ。

 最後までどこか深刻になり切れていなかったのは、そのような理由があったからで、目の前に光が戻ってきた時、ぼんやりと俺はそんなことを思い出していた。

 横たわっている俺の上に覆い被さって、逆光となった人影が見える。こちらを覗きこんでいるその人影は、こちらの口元に手を伸ばし、鼻まで完全に覆っている透明なマスクを外した。そして、喉の奥、おそらく気管にまで突き刺さっているチューブを引き抜く。

 激痛が走った。

 あり得ない刺激に、俺の意識は一気に覚醒し、上半身を跳ね上げて飛び起きる。

「ぐ、があああ」

 喉から、チューブと共に胃液が逆流し、口から吐き出された。目の前の、白衣に眼鏡という典型的な研究者面をした男に掴みかかり、その太い首に手をかける。白衣の男の目が、汚物でも見るかのような嫌悪を形作る。

「目覚めた気分はどうですか? シュウヘイ・ヤシマ」

 慇懃な口調に、逆に怒りが湧き上がる。右手に力を込め、気道を圧迫する。

「答えろ……。今はいつだ? これはどういうことだ? 何故、?」

 白衣の男が、はっきりと笑った。こちらを見下すような、嘲笑。

「何をそんなに粋がっているんですか? 私達があなたより劣っているからですか? 永遠の命も無く、力も無く、狂気に囚われることも真の絶望も無く、日々のうのうと生きているからですか?」

 搾り出すように、空気を吐き出した男が、おもむろに右手を振り上げた。薄手の手袋に包まれたその拳が、俺の顔面に向かって伸びる。俺は、回避をするべく――

 ――

 頬を打つ衝撃と、そして間違いない、再び襲う痛撃。勢いで横向きに吹っ飛ばされる。今まで自分が入っていた、金属製の棺桶のような装置に右肩を強打する。

「痛」

 痛い。

「知っていますか? いや、覚えていますか? これが痛みです。あなたが失っていた、そして私達が古より苛まれてきた感覚です」

 殴られた……? 口の中を切ったらしい。唾液に血の味が混じる。はっきりとした、鉄錆の味。甘くなく、ただ気味の悪いだけの味。

「あなたがこの封印装置に入れられてから――つまりあなたが駆除されてから――、今年で三八年目です。……意外でしょう? まさかこんなに早く出られるとは思わなかったでしょう。実際、すごいことだと思いますよ。こんな形で吸血鬼問題が解決するとはね。人類の叡智もまだまだ捨てたものではない」

 胸倉を掴まれ、引き起こされた。服装はあの時のまま、血に塗れて穴だらけになったシャツに、まだらに染まったジーンズ。俺の時間だけが止まっていて、目の前の男を含めた世界は三八年、先行している。

 吸血鬼問題の、解決。

 嫌な予感がした。ずきずきと引いてくれない久しぶりの感覚と共に、次の言葉を待つ。

「吸血鬼を半永久的に無力化出来るということの本当の意味を、あなたは考えたことがありますか? 永遠に棺の中に閉じ込めれば、確かにその吸血鬼による被害は防げるでしょう。ですが、世界に存在する全ての吸血鬼を捕まえることなど可能であるはずがない。全世界で二八五六人。……それが、これまで駆除された吸血鬼の数です。意外と少ないでしょう? 最初の吸血鬼が登場してから四三年。世界に何体の吸血鬼が生まれたのか、未だにはっきりした数字はわかっていません。ですが、これで全部でないことだけは明らかです。そしてそれでも良いのです。吸血鬼を無力化することの意義は、他にあるのですから」

 眼鏡の奥で、男の目が歪められた。

「つまり、、ということなんですよ、本当の狙いは。『八王子事件』のために不可能とされていた、人類による吸血鬼研究。吸血鬼用神経毒の開発はそれを可能にしました。全世界で同時平行的に進められた研究は、あっという間に吸血鬼を化け物でなくしました。コレラもペストも天然痘も、そうやって解決されて来たんです。未知が既知の領域に引きずりおろされた時、それはもう終わり始めているのですよ」

 白衣の男の手が俺の襟から離れ、呆然と座り込んでいる俺に、一枚のカードを提示した。

「研究が始まって早い段階で開発されたのが、『出来損ないワクチン』です。事前に投与しておけば、免疫応答が可能となり、吸血されても『出来損ない』にならずに済むという代物。徐々に価格も下げられ、五年くらいで発展途上国も含めた全世界に隅々まで広がりました。この時点で、吸血鬼の脅威は殆ど去ったと言えるでしょう」

