灰髪老と黒髪若の事件簿書庫

底道つかさ

巨大無人史料庫殺人事件 ::隠れる凶器

 事件現場は特殊合金の扉で密閉されていた文化史料保管庫。大深度を掘削して建設された保管庫は縦横高さが二十メートルにも及ぶ巨大空間だ。

「つまり巨大密室殺人というワケだ。そうだねワトスン君?」

和藤村わどうそんです、本間座ほんまざさん」

「そこはホームズと呼んでくれたまえヨ……」

 死体以外は庫内にいるのは二人の男だけ。若々しい黒髪頂く青年の和藤村と整えた灰髪の初老の本間座。

 周囲の状況は異様であった。

 二人と遺体を、人力では動かない全高10メートルの目いっぱい詰め込まれた書棚が、3メートルの間隔で挟んでいる。

 被害者は史料館敷地の門番の警備員。遺体は正座から前に倒れたような格好で頭を書棚に接してそのすぐ側にあった。

 陥没した頭頂からの床を浸す出血が死因を示していた。そこにごろんと落ちている金属の装丁がついた大きい直方体のような本。二つとない希少な史料は、開いた面に血が塗りたくられて無惨な姿になっていた。

 警察はまだ来ていない。いや、来れない。

「我々はこの場から逃れられない。未だ犯人が潜むやもしれぬ此処に……ネ」

「あんたがマッチなんか磨ったせいで火災防護が動いて閉鎖しましたからね。20年も司書やっててなんでそんなミスやらかすんですか。ガススプリンクラーが起動してたら死体は三つになってましたよ」

 和藤村の無表情の苦言を本間座は火が付いていないパイプを吹かす振りをして聞き流す。整備ロボットアームの閑寂な動作音が白々しい間を作った。はるか上のジャッキで支えられた天板が解放されてロボットアームが一瞬で地下一階部の書棚まで上がっていく。この保管庫は普段は無人運用なのでこういう物が動いているのだ。

「うん、まあ……ごめんね。前職の時の癖なんだヨ」

「嫌なことに慣れました。それでどうするんです。扉の向こうではあの警備員さんが頑張ってくれているはずですけど、救助に来るまでの暇つぶしでいつもの謎解きをするつもりですか」

 灰色のオールバックの後頭部に三白眼の視線を向けながら、和藤村はこの状況に至った経緯を振り返る。


                 ::


 ようやく夏の終わりを感じ始めた季節、まだ日も昇っていないような時間だった。

 保管庫の入り口がある地下二階へ向かって階段を下る三人がいる。先頭の施設内警備員が後ろの二人に問いかけた。

「本当に内部に入るのですか、お二人とも」

「はい、何かあれば最終的には人間の目で確認する、という規定ですので」

「ワシはそこまでしなくもいいと思うのだけどネー」

 警備員に続きながら和藤村が生真面目に、本間座があくびを噛みながら答える。細く長い階段を何度も折り返しながら三人は下へ下へ降りていく。

「保管庫運用システムにログデータの補正が通知されていた以上、確認は必要です。最近は骨董品を狙った窃盗が増えていますし、館長もそれを考えて先日指示を出されたのでしょう」

「しかし本泥棒注意って言われてもね。うちの蔵書なんて古臭い珍品なだけで値打ち物なんか殆ど無いんだけド」

「まあ、その通りですが」

「えっ!そ、そうなんですか?」

 警備員が驚愕した声を上げる。彼はこの土門私設史料館の職員ではなく、外部のセキュリティ会社の人間だ。古書に関する知識が無くても特におかしくない。

 和藤村が説明をする。

「学術的な価値が研究調査によって確認され保証されていなければ、希少であっても貴重とはならないのです。無論、骨董品の市場価値のほとんどは所謂収集家コレクターの間での相対評価によるところが大きいですが——」

「ここの書は館長が独自に蒐集した名も知れぬモノたちばかりだからね。収集家も欲しがらないし、公的な研究対象になることもないよ。たまに来る利用者は普通の本に用がある人かあるいは、館長と同じ穴の狢だヨ」

