灰になる迄

今迫直弥

それは一人の結末(未完成)

 じわり。焼いた棘が幾本も体に食い込んでくるような、逃れようのない苦痛。アスファルトにしがみつく右腕からは力が抜けていく。焼ける。爛れてしまう。肌から音が聞こえてくる。しゅわしゅわと、何かが細かく弾けるような、あるいは、炭酸が抜けていくような音が、潰れかかった耳に微かな振動を届ける。うつ伏せに這いつくばった僕。

 顔面の右側半分が疼く。地面に押し付けられた部分。顔の左半分の陰になり、ぎりぎり日光が当たっていない部分。熱せられた鉄板のようなアスファルトが、与えられ得る安息の可能性を粉々に砕き、現状を地獄としてしか認識させてくれない。視界が歪む。右目は、陽炎のように揺らいでいる直線道路を捉え、左目はもう焦点を結ばない。機構がイカれてしまった。水晶体も毛様体もチン小帯も角膜も、左の眼球を構成するその全てのパーツが、既にまともな機能を望めない。崩れつつある。

 強い日差しに、文字通り刺されている。

 体の中に、動く部分は無いのだろうか。干からびた唇で息を吸う。鼻梁が転げ落ちそうな鼻で息を吐く。かろうじて酸素を獲得する。熱を帯びた空気。肺機能により、心機能により、それは各細胞に力を与える。そのはずだ。だらりと胴体に沿って伸ばされているはずの左手の感覚が皆無であっても。左足に至っては感覚どころかそれ自体がすでに崩れ落ちて無くなっているとしても。

 酸素は、力を。

 簡単には説明のつかない力を、僕に与えてくれたはずではなかったか。

 ちりちりと、髪が軽い音をたてて焦げる。脱色のせいで色褪せた黒髪が、根元から、熱と何かの作用で焦げ落ちる。どうしてくれるのか。気に入っていた髪を。そして勿論、本当は大嫌いだったこの髪を。

 右手に力を込めると、爪が取れた。剥がれた、という表現すら過剰。まさに取れた。人差し指と中指だと思われる指から、ぽろっと何かが外れた感覚があった。アスファルトを押さえ付け、這うように体を前進させる。漸進すらしない。右手がゆっくりとアスファルトを擦りながら自分の方に近付いて来ただけだった。摩擦部分は、もちろんぼろぼろと削り取られて行く。その感触は鑢と木材の関係みたいで面白かったが、実際にそれを目で見ることは叶わない。頭は横向き、左側を向いている。右手は反対側だ。

 もう駄目だ、とは思わなかった。だからと言って、助かる、などとは微塵も思っていなかった。如何せん、どうにかできる余地が全く無かったので、駄目とかどうとか、既にそういったレベルの問題ではないからだ。地平線が見えるほどに遮蔽物に欠けるこの土地で、嘘も誇張も無く雲一つ出ていないこの天気の中、僕が逃げ延びる道はどこにも無かった。皮肉にも、ここは本当の道路だというのに。

 ぷつっと何かの音が途切れた。ずっと僕を包んでいたらしいその音は、それまで全く意識していなかったが、僕という存在をこれまで支えてくれていたようだ。消えて初めて恐怖を感じた。虫の声なのか、風の音だったのか。思い出そうとするとひどく曖昧なその音。平時ならば雑音と切り捨てていた何か。従来左耳があった場所は、やたらとざらざらする。溶け崩れて灰になってしまったか。鼓膜と耳小骨がやられて、それで音が消えたのか。右耳はアスファルトに押し付けられたままなので、形状は無事を保っているが、そもそも聞こえてなどいなかった。五感のうち一つ、これで完全に失ったこととなる。

 いや、もう匂いもよくわかっていない気がするから、二つ目かも知れない。嗅覚。今やその概念すらも曖昧で、思い出せない。透明の中に何かを把握する力を僕は忘れた。

 半開きの口を少し閉じようとする。左頬から灰が滑り落ちてきて、口腔内に入る。吐き出すのがひどく億劫だ。そのまま息を吸うことにした。今更それを咎める者などいない。

 服を着ていれば良かった。フードがあれば良かった。マスクを着けていればもっと良かった。宇宙服のような、全身を完璧に覆うような頑丈な装置に包まれていればさらに良かった。いや、贅沢は言うまい。とりあえず長袖長ズボンというオーソドックスな格好をしてさえいればそれで良かった。

 僕がこんな道のど真ん中で、全裸である理由は……理由は……。

 わからないが、服を着ていれば、こんな風に、腹筋が左の腰の方からぱさぱさになって風で飛ばされずに済んだかもしれない。生まれたままの姿で灰になって朽ちていく、こんな滑稽な状態を緩和出来たかもしれない。

