灰になる迄(前篇)

「約束をしよう。君が灰になる迄、寂しくないよう私が君と共に居てあげるよ」



「灰? どうして? 僕は灰になるの?」

 最初から、その塊はそんな風な口をきいた。私は、虫酸が走るような思いと、それに裏腹な何とも言えぬ愛おしさを、同時に覚えてしまった。これは、人の形をしているが、人ではない。生き物ですらない。本当に、塊だ。それくらいの意味しかないはずだった。

「私は、君に幾つかのことを教える。大体、必要最低限のことは一通り教えるつもりだ。万が一私が居なくなっても、寂しくなる以外に君が困らないように」

「ありがとう」

 その塊の笑顔は、とても無邪気だった。ある程度の知識を与えてはあるが、悪というものの何たるかを知らないため、真の意味で純真無垢なのだ。欺瞞やら裏切りといった屈折した人間の感情や、破壊衝動、殺意といった直截に人を害する精神を持ち合わせていない。それはひどく幸せな気もするし、一方で、これ以上に無いほど不幸なことである気もした。

「……とりあえず、君のことを呼ぶためには名前がいると思うんだ。まず名前をやろう」

「名前? 僕は、『寄せ集めの塊』ではないの?」

 その塊は、培養槽にいる間に私がそう呼んでいたのを、聞いていたらしかった。私はひどく狼狽した。陰で悪口を言っていたのを本人に聞かれたような、そんなバツの悪さを、たかだかその塊ごときに抱いてしまった。そのこと自体に動揺もしたし、何よりその塊は、皮肉でも何でもなく、言葉のもつ意味合いを理解していた上で『寄せ集めの塊』という台詞を平然と口にした。もしかしたらこいつは、感情というものを持っていないのではないか。そう危惧したのだ。

「君、仮にそんな名前で呼ばれたら、嫌じゃないか?」

 私は、すこし上ずった声で尋ねてみた。勿論、出来るだけ自分の今の精神状態がわかるような、露骨な演技でやった。そうやったら、その塊もわかりやすい所作でリアクションを返してくれるような気がしたからだ。こんな馬鹿げたことを意識してやるのは、学生の時以来である。舞台上でひらひらのドレスを着て踊らされたことを何となく思い出した。あの時の仲間は、勿論殆ど死んだ。

「嫌じゃないよ。でも、何ていうか、その……あまりそう呼ばれたくない」

「……それを、嫌、というんだよ」

 少し安心して、私は溜息をつくように微笑んだ。どうやらその塊は、自分の思ったことを表現する手段に慣れていないだけで、感情か、少なくともそれに類する物をしっかり持っているらしかった。実験は、やはり成功だと言える。

 だが、大切なのはここからだ。そんなことは勿論わかっている。

「君の名前は、そうだな……」

 適当な名前、と考えた私は、とりあえずラボの内部を見回して、本当に適当な物の名前をあげるつもりだった。培養槽の内部を満たしていた液体の名前をまさに言おうとした時、その塊の、不安そうな表情が目に入った。そう、不安そうな表情が!

 培養槽から出したばかりなので、何も身につけておらず、寒いのか少し震えている。その様子を見て、私が勝手に読み取っただけかもしれないが、「不安」という確かな感情が共鳴するように私を貫いたのだ。

 私は、思わず笑みを浮かべていた。その塊を、「安心」させてやりたかった。白衣を脱いで、その塊の肩にかけてやる。私の物でも大きすぎて、白衣はその塊が羽織ると、まるで浴衣みたいになった。白衣に全身を包まれて、にこりと微笑んだ。それを見て私は告げた。

「……ヴァイスにしよう。この国の言葉で、『白』を意味するんだ。君は色白だし、何より清廉潔白。丁度いいだろう。嫌か?」

 実際、白衣に包まれていなくても、その塊の肌の色は、一般的な部類からは考えられないほど白かった。比喩でなく、まさに雪のように白いのだ。その塊は、一瞬だけきょとんとした顔をしていたが、

「嫌じゃない。僕は、ヴァイスが良い」

 と、何度目かの笑みを浮かべ、そしてこう続けた。

「じゃあ、あなたの名前は、何にする?」

 思わず吹き出した。ヴァイスという名前が決まったその塊は、私には既に名前があるという発想を持ち合わせていなかったらしい。

「そうだな、せっかくだから君が決めてくれていいよ」

 私には自分の名前に執着する理由がない。むしろ、棄てた方が楽に生きていけるだろう立場にいた。だから、この時私はあっけなく本当の名前を放棄したのだ。そしてヴァイスの言葉を待った。

「じゃあ、あなたの名前はミズだ」

 それはまさに、私が直前までその塊につけようとしていた名前だった。私は久しぶりに、大声をあげて笑った。しばらく腹を抱えて痙攣するように肩を震わせ、間近にあったデスクをばんばんと右手で叩いて必死に呼吸を整えた私は、にやにやしながら、

「オーケーオーケー。私の名前はミズ。これからよろしく頼むよ」

「こちらこそ、僕が灰になる迄よろしく」

 ヴァイスと名付けられたその塊は、おもむろに握手を求めてきた。そんな挨拶を知っているのか。その小さな手を握り返しながら、私は、悲劇的結末しか待っていないだろうその塊のことを、少しだけ、可哀相だと思ってしまった。

「とりあえず、君に合う服を調達しようか」

 私はゆっくりと歩き出した。



「吸血鬼、という言葉を君には教えたっけ?」



 あの人は、培養槽の中で僕に教えてくれたことの大半を忘れていた。というか、僕にはよくわからないのだが、制御コンピューターが自動的にデータをどうこうするらしく、あの人自身は僕が何を知っていて、何を知らないのか、それを把握していないらしい。

「いや、知らないよ」

 僕は、小さなカップに入った暖かく甘い液体を啜りながら、正直に答えた。さっきまでは、裸の上に白衣をかけただけの格好で少し寒かったが、今はきちんとした服を着ている。あの人が、分厚い扉を開けて外に出て行き、何処からか取ってきたものだ。サイズは僕にぴったりで、長袖のシャツにトレーナー、それからトランクスの下着と黒いスラックスだった。あの人は、僕が着替えるところ、しかもその下半身ばかりを何故かじっと眺めていて、少し恥ずかしかった。気に入ったので、白衣はそのまま借りて、上からガウンのように羽織っている。袖が随分と長いので何重にも折った。裾は、立つと引きずる。

 吸血鬼を知らない、と僕が言った後、あの人はふむ、と頷いてから、小さな茶色の瓶を開けて一気に中身を飲み干した。栄養補給か何かのために使う薬剤だろうか。

「吸血鬼というのは、人の生き血を吸って活動する、不死身の化け物だ。まあ、適当な説明なので少しくらいの語弊はあるが、私は最低限のことだけ教えるつもりだから、これくらいでいいだろう」

 あの人は、適当を絵に描いたような態度でそれだけ言った。

「それだけ?」

「それだけだ」

「その知識って必要なの?」

「むしろ、この知識が無かったら今の世界では生きていけないよ」

 あの人は、よくよく意味のわからないことをたびたび言う人だったが、そのたび困惑していた僕には良い迷惑だった。

「もっと詳しいことを知りたいか?」

「……うん」

「だとしたら、そうだなあ」

 あの人は、僕達がいる不思議な部屋の乱雑な床から、ファイルフォルダーと同じくらいの大きさの機械を拾い上げた。何本もの黒いケーブルが繋がっているそれを、僕の前に置いて、開いて見せる。

「これは、ノートパソコンという便利道具だ。情報端末という把握をしてくれても良い。頑張って使えば、色々なことが調べられる。私はこの手の機械が苦手だから、正直あまり使いこなせていない。だから、君にあげるよ」

「ありがとう」

「でも、使い方は一切教えないからね。独学、我流で学びたまえ」

 そうして、ノートパソコンと格闘する日々が始まった。僕の生活は、あの人がラボと呼ぶこの部屋の中だけで構成されていた。あの人も、ほんの時々何かの用事で外に出る以外は、ずっとここにいた。朝起きると、ベッドの中にはあの人の姿はもう無くて、大抵は広いラボのどこかで、資料を眺めているか何かの実験をしている。おはようの挨拶が済むと、僕は一人でトーストと目玉焼きと牛乳の朝食を摂って、ノートパソコンの前にずっと座っている。あとは、適当な時刻に昼食があって、もっと適当な時刻に夕食があって、あの人が寝る時にラボの明かりが消されるから、それに合わせて一緒に眠る。ひたすらにそれだけの生活が続いた。二日くらいでパソコンの動かし方の基本を覚え、五日目くらいには吸血鬼について調べ終わっていたけど、他にやることも無かったし、あの人の邪魔になることだけはしたくなかったので、ずっと部屋の隅っこで端末をいじっていた。僕は、それだけでも十分楽しかった。



「さて、君が君になってから一週間が経ったけれども、外の世界の様子はわかったかい」



 別に、その塊に対して外の世界の様子を調べるように言った覚えは無かったが、吸血鬼のことを調べれば自ずとそこに辿り着くのは目に見えていた。

「うん。滅びかけてるんでしょ。吸血鬼のせいで」

「そうだな」

 私は簡単にそれだけ言って頷いた。

「ミズがこのラボからあまり外に出ないで暮らしてるのも、外が危険だからなの?」

「そうだな」

 今度も簡単にそれだけ言って頷いた。

「吸血鬼は、どうして世界を滅ぼそうとするんだろう」

「吸血鬼に、世界を滅ぼしたいという意志があるわけでは無いんだ。ただ、この世界との折り合いが極めて悪い。吸血鬼に血を吸われた人がどうなるか、君も知っているだろう?」

 そして今度は質問を振ってやった。その塊は、自分に答えられる質問が来たのが余程嬉しいようで、ぱっと表情を輝かせた。

「殆どの人が『出来損ない』の吸血鬼になるんでしょ。それで、意志も自我も持たない本能の塊みたいになって、他の人を襲う。『出来損ない』の吸血鬼に血を吸われた人も『出来損ない』になる」

「ネズミ算ならぬ吸血鬼算というわけだね」

 私のその洒落は、その塊には理解できないようだったが。

「男の吸血鬼がしょじょの血を吸った場合と、女の吸血鬼がどうていの血を吸った場合だけ、相手もちゃんとした吸血鬼になるんでしょ」

 その塊は、使い慣れない言葉を使って、拙い補足説明を入れてきた。

「とは言え、おかしな話でね。処女であることと童貞であることが、どうして『出来損ない』にならずに済むことに繋がるのか、誰にも論理的な説明は出来ないのさ。経験則で、そういうことになっているに過ぎない」

「でも、例外は無いんでしょ?」

「ま、無いことになっている。非処女や非童貞で吸血後にまともな意識を保っていた者はいない。みんな『出来損ない』になる。正気を保っていられるのは、異性の吸血鬼に血を吸われた処女と童貞だけ」

 その塊が処女と童貞という言葉の意味合いをしっかり理解しているのか気になったが、それを聞くのは、何だかセクハラに近いような気がして、気が咎めた。何となく学生時代、ぶくぶくに太った教授に、単位と交換条件で体を求められたことを思い出した。その教授は、講義中にわざわざこういう話題を好んで話す人間だった。たぶん奴ももう死んでいる。

「とりあえず、吸血鬼は人類を吸血鬼に変えてしまうが、吸血鬼が人類に戻ることは出来ない。この一方通行と、『出来損ない』のたちの悪さが、世界を崩壊に導いている原因だ」

 その塊は、端末で調べた知識を披露したくて仕方ないらしく、口を挟むタイミングをあからさまに計っていたので、発言権を譲ってやった。よく考えると、最低限のことだけ教えるはずの私が喋り過ぎているきらいもある。

「『出来損ない』は、理性が残っていないから手当たり次第に人間を襲う上に、しょじょやどうていすらも『出来損ない』にしてしまう。人類は今、世界中で数千万人くらいしか残っていないんだよね。それも、殆どの人はシェルターの中に逃げ込んで、外に出られないとか。僕達も、そうなんだよね」

「……まあ、一応そうだな。世界人口はあくまでも公称で、正確なところは定かではないが。『出来損ない』の力は弱いから、シェルター等に逃げ込めば、その脅威から逃れることが出来る。彼らには、ある程度以上分厚いドアを破ることは出来ないし、ロックを開けるほどの知能も無い」

「でも、吸血鬼の方は、実はシェルターなんか簡単に入っていけるんだよね。ただ、彼らはのべつまくなしに吸血行動をしないから、それほど怖くない」

 のべつまくなし、ね。外に出てきてたかだか七日間のその塊の語彙力に驚かされる。

「実際、吸血によって吸血鬼――勿論、『出来損ない』ではなく、『ちゃんとした』方だ――と化した人間が、殆ど人間時代と変わらない精神性を維持していたという報告もある。ただし、吸血せずにはいられなくて、禁断症状が出ると、大変なことになるが――」

「八王子事件だね!」

 嬉しそうに、その塊が言ったが、あいにく私はそんな事件名は知らなかった。だから、それが一体何なのか訊いてみた。その塊は、どうやら与えられた端末を使って、吸血鬼に関することを相当事細かく調べたようだった。

「去年の五月、まだ吸血鬼の数が今より断然少なかった頃、一人の吸血鬼が、自らの体を研究のために使ってくれ、と申し出たんだ。その国の研究機関は、彼の研究のために施設を用意して、生物学領域のありとあらゆる専門家を集め、喜び勇んで彼を解析した。食事としては、まさか生き血を吸わせるわけにいかなくて、期限の切れた輸血用血液を与えていたんだ。何事もなく、順調に研究が進んで行くかに思われたある日、朝食代わりの血液を飲んでいたところ、いきなりその吸血鬼の様子がおかしくなって――」

「研究員があらかた『出来損ない』になって発見された、とか、そんなところだろう?」

「うん。というか、その研究施設があった市が、滅んだんだ。施設自体は、街の外れの方に隔離されていたにも関わらずね」

「まあ、それくらい起こってもおかしくないな。吸血鬼の禁断症状というのは、一番危険だからね。誰もが『吸血鬼は血液を飲みたがる』と誤解していたようだけれど、実はむしろ、生き血を生体から直接吸うという行為自体に意味がある。輸血用血液では、吸血鬼の禁断症状を抑えることは出来ない」

「だから、それが判明した歴史的事件が、今の、八王子事件なんだよ!」

「……なるほど」

「吸血鬼にとって吸血行動っていうのが、生きる上では切り離せない行為だとわかってしまった。代用食品とかも無理だった。こうなると、共存は殆ど不可能だと言って良い。吸血鬼と人間の対立が本格的に始まったのはこの時だ、とする意見もあったよ」

「共存、か。吸血鬼同士がお互いに血を吸って欲求を満たしていれば、あるいは人類との共存も出来るかもしれないけどね。都合の悪いことに、殆どの吸血鬼は、人間に対する吸血を一番好んでいる。つくづくこの世界と相容れない存在だな」

 私は、自分の言葉にハッとしてその塊の方を向いた。その塊は、突然の私の態度に驚いたのか、きょとんとしているだけで、何ら変わったところは無い。良かった。まだ、。その塊が自分の正体に気付いた時、どのような反応をするだろう。私を襲うだろうか。それとも、自ら死を選ぼうとするだろうか。喜ぶかもしれないし、哀しむかもしれない。気付いてもなお、何も変わらないかもしれない。よくわからない。本当に、よくわからない……。

「吸血鬼は、死ぬことが出来ない。十字架も銀弾も大蒜も全てオカルトだった。脳を吹き飛ばして胸に杭を打ち込んでも平気で復活してくる。流れる水を越えられないのも嘘、鏡に映らないわけも無く、あまつさえ日光の下ですら平気で活動していた。皮肉なことに、それら吸血鬼伝説における特徴の多くを受け継いでいるのは『出来損ない』の方だった」

「吸血鬼が一体増えると、減ることは絶対出来ない。『出来損ない』と人類は減ることが出来る。最終的に、この世界は吸血鬼だけの世界になっちゃうのかな」

「このままだと、いずれ必ずそうなる。不可避の事象だ。吸血鬼がお互いの血を吸って慰めあい、人類に一切干渉せず、かつ『出来損ない』を撲滅すれば、今からでもあるいは人類の助かる道はあるかもしれない」

 だが、私はそこまでして人類が生き残る必要があるのか、そんな価値があるのか、疑問で仕方ない。



「何にしろ、この世界は遅かれ早かれ滅ぶだろう。君はそんな、世界の終わりに生まれて来たんだ」



 あの人は、皮肉げに笑った。どこか達観した表情で。実際あの人は悟りでも開いたのかと思えるほど澄み切った考え方をしている。

 僕は、何となくあの人に合わせて曖昧に笑いながら、心の中の思いを口に出すべきか否か、迷っていた。

 僕は吸血鬼なのではないか、というその疑念を。

「でも、僕は幸せだよ。ミズは優しいし、毎日は楽しいし」

 その言葉に嘘は無かったが、やはり心の中では全然違うことを考えていた。

 あの人は、いつも何かの研究をしている。何の研究をしているのか、訊いても適当なことしか答えてくれない。だが、この時世に、こんなに熱心に研究しなければならないものなんて、考えられる限り、吸血鬼関連のものでしかあり得ない。培養槽で造られた僕は、人工の吸血鬼サンプルなのではないか……?