「……」

 警備員が押し黙る。驚いているだけではないだろう。

 和藤村が謝罪の意味も込めて話しかける。

「すみません。夜勤明けに予定外の仕事をしていただいるのに、念のためや価値が無い物の為などと口にしまして。無配慮でした」

「いえいえ、お構いなく。それに夜勤ではないんですよ。ほら、今だと朝方なら少しは涼しいでしょう。だから早く来たんです」

 その言葉からは特に不快感は伝わって来なかった。しかし和藤村はそれ以上何か言葉を継ぐこともせず、本間座は相変わらずあくびやくしゃみをこらえるだけだった。

 黙ったまま階段を下り続け三人は地下二階の厳重な扉の前までやって来た。

 警備員と和藤村が開放のための手続きを行う。

 警備員が取り出したカードを読み取り機にかざしてセキュリティコードを入力し、ついで和藤村が首から下げたネームプレートの裏に刻印された入庫コードを読み取らせる。僅かな電子音が鳴ったのち、滑らかな重低音と共に扉についている円形ハンドルが回り出す。施錠の開放を待つ間に和藤村が警備員へ話しかけた。

「では、我々は中の様子を確認してまいりますので、申し訳ありませんが貴方は外側で備えていて頂けますか」

「承りました」

 万が一に備えて最低一人は庫外に待機していること。これも規定だ。

 やがて重低音が止まり、重厚な扉が開く金属の悲鳴のような轟音が響きだす。

 そしてわずかばかり扉が隙間を作り中の冷涼な空気が漏れてきた時だ。

「――っ」

 司書二人の表情が険しくなった。

 内部から漏れ出してきたのは冷気だけではない。錆びたやかんの水を口に含んだ時のような粘膜に直接当たる鉄臭さい臭気がした。

 ゆっくりと扉が隙間を広げていくに連れてそれはますます鼻を刺激する。

 扉がようやく肩幅半分ほど開く。

 先に動いたのは本間座だった。痩躯を機敏に跳ねさせて体を捻り隙間から庫内へ飛び込み、着地と同時に走り出して扉から少し横にずれた本棚列の間へ入った。

 それを見た和藤村が壮健な肉体を横向きにして強引に隙間にねじ込み、目いっぱい空気を吐いて無理くり体を通して入り込んだ。本間座が向かっていった方へ走る。

 和藤村が本間座の後を追って入った書棚の間には大量の血が飛散して床を覆っていた。本間座は書棚の中央付近に立っている。そこへ駆け寄ろうとして、

「まだ乾き切っていない。気を付けたまえ」

 本間座の注意を聞いて慎重な速足で近づいた。

 そして、それを見つけた。周囲を染め上げる赤色の中心。書棚に向かって正座するように倒れている人間。

 和藤村がゆっくりとそれに近づき、その首元に手を当てる。

「……亡くなっています」

「そうだろうね」

 本間座は特に慌てる様子も無くじっと遺体を見ている。彼ならば一見しただけで死亡していることを把握しただろう。またその姿を見て和藤村も直ぐに生死の是非は確信していた。脈を確かめたのは念のためだ。

「表に伝えてきます。そのまま上がって館長と警察に連絡して来ます」

「頼むよ」

「……本間座さんも一通り納得したらさっさと庫外に出てください。前職の癖とやらは知っていますが、今はただの司書なんですから」

 和藤村は未だ遺体から目を外さない本間座に言い残し、扉の方へ戻っていった。

 その足音を聞きながら本間座は低い声で言葉を零す。

「流れ着いた先の足元でこの風景とは。業因からは逃れられぬか」

 眉間に皴を寄せ眼を細める。

 無意識が手を動かす。

 本間座が左胸のポケットから瀟洒な黒皮のケースを出し、その中にあったパイプを右手に持つ。左手にマッチを取り出し片手で器用に擦る。

 火災警報が鳴り響き轟音を立てて扉が閉ざされた。


                 ::


 そして、状況は現在に至る。

「嫌なことに慣れました。それでどうするんです。扉の向こうではあの警備員さんが頑張ってくれているはずですけど、救助に来るまでの暇つぶしでいつもの謎解きをするつもりですか」