 男の持つカードは、身分証明らしきものだった。ただし、氏名、生年月日、性別、国籍、ABO式血液型、顔写真以外の項目は、様々な検査の結果や接種した予防注射の日付と種類が羅列されているだけで、つまるところ吸血鬼でないことを示すためだけのカードらしい。『陰性』という言葉が上から下までずらりと並んでいる。

「そして、次に開発されたのが『出来損ない』を人間に戻す薬。正確には、投薬と行動療法による治療技術の確立、というべきでしょうが。この二つ、ワクチンの浸透と治療法の確立により、『出来損ない』の根絶宣言はWHOから二五年前に出されました。あなたがたにとってはまことに遺憾かもしれませんが、この時点で、既に吸血鬼は、『血液感染性吸血発作症候群』という感染レベルの極めて高い病気の一つとしてしか捉えられていなかったのです。いや、概念の問題というより、それ以外の何物でもなかったのです。つまり、真性吸血鬼は重症吸血発作症候群、『出来損ない』は軽度吸血発作症候群の患者です。おっと、ちなみに今まではあなたにわかりやすく『出来損ない』という言葉を使っていましたが、今やそれは軽度吸血発作症候群患者に対する差別用語なので、注意して下さい」

 患者、か。

 俺に好意を持っているとは思えないのに、この男が言葉だけでも慇懃な姿勢を崩さない理由がわかった気がした。

 吸血鬼は、病気の患者でしかない。

 吸血鬼が人類より上に立つ存在であるという考えは、既に時代遅れで的外れな代物に過ぎないのだ。

 ――不気味だった。

 吸血鬼は、あれだけ圧倒的な力を持っていたにも関わらず、僅か数十年で、その優位性を完全に失ってしまったらしい。吸血鬼がいくら粋がってみても、それは病気で苦しむ患者が、「自分は病気であるから他人が特別に優しく扱ってくれるのは当然」と思い込むような、倣岸で不適切な態度にしか見えないのだ。

 馬鹿な――。

 自分を支えていた狂気が崩れ去っていく。

「吸血鬼の封印、駆除の意味合いも、それを境に大きく変わりました。忌まわしき怪物を人里から完璧に遠ざけるという防衛論的な見方でなく、患者の体を外界から隔離することによって吸血鬼因子――吸血発作症候群の原因物質です――の蔓延を予防する、という医療的な考え方へと。そこに、どんな差別意識も、負の感情も介在してはいけないのです。吸血鬼の吸血衝動や攻撃衝動、不死性や圧倒的な筋力などは全て吸血発作症候群の症状であって、患者本人が悪いわけではない。理屈ではそういうことになっていますからね」

 男は言外に、理屈ではそうでも実際にはそうではない、と告げていた。それは、この男がごく自然に「」という言葉を使ったり、口調とは裏腹にこちらを忌み嫌う態度を匂わせたりしていることからも明らかだ。

 無理も無い。

 あれだけの脅威を振り撒いた吸血鬼を、今更どうして庇い立て出来るだろうか。

 虫が良すぎる。吸血鬼が「患者」であるということを盾にして庇護を受けようとするには、吸血鬼は人間にとって。大切な人を多く亡くしたであろう残された人類が、吸血鬼という忌まわしい存在を心から受け入れることは出来ないだろう。絶対に。

「以降も、数々の薬や毒が、の研究により次々と開発されていき、とうとう三年前、吸血鬼因子と自律活動細胞の関連を踏まえた上で、吸血鬼因子レセプターに特異的に結合する拮抗阻害薬と、レセプターに結合することなく吸血鬼因子様効果を細胞に与える仮性吸血鬼因子が開発され、エルマール法と呼ばれる特殊な投薬法により、生体内の吸血鬼因子の産生を止め、遺伝子発現機構を正常化させて吸血鬼細胞の全てを正常な細胞に戻すという画期的な技術が開発されました。ああ、原理なんてわからないですか? 言いたいことが伝わってくれればそれでいいですよ。つまり――」