 一瞬、気を逸らせていたらしい。すぐ目の前にあの人の顔があった。僕の顔を覗き込むようにしながら、その赤い唇が、「私を褒めても褒美は出ないぞ」と動き、右手の人差し指で僕の額を軽く小突いた。にやっと笑ってそのまま顔ごと遠ざかっていく。

 半拍遅れて、僕の頬が何故か火照って来た。熱い。きっと紅潮しているだろう。自分でもわかる。何だかよくわからないが。

「……ビックリした」

「なんだなんだ、その顔は。頭突きかキスかの二択だとでも思ったか? 私はそんな一筋縄ではいかないよ」

「そんな二択も聞いたことないけど」

「それは、君が若い証拠さ」

 そういう問題でも無い気がしたが、僕が若いという点については同意するしか無かったので、納得することにした。

「で、だ。世界のことも大体わかってくれたようなので、今度は君に戦い方を教える」

 それは、唐突としか言えないタイミングだった。世界は終わりかけていて、外は確かに危険かもしれない。けれども、僕とあの人がいるこのラボは、ここ一週間の感じだと、全く危険性は無いように思われた。中央に空っぽの培養槽のあるこの部屋は、四方とも窓が無く、出入り口はやたらと分厚い扉一つしかない。その向こうがどうなっているか全くわからないが、時々あの人が普通に出入りしていることを考えると、周囲を『出来損ない』に取り囲まれているということも無さそうだ。

「ここにいれば安全、と君は思っているんだろうね」

 こちらの考えを見透かしたように、あの人は言った。言ってから、また茶色の小瓶を開けて中身を飲み干した。一日に三、四本、あの人はそれを飲んでいる。

「でもそれは大きな間違いだよ。例えば今急に、私が君を殺そうとしたらどうする?」

「そうなったら、確かにどうしようか困るけど、でも、実際そんなこと起こらないから安全なんじゃないの……」

 僕のその言葉を受けて、あの人の目が、すっと細められた。

「言っておくが、君が思うよりも遥かに、私は優しくなんて無いからね。君を殺すことはおそらく無いだろうが、実際何をするかわからないよ」

 冗談でも何でもなく、それはまさに本気だったのだろう。あの人の目を見たらそれがわかった。圧倒的な恐怖を喚起するその視線の強さ。腕を見ると鳥肌が立っていたけれども、でも僕は自分でも驚くほどに冷静でいられた。憮然とした表情を作り、

「僕、ミズにだったら何されてもいいよ。だって、僕を作ったのってミズなんでしょ」

 と呟くように言った。それは、別段あの人の態度に対抗した強がりというわけでもない。僕の本音にかなり近いように思う。何故なら、僕がもし、吸血鬼のサンプルなんだとしたら、出来るだけ無抵抗でいることこそ、あの人の役に立つことだろうから。そのために殺されるなら、別に、それはそれで……。

「その考え方は、出来ればやめて欲しいな」

 一転して、溜息とともに吐き出されたその言葉は弱気に満ちていた。あの人が、悲しそうな顔でこちらを見ている。責められることには慣れていない。

「…………」

 僕は思わず目を逸らした。



「ごめんなさい」



 考えまいとしていた。しかし、その言葉を聞いた時、私は心の奥にわだかまる暗黒に一条の光が差し込むのを感じた。否定しなければならないはずのその感情が自分の中に芽生えることを、認めなければならなかった。その塊は、どこか拗ねたようにそっぽを向いており、一方で私は黙り込むしかなく、居心地の決して良くない空気がラボの中に充満する。

 それは、ひどく馬鹿げた言い回しをすれば、こういうことだった。私は、その塊に情が移り始めている。いや、それどころではなく、半ば好きになり始めているのかもしれない。さらに下手をすれば愛し始めてさえいるのかもしれない。たかだか塊を、である。実験のために自分で作り出した寄せ集めを、である。

 愛する。そんな不気味な感情が、自分の中に甦ることがあるとは、よもや想像だにしていなかった。だがしかし、感覚的に理解し得る、「好意」という感情のうち、他のどれとも一線を画すこれを、人はそう呼ぶのだろう、呼んできたのであろうということは、嫌と言うほどわかっていた。

 だが、よりにもよって、何故、その塊に対して! ……吐き気がする。この歪んだ慕情は、もはや正気の沙汰では無い。容姿的に、青年にも満たない幼い子供を、一体この私が、どうしたいと思っているというのか。

 どれほど狂えば、私の中の私は満足してくれるというのか。その塊は、元々、こんなことのために造ったわけではなく、純粋に……。

「まあいいさ。今のは、君が私を信頼してくれている証拠だと、そう思うことにするよ」

 純粋に……、何をするため? 人類に役立つ研究? 吸血鬼と人類の共存への一歩? 学生時代に果たせなかった実験の続き?

 本当に?

 本……当……に?

――魔女だ。誰か、警察だ、警察を呼んで! 魔女だ、魔女がいる――

「うん。僕はミズを信じてるよ!」

 信じている?

 陳腐な言葉だ。私の中で冷静を気取るもう一人の私が嘲笑う。

 私だって信じていた。

 裏切られるんだ。信じる者は、その瞬間に裏切りのリスクを負うんだ。

 告げてやりたい。目の前で機嫌を直して笑う、この悲しい塊に。破滅的な世界を突きつけても全く変わらずにいられたその塊に。もっともっと身近に存在する、真の恐怖を、狂気を、教えてやりたい。

 本当に、壊してやろうか?

 それでも、君は、笑っていられるのか?

 私は、口を開きかけた。そして、思わず腰に吊るしてあるスタンガンに手をやった。その塊に戦い方を教えるため、わざわざ持ってきた、それを実際に、実戦と称して、奴の穢れの無い体に押し当てて、スイッチを入れて電流を流して、痛みに抗って反射的に逃れようとするその体をさらに押さえつけて、無理にでも動きを封じ、なおも、執拗に、あらゆる場所に通電し、そして、そして、そして、そうしたら――

 それでもその塊は、本当に笑っているかもしれない。

 その時壊れるのは、きっと私だ。

「……じゃあ、戦い方を、教える。覚えてくれるね」

 口調は変わらなかった。スタンガンを持つ手は静かに震えていた。それでも、その塊に見せるために、それを机の上に置いてやった。

「それ、一体何なの?」



「スタンガンという武器だ。でも、君が使うわけではないよ」



 よかった。あの人は、いつも通りの声で、僕にその不思議な機械を説明してくれた。怒ってもいなかったし、僕に失望したわけでもなかったみたいだ。

 あの人は、考えてもいないだろう。僕には、本当にあの人しかいないのだということを。この一週間、いや、それよりずっと前、培養槽の中で、僕が意識というものの目覚めを自覚したまさにその時から、僕の世界は全てあの人が創ってくれていた。自分を作り出した人のことを親というのであったら、あの人は僕の母親以外の何者でもなく、親子の絆という観念をもってしても、僕があの人を信じない理由は無いのだった。

 たとえ自分が吸血鬼のサンプルであり、何かの『寄せ集めの塊』であり、いずれ灰になってしまう存在であっても。僕にはあの人しかいないのだ。

 僕と、一緒に、世界の終わりを生きてくれる人は。

 あの人は、一通りスタンガンの仕組みとその威力を僕に伝えた後、こんなことを言った。

「で、君は、この武器と同じ力を、徒手空拳でも使えるようになる」

「へ?」

「正確には、これよりもさらに強い。感電という言葉を知っているかい? 君は、生身の人間を感電によって容易に殺害できるだけの電力、電圧を伴った攻撃が可能だ」

「え? え、え?」

「どうしてそんなことが出来るのか、面倒なので教えないが、気になるのだったら、電気ウナギについて調べると良い。大まかに言えばあれに近い発電機構だ。発電板に接続される神経の方向が若干異なるがね。で、その方法だけれども――」

「ちょ、ちょっと待って」

 僕は思わず制止した。あの人は、スタンガンのスイッチを入れたり切ったりして弄んでいる。ばちばちと、蒼く光る稲妻に似た電撃が、えぐられた様なその先端部分を架橋した。

「待てと言われて待ってくれる敵もいないから、戦場では注意だよ」

「どうして、僕、そんなことが出来るの?」

「だーかーらー、言っただろう。知りたかったら電気ウナギ調べろって。私は必要最低限のことしか教えないよ」

「いや、そういうことじゃなくてさ――」

 どういうことなのか。僕は、何者なのか、それを訊きたい。

 知りたい。

「僕は――」

 でも、そんな基本的なことを、あの人が教えてくれていないという時点で、それは、訊いてはいけないことなのではないだろうか。寂しくないように、一緒にいてくれると言った。一緒にいられなくなった時に寂しいこと以外に困らないように、必要なことを教えてくれると言った。あの人はそう言った。

 僕が何者であるのか。

 それは、僕が生きる上で、知る必要のないこと……?

 知っては、いけないこと……?

 どうしてだろう。やはり、それは……。

「――これまでの一週間、全然電気なんて出せたことないのに、どうしてそんなことが出来るのさ? いきなり出来るようになるの?」

 訊けなかった。

 ああ、そうか。これが、逃げるということなのか。真実から目を逸らすということなのか。目の前の安寧を求めて、その裏側に潜む闇を放置したまま暮らしていくという、そんな漠然とした不安を抱え込む選択なのか。

 たった一週間で、どうして、こんな風になるのか。

 僕は、おかしいのだろうか……?

「それはいい質問だ」

 あの人は、良くぞ訊いてくれた、というような顔でにやりと笑った。そして、スタンガンを左手に持ち替えて、右手をグーにして僕の前に出した。

「真似してみてくれ」

 あの人がそう言ったので、僕も右手をグーにした。

「違う。第一関節と第二関節を両方ともしっかり曲げて、それから握りこむんだ。そうしないと、殴った時に、指の骨を痛めるらしいからな。衝撃もうまく伝わらないし」

 アドバイスに従って、まず、パーの状態から、全ての指の関節だけを曲げて、猫の手みたいな状態に変える。それから、第一関節を手の平にくっ付けるように、握っていく。

「……爪が、刺さって痛い」

「後で切ってやる。爪は短くしておいた方がいいからな」

 爪がぶつかる手の平の痛みはとりあえず無視。握りこんだ四指に親指を添えると、先程作ったグーよりも遥かに力強い拳が完成した。ぎゅっと力を込めると、それがダイレクトに各指に伝わる。力が入れやすい。

「一応、それは基本的な拳の握り方だ。私を本気で殴りたい時にでも使うといい。そして、拳とは関係なく取り出したるは、これ」

 あの人の右拳が、すっと引っ込んで、胸元の方を少し探ってから、戻ってきた。とん、と机の上に置かれたのは、片手に収まる大きさの青色の小瓶だった。いつもあの人が飲んでいる茶色い小瓶の、色だけが変わっているようだ。ラベルも何もついていない。

「飲んでみて」

 瓶は、かろうじて透明なので、中に何か液体らしきものが入っている様子は確認できる。しかし、その毒々しい瓶の色合いの不気味さと、中身の得体の知れなさに躊躇していると、

「大丈夫、苦くないよ」

 とりあえずあの人が味についてだけは保証してくれた。

 右拳を開いて、恐る恐る瓶を掴む。左手で栓を捻って外すと、ぷしゅっと気の抜けるような音が聞こえた。

「中の空気が圧縮されていたから、それが出てきた音だ。中身自体は、炭酸でも何でもない。一応、子供でも飲み易いように調整してあるからな」

 別に、炭酸だったら飲めないというものでもなかったが、そんなことをわざわざ言うのも時間を稼いでいるようで嫌だったので、僕は瓶の口を咥えると、一気に中身を傾けた。滑らかな液体が、遠慮なく口の中に流れ込んでくる。最初に気になったのは、その温さだ。あの人が懐に入れていたのだから、仕方ない。ほんの少し甘いが、基本的に、味として感じられるものは無かった。少しだけ、舌や喉をちくちくと刺激してくる気がする。酸味とも辛味とも違う何かが、口腔内を細かく突付いているような、そんな感じだ。

 瓶が小さいため、中身はすぐ空になった。

「美味いか?」

「あんまりおいしくない」

「正直で宜しい。決して美味を求めて作った飲み物ではないからな」

「ミズ、いつの間に、こんなの作ったの?」

「君が寝ている間だよ、ねぼすけ君」

 あの人は、ふふんと軽く鼻で笑った。

「さて、飲んでみて、気分はどうかな?」

 問われて、少し考えたが、大した変化は無い。先程まで感じていた刺激も今は完全に消え、喉元過ぎれば熱さを忘れるという諺通り、飲んだことが夢であったかのように、何の印象も残っていない。

「別に、何も変わってないと思う」

「じゃあ、青瓶が君に効いたかどうか、よくわからないな。私が飲んだ時は、液体がそのまま両腕の方に流れていくような錯覚があったんだけどね。とりあえず、両手とも拳を握ってみて、いつもと何か違うと感じたら、とりあえずは覚醒成功だ」

「ミズも、これ飲んだの? ってことは、ミズも電撃出せるの?」

「いや。私は無理だ。これは君専用だからな」

 何が何だかさっぱりわからなかったが、とりあえず言われたように先程の練習と同じ握りで拳を作る。

「う、うわ……。何、これ」

 それは、とにかく異常な感覚だった。拳が、熱いのだ。間違って、何か熱源となる細い棒を握ってしまったのではないか、そしてその手をオーブンにでも入れてしまったのではないか、そんな錯覚を覚える。内と外、その両側から拳が炎上している気さえしてしまう。

「熱い……熱いよ……」

「男だろ、それくらい我慢しろ」

 皮膚が熱いと感じているだけで、実際の温度は大したことないのだろう。僕の拳は、決して火傷跡を作ったりはしなかったし、水脹れやケロイドになったりもしない。ただ、とにかく握った両の手が熱く感じる。熱は徐々に痛みに変わってきた。

「どうやら、成功したようだな。その握りを変えず、人差し指と小指だけを立てると、その間に、電気が走る。これと同じようにな」

 あの人が、またもスタンガンのスイッチをいじっている。ぱちぱちという放電音が聞こえてくる。僕は、拳を包む熱さに必死で耐えながら、ゆるゆると右手の人差し指と小指を立てた。窮屈そうに二つの指が真っ直ぐ上へと伸びた時、とうとうそれは起こった。

 パン!