「それは、無論だ」

 本間座が眼を鋭くし眉を立てる。

「だって職場が殺人現場なんて勘違いされたら、捜査が入っている間は仕事が出来なくなってお給料が減るじゃないのヨ……」

「まさかご遺体の無念を晴らすためかと思って損しました。無駄に使った脳細胞を弁償してください。それと、勘違いですか。殺人ではないとおっしゃる」

 再び火のないパイプを右手で燻らせていた本間座が視線を巡らせる。

 軽口や年下の同僚の辛辣な言葉に刺される姿とは裏腹に、彼は状況の観察と考察を既に始めていた。

 周囲の本棚、照明、床、落ちた本。最初に出勤した二人が来るまで閉じていた厳重な保管庫という状況。不自然な遺体の姿勢。

 その場に立ったまま頭の向き変えながら、ゆっくりと体を時計回りに一度動かす。

 再び遺体を正面に捕らえた視線が不意に上を見た。和藤村がつられて同じところに目を向ける。本間座は書棚の一番上と金網板金の天井を見ていた。

「ふむ。和藤村君、この事件の要点は二つだ。分かるかね」

「先に殺人ではない根拠を伺ってもよろしいですか」

「ああ、それは実に簡単に証明できるのだが今は無理だ。しかしそうだね、遺体と周囲をよく観察してみたまえ」

 和藤村がなるべく足元を荒らさないように移動し、頭頂部の致命傷をよく見る。

 そして言葉を作った。

「深い傷ですね。頭蓋が広く砕かれて脳まで達している。しかし、これだけの重量の本であれば十分な腕力があれば可能です」

「ただ殺すだけならばね」

 和藤村が訝しむ。しかし直ぐに思い当たったように周囲の血の海を、その広すぎる範囲を確認した。

「威力が過剰すぎる、ということですか」

「ワシの見立てでは、その傷は脳みそを縦に貫いて脳幹まで潰し切っている。そうでなければここまでの出血量にならないのだよ」

「つまり、人間の腕力ではどうやっても不可能だということですね。しかし、凶器はこの本ではなく持ち込まれた別物かもしれません」

「老人のテクノスリテラシーを試すのは止めたまえよ」

 苦笑しながら答える。

「この保管庫は厳重だ。警備員がいるし監視システムも優秀。入庫コードを持たずに入ることも、頭蓋を潰せる程重厚な物を運び入れることも出来ない。そうだね?」

 それは和藤村の方がよく知っていることだ。あくまで状況からの推測で証拠は無いが、何者かが入り込んで殺害した可能性は限りなく低い。

 和藤村は頷いて自分の非と殺人説否定を認めた。

 本間座も会釈で応じ話を続ける。

「従って今は事故死だった場合として考えてくれたまえ」

 確証を示されない殺人説否定を和藤村は気に留めない。周囲に視線を回して観察し、両手の手首や拳を交互にマッサージしながら考え、答える。

「一つ、殺傷物である本の出どころが不明。二つ、それがどうしてピンポイントで被害者の頭上に落ちたのか」

「三分の二、正解だね」

 和藤村が無表情のまま腕を組む。

 頭から出血した遺体のそばに重厚な本が落ちているのだ。明瞭な死因に囚われず殺傷物の出場所の方に着目した事は良い観察眼である。更に、内部を歩き回っていたはずの警備員にどうして正確な位置とタイミングでそれが落下したかという謎の指摘も、ちゃんと当時の状況を想像できているという証だ。

 いったい何処に間違いがあるというのか。

 しかし和藤村は相手の言葉に逐一不満を覚える性分ではない。それよりも完全な正解の方が気になった。

「正解の部分は何処ですか」

「話の進行を止めないのはまさしく君の美点だね。しかしせっかくだ。まず自分の正しい推測について説明してみたまえ。本の出所が不明というのはどういう事かな。ここは書庫だよ。それこそどんな場所よりも溢れている」

 誉め言葉などそれこそ和藤村は興味が無いが、言われたとおりにした方が話は進みやすい筈だと考えた。

 自分の推測を説明し始める。

「重要なのは総量ではなく、あくまで被害者を死傷させたそれがどこから落ちてきたかです。床上だけ見ていると棚から落ちてきたのだと思いこむでしょうが」

 右手を挙げて遺体が頭を向けている方の本棚を端から端まで指を動かして示す。

「何処にも隙間が無い。ならば、この本は一体どこから落ちてきたというのです」

「知っての通り、地下二階の天井は開閉する。更に上の本棚から滑落してきた可能性はどうかね」

「最上部まではここから確認はできませんが、もしそうであれば被害者の移動に加えて更に天板の開閉タイミングまで完璧に合致したことになる。しかし、内部に人がいたからには安全設計上、基本的には人がいる場の天板は開かないはずです」