「――吸血鬼が、、ということだな」

 愕然と、俺はその言葉を口にした。勝ち誇るように、白衣の男が笑った。

「その通り。とうとう人類は、吸血鬼に打ち勝ったのです。吸血鬼の脅威はこれで完全に去りました。その後はトントン拍子にことが進んでいます。長期に渡る国連での審議の結果、人間化した全ての吸血鬼において、その人権が保障されること、罪状に応じ、各国の法律に従って正しく裁判が行われ、相応の刑事処分、民事処分が加えられること、この二つが決定しています。わかりますよね、シュウヘイ・ヤシマ。吸血発作症候群の症状の一部ということで、あなたのケースについても情状酌量の余地はそこそこ存在します。民意が反映されてしまう陪審員制度のあるこの国でどこまでやれるかはわかりませんが、悪くても無期懲役くらいで済むように頑張りましょう」

 白衣の男が、先程と異なるカードを俺に渡してきた。名刺だ。白地に黒で、何の装飾もなく、淡々とこう書かれていた。


国立生命科学研究所医療保健部門特別研究技術士官 

世界保健機構血液感染性吸血発作症候群対策委員会指定国際医療弁護士 

スコット・リヴィングストン


「皮肉なものです。ここだけの話、私は吸血鬼が大嫌いなんですよ。差別や偏見に満ちているといっても過言ではありません。私が生まれたのは、まだ吸血鬼差別という言葉が出来る前でしたし、とある複雑な家庭事情がありましたしね。だからこその吸血鬼研究であり、吸血鬼犯罪の被害者を救うための弁護士資格だったはずなんです。よもや、元吸血鬼を弁護することになろうとはね」

 自嘲的に笑うその顔に、俺は初めて親近感を持った。

 吸血鬼も鬼ではない。

 人間も鬼ではない。

 どちらも、我の強いだけのただの生き物だ。

「俺だって、人間は大嫌いさ。いつだって俺の周りはいけ好かない人間だらけだった。俺が人間だった時からずっとだ。ようやく見つけたまともな人は、。それが俺の運の尽きさ。俺の終わりはそこから始まっていた」

 スコット・リヴィングストンは、俺に対して初めてとなる、友好的な笑みを向けた。

「お互いに運がないですね、私達は。こんなことを言うのはどうかと思いますが、吸血鬼を人間に戻す方法より早く、吸血鬼を完全に殺害する方法が発見されていれば、と思うと残念でなりません。吸血鬼は皆殺しにされるでしょうか? そうはならないように思います。拳銃を持っている人が皆、人を撃ち殺すわけではありませんからね。人間が、自らの持つ醜い感情とどう向き合うか、吸血鬼という一つの種をどのように捉えるか、それを考える良い機会になったでしょう。こんな風に、全てを人間の社会に無理矢理当て嵌めてしまう、窮屈な結末にはならなかったはずです」

「人間に戻る……それだって結構なもんだ。人道、倫理、モラル。吸血鬼が人間という枠組みに戻るからこそ得られるものもある。人間に裁かれるのも悪くない。死ねるのも当然悪くない。駆除と称されて闇の中に永遠に閉ざされるより、人殺しを咎められて死刑台で首を括る方が余程納得できる。忘れてくれるなよ。……俺達も人の子だ」

 歪み。

 人並みでありたくない。しかし、人と同じでありたい。

 現実から逃避したい。しかし、ここで生きていくしかない。

 人を殺したい。血を吸いたい。しかし、どこかで誰かに止めて欲しい。

 好きな人と一緒にいたい。しかし、一緒にいたら壊れてしまいそう、壊してしまいそうで、永遠という時間を共に生きる上でそれが致命的であるからこそ、そこから逃れたい。

 幻聴が、聞こえた。

――私達って、傍から見てたらきっと気持ち悪いんだろうね。お互いに、血を吸うために逢ってるんだから――

 そうさ、気持ち悪かったんだよ。だって、俺は、気付いていたんだから。

「俺は、人間として生きて、そして死にたかったんだ」

 吸血鬼問題の解決。

 嫌な、予感がしていた。

 そしてそれは当たってしまった。

 解決してはいけないはずだった。祈りが届き、願いが叶うのは、俺には分不相応なのだ。いつか目覚めると確信していたとしても、予想が外れて、永久に闇に閉ざされるとか、今度こそ現れた『殺吸血鬼剤』で完膚なきまでに殺されるとか、そういう破滅的な終わり方をしなければならなかったのだ、俺は。

 業。ロザリーに引き鉄を引かせてしまったのは、自分なのだから。

「……結構。裁判は長丁場になります。覚悟しておいてください、これからが大変なんですからね。……ああ、そうそう、今更ですが、先程あなたを殴った右拳とあわせて、ある人間からの言伝があります」