「うわ」

 人差し指と小指の間が、突然発光して、弾けた。そんな風にしか見えなかった。右手を包んでいた熱は、信じられないほど急速に冷めた。むしろ、常態よりも冷たく感じるほどに。左手は、炸裂音と光に驚いて拳を崩してしまったため、それだけでごく普通の温感に戻っていた。

「もっと、持続力をつけないと駄目だな。一気に放電するのは勿体無い。その辺の調節は君が感覚的に身につけるしかないけどね。長時間維持できた方が良いだろう?」

 僕は、呆けたように自分の手と、あの人の顔を見比べていた。

 自分が何者であるのか。本当に、わからなくなっていた。吸血鬼なのかと疑っているものの、そもそも僕は誰かの血を吸いたいと全く思わない。しかも、拳で放電出来る吸血鬼なんてのも聞いたことがなかった。もしかしたら僕の正体は吸血鬼と全然関係無いのかもしれない。だが、だったら尚更、自分が何であるのかわからないし、あの人がどうして正体を教えてくれないのかもわからない。知りたいという思いが募って行くばかりで、口に出せないことがつらくてつらくて仕方がない。

 こんなことなら、いっそ――

「青瓶の効果は、一本で十八時間。その間なら、君は、その拳の握り方を実践さえ出来れば何度でも、今のようにスタンガンと同じ能力が使える。ただし、これはとてもエネルギー消費が激しいので気をつけた方が良い。あと、これを使うときはいつもより深く呼吸するようにしないといけない。酸素がかなり必要なんだ。連続して何度も使用する場合や、長時間電流を持続させたい時には特に注意だな。ええと、あと、この瓶は、あそこの棚の二段目に山ほど入っている。椅子を使えば君でも届くだろうから、練習したかったら勝手に持って行って良い。ただし、効果が残っている内にさらにもう一本飲むと、副作用でとんでもないことになるのでそれは禁止だ」

 生まれてこなければ、よかった。



「ま、使いこなせるようになったら、是非、私に見せてくれ」



 返事は無かった。

 けれどもその塊は、その日から毎日、青瓶の能力を使いこなす練習をし始めた。ただ、黙々と。朝食が終わると、椅子の上に乗ってようやく届く棚から青瓶を取り出し、その場で飲んで、瓶を投げるように捨てると、床に下りてから深呼吸をし、静かに拳を握って、二本指を立てる。ぱぱぱぱ、と連続放電の音が聞こえ、少しすると静まり、息を落ち着かせてからもう一度深呼吸、そして拳を握ってぱぱぱぱぱ、それの繰り返しだった。

 会話が、極端に減った。その塊が私より先にベッドに入っていることも多くなった。エネルギーを多量に消費するため、疲れて早く眠たくなるのだろう。眠っているその塊の横に座り、何となく、頭を撫でてやったりした。さらさらの髪は、羨ましくなるような艶やかな黒。くすんだブロンドの私は、学生時代、髪質に関して大変なコンプレックスを持っていた。今は、そんな悩みなど可愛げがあるとしか言えないような、酷く醜い劣等感でいっぱいだから、綺麗な髪の毛に対する憧憬を思い出せると、少し安心する。髪を撫でると、その塊は、身じろぎするように寝返りを打ち、私から逃れたそうにそっぽを向いてしまう。毛布を全て抱えるようにして眠っているため、それだけで私の取り分は全くなくなっている。

 苦笑と共に、私はいつもの仕事に取り掛からなくてはならない。

 その塊が先に眠ってくれるなら、ラボの電気を落とす必要は無い。睡眠誘導物質の誘発のために、定時に眠る振りをして毎日決まった時刻に電気を消していたが、その塊が先に眠ってくれ、しかも、どうやら一度眠るとなかなか目を覚まさないらしいことが明らかな今、明るい中で注射をしても何ら問題は無いのだった。最初の一週間は、すぐ隣で横たわるその塊の寝息を確認し、暗闇の中作業しなければならなかったので、何となく悪事に手を染めるような背徳感に纏わりつかれていた。

 アンプルと注射器は、常に携帯している。二四時間以上有効であることはわかっているが、いつ何時その効果が切れてもすぐさまその塊の元に駆けつけて、打ちこめるように。抵抗が予測されるため、特製の麻酔弾の入った銃も実は持っている。その塊に麻酔として働く唯一の薬液入りだ。

 そんな事態にならないように。このアンプルを欠かすわけにはいかない。

 きっかり五目盛り。注射筒を慎重に引く。アンプルの中身は、注射十回分。これは二本目だ。注射針が上になるよう向きを変え、注射器を軽く叩いて気泡を集め、ピストンを押して容器から追い出す。先端から僅かに液が零れたのを確認し、アルコール綿で針全体を軽く拭いて心ばかりの消毒を施した。

 すやすやと寝息を立てるその塊の、右腕をとる。寝間着として与えているシャツが半袖である理由に、その塊は絶対思い至らないだろう。皮膚を伸ばし伸ばし、一番太い青色の血管を探る。消灯中ですらやっていたことなので、それほど難しくもない。アルコール綿で優しく擦り、こちらも消毒完了。左手でその塊の右腕を押さえ、注射器を近づける。そして、針の先が、柔らかい肌を突き破り、

「う……ん……」

 その塊が、痛みに僅かに眉を顰める。腕が反射的に引き戻されようとしている。

 だが、屈してはならない。アンプルの注射に失敗すれば、大変なことになる。左手でがっちりと右上腕を拘束し、針先を、うまく、静脈内に入れる。学生時代からずっとやってきたことだ。容易に成功させると、ピストンを押して中身をゆっくりと注入する。

「う……ん……ん……」

 その塊が、急に体ごと捻るようにして、右腕を抱えこんだ。あえてそれに抗することはせず、勢いで注射針が抜けるに任せた。血管が破れるため、わずかに出血する。アルコール綿で圧迫止血をして、血も拭き取ってやる。

 しばらく、その塊の右腕の出血箇所を押さえたままで、また隣に座っていた。

 じっとしていた。まるで、時が止まってしまったかのように。そうでない証拠は、蛍光ランプの灯りの下で時折聴こえてくる、その塊の穏やかな吐息と、寝返りの衣擦れの音、そして、思わず含み笑いをした私の声だけだ。

 学生時代、全てが壊れてしまったあの時。あいつと初めて寝た日のことを思い出した。今よりももっと、自分が自分だった頃。いずれ、世界中を敵に回してこんな風になってしまう私が、社会に受け入れられてそこそこ楽しく暮らしていた頃。無知を知らなかった頃。

 あいつは、今も元気でやっているだろうか。

――魔女だ。誰か、警察だ、警察を呼んで! 魔女だ、魔女がいる――

 あの決別の瞬間以来、他人に対する信用、信頼、そういったものは全て失ったつもりだった。友情、愛情といった類の感情も勿論まとめて。以降の人間関係は、利害関係と猜疑心の中で組み立てられていた。

――僕達の愛は、これで永遠だね――

 全てが壊れてしまったあの時、あいつが言った言葉に、思わず笑ってしまった。愛だの恋だのに憧れていた、当時の哀れで無邪気な私でさえ、こんなドラマみたいなセリフを言われたら、笑わずにいられない。実際に、あの時点で自分達の状況を正しく把握出来ていたら、笑っていられなかったはずだけれど。

――もう限界なんだ。こんな関係は――

 キスの上手い男だった。最後に口づけを交わしたのは、決裂の走りとなったラストデートの後だった。唇を離した時、吐息が触れ合うほどの距離から彼に聞かされたその言葉で、私の心臓は凍りついた。顔から色を失う私を前にして、あいつは私の首筋をさらりと一撫でしてから、抱擁を解いて、背を向けた。

――          ――

 その後の彼の言葉だけ何故か覚えていない。

 あいつも、こんな髪をしていた。その塊を見ていたら思い出した。東洋の人間だったからか、照り輝くような素敵な黒髪で、それを自慢するみたいに肩まで伸ばしていた。

 その塊の止血はもうとっくに終わっていた。けれども、私はそこを動けずにいた。

 その塊にあいつの影を見ているのではないか、と思い始めていた。屈折している私にはお似合いな考え方だ。黒い髪も、白い肌も、透き通るような瞳も、優しげな顔立ちも、似ているといえばかろうじて似ていた。身長も年齢も背の高さも声も性格も似ていなかったが、どことなくその塊に、彼を髣髴とさせる要素は沢山ある気がする。

 だから、なのか……?

 だから、私はその塊に対して、また、こんな……?

 それは、つまり、私が、未だに、あいつに対して、あるいは――

「違う……!」

 思わず声を出していた。拳を握り締めようとして、まだその塊の腕を押さえていることに気付き、慌てて手を離す。

 私は、その塊を大切な存在だと認識している。今は、これを否定する気は全く無い。母性本能という言葉で括ってしまいたいが、最早そういうレベルを超越していることを一番良く知っているのも、自分だった。

――好きになることに理由なんてないさ――

 そうなのだろう。好きになることに理由があるのは、好きになったことに理由をつけているだけの場合が多いだろうし、無いなら無いで一向に構わない。困ることもない。基本的に、それを否定する気もない。

 たとえ理由がなかったとしても、そうやって好きになった人とずっと一緒にいたいと願うのも間違いではないし、そしてあの時のその気持ちに全く偽りは無かったはず。

 だが――。

 願いは、叶わなかったではないか。

 私の想いは裏切られたではないか。

 それが、どうして、また今になって、こんな、自己満足のために作り出した塊に、生き物という括りにすらおそらく入らないこの塊に……。自己愛よりも歪んだこんな想いを。

 昔から私は一人になると俯いてばかりいた。

 じわっと鼻の奥が熱くなった。こんな馬鹿げたことで泣きそうになる自分が許せなくて、無性に悔しくて、心の整理がつかないまま、わけのわからない涙を流した。一度流れ出すと、それは止まってくれない。感情の奔流は理性を押し流し、どうして泣いているのかわからずに泣いているのにそれさえもわからなくなって、泣くこと以外思いつかなくなった。けれども素直でない私は、子供のように声をあげて泣くには歳を取りすぎている。目尻から涙が流れ、喉からは嗚咽が零れ、声を押し殺し、静かに、ただ泣いていた。無駄を一切排除して、どんなことをも考えなかった。

 泣くのは久しぶりだった。



「――――――――」



 あの人は泣いていた。こんなことは、初めてだった。

 注射のことは、ずっと前から気付いていた。あんなに痛いことをされて、目が覚めないわけは無い。ただ、あの人は注射が終わると大抵、僕の頭を優しく撫でてくれた。その感触が好きで僕はずっと黙っていた。自分が何を射たれているのか、気にならないと言えば嘘になるが、あの人が秘密にしておきたいことなのだ。そう思うと、訊くに訊けなかった。

 そして、今、あの人は泣いている。

 どうしたの、と声をかけたい衝動に駆られる。あたかも、たった今目を覚ましたような演技で起き上がり、ちょっと困った顔をしてから、泣いているあの人を助けてあげたい。

 寝返りを打つ振りをして、あの人の方に体を向けて、薄目を開ける。あの人は、僕のお腹くらいの位置、ベッドに腰を下ろして俯いていた。髪の影が横顔にかかり、その表情を曖昧に隠す。時折、啜り上げるような声や、嗚咽が聞こえてくる。

 どうして、泣いているんだろうか。

 注射に関する嫌な記憶でも思い出したのだろうか。それとも、僕を創ったことを後悔しているのだろうか。最近、青瓶の能力に没頭するようにして、あの人と話すのを避けていたから。孤独に苛まれているのだろうか。

 僕にも、あの人を励ますことは出来るだろうか。

 泣かないで、と、それだけを伝えられれば。

 あの人が泣いていると、僕も泣きそうになる。どうしてこんなに悲しいのだろう。

 何があったの? 僕が悪いの? 僕さえいなければ良かったの? 僕では助けることは出来ないの? どうして僕に注射を打つの? どうして僕は電撃を撃てるの? どうして僕は創られたの? 僕は――何者なの?

 取りとめも無く浮かぶ疑問。ただ無性に自分の無力が悔しい。

 注射の跡が痛痒い。反対の手で引っ掻くと、疼きが患部から甘く広がっていく。

 あの人はまだ泣いている。ラボの明かりを点けたままで、白衣の背中を丸めて、泣くこと以外の全てを放棄している。

 泣かないで。

 僕に出来ることなら、何でもやるから。

 僕は、あなたの味方だから。

 僕は、あなたを信じているから。

 僕は、灰になる迄、ずっと、あなたの傍にいるから。

 だから、もう、泣くのをやめて。

 いつもみたいに、僕の頭を撫でて、それから、電気を消して、一緒に寝よう。

 明日になったら、僕は電撃を使いこなして、見せてあげるから。

 きっと、あの青い稲妻は、部屋を暗くしたらとても綺麗に見えるはずだから。

 それを見たら、思わず微笑んでしまうはずだから。

 だから、もう――



「泣かないで……」



 急に聞こえてきた弱々しい声にはっとなって、私は我に返った。顔を上げる。沈む時と同じく、覚醒は一瞬だった。振り向くとそこには、相変わらず横になって目を閉じたままのその塊の顔があった。動いた拍子に、私の頬を伝っていた涙がシーツの上に零れ落ちた。

 ……起きていたのか……。

 今の声を寝言だと思うほど、楽観的で都合の良い考えを私は持っていなかった。一体いつから起きていたのだろう。もしかすると、これまでも注射の度に起きていたのだろうか。だとすると、その塊の狸寝入りに、私はずっと騙されていたということになる。

 すっと、右手をその塊の頬に伸ばした。一瞬緊張して肌が硬直するが、私はそれに気付かない振りをしてやった。乱れて頬を覆っている長い髪を優しく払いのけて、すべすべの、若々しい肌を慈しむように撫でる。

 ……私は、あいつに何を望んでいたのか。

 ……そして、その塊に何を望んでいるのか。

 そこから先、思考が深みに嵌るのを故意に避けた。取り返しのつかない記憶を引きずり出しそうだったからだ。涙は、嘘のように引いている。熱っぽい、考え事に向かなくなった頭を二、三度振って、落ち着こうと努めた。深呼吸をしようにも、一々喉が震えて上手く出来ない。息をするにも苦労する自分が、ちょっと可笑しい。嚥下する唾液に、涙の味が混じる。みっともなく鼻を啜る。

 親指で、悔しいほど艶々しているその塊の唇を弄る。寝たふりを続けながらも、若干頬が紅潮してきたその塊の初々しさに笑みが零れた。一体何をされるのか、びくびくしているのが手にとるようにわかる。それでも私は、相手が起きているとは思っていない素振り。

 手の平で頬を撫で、親指で唇の感触をひとしきり楽しんだ後、私は手を引いて立ち上がった。その塊の、安堵するような、残念がるような、不透明な気配を背に、ただ呟く。いつかのあの時のように。

「願いは叶わない。祈りも届かない。だから、この世界は滅ぶんだ」

 私はまだ、私でいられる。今や、世界が滅ぶことに拘泥しない私だからこそ。

 好きなだけ祈ってやろう。また、あの馬鹿な祈りを。

 好きなだけ願ってやろう。また、あの無謀な願いを。

 ずっと、一緒にいられますように、と。開き直りを込めた皮肉げな微笑で。

 ラボの明かりを落とす。アンプルや注射器をポケットに入れたままで白衣を脱ぎ、椅子の背にかけてからベッドに戻って来た。暗くなっても見える、その塊の頭をいつものように静かに撫で、毛布を奪い取りつつ横になる。

 泣いていたせいか、目を閉じると目尻と目頭がむず痒くなる。一度目を開けたら、そこにその塊のあどけない顔があった。隣に寝ているのだから、当たり前だ。

 私はその、当たり前の位置にある顔の、当たり前の位置にある唇に、そっと顔を寄せた。何のためらいも無く、衒いも無く、ただ、口づける。悪戯に奪った唇からは、動揺の色が伝わってきた。吐息が感じられるはずのその距離で、その塊が呼吸を止めたのもわかる。柔らかいその感触に満足し、私が唇を離した後、思わず目を見開いてしまっていたその塊と、ばっちり視線が交錯した。

 途端にぎゅっと目を閉じてしまうその塊を後目に、私は首を伸ばしてもう一度、今度は額に口づけた。思わず少し、頬が緩んだ。もう目を開けていないその塊の隣、いつもの定位置に枕を並べ、ようやく静かに目を閉じる。



「おやすみ」



 次の日、朝起きると、相変わらずの朝が僕を待っていた。

 あの人の目が真っ赤であるとか、僕に対する態度がどこかぎこちないとか、そんなことは全く無い。注射を打たれたはずの僕の右腕にも、痕跡はまるで残っていないのだった。

 昨日の夜の出来事は全てが夢だったのだよ、と、サンタクロースみたいな格好の偉そうなお爺さんが告げたなら、あるいは僕はそれを信じたかもしれない。しかし、そんな誰かは一向に現れる気配がなかったし、何より、これだけ克明に思い出せるあの出来事が、全て夢だったと信じたくなかった。

 呼吸を整えようとするのに上手くいかず途切れがちな苦笑を零したその声も、優しく僕の頬を撫でた冷たい手の平の感触も、突然唇に触れてきたその柔らかさもその涙の味も、僕はしっかりと覚えている。そして、目を開けてしまった僕を見て、あの人が見せたとても綺麗な微笑を――

 思い出していたら、急に恥ずかしくなった。

 狸寝入りだったことは、一体何時からばれていたのだろう。泣かないで、と寝言を装って口に出してしまったのが墓穴を掘ることになったか。今思えば馬鹿なことをしたものだ。どうせばれるのなら、しっかり起きて励ましてあげれば良かった。そうすればもっと……。

 …………。

 そうすれば?