 加えて、と言いながら遺体の首に掛かる、今は体の下になっているカード入れの端っこに指を向ける。血を免れていたそれはほんの少しでも中身を確認できた。

「被害者は我々と同じく入庫コードを持っている。ならば庫内管理システムはきちんと被害者を検知していたはずです。余計に考えずらいですよ」

 本間座が静かに笑いながら、パイプを持つ右の掌に左手を打って器用に拍手する。

「お見事。相変わらず良い眼だ」

「お世辞は結構です。しかしそういうことならこれに間違いはないという事でよろしいんですね」

「いや、そこがまさしく間違いの部分なのだよ」

 和藤村が眉間を寄せる。

「教えて頂いても?」

「ふむ。それもまた確証を今は示せないから君に無駄な思考をさせてしまいそうなのだが。良いだろう、正解だけは教えよう」

 パイプから人差し指をはがし、本を指さす。

「そもそも、落ちてきた本に当たって亡くなったのではない。殺傷物は全く別の物だよ。故にここの本棚に空きが無いのは当然だ」

「お言葉ですが、事故であっても本が殺傷物であることは間違いないですよ」

「ほほう。君がそこまで言い切るとは珍しい。確証を見つけたかね」

「傷の最奥に小さな紙切れがありました。我々の様な職だからわかりますが、あれは特殊素材で作られた、背表紙に張る管理番号札です」

 和藤村は先ほど自分の目で確認したことを伝える。潰れた肉にねじ込む様に入っていたそれは番号こそ見えなかったが、血が染み込まず素材特有の反射を持っていた。

 それを聞いて本間座が灰色の方眉を上げて僅かに驚きを見せる。

「……自分で言っておいてなんだけど、よくそんなにまじまじと観察できるね君」

「……前職の仕事で、慣れていますので」

 本間座が顎に手を添えてわざとらしく和藤村の方を覗き込むが、相手が無反応なのを見るとすぐにおふざけは止めた。元々人の過去に興味を持つタイプではない。

 咳払いをして仕切り直し話を戻す。

「まあ、ワシに代わって確証を見つけてくれていたならばより正確に言うことが出来る。本も殺傷物の一部という表現が正確だ」

 和藤村は内心で不理解を感じたが黙ったまま続きを聞く。

「それは本と共にあって、被害者を殺傷した後で誰にも見られない所に隠れたのさ。そしてこの床に落ちている本がどこから来たかと言えば——」

 にやりと口ひげが上がると、和藤村が嫌そうな顔をした。

「まだ言えないというのでしょう」

「証拠を確認していないのでね。それと、この件は二つ目に結びついているのだよ」

「巡回する警備員に正確に殺傷物が当たった理由、ですか」

「そういうことだよ」

 再びの笑い。この老人は青年と話すのがよっぽど楽しいらしかった。その内容が悲惨な殺人、あるいは事故だったとしても。

「さて、残念ながら今語れるのはここまでだ」

「いつも通りジジイの名推理を聞かせてはもらえないようですね」

「そう、まだだ。何事も時というものが大事だよ若人。全てを明かすのは全てが揃うのを待ってからだ。その方が手間が省けて休日が増えるのだヨ」

 パイプを揺らして話を一旦締めくくった。

 そして扉が見える位置まで入口の方へ近付いていき、10メートルほど離れた場所の扉を見る。しばし、じっと扉を見続けていたが、合金の塊は返事をしない。庫内の静かなモーター音がやけにはっきり響いている。

 老獪な雰囲気がひゅんと引っ込み不安げな表情に変わった。

「開くよねちゃんと。もう結構時間たってると思うんだけド」

「……」

「え、なんでそこで黙るの和藤村君。ねえってば」

「…………」

「今日が金曜日だから次にシステムが開いてくれるのは祝日挟んで火曜日だよネ。君は若いから大丈夫だろうけど……あれ、ひょっとしてワシは干物になるの確定?」

 その時、音が響いた。

 重厚な金属がこすれて動く、巨大で甲高い音は入り口の扉が奏でていた。

 その向こうにいたのは和藤村が期待していた物と本間座が待っていた意外な者。扉横の緊急スロットを開いて専用端末を繋ぎ操作しているセキュリティ会社の警備員。そして警察だった。