 苦しい、痛い、つらい、そんな言葉で現し飽きた。そんな当たり前の言葉では伝え切れない。僕は今、それどころではない。……『おかしい』のだ。形容詞ではそれが一番真に迫っている。おかしい。今、僕はおかしい。おかしくてくるしくていたくてつらい。

 吸気に細かい粒子が混ざった。僕の顔を構成していた成分の、その灰だ。ざらつきながら喉に詰まる。当然の反射として噎せ返るが、さほどの力がない。僅かに頭が揺れて、そのたびに灰が舞い散る。虚ろな視界に靄が浮かぶ。左目は視界ではなく灰を作る側に加担している。僕の灰は苦い。だがこの「美味しくない」を感じられなくなったらもっとまずい。

 どうして灰になっているのか。僕を構成する全てが崩れていく。僕の末路。あの人はこんなことを教えてはくれなかった。世界の現状も、戦い方も、あの人とあいつの過去も、暴力を伴う快楽も教わったけれど、こんなことは全然聞いてない。

 風が吹いた。かろうじて残っていた触覚は、僕にそれを伝えた。

 荒野を縦に二等分して延々彼方まで延びる道と、その境界で溶け合っているいけ好かない青空。地面ぎりぎりからの高さから見上げる灰に煙る視界が、だが突然塞がれた。悪意無く吹き起こった風によって、右目に灰が飛び込んでしまったためだ。反射的に目を閉じた僕には、もうそれを開ける力がなかった。あるいは、神経系が上手く働いていないから開けようと思っても開かないのかもしれない。見えなくなった。視覚を失った。けれども、明度だけは受容している。都合良く瞼だけ朽ちてくれれば、僕はまだ見えるのに。

 風は、僕の体を四割ほど吹き飛ばしていった。数字に根拠は無い。左脳が無くなっても数値的計算は出来るのだろうか。そんなことは知らないが、左半身は大部分、さらさらと流れて行ったような気がする。断面に疼痛が走る。若干痒い。だが、どうせ掻いても零れ落ちていくだけで何の得にもならないし、そもそも掻けるほど動く部位は僕という個体の中にもう存在しない。だから、放っておく。さらさらと僕は風に削られて行く。

 何なのだろうか、これは。何なのだろうか、僕は。

 無いと教えられた心臓も、脳も、削られに削られて、それでも自我らしき何かでここに或る僕は、何なのだろうか。体は魂の仮の宿にしか過ぎないとか、そんな話はむしろどうでも良かった。一体、何するが故に僕在り、なのか。

 末期の水を待つだけといった様子のこの僕が、今――そう、まさに今――何を成そうというのか。何を成せるというのか。

 苦しく、つらく、痛く、痒く、熱く、何よりおかしい。

 全てで。灰となった左手で、灰となった左顔で、灰となった左胴で、灰となる前に既に朽ちていた気がする左足で、感覚のなくなった右手で、最後まで残るはずの右顔で、それに連なっているだけの右胴と右足で。僕は何を成すのか。

 昔からずっと、無力を感じていた。けれども、きっと何かが出来るような気がしていた。そんな気だけはしていた。

 この意識が闇に包まれたら、僕は何処へ行くのだろう?

 自分がぷつりと途絶える瞬間が、本当にあるのだろうか。

 その時をこそ、死ぬ、というのだろうか。だがそんなわけはない。僕はそもそも生きてなどいないはずだ。あの人はそう言っていた。

 わからない。僕には何もわからない。見えないし聞こえない、匂いもあやふやで灰の味だけを得、自分の体が崩れていく感触だけを頼りにするおかしな僕が、何かを理解できるはずも無い。

「―――――」

 触覚もどんどん鈍化していった。もうすぐ僕は取り残されるのか。この世界の中にいながらその全てを捉えられないという、孤独で可哀相な塊になってしまうのか。

 いっそ早く終わってくれ。

 願うだけ無駄だと、それはわかっていた。願いも祈りも届かないとあの人は言ったから。そしてその時僕は泣いたから。だから自分の願いなんて、意識するまいとずっと思っていた。どうせ届かない願いなど、この世界で一番無益なことなのだ。わかっていた、はずなのだ。それなのに僕は今、願ってしまった。

 ……嗚呼、そうか。

 本当に早く終わって欲しいわけではない。僕はそう願うことによって、そして願いが届かないのを再び知ることによって、最期にもう一度泣きたかっただけなのだ。本当の願いのすぐ裏側に、手の届きそうな虚像を立てて、僕を翻弄する運命とやらを欺こうとしたんだ。

 何するが故に僕在り、か。これがその答えかもしれない。

 こうやって最後の意地を通すことで、僕は僕でいられ





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