 もっと?

 一体何がどうなるというのか。

 あの人が、僕のことを信用出来る人だと思うようになる、とでも? 泣いているところに声をかけてくれた、ありがたい人だ、と? 創って良かった、と思えるようになる、と?

 もしかして僕は、落ち込んでいる所につけこんで、あの人に対する好感度を良くしようと思っていたのか……? 何のことは無い、あの人が泣いているあの時、僕も悲しくなり、泣きそうになった、つまるところそれは、我が身可愛さでしか無かったというのか?

 何という、愚劣な発想。僕はどれほど惨めな存在になろうとしているのか。

 願いは叶わない。

 祈りも届かない。

 だから、この世界は滅ぶんだ。

 僕は。

 僕は。

 あの時、泣いた。あの人が背を向けて、ラボの電気を落としに行ってしまったあの時、僕は泣いていた。涙が勝手に流れ落ちた。

 あの涙も。僕は僕として、灰になる迄あの人と共にありたいと願うこの気持ちも。

 ただ単に、僕自身の自己満足でしかなかったというのか。

 だとしたら僕は、一体何を成せばいいんだろう。何をすれば、あの人が、あの人として、僕を創って良かったと思い、嬉しいと心から笑ってくれるだろう。

 あ……。

 それでも、結局それは自己満足になってしまうのかもしれない。願いとは即ち、個人の願望だ。叶った時、それは本人の自己満足にしかならない。そして、願いが叶わない世界は、誰も満足できない。だから滅んでいく。

 現に滅んでいる。滅びつつある。

 …………。

 僕には、何も出来ないのか?

 だったらもう、正直に生きればそれでいい。僕はあの人に認められたい。信用、信頼、何でもいい。もっともっと、近付きたい。

 そうだ。役に立ちたい。あの人の役に立って、あの人にはいつでも笑っていて欲しい。それで僕は、灰になる迄あの人の横に立って、同じように、笑っていられればいい。

 それが、僕の、願いだ……。

 でも、願いは叶わない。それは少し悲しい。とても寂しい。

 だから僕は、きっともう二度と願うことはしないだろう。

「どうしたー? 今日は青瓶の練習は無しか?」

 気付くと、すぐ真横にファイルを片手に開いたあの人の姿があった。にやにやしながらこちらを見ている。

「今イメージトレーニングをしてたところ」

 愚にもつかない言い訳をしてから、いつもの棚に青瓶を取りに行く。

「この前も言ったけど、ちゃんと出来るようになったら私に見せてくれ。次のステップも用意してあるんだから」

「次のステップ?」

 青瓶の蓋を片手で外し、もうすっかり慣れてしまったその味の薄い中身を一気に飲み干してから、僕は訊き返した。

 あの人は、まるで何かを自慢するようにこう言った。



「実戦形式の練習さ。ラボの外に出られるよ」



 それからすぐ、その塊は、青瓶の能力を使いこなすようになった。ラボの外に出られるというのが余程嬉しかったのだろうか。次のステップの概要を告げた後の上達ぶりには目を見張るものがあった。その塊の幼さゆえの好奇心に、この研究室は狭すぎるのかもしれない。……とは言っても、

「模擬戦を行う場所は、ここより狭いよ」

「え? 屋外じゃないの?」

 ひどく残念がるその塊の様子を見るにつけ、少し心が痛む。

「ヴァーチャル空間と言ってね。小さな部屋にいながらにして、架空の世界を体験出来る。五感のうち、嗅覚と味覚以外は再現できるはずだから、それなりに楽しめると思うけど」

「外に行けるのかと思って楽しみにしてたのに……」

「まさか。さすがに君を、いきなり外で本物の『出来損ない』と戦わせる勇気は無いなあ、私には……」

 思わず口を滑らせた。

「え、僕、『出来損ない』と戦うの!」

 案の定、その塊は目を輝かせて、私に食い付いてきた。出来ればこのことは、その塊が本当に実戦に出られるようになるまで秘密にしておきたかった。まあ、私なりの無駄な演出であるから、ばれてしまったら大人しく白状するしかないが……。

「……今まで隠してきたけどね。君は、『出来損ない』をこの世から絶滅させるために創られた存在なんだ。電撃が放てるなんていう能力を持っているのもそのせい。君は、その力を使って、出来るだけ効率よく、かつ確実に『出来損ない』を抹殺する方法を学ばないといけない。今から模擬戦で戦う相手は、姿こそ変えてあるけど、『出来損ない』のデータを基に作られたキャラクターなんだよ」

「すごい!」

 その塊は、叫ぶような音量の声でそう言うと、私に向かって体当たりしてきた。否、それくらいの力で抱きついてきた。

「お、おい……」

「凄い、凄いよ! ミズ、ありがとう、僕を創ってくれてありがとう! 僕は、『出来損ない』を狩るために生まれたんだね。ありがとう! 僕頑張るよ、本当に、頑張るから――」

 そのはしゃぎ方といったら無かった。こちらまでつられて嬉しくなるほど、その塊は凄い凄いと大騒ぎしてくれた。私はお腹ほどの高さにあるその塊の頭を何度か優しく撫でて、

「よし、それじゃあ、早速行こうか」

 と、依然興奮冷めやらぬその塊の背を押したところで――

「ぐっ……」

 突如、視界が歪んだ。ラボが左右、上下で圧縮されるように波打ち、平衡感覚が失われる。三半規管が勝手に暴れ、私の世界は揉みくちゃに回転を始めた。

 茶瓶の効果が切れる直前の症状だ。

「ミズ! どうしたの?」

 これ自体は、体に何の害も無い。効果の切れるタイミングがわかるように、わざとこういう症状の出る調整を茶瓶に加えているのだ。決して、茶瓶の効果を切らしてしまわぬよう、切れる直前に苦痛が加えられる仕様とした。

 以前は一日四本で足りていたものが、今は六本でも足りなくなって来ている。夜中、茶瓶を飲むために起きることもしばしばだ。

「ミズ! 大丈夫?」

 普段、その塊の前ではこの症状が出る前に茶瓶を飲んでいたので、その塊はこの様子を全く見たことが無いだろう。平衡異常に耐え切れずその場に膝をついてしまった私の横で、顔を真っ青にしておろおろしている。

 慌てるその塊を片手で制し、もう片方の手で、白衣の内ポケットから予備の小瓶を取り出す。視界が揺れていて、キャップを外すのに四苦八苦していると、横から小さな手が伸びてきて、蓋を開けてくれた。

「……恩に着るよ」

 どうにか、瓶を口元に近づけ、瓶を垂直にするような勢いで中身を飲み干す。甘く、そして喉越しが良い。とても美味しい、と言ってしまっても過言ではないだろう。青瓶の味の調整と違い、こちらは私が最も好きだったピーチフレイバーのカクテルと同じ味にしてある。もう一度飲みたくなる味にしておけば、飲まなくなる危険性も少ないだろうと思ったからだ。二重三重の防御策を施してある。

 茶瓶の中身が静かに、身体中に浸透していくイメージがある。いつの間にか全身にびっしょりとかいていた汗が、すうっと引いていく感じがして、視界の揺らぎが何でもなかったように元通りになる。重力の感覚が戻り、半規管が正常な機能を回復する。

 膝をついた為同じくらいの高さに来ていた、心配そうなその塊の頬に優しく触れてやる。

「大丈夫。この瓶を飲めっていうただの合図だよ。病気の発作とか、そういうのじゃない」

「……それ、何の薬なの?」

「……秘密だ」

 立ち上がりざまに感謝の意をこめて唇にキスをしてやったら、真っ赤になって黙ってしまった。その塊の手を引いてラボを後にする。

 内側から三重にロックできる分厚い金属の扉を開け、部屋の外に。

「……わあ」

 俯いて黙っていたその塊は、扉の前に広がる光景に、とりあえずは驚いてくれたようだった。ラボ以外で初めて見た景色なのだから、当然かもしれないが。ラボを出ると、そこには扉より少し広いだけの幅の廊下が、延々、視界の果てまで続いており、突き当たりに再び、ラボに付いているのと同じ扉がある。右側の壁には、数メートルおきにドアが付いており、そのドアだけが銀色で、あとは廊下の壁、床、天井のあらゆる部分が白い。人の気配の無さと、無機的な蛍光灯の光が、生物を拒絶する冷たい印象を醸し出している。

 その塊が、一声漏らしたまま何も言わないので、雰囲気に飲まれて臆しているのかと思ったら、唇に指を当て、口づけの感触を確かめるようにしながら何やら考え事をしていた。

「……今更恥ずかしくなるからやめろ」

「ご、ごめんなさい」

 再び真っ赤になるその塊を引っ張って、右側の壁、手前から三つ目のドアの前へ。白衣の胸ポケットから鍵を取り出し、開錠する。

「その白衣、何でも出てくるんだね」

「君にも一着あげただろ。あれからも色々出てくるかもしれないよ」

「あれ、裾踏んで転んで以来、着てない」

「賢明な判断だ」

 ドアを開けると、真っ暗な部屋が広がっている。少し前に掃除をしておいたので、埃っぽさは消えている。部屋の中央の天井部に、仰々しい装置がくっ付いている。それ以外には、この部屋の中には何もない。



「中に入って、待っていてくれ。私は隣の制御室に行くから」



 言われた通り中に入って、ドアが閉まると何も見えなくなった。完全に遮光されているらしく、ドアの隙間から廊下の明かりが漏れることも無い。しばらく暗闇の中で立っていた。その間何となくまた、唇を触っている。

 最近、あの人をとても身近に感じる。それは、沢山話し掛けてくれるようになった、ということの他に、スキンシップが急に増えた、という理由があるだろう。

 頭を撫でてくれたり、髪を梳いてくれたり、頬に触れてくれたり、さっきみたいに――

 嬉しい、と言えば嬉しい。嬉しいに決まっている。僕はあの人のために生きているようなもので、あの人が僕を可愛がってくれるというのは、つまり僕は大切にされているということで、あの人が僕を創って良かったと思っているかもしれないということで、僕が喜ぶべきポイントはしっかり押さえている。

 けれども。

 どこか、引っ掛かる。

 例えばあの人は、今日まで僕に、僕が『出来損ない』と戦うために創られた存在であることを言わなかった。今日まで隠していた意図は一体どこにあるのか。僕を驚かせるため? まさか、そんな理由ではあるまい。あの人にとってメリットがあまり感じられない。

 だから、僕は思うのだ。

 もしかしたら、あの人は僕に、まだ何か隠していることがあるのではないか、と。

 あの人の信頼が欲しいと言っておきながら自分がこのザマでは仕方ないが、裏があるとしか思えないのだ。僕は、確かに『出来損ない』と戦う能力を持っている。だが、だからといって、『出来損ない』と戦うのが目的に創られたという保証はどこにもないのだ。どうも、思いつきでそういう設定にされたような、投げやりな響きが感じられてしょうがない。

 今日に限って、僕の正体について急に饒舌になったあの人……。そしてそれを、こんな風に疑いながら、なお無邪気な子供のように喜んで見せた自分……。

 これは、騙し合い……なのかもしれない。

 だが、僕は無邪気を装い、あの人は何を装う?

 最近様子が変わってきたあの人は、一体どんな方向性に軌道修正してきたというのだろうか。そして、そこにおける僕の新たな位置付けは……?

 ただ一番怖いものだけがはっきりしている。

『おまたせ。準備は出来てるかー?』

 無垢の仮面の裏でこれだけの思考を制御し始めた、僕そのものだ。

 うっすらと、照明がつき、部屋の様子が照らされる。天井中央の複雑な装置の一つから、あの人の声が聞こえる。スピーカーらしい。

『集音装置の様子も見たいから、返事しろ』

「あ、うん。準備なんて、だって何もないし」

『良好良好。ちなみに、そっちの様子は、こっちからは丸見えだから、変なことしようと思わないようにな』

「変なことなんてしないよ」

 思わず、顔が赤くなる。ふと、思った。

 その内、顔色すらも自分で意識して変えるようになってしまうのだろうか、僕は。

 そうはなりたくない。でも、例えばあの人がそれで喜ぶなら……?

『今から、屋外の景色を投影する。君は、その中で自由に動いてくれて構わない。私にもよくわからないが、位相がどうこうという話で、その部屋の実際の広さに縛られないで、投影された景色をほぼ現実のものとして捉えて動くことが出来るそうだ。投影されたものにぶつかると、実際には傷は負わないが、痛みは感じるらしい。あと、ヴァーチャルでも本当に致命的なことが起こると、実際に精神が死んでしまう可能性もあるらしいが、君はその点大丈夫だろう』

「どうして僕は大丈夫なの?」

『君は、元々生きてないようなものだからさ。「出来損ない」に血を吸われると――というか正確には長時間奴らの唾液に接触していると――普通の生物は「出来損ない」になってしまう。それに対抗するために君は、一般の生き物の範疇に入らないような代物にした』

「……ああ、とりあえずそう教えておけば、ヴァーチャル内で死んでも思い込みのおかげでリアルでは死なないだろう、ってこと?」

『そういうことでもある。自覚しておかないと、それなりに危険であることには変わりないからな。心が死ねば身体も死ぬ。これだけ教えてやったんだ。死んだりするなよ』

 死ぬ、か。生き物ではないというなら、正しい表現ではない気もするが。

 さあっと、目の前に光が溢れ、一瞬視界が真っ白に覆われてから、波が引くようにして、鮮やかな緑が広がった。空は雲一つない快晴、眼下には一面に広がる大草原。実際に初めて触れ合う自然の世界だ。……実際に触れ合っているわけでもないのか。

 一歩を踏み出す。裸足に土の感触、草の質感がくすぐったい。無機質な床だった場所が、圧倒的なリアリティを持って肥沃な土壌と伸びやかな草本を顕在させている。

「すごい……」

 心なしか、空気の質まで変わったようだった。流れが無く淀んでいた室内特有の空気が、自由奔放に騒ぐ地上の風に。ただし、嗅覚は再現されていないため、ヴァーチャルに入っても感じられるその部屋の人工的な匂いが、風景とのギャップを感じさせる。

『草原フィールドその一、だそうだ。最初は戦い易そうな場所を選んでみた。今から、敵を出現させる。とりあえず、どうせヴァーチャルなんだから、躊躇い無く殺す気で戦うことを学んでくれ』

 どこからともなくあの人の声が聞こえてきて、前方十メートルくらいの空間が、歪むようにうねり、その捻れが戻る勢いに引っ張られるようにして、体格の良い男が五人現れた。顔を隠すような覆面をつけていて、その額に一から五まで各々違う数字が書かれていた。

「え、敵って、一人じゃないの……?」

『あのなあ、「出来損ない」ってのは、大体集団で行動するんだ。それくらい調べてわかってるだろう? 徒党を組んでいるからこそ、対処しづらいわけだし。君は当然、対集団戦闘を学ぶべきなんだ。今日は最初だから五人だけれども、最終的には三〇〇人くらいと戦ってもらう。この装置の情報量限界がそれくらいだからな。実際の「出来損ない」集団の最大人数は報告によると五万五千だから、それでもまだまだ程遠い』

「……本気で言ってるの?」

 覆面の男達は、ゆっくりゆっくり、幽鬼のような足取りでこちらに近付いて来ている。両手は何かを掴むように前へと差し出され、口からはわけのわからない呻き声が聞こえてくる。……不気味を絵に描いたような連中だ。

『本気も本気。一人一秒で抹殺できれば、五万五千は十五時間ちょっとで始末出来る。青瓶の効果は十八時間だから、一本あれば事足りるだろう』

「一人一秒って……」

 僕は、静かに拳を握った。右手、それから左手。ここ数日ですっかり慣れ親しんだ熱さが拳を包み込む。大きく深呼吸を、二度。

『君のポテンシャルなら十分可能なレベルだ。とりあえずそこの五人で、効率の良い倒し方というのが何なのか、学んでくれ』

 突然、一番の覆面をつけた男が、飛び込んできた。『出来損ない』の身体能力は、一般の人間よりは遥かに高い。これまでの緩慢な様子は、一応こちらの出方を窺って警戒していた、というようなところだろうか。

 僕は、相手の突進を左に飛んでかわしてから、右拳を突き出して、電流を……。

 ん……?