 一人の刑事が警備員を差し置いて庫内に入る。老年ではないが皴が多い風貌は古強兵ふるつわもののそれだ。二人へ声を掛ける。

「なんや本間座、お前やないんか」

「それ、死体がワシだと思ってたってことかネ?」

「若いあんちゃんの通報や聞いたからな。和藤村は生きとるやろ。なら消去法でお前やと思うやろが。ああ、ご苦労やったな和藤村」

「こちらこそいつもお手数をおかけします、刑部おさかべさん」

「え、外部と連絡出来てたの?ひょっとしてこのまま週明けにミイラで発見されるかもってワシちょっぴり心配してたんだけド」

「火災警報を解除すれば定置ターミナルが使えるに決まってるでしょう。本当に火事になったわけじゃないんですから」

「ええー……最新技術って賢い……」

 間抜けたやり取りの間に刑部が二人の元へ来ていた。遺体を観察し、部下を招こうと手を上げ。

「お待ちなさいヨ」

「然るべき規則を守らない状態での入庫は禁止です。まあ、数十億円の損害と各機関からの訴訟を警察が受け持ってくれるのでしたらお構いしません」

 手が拳を作って部下を止めた。うっとしそうに額にしわを寄せて二人を見る。

「現場保存用の科捜研の全身被覆装備。それでええか?」

「そうなさっていただくと双方にとって後の面倒が無いと思います」

 刑部が再び手を動かす。人差し指を立てて上向きに空を突いた。部下も会話は聞いていたから指示は言わなくても分る。彼らは習慣の大声の返事をとっさに抑え、小走りで装備を取りに行った。