 スコット・リヴィングストンは、一度咳払いをしてから、少しだけ周囲を窺った。

「『私の人生最大の失敗があなたと出逢ったことだ。おかげで死に場所を失った挙句に、生きる意味まで出来てしまった。もし、再び逢うことがあったら、顔面に一発入れて、それから口説き返してやる。そうすれば、今度こそ絶対に私を忘れられなくなるだろうから』。以上です」

「……おいおい、まさかそれは――」

 冷や汗が頬を流れるのを感じた。忘れかけていた痛みが、今更戻ってくる。

「まあ、お察しの通りです。あなたには本名を名乗っていなかったでしょうが、メアリアンという名のその女性は、民間の吸血鬼駆除専門エージェントで、ミッションの途中で出会った吸血鬼の子供を妊娠してしまったために、職を追われて逃げ隠れながら暮らす羽目になったんですよ。――そして五年程前に、病気でこの世を去りました」

 全ての思考が吹き飛んで、頭の中が空白で満たされた。

 …………。

 ……。

 妊娠?

「……吸血鬼って生殖能力なくなるんじゃないのか……?」

「それは、かなり早い段階で誤解だと判明した事実ですね。性欲よりも吸血欲の方が強くなるために、事例としてまず起こり得ないのですが、生殖能自体は存在しています。何といっても、元々は人間ですから。精巣や卵巣が消えて無くなるわけでもないですし」

「……つまるところ、俺には俺より年上の子供がいるってことか?」

「ええ、ね」

 そう言って笑うスコット・リヴィングストンの、その目だけは笑っていなかった。

 あまりにも唐突な展開に眩暈を禁じ得ない。

「……マジで?」

「あなたのおかげで、色々と苦労しましたよ。幸運なことに、私は吸血鬼の形質を先天的に受け継ぐことなく、正常な人間として生まれましたが……事情を知る人の目は常に疑心に満ちていましたね。吸血鬼嫌いも、安直な自己分析が許されるなら、単に一言、虐げられた日々の元凶となった父親への反発、ですかね。この仕事の話を聞いた時も、逢いに行ったら思わず殺してしまうんじゃないかと心配して、断ろうと思ったくらいですからね」

 俺はぎくりとして後ずさりしながら、何となく彼の容貌に残るメアリーの面影を探した。

 すらりと整った目元のラインが、似ているような気がしないでもない。顔の輪郭はメアリーよりも角張っているが、耳の形が特徴を備えている……ような、いないような。鼻は似ていないと断言出来る。いや、むしろ、俺の方に似ているか……?

 ……正直、年齢のせいもあって、よくわからない。

 瞳の色だけは、そういえば完全に俺と一緒だった。……だが、つまるところそれはただ黒いというだけだ。こんなことは何の傍証にもならない。これだけのことで信じるわけにはいかないだろう。

「ま、いきなり信じろというのも無理な話でしょうし、別に信じてもらわなくても一向に構いません。今更、あなたにどうこうして欲しいとも思いませんし、一発殴ったらそこそこ気が済みましたから。戸籍も、父親の欄は空白ですし、これからもそこを無理に埋めようとは思っていません」

 だったら言わなければいいだろう、と思ったが、それは黙っていた。

――言いたくなる気持ちも、わかる。

 どいつもこいつも、人間という奴は歪んでいるんだ。

 人によって、どのくらい歪んでいるか、その程度の差でしかない。歪みを自覚したとしても、全てを投げ捨てる必要などなかった。特に何かをする必要も、なかったのだ。

 俺の奥底に流れるマグマが、外気に触れることもなしに、煙を上げながら完全に固まって行くのを感じる。

「……一応訊いておくが。当然、孫はまだいないよな?」

「ええ、今のところ、まだいませんよ」

「そうか。安心した。この歳でおじいちゃん呼ばわりはきついからな。うん、良かった。そうだよな。大体お前、女に興味なんかなくて仕事一筋ってタイプだもんな」

 軽口を叩いていた俺に、不機嫌そうな声がかけられる。

「失敬な。結婚はしてますよ」

「え……」

「こう見えても愛妻家で通ってるんですよ、私は。リリー――ああ、勿論家内の名前です――の写真だっていつでも肌身離さず持ち歩いていますし。……見ますか?」

「いや、結構」

 すげなく断る。何だか、自分が一気に老け込んだように感じた。自分に息子がいるという事実すら上手く受け止められていないのに、その妻の存在など、どうやったって正しく実感出来そうにない。というか、結婚という人生の一大事に関して、息子に先を越される俺って男としてどうなのよ、と思う。