「人差し指と小指立てて相手を電撃で攻撃するのって無理だよ! 相手殴ったら僕の指が折れそうだし! ゆっくりと指を押し当てる暇なんてないし!」

『だからこそ、実戦形式なんだ。人差し指と小指の間の放電。この能力をどう活かすか。それを考えろ。ちなみに、普通の「出来損ない」は日光の下でこんな元気良く活動出来ないから、本当の意味での実戦ではないね』

 そんなのは何の救いにもならない。むしろ、実戦よりきついということだ。

 回避してバランスを崩したところに、他の四人が一斉に襲い掛かって来た。一人が僕の右腕をがっしり掴み、大きく口を開けて歯を立てようとする。犬歯だけが異常に発達している。僕は、三番の覆面をつけたその顔面に左拳を叩き込んだ。痛い。相手が一瞬慄いて無防備になった隙に、その首に手を伸ばし二本の指を立てて当て、放電。

 ばちばちという連続放電音と、青い稲妻。三番の覆面がびくっと不自然に震えてから倒れ、その後ろから二番と四番が両手を伸ばして襲い掛かってくる。

『そんな戦い方でいいのかー?』

 あの人の野次が飛んでくるが、こちらはそんなことに構っていられない。左右とも、二本の指を立てて放電の体勢にしておきながら、電流を流さないよう巧みにコントロールする。二番と四番の腕が、僕の首と腕を捉えるその瞬間を逆に捕まえた。それぞれの腕に電撃を食らわせる。放電音が弾け、二人の覆面の腕は反射的にかくっと折れるように曲がり、そして本体は一度大きく震えて隙を見せる。十分量の電流を直撃させれば一撃で昏倒させられそうなものだが、電気刺激で瞬間的に反射が起こり、放電から逃れられてしまうため、決定打に至らない。とりあえず、二番と四番の首にとどめの放電を加える。中枢神経への電気ショック。正常な神経系の支配を失った身体は、不連続な痙攣を起こして倒れる。

 あと二体。

『そんな戦い方でいいのかー?』

 また野次が聞こえる。残りの二人は、倒れた仲間を踏み越えながら僕に近付いて来た。こいつらは、吸血の衝動で動いているためか、こちらの身体を押さえつけようとする動きが多い。そこを逆に捉えれば意外と簡単に――

 どが、という音がした。お腹に衝撃が走り、肺の中の空気が全部搾り取られるような感覚の後、ようやく鈍い痛みが伝わってきた。喉の奥の方から何かがこみ上げてくる。吐きそうになる。

 あれ……?

 思わず拳を解いて、お腹を押さえ地面に両膝をつく。……何が起こった?

 殴られた……?

 もう一発。今度は顔面に来た。

 正面から、一番のものと思われる拳が猛スピードで自分の顔面に吸い込まれる。意外と冷静に見ていた。激突の瞬間は、反射的に目を閉じたのか、それとも拳の影か、視界が暗転した。直後、顔面にめり込んでくるような不快な力が僕を襲い、僕の頭は大きく後ろに揺さぶられ、首から上だけ仰け反ったままバランスを崩し後頭部から地面に激突した。

 痛い。普通なら、鼻の骨が折れて、歯も折れて、血がいっぱい出そうだと思った。倒れた僕の上に、一番がのしかかって来て、肩口を強く押さえられた。さらに右腕を、誰かが引っ張っている。一番の顔がどんどん僕の顔の方に近付いてきて……違う、首だ。息遣いすら感じそうな距離で、鋭い犬歯を持った顎が大きく開き、そのまま僕の首筋に――

 ちくり、という針を刺すような痛み。

 そして、唾液にまみれたその男の唇が、傷口から溢れ出した血液を求めて――

 ……気持ち悪い……!

 ぞぞっと、寒気のようなものが背筋を走った。全身の毛という毛が全て逆立つ。

 右腕のどこかも別の奴に噛まれた。吸血の真っ最中らしい傷口を舐められているようなおぞましい感触が、お腹と顔の痛みを忘れさせてくれる。諦めるのは早い。まだ無事な左手を動かす。肩口が押さえられても、左腕の可動範囲内に僕の上に圧し掛かっている一番がいるわけだし、どうにか拳を握り、二本の指をたてる。反撃だ。

 がしっと、その腕をすら掴まれた。

 あ、あ、あ……。

 目線だけ動かして見てみると、先程昏倒させたはずの誰かが、地面に這いつくばりながら、僕の左腕に喰らいつくところだった。

 あ、あ、あ……。

 ざくり。今度の痛みは強烈だった。

 両腕を押さえられ、胴体の上に一人。怖気の走る吸血行為に及んでいる三人を前にして、僕はすでに何も出来ず……。

 なんの、諦めるのは、まだ早い。

 全身で抵抗すれば、あるいはまだ、逃げ出すチャンスも――

 だが、体の各部が軋みをあげる。身動き一つ取れない。どこかを動かそうとするたび、その部分に手や足やあるいは体が乗せられる。

 ああ。

 これが、そうか。絶望的、と、そういう表現が似合う、そんな場面なのか。

 涙が出てきた。首筋に走る、ぬめぬめとした感触。右腕に、そして左腕に……。このまま僕も『出来損ない』になり、この男達と同じように変化してしまうのか……。本能のみで動く怪物、悲しい犠牲者の血を啜って、己の欲求を満たす哀れな獣に――

『おーい。我に返れ。自分の認識がどれだけ甘いかわかっただろ』

 はっとすると、僕は草原の上に一人。仰向けで大の字になって寝転がっていた。僕を押さえつけていた人間も全くいなくなっていたし、痛みは全て消え傷も無い。ただ、目尻から溢れた涙の跡と潤んだ瞳だけが残っていた。

 よろよろと上半身を起こすと、草原と青空がだんだんと色褪せていき、靄のようにしばらく漂った後、ついには消え失せた。元いた部屋の中央で、薄明かりの中僕は呆然と座り込んでいる。

『感想は?』

「……気持ち悪かったし、怖かった。あと、痛かった」

『正直でよろしい。「出来損ない」に襲われる時ってのは、まあ大体ああいう感じだろうな。まさに蹂躙だ。ぞっとするよ。数の暴力と、何より個々の純粋な暴力。そして、驚異的なあの体力。本来、一個人レベルでどうにか出来る代物ではないんだ』

「……電撃で、殺せなかった」

『そうだね。人間を殺せる強さでも、「出来損ない」に対しては、それほど有効ではない。一般の感電死というのは、大別して二通りある。一つは、電流を心臓に直接ぶち当てて心室細動を起こすこと。だが、奴らは実は心臓を止めても平気で回復してくる。「出来損ない」とはいえ吸血鬼の一種だからな。死に難い。戦力として相手を無効化させるためには、もっと他のやり方を考えないといけない。感電死のもう一つ、延髄の中枢神経がやられて意識消失や痙攣を起こした末の、呼吸中枢麻痺による窒息死。君が首ばかり狙っていたのはこのためだと思うけど、ある意味惜しい。実際、少しの時間稼ぎくらいは出来ていただろう。もう一歩踏み込めば、答えが見つかる』

「……もう一回、やりたい」

 あんなに惨めに負けたまま、終わるわけには行かなかった。

 あの人を、失望させることになる……。

 少し間があってから、応えがあった。

『今日は、作戦を考える時間にしてくれ。ヒントもやった。端末で色々調べるのもいいだろう。習うより慣れろ、をモットーにしている私だけれど、今の様子を見ている限り、これ以上君が「出来損ない」に敗れて吸血されると「出来損ない」への恐怖が植え付けられそうな気がする。トラウマにでもなったら適わない。再戦は、作戦を練り直してからだ』

「……わかった」

『明日また、ここに来よう』

「うん」

 僕は、ドアを開けて部屋を出た。長い長い、白亜の回廊。左手、その行き止まりが僕の生まれた場所。僕の還る場所。

 すぐ隣、ラボから遠い方のドアからあの人が出てきた。

 鍵をかけようとして、少し思い直し、そのままポケットに鍵を仕舞ってしまう。

「どうせ、誰も入って来ない」

 あの人の手が、ぽん、と僕の頭の上に置かれた。

「さあ、明日には、五人を五秒で倒す君になるんだよ」

 なすがままに頷いて、僕は歩いて数十歩に満たない最初の遠出を終えた。

 ラボに戻って来て最初にしたのは、端末を立ち上げることだった。そんな僕を見て、あの人が、笑いながら言った。



「もし明日、五人を五秒で倒せたら、ご褒美として君の質問に何でも一つだけ正直に答えてあげるよ」



 一人一秒。『出来損ない』一人に対して与えられる、最大限の数字だ。集団戦闘の基本として、一人の相手に長時間かけてはいけない。サブマシンガンのように、一度に多数の敵を薙ぎ払える攻撃方法が好ましかったが、さすがにその塊にそれほど生体の範疇を逸脱したものを望むのは酷だろう。

 ただでさえ、生物という枠に収まり切らない塊なのだ。培養槽で育てている間、中を満たしていた液体がただの水であったことからもわかるだろう……。培養槽に入れておきながら、その実やっていたのは、培養でも何でもない。要は、のだ。擬似生命活動をある程度以上活性化させぬよう、極端な酸素飢餓状態を作っていたのだ。そんな塊に対して、最低限人の形を保ってもらいたいと思ったのは、結局私のエゴであったが、しかし間違いではなかったと信じている。

 こんなにも、良い子に育ってくれた。

 感情という概念を、しっかりと理解してくれている。迷いや躊躇いなど、本当の人間でしか持ち得ないような心情も見せてくれた。

 そんな様をみていると、全てがどうでもよくなってくる。本来自分がその塊を創ろうとした真意が、結局どこにあったのだろうと、まるで構わなくなってくる。容姿の類似性から不用意に浮かび上がりそうになるあの悪夢の幻影も、今のところどうにか喉元で抑え付けられている。私の情緒も安定の兆しを見せているということだ。

 このままその塊には、『出来損ない』と戦ってもらおう。

 世界の片隅で、ほんの思い付きから始まったちっぽけなその活動が、世界を変えるかもしれない。自分が敵対した世界。いっそ滅んでしまっても良いと思っている世界。だからこそ何の責任にも縛られず、気軽に救世主を気取ろう。

 その塊は、きっと明日、五人を五秒で倒す。端末とにらめっこするその様子を見ればわかる。明後日には一〇人、明々後日には五〇人。どんどん敵を増やそう。それでもその塊はきっと勝つ。三〇〇人を五分で倒した時、ありったけの青瓶と茶瓶とアンプルを持って、ラボを出よう。そして頭上に広がる本当の青空の下、日陰に固まる忌まわしき『出来損ない』どもをどんどん屠っていこう。情け容赦などない。目標は鏖殺だ。

 その塊が灰になる迄、一緒に旅をするのだ。失われた文明の名残である古代遺跡を散策するも良し。天に届かんばかりの大瀑布を見上げるも良し。霧に煙る閑静な街中を闊歩するも良し。培養槽も巨大扉も地下通路もない、開かれた外界に立ち返るのだ。

 その塊が灰になったら、私は泣いてやれば良い。その塊の消滅を心の底から悼み、虚ろな表情のまま涙を流す。建前と本音の狭間で喪失感を飼い慣らして前を向き、泣いて泣いて、涙が涸れ果てたその時には――

「ミズ、ミズ、凄いことになってるよ」

 突然、端末を見ていたその塊が声を上げた。その慌てたような響きから、漠然とした不安感が、もやもやと私の胸に去来した。

「どうした……? 『出来損ない』の攻略法はわかったのか……?」

「うん、それは大体、何となくどうにかなりそうだと思う。それより、これ、凄いんだ」

 私は、その塊が指し示す先を見た。今世界で騒がれているトップニュースの小見出しらしきものが、文字を媒体にして画面の上部で踊っていた。速報を表す、New!の表示が見出しの脇で点滅している。

 私はそれを読んで言葉を失った。この手に掴んだはずの平穏がガラガラと音をたてて崩れ落ちていく。そんな幻視と幻聴が、私を無慈悲に闇の螺旋へと叩き落したのだった。



「吸血鬼にも有効に作用する神経毒開発成功。『出来損ない』だけでなく、真性の吸血鬼の完全なる駆除が可能になる見通し。だってさ」



 吸血鬼を殺すことが出来る。これは僥倖だと思った。人類は、決して減ることの無い吸血鬼によって追い詰められているわけで、吸血鬼を駆除出来るのであれば、世界は滅ばずに済むかもしれない。助かるかもしれない。依然世界中で猛威を振るっている『出来損ない』の対策は難航するだろうけれど、この発明が画期的であることには変わりないだろう。

 だが、僕の言葉を聞くと、あの人は真っ青になって、黙り込んでしまった。

「……ミズ、どうしたの?」

 返事がない。何かを懸命に考えるような素振りで、こちらの言うことなどまるで耳に入っていないようだった。その視線の先は、関連ニュースである、『素性の判明している悪質な吸血鬼に対しては、近日中にも国連軍を派遣して本格的な駆除に乗り出す構え』というトピックに向けられている。

 …………。

 もしかしたら、僕は大きな思い違いをしていたのかもしれない。

 それは、勝手な思い込みだった。何となく、窓すらないラボに閉じ篭っている現状から、あの人のことを、「『出来損ない』の脅威から逃れて孤独に研究を続ける若き科学者」と、安易に考えてしまっていた。しかし、あの人は一言もそんな風には言っていなかった。身分を保証するものは何もないのだ。いや、百歩譲って、本当に科学者なのだとしても、根本的な自分の出自については何も触れていなかったはずだ。

 つまり、

 青くなって画面を見たまま固まる、あの人の横顔を眺める。

 本物の吸血鬼の特徴。

 肌の色が白い。……僕と同じくらいの色をしている。一応、これは白い方なのか。人種的な違いもあるだろうし、僕の目からだけでは何とも言えない。

 犬歯が長い。……若干八重歯が目立つ気がする。あの人が笑った時に、ちらりと口元から覗くのがチャームポイントだと思っていたが、それはあるいは……。

 血を吸う。……いや、あの人は血を吸わない。少なくとも僕が起きている間は見たことが無い。というか、この環境下で、あの人が血を吸うとしたら僕しかいない。さすがにそんなことをされた覚えは無い。

 体温が低い。……これは微妙。皇かな肌が、僕よりひんやりしている時が多いのは確かだ。しかし、僕の体温が高目なだけかも知れないので、保証がない。

 力が強い。……あの人は、決して力が強いというわけではないと思う。むしろ、僕の方が力強いくらいなもので……。

 不死身。……これはわからない。殺しても死ななさそうであることは間違いないが。

 …………?