「で、そっちはもういつも通りなんか」

 刑部の言葉の内容は既知の二人には伝わった。

 本間座がパイプケースを胸ポケットから取り出し、パイプを納めてケースごとポケットに戻す。その上から手を当てて一息を吐いた。

 本間座が胸のパイプを軽くたたいて応じる。

「そうだ。知るべきは知り、解くべきは既に解いたとも。そして、全ては揃って今こそ時は来た」

 普段とは違う正調な声音。それは聞くものを自然に語り部の世界へ引き寄せる。二人が無意識で僅かに態勢を正した。

 本間座がこの事件の在り様を語り始める。

「しかし、その前に三人の知るところ揃えておこうじゃないか。和藤村君」

 促され、和藤村がこれまで二人の間で交わされた会話の内容を伝える。

 刑部は聞き終えるとしっかりと頷いて言った。

「問題点はどうやって正確に被害者に殺傷物が当たったのかと、その行方か」

「うん、よろしい」

「しかし、ここに落ちとる本が殺傷物じゃないっちゅう確証はなんや」

「本を持ち上げて裏表の表紙を見てみたまえ。ワシらは民間人だから触れなかったが刑事なら出来るだろう」

 刑部は懐から白手袋を取り出し、更にビニル手袋を重ねて、床に表紙面をべったりくっつけて落ちていた本を拾い上げ、言われた部分を確認した。

 本の表紙革はヘリの部分こそ血塗れであったが。

「中央に血が付いとらん」

「やはりね。これが示す所はすなわち、その本は血が噴き出る前に既に床に落ちていたという事だ。閉じた状態で脳までめり込んで血が付いていないなどあり得んよ」

 刑部が頷く。

 ならば、別の方に思考が行く。そちらも気掛かりがある。

 それを読む様に本間座が再び語り始める。

「さて、殺傷物がその本ではない事は証明できた。ならば先ほど言った問題点だ」

 手を広げて周囲を示す。

「この場所のどこに、人間の頭を砕けるような威力を発揮できるものがあるのか」

 これには刑部だけでなく和藤村も考え込む。だが本間座には既にその正体が今この時にも目に入っている。

「実はね、この事件は犯罪と不正と不運が折り重なった複合的な要因によって引き起こされたのだよ」

 二人が怪訝な表情を作る。

 本間座はそれに答えて遺体を視線で指し示した。

「そもそも被害者は何故ここに居たのかね」

「何故ってそりゃ警備の為におったんやろ」

「あ」

 和藤村が目を大きくして口を半開きにする。

「おかしい。変ですよ……」

「なにがや」

「だってその人は門番の警備員ですよ。入庫コードを持っているどころか、本来こんな施設の最奥まで来られる権限なんて無い筈です!」

 刑部が眉間に強く皴を作る。

「じゃあ、こいつは規則違反をしてまで保管庫に入ったんか。なにゆえ……いや」

 経験豊富な刑事の知識量は一冊の本どころでは収まらないほど多彩だ。

「本泥棒。そういうことか?」

「ま、そういう所だろうね」

 本間座が頷いた。

 基本的なことを見落としていた和藤村が渋面を作りながらやはり首肯する。

 これで被害者がここに居た理由は分かった。本間座が犯罪と称したのはこれの事だったのだ。

「だが、なんでそれが凶器の特定につながるんや」

「それはもちろん、本を手に持ったからだよ」

「はあ、盗むんやから当然やろう?それに、不正と不運ちゅうんはなんや。ええ加減に全部話せ」

「こらえ性がないねえ」

 そして本間座は最後の語りを悠々と始めた。

「ワシの推測では被害者の持っている入庫コードは本物ではなく不正に発行された物だ。おそらく扉を開けるくらいは出来てもそれ以上の役目を発揮しない。庫内に人間が入った時、位置を知らせる機能とかね」

 これがすなわち不正。

「その状態で扉を閉めると、保管庫の管理システムは内部を無人状態だと認識する。そして被害者は品物を物色する。一冊を本棚から抜き出して手に持とうとする」

 その動きを再現するように手を上にあげて、本を抜き取るジェスチャをする。だがそれは、長方体のような巨大さで羊皮紙を革表紙と金属で装飾したもの。手は取りこぼすように下へ弾かれる。

「想定外の重さに落っことす。そうすると、システムはこう認識したはずだ。本が勝手に落っこちてしまったぞ。元に戻さなくてはいけない、とね」

「まさか……」

「ここで不運が起きた。安全装置はコードだけではないが、不正を行ったことでシステムに異常が発生していて人間を認識しなかった。さらにロボットアームは『ある理由』で本を戻す位置めがけて降下した」

 上を指さす。刑部と和藤村が見上げた。丁度地下二階の天井が開かれいて地下一階の天井、ロボットアームの最高地点が見えた。ここから見て20メートルも上だ。

「落っことした獲物に興味を失くした被害者は他の物色に夢中だ。そしてまた不運。一歩も動いていなかったのだ。刑部もここに入ってからロボットアームの動きを見ているだろうが、無人状態ならあの5倍は速く動く。その速度でもって殺傷物は被害者の脳天に迫り」

 ダンッと音が響いた。手のひらに持ち上げていた拳を叩き付けた音だった。

「こうして、真上から脳を潰された被害者は、棒みたいに本棚へ倒れ込み正座の様に崩れ落ちた。故障した殺傷物は上に戻って整備庫に隠れる。しかし回収は成功したと誤認され本はその場に残された」

 庫内に静寂が訪れた。

「これが真相だよ。この事故の被害者は不正を行った犯罪者であり、不運によって自身の殺人犯となってしまったわけだ。おっと、この言い方では結局、殺人事件という事になるのかね?」

「待ってください」

 言葉を発したのは和藤村だ。

「それでは一つ解決できない問題があります」

 それは最初に本棚を観察して指摘したことだ。

「本棚に空きが無いのはどうしてですか。被害者が抜き取って元に戻されなかったならば、この本が入っていた空白があるはずです」

「それは事件の始まりになった原因のせいだよ」

「始まりというと、本泥棒ですか。被害者が庫内に忍び込むよりも前に何かが起きていたという事ですか」

 そうだ、と本間座は応じながら数歩移動して血の付着が少ない床へ移った。

 つられるように刑部たちも動き、三人は遺体の方へ少し動いた。

 改めて回答が続く。

「刑部。落ちている本の背表紙と表紙裏にある電子タグを和藤村君に見せてあげたまえ」

 刑部が本の状態を乱さない様に慎重に持ち上げ、言われたところが見える様に和藤村へ向けて構える。

「管理番号札F861、電子タグF861。何も変わったところはありませんよ」

「だろうね」

「なんじゃそれは」

 本間座は納得して頷くと今度は和藤村へ指示をする。

「和藤村君。本棚の遺体の位置にある列の、君の目の高さに装飾付きの大きな本があるだろう。背表紙の管理番号と表紙裏の電子タグを見てみたまえ」

 和藤村が本を取り出す。何故かペリペリと乾いた糊付けを剥がす様な感触がした。

「これは……!」

 背表紙が血まみれのその本は、表表紙も裏表紙も血で染め上がっていた。

「まさか……」

 背表紙の下方の血を服の袖で擦り落とす。

「番号札が無い……!」

 それが示す所はすなわち一つ。本間座の指が厳として本を指す。

「それが被害者の頭を潰した本当の本だよ」

「それが、なぜ書棚の中に」

「電子タグを見れば分かるさ。だがその前に本自体をもっとよく観察してみたまえ」

 和藤村が閉じている本の表紙革を親指で強く押し込む。しっかりした弾力が返って来た。古いのは見た目だけで若い素材だ。そして装飾の金属に触れる。ほとんどは滑らかだが端に僅かにざらつきがあった。そして貴金属特有の触った瞬間に熱を奪われて感じる冷たさが無い。メッキした鉛合金だ。