「さ、立って下さい。まず、とりあえず着替えましょう。実験棟を出たところにパトカーが待っていますので、そこまでご一緒します」

 スコット・リヴィングストンに促されるまま、のろのろと立ち上がり、棺桶のような封印容器から出る。三方が普通の白い壁に囲まれ、一面が大きな鏡になっている部屋だ。おそらくその鏡はマジックミラーであろう。本来はもっと広い部屋なのだろうが、間にマジックミラーを敷いて区切り、その向こう側に俺を見張る者が待機しているというところか。どこかの研究施設であることは、空調ダクトの雰囲気でわかった。

 鏡と向かい側の壁面に、気密性の高そうな扉が据えられている。そちらへ向かって歩くスコット・リヴィングストンを見て、俺は少しの間迷い、それからその背中に声をかけた。

「なあ、俺以外の吸血鬼も、人間に戻っているんだよな?」

「ええ」

「他の吸血鬼ってどうなってるかわかるか?」

「ま、ある程度は。まだ投薬の途中で完全な人間に戻り切っていない人もいますし、諸事情からまだ治療に入っていない人もいます。でも、大体の人が裁判の途中ですよ。一足先に懲役刑が決まって、既に刑に服している人もいますし」

「……そうか」

 スコット・リヴィングストンは、そこでようやく立ち止まって、こちらに振り向いた。


「……ロザリー・オルトレーゼンなら、死にましたよ」


「…………」

 そしてまた何事もなかったように歩き出す。

「別に、そんなことは聞いてない」

「そうですか」

 スコット・リヴィングストンの後を追って、のそりと歩き出す。三八年振りの歩行ということになるのだが、別段久しぶりだとは思えない。吸血鬼だったこともあってか、目に見える筋力の衰えもないようだ。

 人間として闊歩するのは、一体いつ以来だろうか。

 …………。

――ロザリーは死んだ。

 現実味を帯びては来ないが、考えてみれば当然の事実を伝えられたに過ぎない。元を正せば、あいつが全ての発端なのだから。人類を滅亡の淵にまで追いやった最初の吸血鬼事件『魔女事件』の犯人なのだから。人間に戻るや死刑を執行されたとして、異議を唱える者もいなかったろう。

 だが……。

 その原因を作ったこの俺は、三八年の封印から目覚め、今ここにこうして元気に生きている。終わりかけたが決して終わることのなかった人間さまの世界に、しかもその人間側に、二本の足で正立している。

――気付いていたんだ。

 先程考えたことを、ぼんやりと思い返す。

 お互いに血を吸うために逢っているのが、気持ち悪かった。

 それを気持ち悪くないと思ってしまえているロザリーが怖かった。

 気付いていたのだ、俺は。

 

 俺は、確かに歪んでいた。

 そしてロザリーは純粋だった。

 だが、おかしいのはロザリーの方だった。

 歯車は勝手に回っていた。だからこそ俺には回せなかった。

 ロザリーは、俺と一緒にいて、キスをして、抱き合うことだけでは満足していなかった。満足出来なかった。吸血が必要だった。満足を得るためだけの吸血が。

 それが凄く、嫌だった。気持ちが、悪かったんだ。

 確かに、吸血鬼になった後、血を吸うのは快感だった。だが、俺はロザリーと一緒にいられるだけで幸せだった。満足していた。その一方で、ロザリーは俺に血を求めた。俺ではなく、永遠に血を吸うことが出来る相手と一緒にいられることが幸せだった。