 吸血鬼であると言われれば、吸血鬼に見えないことはない。ただし、その場合、血を吸わない吸血鬼だ。八王子事件でその存在が否定された、人類と共存し得る吸血鬼だ。それは、根本的に人間と何が違うのだろうか? 実害は皆無だ。

「……ねえ」

 僕は、白衣の裾を引っ張って、あの人の注意を引いた。のろのろと、放心したままの調子でこちらを見やる虚ろな瞳と目が合った。

「ミズは、吸血鬼なの?」

「――――」

 あの人は、確かに、それに答えるべく口を開いた。口の端にやはり犬歯が覗く。だが、

「明日、五人を五秒で倒せたら、それも教えてあげるよ」

 少しの躊躇いの後、落ち着いた目と落ち着いた口調で、結局それだけしか言わなかった。

 僕は、それ以降は無言。『出来損ない』の身体の構造と、電流と人体の関係について詳細を調べ続けた。そして、頭の中で敵の動きをシミュレーションし、自分のすべき対応を、チャートにして考えたりもした。

 あの人は、いつもの調子をぎこちなく装いながら、扉から出て行ったり、デスクの引き出しを漁って分厚い書類に目を通したり、慌しく立ち働いていた。気にならないわけがないが、邪魔するのが憚られる雰囲気だった。何より、模擬戦闘で五人を五秒以内に倒せれば解決する問題だ。僕には目標がぶら下げられている。目の前の物事にだけ注目し、それを一つずつ対処していくだけの生き方が一番楽だ。そんなことは、最初からわかっていた。

 明日に備えて、早く寝ることにする。おやすみすら言わなかった。



「おい、起きろ。起きないと、色んなことするぞ」



 頬を両手で挟んで小刻みに叩きつつ、小声でそんなことを言ったら、とろんとした寝ぼけ眼でその塊が目を開けた。やはり寝起きは悪い。まだ、何が何だかわからない、といった、ぼうっとした目をしている。

「……もう朝?」

「違う。夜明け前だ。緊急事態が起きた」

 がばっと、脈絡も無くその塊は跳ね起きた。危うく激突しそうになり、慌てて顔を引っ込める。その塊は、目を擦りながらきょろきょろとぐるりを見回し、

「何何、何があったの?」

 と、あからさまにわくわくしながら言った。私は、苦笑と共に、まず青瓶をその塊に投げ渡してやった。前日の摂取から丁度一八時間経過していることを確かめる。

「飲んでおけ。早くも実戦の機会が来たよ」

 寝間着姿のまま、半身を起こして青色の小瓶を飲み干す姿は、どう見ても、外見年齢相応の子供にしか見えなかった。そんな子供に、自分が何をさせようとしているのか、それを考えると少し胸が痛む。何と罪深い行いに手を染めさせようとしているのか。神が人間と同じくらい短気だったら、私はたった今何度目かの地獄送りとなっていることだろう。

 自らの保身のために、いや、あるいはそれにかこつけて戯れに、私は残酷な道を選ぼうとしている。

 私は何を考えているのだろう……。時折、本当に見失いそうになる。

「状況を説明しようか。ちなみに、始めに断っておくが、これは実戦を想定した訓練であるとか、サプライズ企画であるとか、そんな愉快なものでは決して無い。気を抜くと本当に死ぬぞ。覚悟を決めろ」

 その塊は、ようやく真剣味を帯びてきた瞳で私をじっと見つめた。その視線に後押しされるように喋り続ける。拭い切れない罪悪感が、心臓の周りでどろどろと渦巻いている。

「一言で言おう。敵が来た。モニターの映像を確認したところ、どうやら、軍のエリートを選抜した超一流の特殊機動部隊、とかそんな風に括られる連中らしい。防弾加工された無骨な黒い装束に、ヘルメット、ガスマスク、銃火器、無線機、その他刃物や手榴弾等を携え、四人を一チームとして行動している。なかなか統率のとれた人間達だ。お友達になりたくないタイプのね」

「……敵は、『出来損ない』じゃないの?」

 言葉尻は不思議そうだったが、その目だけは酷く冷めていた。既に、覚悟を決めていたというのか。敵対するならば誰でも殺す、そんな思いが瞳に宿っている気がした。何故か、気が楽になる。

「……ああ。人間だ。彼らの武器は、昨日話に出た神経毒だと思われる。吸血鬼にも有効な毒物の開発成功を一般公開した後、実際に一体の吸血鬼を狩り出すことで、その効果のほどに箔をつけようという考えだろう。一国の研究機関が独自開発した代物だそうだから、国連への特許譲渡の段階で莫大な見返りを要求しているんだろう。吸血鬼駆除の最初の成功記録は、交渉における最大の切り札になる」

「そんなことはどうでもいいけどさ」

 恐ろしいくらいに冷静な、その塊の声。感情を完全にコントロールしている。うすら寒いものすら感じながら、私はその塊を過小評価していたことを知った。予想を遥かに上回る成果だ。だが、割り切れない想いが募る。私を振り回しているのは、私自身だ。

 怒っているのでもなく責めているのでもなく、その塊はただの事実確認のように、普通に尋ねてきた。正確には、少なくとも普通に見える様子で。

「つまり、ミズは悪者の吸血鬼なの?」

 演出として、返事をするまで無駄な間を取ることを考えていたが、実際には何気なくスムーズに、口が勝手に動いていた。その様子は、外からでは余裕があったように見えただろうが、真実はその真逆だ。

「失望したか?」

 これまで、立て続けに私の根幹を揺さぶるような事態が襲ってきたが、この時が来るのを一番恐れていた。自分を信じてくれるその塊の前では、良い人を演じ続けたかった。出来ることならその塊が灰になる迄、隠し通したかった。そんな想いが確かにあった。今度こそはそのつもりだった。築き上げた関係を自ら瓦解させるような真似はしたくなかった。

 ……いや、勿論そんなのは嘘に決まっている。欺瞞だ。自分を騙しているだけだ。わざわざ、その塊を叩き起こして青瓶を飲ませ、人間と敵対させている時点で、私の正体が露見することなど目に見えていた。私が自ら選んだのだ。最後の選択はこの手で下したのだ。

 全てが狂ったのだ。吸血鬼にも有効な神経毒の開発だなんて! そんなことでもなければ、世界は私に対し、徹底した不干渉を貫いてくれるはずだったのに。こちらが厭世的に暮らしてやっている間、私と外界は一切の直接的関係を持たずに済んだはずなのに。

 何故、自ら不戦の約定を破棄して私を引きずり出そうとするのか、人間よ。

 。愚かな人間よ。

「ううん」

 透徹した瞳にいつもの色が戻って、その塊は、首を横に振った。そして、あどけない笑みを浮かべる。……ああ、ああ、胸が締め付けられるようなこの引き攣れた喜びは何だというのか。歪みに似た、だが確かな純情を、私は何と呼べば良い?

 笑ってくれた。その塊は、こんな私に笑いかけてくれた。吸血鬼であることを隠し、善人の仮面を被り続けて接していたこの私に、失望しないと言ってくれた!

「ミズは優しいもん。悪者でも、吸血鬼でも、ミズはミズだよ」

 不覚にも私は泣きそうになり、それを誤魔化すため無理矢理に笑った。眦を下げ、唇の右端をかろうじて上げる。無人島に漂着して孤立が続き、その過程で笑い方を忘れた遭難者のような、ひどく不恰好で傾いだ笑み。

 寝間着からいつもの服に着替えるよう促して、私はとにかく説明を続けた。

「私達は、自衛のために、侵攻してくる敵をとにかく排除しなければならない。開発されたばかりの神経毒を先端に仕込んだ弾丸なんてものが、大量に実戦投入されているとは到底考えられない。そんな時間は無かった筈だ。だから、神経毒は手榴弾のような炸裂性の武器に仕込んでガス状にして撒布してくる可能性が高い。これ見よがしにガスマスクをしているしな。つまり、最も注意すべきは銃ではなくてガス噴出装置だ。もし撒布されたなら、皮膚への吸着は免れ得ないが、何はともあれ絶対に息を吸い込むな。あと、マシンガンのような弾を大量にばら撒くタイプの銃でなく、ライフルのように一発一発確実に狙うタイプの銃には気をつけろ。麻酔弾代わりとして、例の神経毒入りの弾を換装した銃である可能性が否めない。これは回避しろ」

 神経毒。その正体は完全な秘匿事項であったため、正確なところはオンライン上でも調べられなかった。だが、神経毒というカテゴライズから、この毒物が神経系に作用するという機序を持っていることは間違いない。そうである限り、その本質として恐れるべきは、『麻痺作用』というその一点のみのはずだった。おそらくは有機リン剤のような、神経間伝達物質に作用するタイプの毒物であろう。人間においては、中枢の抑制による呼吸麻痺や、分泌促進による肺水腫が死亡の原因になるが、私達のような吸血鬼は、呼吸不全が原因で死ぬことはあり得ない。普段は幾つかの理由から息をしているが、実質的に呼吸を必要としないからだ。つまり、真に脅威となるのは、麻痺という本質そのもの。運動神経の情報伝達を阻害されることで、体全体が麻痺したまま完全に身動きが取れなくなること、それが肝なのだ。意識を奪い、全ての体機能を停止させれば、そしてその効果を半永久的に持続させれば、各細胞が生きているとしても、個体としては死と極めて近しい状態と言える。不死という概念を崩さずとも、私達を完全に無力化出来るのだ。論理的には実現可能でありながら、ありとあらゆる麻酔薬、毒薬に対して吸血鬼が耐性を発揮したため、実現は不可能とされていたその対処法……。

 さらに言えば、私が学生時代にアプローチしていた観点の、一つだ。ここで、こんな形で、我が身に帰って来るか……。

 スラックスに足を通しながら、その塊は不思議そうにこちらを見ていた。

「ミズだけじゃなくて、僕も吸血鬼なの?」

 返答に窮した。まだ、心のどこかに必死で自分を庇おうとする醜い感情が蠢いていたが、結局上手い言い訳は見つからなかった。せめて何でもないことのように、さらりと答える。

「あー、それも言ってなかったんだったか。君の体は、『出来損ない』の細胞の寄せ集めで出来ている。基本的に吸血鬼のようなものだ。マシンガンで撃たれたくらいでは死にはしない。一方で、脳を吹き飛ばされるとか、銀の弾丸で狙撃されるとか、心臓に杭を打たれるとか、そういう『出来損ない』対策でも簡単には死なない。そもそも、体内で血液循環ポンプの働きをするという本来の意味での心臓は無い。いくつかの臓器もな。生命という範疇に収まり切らない分だけ、生命力はずば抜けている。逆説的だが、とにかく死に難い。とりあえず、吸血鬼にも効いてしまうらしい神経毒にさえ気をつけてくれれば、それでいいと思う。ああ、治すのが大変だから、首より上の損傷は出来る限り避けて欲しい」

「……もし、敵を撃退出来たら、その時は、もっと詳しいことをちゃんと教えてね」

 どうしてこんなにも、純粋な目でこちらを見ることが出来るのだろう。そしてそれを見て、温かい気持ちになれるのだろう。この期に及んですら、なお。私とその塊の信頼関係は、それほどまでに根深いものなのか。全ての葛藤を乗り越えて、結局はここに落ち着いてしまうのか。打算的ともいえる、共依存の関係。忌まわしい記憶が、幾つか脳裏を過ぎった。三人の顔がモンタージュのように一つに重なる。傷みの記憶。ぞわりと膨れ上がる狂気を飲み込み、溜息と共に幻影を振り払った私は、迷った末にその塊の頭に手をやった。透き通るような黒髪の柔らかい手触り。

「『出来損ない』五人を五秒で倒したら、の例の約束があったからな。あいつらを撃退した後、また模擬戦をやろう。で、その時に質問をするといい」

 その塊は、口を尖らせて露骨に不機嫌そうな様子を示した。



「けち」



 早々簡単に教えてはくれないか。とりあえず、あの人が吸血鬼であることと、僕が『出来損ない』の寄せ集めであることはわかった。大きな前進だ。それもこれも、この緊急事態のおかげであると思えばありがたい。

「敵は、既に第八扉……ええと、昨日ラボの外に出た時、廊下をずっと真っ直ぐ行った先に扉があったけど、あれが第九扉で、その向こう同じくらい行ったところにあるのが第八扉だ。そのすぐ外側まで来ている。奴らは扉のロックを開けられるみたいだから、まあすぐ突破されるだろう。とはいえ私たちが第十扉の奥、つまりこのラボにいるとは知らないはずだし、沢山ある小部屋の内部をいちいち調べるのに、ある程度時間を要するはずだ。だから私達は、第九扉の手前側で待ち伏せする。第九扉が破られた瞬間から、私たちはとにかく敵を倒す。慈悲は無用だ。はっきり言おう。殺せ。やらなければやられる。確実に死なせろ。敵部隊は、全滅させなくとも、半壊すれば自ずと引いてくれるはずだ。撤退していく者は追う必要は無い。去る者は追わず、来る者を拒め。拒む時は徹底的に拒め」

 あの人は、一息でそれを言い切ると、ラボの入り口に向かって歩き始めた。

「投降の勧告も宣戦の布告も無い、突然で一方的な襲撃だ。礼儀知らずの連中にはそれなりの仕置きをしてやろう」

 本当に、突然だ。昨日までは、まさか自分がこんな目に遭うとは思ってもいなかった。

「どれだけ傷を負っても私達は死なない。例の神経毒にだけ気をつけて、大暴れしよう」

 僕もあの人の後を追う。分厚い扉のロックをあの人が外して、二度目のラボの外へ。昨日と何も変わらない、ただ白いだけの長い長い廊下。そして、白衣を羽織ったあの人が先を行くその背中。気負い無く歩を進めて行く。

 あの人の胸中は計り知れない。ラボに閉じ篭り、外の世界との関わりを絶って研究を続けたその真意も、悪名高き吸血鬼として真っ先に駆除対象にされているらしいその背景も、何もかも明かされぬまま。過去に何があったのか。そして、何を思ったのか。

 結局、僕は何のために創られたのか?

 背中は何も語らない。あの人は無言のまま歩き続ける。一応、僕に合わせて緩めの歩調で、淡々と一直線の通路を突き進む。天井に居並ぶ蛍光灯の明かりを受けて、直列に交錯した影が濃淡を変えながら足元で乱舞する。光沢のある重金属で作られた第九扉がどっしり構えているのが見える。音波も光波もまとめて、世界を丸ごと遮断しそうなその重厚な扉の向こう側に、僕達の敵がいるはずだ。

 拳を強く握る。熱い。人差し指と小指の間の電位差で放電を起こすらしいこの技は、使い勝手が悪く、扱い難い。ただ、その威力は半端ではないし、並みの人間が相手である今回、放電を少しでも掠った相手はたちどころに死んでしまうことだろう。昨日のように倒れた人間が復活して起き上がってくることはおそらく無いのだ。永遠に。

 その力を躊躇無く揮うことが、自分には出来るのだろうか……?