 留め金を外して開く。文章が書かれているはずの本体は、真っ白なただの紙。

「贋作、いや入れ替え用の偽物はりぼてか!だとすれば——」

 表紙裏の電子タグを確認する。

「F861。そうか。そういうことか」

 この無人書庫の管理システムについて熟知しているからこそ分かった。

 しかしそうではない刑部が当然の問をかける。

「おい待てや。被害者の頭をぶったんはロボットアームじゃなかったんか」

「本に当たって亡くなった確証は和藤村君が見つけていただろう。そして殺傷物はそれだけではないという推測も。殺傷物を最も正確に示す言葉は、降下したロボットアームが掴んでいた偽物ダミーの角、になるね」

 刑部が納得しつつも唸って考える。一連の事象を頭の中で整理しているのだ。

 そして頷くときっぱりと言った。

「やっぱり変やぞ。それやとロボットは落ちた本を拾う前に代わりを入れたことになる。それに本物と偽物で二つも同じ本があったら機械がおかしくなるんちゃうか」

 それだけではない。

「そもそも偽物は重いとはいえ持ち運べない程では無いんやから自分の手で入れ替えたらええ。わざわざロボットに入れさせようとしたのは何故や」

 そうしていなければ自分の仕込みで頭を割られることにはならなかったはずだ。

 此処まで推測を進めてきて偽物の存在により複雑な謎が現れてきた。

 それの解決を示すために本間座が口を開く。

「では、最後の謎解きといこう。理解のための要諦は、未遂となった窃盗の計画と実際に起きた事象の順序だ」

 本間座は開いた右手を前に出す。

「最初に起きたことは不正な入庫コードの発行と偽物に付ける電子タグの作成だ」

 親指を折って数え上げていく。まずは一つ。

「次に保管庫に入るために当日の施設内警備員とシフトを代わること。ここまでが準備段階だね」

 更に指折りを増やす。

「そしてここからが本番当日に起きたことだ。被害者はまず地上施設で納庫用ラックに偽物をセットし、地下二階の入り口まで降りる」

 被害者であり窃盗未遂の犯人の行動をトレースしていく。

 この次が重要な工程だ。

「庫内に入る前に庫内管理システムを変更しておく。侵入の痕跡を残さないように扉の開閉ロギングや人検知機能を一時的に停止したり、ロボットアームの動作順序を変更しておく」

 遺体発見時に司書二人が保管庫へ来ることになった理由。ログデータの補正はこれによる影響だったのだ。

 だが僅かに痕跡を残すことになろうとも、そうしなければ本を庫外に持ちだす前にロボットアームに取り上げられてしまう。やらねばならなかった。

 ここまで準備が出来てようやく庫内へ入れるようになった。

「偽物に特定の電子ダグが付けられていたことから、被害者はあらかじめ盗み出す対象に目星を付けていたという事が分かる。程無くそれを見つけ本棚から抜き出した」

 しかしここから計画が狂った。

「しかし存外の重さにうっかり落とす。しかし被害者はそれを拾うより先に他の対象を探した。ああ、言い忘れたがむろん窃盗の対象は一冊ではないし、ダミーも複数用意されている。今はどこかに隠されているから後で探してみたまえ」