 それが気持ち悪かった。でもそれに思い至るまで随分時間がかかった。そして、気付いた時に俺を襲ったのは、皮肉にも初めての吸血衝動だった。

 だから、俺はロザリーを裏切った。

 ロザリー……。君はきっと最期まで、裏切ったのは俺だと思っていたんだろうけど、それは違う。先に俺を裏切っていたのは、君だ。

 だが結局、責任を全部押し付ける形になってしまった。

 現実にも、そして、精神的にも。

 それだけは、悪いと思う。正直に、謝りたかった。

 君は、最期まで満足を得られずに終わったのかな? それとも――

 俺は、もう少し色々やってからゆっくり死ぬことにする。年上の息子にこれ以上の迷惑もかけられないし。罪を償うだけで終わる人生でも、死ぬまで生きるつもりだ。

 悪いけど、やっぱり俺は、人の子だった。

――君ほど純粋に、永遠を享受しようと思えない。

 スコット・リヴィングストンが扉を開けて待っている。

「……なあ、少しだけ、自由の時間をもらえたりはしないかな?」

「理由によると思います。当然監視はつきますが」

「……刑務所に入る前に、墓参りに行っておきたいんだ」

「正確にはあなたが今から行くのは留置場ですがね。で――誰の墓参りですか?」

「それは――」

 思わず少し言い淀んだ。当然墓参りは、告げられたロザリーの死から安直に想起された発想だった。まともに墓が立てられている保証も何も無かったが。

 しかしその時。何故か不意に、ぱっと浮かんだロザリーの笑顔の上から、銃を構えて涙を流すメアリーの顔が重なってきた。俺の中の幻像を鮮やかに上塗りした。結局最後まで真意のわからなかった、吸血鬼狩りの女。喉を通ったその血の味すら甦る。これまで味わった中で一番美味かった。それが、運命の女の選考基準であるというわけでもあるまいに。

 どうしてだろう。

 今、どちらに会いたいかと訊かれれば、発作的にメアリーと答えてしまいそうだった。本名だって今知ったばかり、たった一月限りの仮初の関係だったのに、だ。俺の息子の母親という、配偶者的な位置付けを思い浮かべたわけでもないのに。

 ただ、あの最期の唇の感触が、吸血鬼人生の終わりを感じさせてくれた。

 それが、今の俺の礎を築いているからだろうか。……それではまるで、慕情よりも執着に近い。それかあるいは、大恩か。

 口の中は鉄の味がする。今はただ、不快なだけ。自分の血液の味だ。

「――君の、母上のものに決まっているだろう、我が息子よ」

 結局、俺はこんな風な人間だった。自嘲的に笑う。

 こうやって歪み切ったまま、俺はまた君を裏切るよ、ロザリー。

 純愛なんてもってのほかだ。愛に殉ずる勇気もなく、初恋の甘い思い出など、今はもう消えた。せいぜい年上の息子君に対して好感度を上げておくことにする。

 僕達の愛は、永遠だね。そんなものは、夢のまた夢。

「言っておきますけど」

 スコット・リヴィングストンが溜息を吐きがてら、片頬を緩める不思議な表情で、こちらを見た。

「あなた今、自分が思っているより遥かに良い顔をしていますよ」

 意表を突かれた。俺としたことが、何一つ言い返すことが出来ない。

「母が惹かれた理由が、少しわかる気がします。ほんの、少しだけですがね」

 何てことだ。そんなの、俺のキャラじゃない。俺は自分を見失ってしまったようだ。

 ああ、そうだ。久しぶりに眼鏡をかけよう。銀縁でフレームの細い、今こいつがかけているようなインテリメガネだ。記憶も曖昧な遥か昔、穏やか過ぎて気に入らなかった自分の目付きを隠すためという、そんな歪んだ目的でかけていた伊達眼鏡を再び手にするのだ。

 そうすれば、本来の俺の立ち位置を、無事取り戻せるかもしれない。

――レンズの向こうから、終わりが始まる前の世界が、もう一度見えてくるかもしれない。

「俺はまた、この世界でやり直していけるのか?」

 思わず呟いた自問に過ぎない言葉だったが、予想通り返答があった。

「いいえ、勿論無理ですよ。そもそも質問の仕方を間違えています。やり直していける、ではなく、やっていける、が正しい。やり直しの利く人生なんてありません。吸血鬼だろうと何だろうとね。これから罪を償って生きて行くことも、やり直しなんかではありませんよ。あなたの罪科がリセットされるわけでもあるまいし。これからあなたの歩む道は全て、あなたという生き物がこれまで歩んで来た道程の延長線上にあるのです」

「くどくどと、気を削ぐ奴だな。じゃあ、俺はまた、この世界でやっていけるのか?」

 年上の息子は、鼻から息を抜いて、私に笑いかけた。

「さてね。知りません。それも全て、あなた次第ですよ」

 何とも言えない気持ちになった。こいつのこういう所は、もしかすると俺に似ているのかもしれない。

 俺は、まるで見知らぬ世界を恐れるかのように、扉の向こうへそろそろとゆっくり足を踏み出した。様々な想いが胸に去来するが、全てを噛み砕き、ぐっと顎を引き、ただ前を向く。痛む頬も、不味い血も、人間としての自分だからこそ認識出来るのだ。

 どうしても割り切れないこの胸の疼きも。

 こうやってここに立っている俺は、のだろうか?

 その答えはまだわからないが、ただ一つわかったこともある。


――俺だけの世界の終わりに、もう涙は要らない。





“All’s Well That Ends Well” is over.

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