 答えは出ている。

「あの扉が少しでも動いたら、私が本気の力で殴りつける」

 第九扉まであと一〇メートルという距離に来た時、ようやくあの人が口を開いた。あの人の声なのにあの人の声ではない、そんな曖昧な印象を受けた。言葉では説明のつかない違和感。優しいのに優しくない。怖いのに恐くない。冷静なのに熱い。様々な想いが混ぜこぜになった、不安定な、それでいて落ち着いた声音だった。これがあの人の、本質か。

「扉は、蝶番の止め金が壊れておそらく向こう側に倒れる。それが戦闘開始の狼煙だ。目に入った敵から、倒していこう。戦況が乱れれば、敵は、通路の右側の小部屋へ、散り散りに逃げ込んで体勢を整えようとするかもしれない。そういう連中への対処法は随意に任せるよ。去る者は追わず、ということで無視しても良いし、撤退の意思がない限り脅威となり得ると見なして襲い掛かって殺しても構わない。臨機応変にやってくれ」

 僕は、これから人を殺すのか。

 まだ、よくわからないや。だって、創られてからそう日が経っていないもの。施されるだけの教育では、殺人の意味合いはわかっても、実体験は出来ていないもの。

「そうそう、正体が吸血鬼だってわかったからって、間違っても敵の血を吸おうとか思わないようにな。無意味だぞ」

 振り返って、あの人がようやくいつものあの人らしい表情を見せた。ただ、いつもより八重歯が目立つ。勿論錯覚かもしれない。

「返事は?」

 吸血鬼。

 『出来損ない』。

 寄せ集めの塊。

 わけのわからない感情が、みしみしと軋みをあげて僕の胸を揺らした。そこに無いはずの心臓を圧迫した。冴え渡る思考の中で、何かと何かの境界を模索する。

 外部への出力だけは、平然と行う。

「勿論。血なんて吸いたいと思ったことも無いから大丈夫」

 それがために、自分は吸血鬼ではないんじゃないか、と一時期思えたのだ。希望を持ち得たのだ。儚く消えてしまったけれども。

 『出来損ない』の寄せ集め。

 『出来損ない』の出来損ない。

 今はむしろ、どうでも良いように思う。

 ぱしん、と拳をぶつける音がした。見るとあの人が、ぽきぽきと指の骨を鳴らして、その時が来るのを待ち構えていた。まだ、どこか日常の延長。僕の意識の半分は平常心。

「こんな襲撃が日常茶飯事になるようだったら、ラボを出よう」

 ぼそりと、あの人が呟いた直後、ゆっくり、分厚い扉が向こう側に開き始めた。滑らかに音も立てずに傾いていく。あの人は、冗談のように右腕をぐるぐると回して、その勢いを利用しているんですよ、と言わんばかりの大袈裟な動きで、拳を叩き込んだ。

 何の誇張でも無く、その腕が霞んで見えるほどの速度で扉に吸い込まれた。

 爆発音のような、壮絶な轟音が響き、驚くほど綺麗にその分厚い扉は正面に吹き飛んでいった。中央からひしゃげて変形した扉が床に倒れて再び大きな音を立て、それに潰された何人かの人間の断末魔の悲鳴が消えるまで、隔てる物を失って対峙した僕達と敵は、お互いに呆然と見つめ合うことしかしなかった。

 …………。

 不自然な静寂が、一拍だけ存在した。僕以外の時間が止まったのかもしれない。

 黒装束のような戦闘服に身を包んだ人間が、手頃な距離に六人、奥に四人見えた。さらにまだまだ続く廊下に、各部屋を調べているのか、一定の間隔で黒い姿が散らばっている。

 最も近くにいた人間は、ごつい銃火器を最初から腰だめに構えていた。緩慢に動き出そうとする時間の中で、そいつがトリガーを絞ろうとしているのがわかった。僕はそれでいながら銃口から目を逸らす。相手の足元に、横倒しの金属扉と、その下から徐々に広がってくるやけに粘着質の赤い海が見えた。ひたり、と戦闘用ブーツがその流れを割る。

 視界の隅で白衣が舞った。



「行くよ」



 戦闘中、その塊のことはあえて考えないようにしよう。そう決めていた。その塊を助けたり庇ったりすることだけは絶対にやめよう。そもそも、そんなことをするくらいなら、連れて来なければ良いのだ。

 特殊部隊にとっても、年端も行かない少年のような外見のその塊が一体何者なのかわからず、最初のうちは戸惑ってくれるだろう。私が目を離した隙に即座に殺されてしまうようなことは無かろうし、そもそも、そんな脆弱なつくりにした覚えも無い。

 これで心置きなく、好き勝手に暴れられる。

 いつもは抑えている、吸血鬼特有の破壊衝動に身を委ね、私は最初の一人に踊りかかった。重そうな銃のトリガーを引こうとしていたその人間は、対凶悪テロリスト戦や、『出来損ない』の集団との戦闘のような、全員射殺もやむなしといった戦役での活躍で、この吸血鬼狩り部隊の先頭グループに抜擢される栄光を勝ち取ったのだろう。敵と見るや撃つ。その決断の早さは十分に評価の対象だった。だが、如何せん動きが鈍すぎる。勿論それは吸血鬼と比べての話だから人間としては良くやった方だと思うのだが、そんなことは戦場において何のフォローにもならない。致命的な弱点が無防備に晒されているだけだ。

 私は、格闘技や護身術など、実践的なものは何一つ学んだことがないので、攻撃方法自体はとても適当だ。やりたいようにやる。思いのままに手を伸ばし、防毒マスクと何かのスコープに包まれて素顔のわからない顔面を、横手から殴りつける。猫が猫じゃらしにじゃれつくような、そんな腕の動き方だが、何せスピードが桁違いだ。私の拳が当たったその人間の頭は、叩かれた衝撃でそのままその方向に曲がった。頬骨が粉々に砕けた感触があった。頭が捻られた勢いで、首の骨も折れた。

 もちろん、首が折れたのに銃の引き金を引くなど、普通の人間に出来る芸当ではない。そのまま沈黙し、上体のバランスを崩しながら不様に倒れていく。

 最初の一人はそれで終了。一秒と必要ない。

 次は、どいつだ?

 すぐ隣の人間は、サブマシンガンの引き鉄を引くのではなく、腰の方から何か取り出そうとしていたが、そんなものを待ってやる義理も無いので、すかさず間を詰めて顔面を殴りつけた。ガスマスクもスコープもぐしゃぐしゃになって、顔の前面が完全に陥没し、真後ろに向かってもんどりうって倒れる。それを踏み越えて、即座に三人目に向かう。

 パラララ、と若干遠くの方からマシンガンによる銃弾のばら撒きが始まった。十メートルほど先にいる部隊員が、仲間に当たるのも意に介さず、連射を始めてしまったらしい。断続するマズルフラッシュが幾つも見えた。吐き出された空薬莢が床に跳ねる甲高い音すら微かに聞こえる。当の銃弾は、私の白衣をかすめ、あるいは貫き、結構な数が腹から胸にかけて無事命中した。身体に穴の開く感触は、あまり気持ちの良いものではない。だが、痛みという観念は、創傷に対して生じ得ない。何故なら、痛みとは自らの身体に危険を知らせるものであり、吸血鬼にとってこのような傷は危険でも何でもないからだ。白衣が、滲出してきた鮮血によりまだらに赤く染まる。

 敵の方でも、背中側から味方の銃弾を浴びた何人かが、着込んでいる防弾チョッキの効果も及ばず絶命したのか力無くくず折れようとしている。まだ息があるかもしれないので、念のために彼らの腹や頭を殴りつけて――

 パチ、という小さな音がして、私が殴ろうとしていた人間が妙な痙攣をしながら倒れた。

 急な戦闘で、おそらくまだ呆然としているだろうと思っていたその塊が、表情の乗っていない壮絶な顔で、そこにいた。右手は、教えた通りの拳の握りで、人差し指と小指だけが伸ばされていて、それが、限界まで外側に開かれている。中指と薬指のみを拳と見なして、そこで首を殴りつけるついでに伸ばした二本指で放電する、という作戦らしい。もっと手っ取り早い方法もあるのだが、それはそれ。このやり方も、それなりに考えられてはいる。少なくとも、対人戦の動きとしては問題無い。『出来損ない』相手だとまずいが。

 その塊は、私の方をちらりと見やってから、何も言わずに銃弾の雨の中に飛び込んでいった。本来として痛みを感じている筈だが、全くそんな素振りを見せない。早速ハイになって痛みを忘れているのか。極限状況下で痛覚が遮断されたのか。……寄せ集めの塊の体だし、何が起こっているのかよくわからない。

 まあ何にせよ、興味深い。手近な六人を早々に屠ったところで、発煙筒のようなものが投げ込まれて、煙を吐き出し始める。おそらく、これが例の神経毒であろう。

 真っ白に染まり始める視界の中で、息を止め、とりあえず直進した。この廊下の端から端までを覆うほど毒ガスを撒かれると、その塊にとっては少し厄介なことになる。今更気付いた。呼吸が出来なくなり、酸素がないと放電を使えないのだ。放電など無くても人間相手なら十分戦えるので、先程うっかり説明し忘れた。

 このことを伝えようかと逡巡したが、一瞬で振り払う。……大丈夫だ。

 吸血鬼の素質を持っていることは言ってある。その内気付くだろうし、気付かなかったら、それまでの存在だったということで、今ならまだ諦めもつくだろう。

 悪くなりつつある視界の中から、私の感覚ではのそりと現れた黒ずくめの人影を、迷い無く殴り飛ばす。バキバキと爽快な音を立てながら崩れていく人間。煙る視界の中で、青い微かな煌きが見えた。どこかでまた放電している。弾丸の雨が激しさを増す。耳を聾する銃声が、連続する瞬きが、身体中に何かが突き刺さる鋭い感触が、ぬめる誰かの血の色が、呼吸すら出来ない白い闇の中で世界を淫靡に染め変えていく。

 ああ、今、どうして私はこんなにも楽しいのだろう。心地良いのだろう。

 拳を握る。握り方だけは、その塊にも教えたような、しっかりとした握り。だが、他はもう全部適当。人影を見たら殴れ。急所も何も知らない。ただ純粋に殴る。顔を殴るのが楽だ。首が折れても、脳にダメージが行っても、どちらにしろ死ぬ。腹を殴るのも楽だ。的が大きいから絶対に当たるし、拳に伝わる内臓が破裂する感触は気持ち良い。たまには足で蹴ってもみる。爪先から踵から、足の裏全体から人体組織の壊れる鈍い音が伝わる。分厚い防護服の奥から聞こえてくる、魂の断末魔。痛みで狂ったように震える人間の、即死出来ない辛さ、悲しさ、侘しさ、苦しさ。

 答えろ、世界よ、人間よ。どうして自ら、滅びの道を行く?

 こんな窮屈な場所に、自ら篭っているこの私を、自分達が閉じ込めていたと勘違いしていたのか? そんな幸せな勘違いを、疑うことなく甘受していたのか?

 なあ、人間よ。

 こんなにも脆く、儚く、弱く、どうしようもないお前達を、二十歳まで私を受け入れてくれていたよしみで放っておいてやったのに。滅びの引き鉄を引いてしまったあの瞬間を、泣いてしまうほど後悔してやったのに。あろうことか、本気で吸血鬼と人間の共存のために研究を続けてやったのに。

 この仕打ちは何だ?

 どうして私を殺しに来る。いや、どうして私に殺されに来る。

 私が、学生時代に試作した不完全で効果の程も怪しい吸血衝動抑制薬を飲んでまで、或いは寂しさを紛らすために吸血鬼細胞を寄せ集めて似非の仲間を作ってまで、他人様に迷惑をかけずに生きてやろうとしていた一方で。

 お前らは、そんな私達を皆殺しにする算段を立て、明らかに無謀な計画の成功を信じてほくそ笑み、吸血鬼と真っ向から敵対するという気の狂った英断に踏み切ったというのか。

 そして第一歩目で、いきなり足を踏み外すわけか。取り返しのつかない過ちを犯すわけか。

 それでいいのか、人間よ。

 殴り、蹴り、銃弾の雨を全身に受け、私はひたすら前進した。目の前で横手のドアに逃れようとする者がいたら、その首根っこを掴んで引き戻し、床に向かって思い切り叩きつけた後に、首を踏み潰した。小気味良い音を足下に聞いた。

 白衣は、穴だらけになった。血液のせいで、白い部分の方が少なくなった。もはや白衣ではない。赤衣だ。

 毒ガスによって視界は白く閉ざされた。息を止めて行動することには何の支障も無かった。皮膚に吸着する分か、たまに自分の意思と異なる挙動を見せる表層筋があったが、気力でねじ伏せた。時折、ばら撒かれているマシンガンの弾と明らかに違う口径の弾丸が飛んで来る。狙撃用ライフルと赤外線スコープで的確に狙っているのか、大抵心臓の位置に向かって真っ直ぐ飛来した。視界を封じられた中でも、吸血鬼特有のセンスでその弾丸は完璧に知覚できた。先端に、例の神経毒が仕込まれている奴だと思う。全部、わざと紙一重で回避してやった。遥か遠くの方から、驚愕の気配が伝わって来る。

 舐めるな。

 私は世界で最初の吸血鬼だぞ?

 誰に言われるまでもなく、自分で自分の体を学生時代から嫌と言うほど調べたし、吸血鬼に何が出来て何が出来ないのか、感覚的にも最もよく知っているのは、この私だ。

 お前らは、『出来損ない』の大集団でも倒して、市民に直接害となる連中の駆除に徹していれば良かったんだ。滅び行く世界の中で、そうやって細々と英雄を気取っていれば良かったんだ。私だって喝采くらいしてやったさ。

 それなのに、こうして、何人失った?

 私を相手にしてしまったばかりに、お前ら人間は、どれだけの貴重な人材を失った?

 何故、滅びの道を自ら歩むのだ、人間よ。

「答えろ……」

 屍となった黒い戦闘服を踏み越え、血の赤で汚れた茶色のパンプスが白いタイルを踏む。

 破壊活動によって満たされる本能と、この状況に憤りを覚える理性の鬩ぎ合い。

 快楽と、苦痛と。邪悪な本性と、人間に近い思考理念。

 ギャップを埋める橋は無く。

 血に濡れた笑みだけは、いつものように。

 叫びをあげる。恫喝する。



「答えろーーーーー!!!!!! 人間!!!!!!!!!!!!」



 後ろから、あの人の声が聞こえた。しかし、僕は振り返らない。目に見えるのはひたすら白い煙でしかなく、これがたぶん吸血鬼にも有効な神経毒って奴で、吸い込んでいけないのは明白だった。時々、手足の先端が痺れる。

 振り返っても、どうせあの人の姿は見えない。見たくない。

 深呼吸が出来ない。酸素が不足しても自分は全く問題なく動けるらしいことは、経験上何となく知っていた。しかし、電撃を起こすには何故か酸素が必要だ。実際はそちらの方が生物学的見地からすれば妥当であって、全くの無酸素条件下で運動機能をどのように獲得しているのか、その作用機序を培養槽で植えつけられた一般知識の『代謝』の項目の引用で答える方が余程難しかった。きっと自分は、『出来損ない』の細胞の寄せ集めで出来ているから、「生物」学では網羅されないんだろうね。首を刎ねてから心臓に木の杭を打ったり、聖なる銀の弾丸を撃ち込んだりといった、科学的説明の不可能なオカルトじみた殲滅方法が有効と知られる化け物の仲間なのだから。

 いや、とにかく。

 電撃が起こせない。拳を何度握り直しても、例の熱さが無い。これはまずい。

 弾丸の雨に晒されて、せっかく着替えた服はずたぼろになり、血塗れになっている。どうやら、僕の回復力は『出来損ない』と同じかそれ以上のようで、穴が開いたそばから傷跡は徐々に塞がり始めてくれたが、銃で撃たれるというのは、想像するより何倍も何十倍も痛いのだった。

 泣きそうになって来た。

 しかし、こんなことで弱音を吐くわけにはいかない。あの人は本物の吸血鬼なのだから、銃で撃たれようが鈍器で打たれようが何の痛痒もないはずで、僕が痛がって苦しがって捥がいて何も出来ないようなら、たぶん、邪魔だとか役に立たないとか、そんな冷酷なことを普通に考えるはずだった。

 負けてたまるか。

 役に立ちたい。この思いを、ただ、僕の唯一の願いにすら繋がってしまうこの思いを、否定されてたまるか。これ以外、何も望まない。たとえ、青瓶の力がなかろうが、全身灼熱を予感させる程痛くて辛くてどうしようもなかろうが、僕は何もしないわけにいかない。

 何のためにここにいるのか。

「うわあああああああああああああああ」

 目の前に、意味の無い言葉を叫びながら銃を乱射する人間がいた。可哀相に。わかっていた。こいつらは、弾幕を張って、敵の足止めや攪乱、或いは隙を作る役目を担うだけの、最も死ぬ確率の高い人間達だった。通常の兵器が吸血鬼に効く訳がないことなど、たかだか一週間端末で調べただけの僕ですら知っている。銃の乱射に混じり、時折一回り大きな弾丸が遠くから飛んで来るのだが、どうやらそれが伝家の宝刀であるようだ。

 この、狂ったようにただ弾薬をばら撒く人間は、それのための隠れ蓑にされているのだ。

 心臓を狙って、左胸を狙って、僕はとにかく敵を殴ってみた。あの人が、素手で人を容易く打ち殺している様子を見て、自分でも出来るのではないかと、半信半疑でやってみたのだ。あの人のように顔面を殴らなかったのは、その人間が女性であることが、声でわかっていたからだ。何となく、顔を殴るのはいけないような気がした。

 拳は、防弾のための装備なのかやたらと分厚い板のような感触を最初に捉えた。そして、それから立て続けにいくつかの事が起こった。まず、砕けた。最初、あまりにも鮮明なその感触に、自らの手指の骨が折れたのかと思った。しかし、違った。それはその、防弾のための板が、あっさりと割れる感覚だった。そして、女性特有の胸の膨らみが弾力をもって拳を押し返したが、勿論そんなものは一瞬でぶち破り、すさまじい衝撃波が幾多の層を伝播して肋骨にひびを刻み込んだ。さらに、拳自体が衝撃の後を追うようにそれに続き、繊維、防弾板、皮膚、脂肪、大胸筋、肋骨、その全てを一挙に貫通した。一瞬だった。冗談のように、僕の目の高さで相手の胸に手首まで埋もれた右手は、いつもの電撃の時とは違った暖かさに包まれていた。どろりとした、生の、温かさだ。今はまだ、生、の、温かさ。

「あ、ああ、あ、あ」

 その人間の銃が、音をたてるのをやめた。防毒マスクの向こうから、悲鳴のような、甲高い不気味な響きが断続的に聞こえてきた。僕の右手が、ぬめぬめとした、その人間の体内から、自然な動きで引き抜かれた。人差し指が、折れてささくれ立っている肋骨に掠めて少しだけ痛みを訴えたが、大勢には影響が無かった。ぐっしょりと赤に濡れたその右拳に、少し、透明に近い白が混ざっていた。人の脂の色がくっ付いていた。文字通り胸にぽっかりと穴の開いたその人間は、滝のように鮮血を滴らせながら、それでもまだ動いた。

「あ。a、aaa。……あっっっっっ」

 その両手が、何かを求めるように、虚空に向けて――否、僕に向けて、差し出され、そして、僕はそれを拒んだ。

 拒む時は、徹底的に。

 血に濡れた、右拳を、もう一度強く握った。ぬめる。滑る。だが、強く、強く、握る。

 呼吸を整えられない。息を吸えないから、とにかくリズムも何もなく。わけのわからない感情に衝き動かされ、後押しされ、無我夢中に、発作のように。真っ直ぐ、何かから逃れるために、ただ、一撃を。

 顔面に。

 容赦を捨てて。ある意味、慈悲すら込めて。

 フォロースルーもなかった。ただ、斜め上に、真っ直ぐ突き出し、真っ直ぐ戻した。

 相手の顔面は、ひしゃげるとか、そう言うレベルでは済まなかった。飛び散った。白い靄の中、ただ、赤と白の何かが、はじける様に顔から飛び出したのだ。まるで花火のように。原形をとどめない肉塊と、ガスマスクとスコープとヘルメットの残骸を首から上にくっ付けたままで、本体は倒れた。跳ね飛んだ何かが、僕の顔面にも生温く降り注いでいた。

 死んだ。その人間の声は止んだ。

「あ、ああああああ、あ」

 そのはずなのに、聞こえてくる叫び。それが僕のものであると気付くのに、何故か少しの時間が必要だった。肺に残っていた空気を全部吐き出すようにしながら、僕は喉を震わせて無駄な発声を続けていた。

 ああああああああああ。

 この力は、何? この圧倒的なまでの膂力は一体何なんだ?

 これまで、こんな力が僕にあったのか?

 まさか。そんなことがあるわけがない。

 あるわけがない!

 ああああああああああ。

 どうして。特殊能力を与えたのはどうして。あの人は、こんなことは言っていなかった。徒手空拳で電撃を出せるとは言った。それより普通に殴った方が強いなんて、あの人は言っていなかった。こんな残酷な力のことを、何にも言ってくれなかった。

 どうして。

 こんな、力が、あるなんて、聞いてない。

 うわああああああああああ。

 もう、喉からはかすれる様な小さな響きしか漏れ出さない。

 叫びたかった。しかし、それには肺の中の空気が圧倒的に足りない。毒ガスのために息を吸えない。どうしようもないことだ。

 毒仕込みの弾丸が飛んできた。よけるのも面倒だったので、タイミングを計り、血まみれの右拳の裏で、上に向かって弾いてやった。硬質な音と共に、弾丸は僕の肩の上を通り過ぎ、あらぬ方向に猛進して行く。

 僕は、人間ではない。

 化け物。

 化け物。

 化け物。

 化け物。

 化け物だ……!

 そんなことは、分かりきっているはずだったのに。

 何故、何故、何故、何故、何故、何故。

 こんなにも悲しい気持ちになるの?

 敵が。うってつけの犠牲者が、右に、横に、前に、そこに、あそこに、あんなところにも。居る。ただ、何の役にも立たない射撃と、役に立つはずが全く当たらない狙撃と、既に逃げ腰なのに引くに引けない泣き顔を武器に。

 やらなければ、やられるから……。

 白く霞む視界の中、気がつけば実のところ視力になど全く頼らず、僕は最も近い敵の元へ疾走し、恐怖で硬直してしまう不甲斐ない相手を確認してから懐に飛び込む。

 左拳で、ただ、その顔面を殴打する。

 相手が受ける衝撃と同じ物が、自分の拳にも跳ね返ってきている。だから、激痛が走る。拳を痛める意味もよく分かる。でも、相手の顔面が吹き飛んでしまっているのに対し、自分の拳は骨も折れない。打ち身になるのがせいぜいで、内出血も一瞬で止まる。

 これは、これは、『出来損ない』の力?

 それとも、『出来損ない』と戦うという仮初の役割のための力?

 次の犠牲者はどこだろう。

 弾丸の雨は水平に降る。雨にうたれると真っ赤に濡れる。そして猛烈に痛い。わかりやすくて泣けてくる。だから僕は泣いている。

 言い訳しながら僕は走る。引き絞るような声が、喉から漏れ出ている。



「あああああああああああああああああ」



 思ったよりあっけなく、戦闘は短時間で終了した。

 今や、第八扉と第九扉の間、百メートルほどの回廊に動く人影は、私達二つを除いて、存在しなかった。散布された毒ガスが、空調設備によって取り除かれていき、視界がクリアになってから、私は大きく深呼吸をした。久しぶりの空気。血の匂いしかしない、いかれた空気。短絡的に命名するならば、狂気。

 一定間隔で並んでいる小部屋へ通じるドアの向こうに、一体何人の人間が逃げ隠れているだろうか。気になるところではあるが、おそらく戦意を失っているそいつらを、わざわざ捜し出して殺しに行くのは、何と言うか……ひどく面倒だった。もう興が醒めている。

 その塊は、締め切られている第八扉の方から、屍を避けるようにしながらとぼとぼと歩いて来た。もたりと広がっている血の海に、小さな素足が踏み込んで波立たせ、脱出する一歩で白いタイルに真っ赤な足跡を刻む。一つ。二つ。三つ。ぺたぺたと、怪談よろしく血染めの足型が私に向かって続いている。

「無事だったか。良かった」

 私は、片膝をついて視線の高さを合わせ、その塊を出迎えた。その塊は、私の前、一メートルくらいの距離を置いて立ち止まった。手の届かない、間合い。

「どうした? 実戦は怖かったか?」

 私もその塊も、惨憺たる格好をしていた。銃弾の雨に曝されていたため、その塊の衣服は破れ、ボロを纏っているようにしか見えなかったし、何よりどす黒く変色したそれらは不気味で仕方なかった。私の白衣は先述の通り、既に白衣とは呼べない代物と化している。

 その塊は、こくんと小さく頷いて、私の目を見た。どこかぼんやりしていて、焦点がかろうじて私に結ばれているに過ぎない。顔の半分ほどが、他者のものと思われる血脂で汚れていた。私は、手招きでもう少し近付くよう促した。しばしの躊躇の後、おずおずと半歩だけ前進する。まだ、間合いの外だ。仕方なくこちらから間を詰め、汚れているその顔をかろうじて白い袖の部分で拭ってやった。血糊は乾燥しかけていて上手く落ちなかったが、それでも根気よく丁寧に拭いて行く。

「僕は……」

 弱々しい、小さな声が聞こえた。小動物を見守るような優しい目で、私はその塊を見た。

 今にも泣き出しそうな、しかし、絶対にこのままだと泣き出さないような、絶妙のバランスで泣くのを堪えながら、その塊は続けた。

「僕は、こんな力を持っていなくても良かった……。ミズと、ただ、一緒に、居られれば、それで、良かった……。なのに、なんで……」

 拳が、教えた通りに握られていた。その塊の言う「力」というのが、青瓶による電撃のことでは無く単純な膂力のことであるのは、文脈から何となくわかった。

 普段の生活では、自分があれだけの力を持っていることなど、全く気付かなかったことだろう。私が射っていたアンプルの効果の一つでもあるし、普通に見えて極めて特殊な環境であるあのラボの中では、自分の絶対的な力を正しく把握するのは至難の技だ。

 そして、『出来損ない』と戦うために頑張って体得した特殊技術である電撃に比べ、生来の圧倒的な暴力で人を殺めるというのは、感情的な抵抗が大き過ぎる。その心が被るダメージは計り知れない。やらなければやられるという建前が、この圧倒的な戦力差から偽りだったと認識された時点で、その塊の振るう拳は、どれだけの理由を捻り出したところで、決して正当化出来ない単なる殺戮行為に堕した。純粋正義の、きっと対極にあるもの。

 その塊は、その葛藤の中で人間を殺した。

 おそらく、自分の意志、心も殺して。

 私のために。信頼する私の、命令にただ従って……。

「……ありがとう。ヴァイス。私は、君のことが、本当に大好きだ」

 ヴァイス。

 何だかんだで、初めてその名前を使った。

 何故だろう。名前をつけておきながら、どこかで、その塊……彼と一定の距離をおいて付き合おうとしていた。どれだけ、自分が彼のことを大事に思っているか、それを自覚しておきながら、もしも彼が失われた時、壊れてしまった時に心が傷つかないよう、塊でしかないと自分に言い聞かせて、必死で遠ざけたがっていた自分が居た。

 卑怯で、臆病な、自分が居た。

 ああ、そうか。

 どうしても実感のこもらなかった、この気持ちの正体は、これだったのか。本気になることを恐れていた私の、最終防衛線が目の前に分厚く横たわっていた。虚勢を張っていた。いつもいつも、言い訳がましく、塊だ、塊だ、と、またそんな戯言を繰り返していた。

 何だ、それは。

 ヴァイスが塊?

 寂しさから彼を勝手に創っておいて、何を、そんな、遠慮する必要があったのか。

「ヴァイスって……。久しぶりに、名前で、呼んでくれたね、ミズ」

 ぶわっと、溢れ出すように、彼の両目から涙が零れた。堰を切ったように止まらない涙と、うわあああん、と、大きな声をあげて感情の奔流に身を任せているその様子は、本当に歳相応の少年と変わらない。

「おいおい、それくらいのことで泣くな。男の子だろ」

 そんなことで泣いているのではないことくらい、わかっていた。私はしばらく、血を拭ってやっていた袖で、流れ落ちる涙を拭いてやっていたが、血と涙でぐしゃぐしゃになるし、面倒になって、ヴァイスの頭に手をやってぐいと胸元へ抱き寄せた。白衣にしがみついて泣きじゃくる彼の頭を静かに撫でている内に、何故か私まで思わず涙ぐみそうにになってきた。眉根を寄せて、必死で堪える。

 胸がいっぱいだった。

 何だかわからないが、『寄せ集めの塊』だったはずの彼は、今やかけがえの無い存在になっており、世界は、人間達は、吸血鬼である私に牙を向こうとしている。悲喜こもごも、とにかく泣きたくなるような事象が山ほど私の前に積まれていて、でも今はただ、ヴァイスを抱き止め、彼が泣き止むのを待っている。

 うわああああん。うわああああん。

 可愛らしい泣き声で私の胸に顔を押し付ける彼の背を、優しく、何度も愛撫する。

 血祭りの会場跡。黒装束の人間たちが物言わぬ骸となって、虚ろな瞳で私達を見守っている。むっとするほどの死臭、決して消えそうに無い、こびりつくような血の匂いに包まれて、泣き出した子供をあやす母親のように、世界で最初の吸血鬼が仮初の命を持つ少年を優しく宥めている。

 何とシュールで、何と残酷で、何と滑稽な光景だろうか。だが、これが、そう、私の世界、まさにそのものなのだ。私の生きている日常を正確に切り取った写像なのだ。

 笑え。

 あるいは泣け。

 直面すべき現実がある。間もなく幼子のような彼が泣き止んで、ラボに戻ろうという話になって、落ち着いた後考えることを余儀なくされる、近い将来のこと。

 今は、そんなことは良い。阿呆のように真っ白な頭でいれば良い。

 笑え。

 あるいは泣け。

 感情の赴くまま、自分を解放すれば良い。

 私は、ヴァイスをあやしながら、じわり、わずかに目尻に浮かんでくる涙を左手で拭った。ヴァイスに悟られないように、零れ落ちる前に全て拭ってしまうつもりだった。今更そんなこと、意味があるとは思えないのに。じわり、じわり。ゆっくりと、だが、涙は決して止まってくれない。

 そんな自分が何故かおかしくて、自然に口元が緩んだ。思わず笑ってしまった。そんな風に笑えるのはとても幸せなことなのだ、と、あいつとの決別の日に考えたのを思い出した。確かに、今、自分は幸せなのかもしれない。こんな状況でそんな呑気なことを考える自分に、もう一度微笑む。

 幸せ、か。取り返しのつかない領域に、踏み込もうとしている。幾つかの過去がフラッシュバックし、そしてあの血の中の壮絶な笑顔が網膜の裏側に張り付いて留まる。最悪の中の最悪。残酷な結末に散る運命。それでも私は、ずっと幸せで居られるというの?

 私は、落ちて行く。怒涛のような外界の流れに巻き込まれ、狭い世界の崖っぷちで七転八倒四苦八苦する。発狂する前に、全力で走り出す。

 ああ、確かに、自分は幸せなのかもしれない。これ以上無いほどの恍惚の中に身を置いているのかもしれない。

 だから今はただ、

 笑え。

 あるいは泣け。

 ……そうやって、追いかけて来る悪夢から、目を逸らして逃げ続けるのだ。

 そう、今はまだ、ひたすらに。





To be continued to the sequel.

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