 流石に本一冊を盗み出す為では割に合わない。目標は複数あったはずだ。自分の手で偽物を持ち込み入れ替えなかったのはそれが理由だ。

「本来であれば庫内管理システムは先に落ちた本を拾うはずだが、先ほど説明したようにその順序は違反的に変更されているので、地上にある偽物を格納しようとする」

 そして遂にその瞬間に至る。

「地下一階の天井、偽物を掴んだロボットアームが被害者の頭上に来て、偽の電子タグにから読み取った収納位置めがけて高速で降りた」

 その時システムは違反的に変更されて人間を検知していない。

「その場を動いていなかった被害者は頭を潰される。ロボットアームはきちんと偽物で本物の空白を埋めて、しかし故障して整備庫内へと移動した」

 これで偽物が本物の位置に収納されていた理由は解明された。

 一連の事象の順序を説明し終えた本間座に刑部が眉根を寄せて話しかける。

「お前の言わんとするところが分かってきたぞ本間座」

 しかし、次に問うた先は異なった。

「和藤村。違反なシステム変更とやらは簡単に出来るもんなんか」

「可能ですが、簡単ではありません。様々な面において」

 眼を閉じ思考を巡らせながら、拳を握った右手の手首を左手で解しつつ答える。

「この保管庫の管理システムは動作しながら変更が可能な形式です。しかし、途中で動作変更を実施した場合、殆どはなにがしかのエラーを起こして停止します」

 どれだけ事前にテストを行っていても、実物に組み入れようとすると一度では上手くいかない事が多分にある。故に理論上動作中の変更が可能でも、通常は庫内管理システムだけではなく、より上位の運用システム全体を準備状態にして変更を行う。

 しかし、僅か一晩ではそんなことは出来ようはずもない。被害者が犯行時に行った方法は一部のシステムの途中変更だ。

 刑部が問う。

「その場合、ロボットアームの操作はどうやって再開させる」

「エラーを無視して動作継続を命令します。手動で行うのが基本ですが予めエラーへの対処を変更用のデバイスに設定しておく方法もあります。これなら自由に動きながらシステムを動かし続けることも可能です。しかしどんな不具合が生じているか自分で確認できない危険な手段です」

 窃盗の為ならばそのリスクを負う事もあり得るだろうが、信頼性が低すぎる。最悪の場合閉じ込められて一巻の終わりだ。

 しかし方法はそれだけではない。

「あるいは、最初からシステムの途中変更などという複雑な方法ではなく、単純にシステムを一時停止してマニュアル操作で動作させるという手もあります。しかし」

 その場合、重大な問題がある。

「少なくとも庫内にいては出来ませんよ。なにせ、手動で動作継続を命令する場合もマニュアルで制御する場合も、専用デバイスを使用できる場所は庫外の接続ハブからだけです」

「つまり、自動的に機械に任せるには危険が大きく、手動で動かすにはいちいち庫外に出なければならん」

 刑部が眼を閉じて深く頷き、再び顔を上げる。その眼からはもう思考の迷路に囚われた曇りは消えていた。

 被害者はリスクを承知で危険を伴う煩雑な方法で窃盗計画を実行したのか。

 違う。

「この盗み、単独では荷が重すぎる」

 本間座を見る。口髭に組んだ指をあてて傾聴していたその唇の端が上がる。

 刑部は言う。

「共犯者か」

「その通り!」

 本間座の手が勢いよく左右へ広げられ快哉を表す。

「本泥棒は二人いたのだよ」

 今日一番の笑みを浮かべて言い放つ。

「そもそもセキュリティ会社の門番ではシステム管理部門の担当である入庫コードの発行や偽の電子タグの作成は出来ない。それにシフトを変更した後で窃盗事件が発覚したら、変わってもらった相手には犯人が丸分かりだ。しかも方法的には庫外に誰かがいなくてはならない」

 それを一発で解決できる方法が、共犯者を作ることだ。

 それは誰か。

「その共犯者は不正に入庫コードと電子タグを作成可能で、持ち場を交代しても怪しまれず、保管庫のセキュリティと管理システムの仕組みに精通している者」

 本間座の右手が胸のパイプケースに置かれ、左手を優雅に下へ降ろす。

「この被害者の同僚だよ。刑部、当館と提携しているセキュリティ会社に部下を送りたまえ。上手くいけば犯行の証拠だけでなく共犯者の特定も可能だぞ」

 刑部が頷き、扉の方へ歩いていく。

 その姿を見ながら和藤村が嘆息した。

「これで全て解決ですか。いつも通りお見事でした」

 いつもの満足げな表情を予想した和藤村は、しかし異なる物を見た。

「いや、それはどうかな」

 轟音が庫内に立ち上がった。

 和藤村が驚愕して周囲を見る。数歩離れた刑部もまた警戒を構えた。

 両隣の巨大な本棚が三人と遺体を挟みつぶすように迫ってきていた。

「一体なんやこれは!?」

「まさか……!」

 和藤村が睨んだ先、扉横で強制的に扉を開放した専用端末を持つ者がいる。

 もちろん、書棚で三人を潰すために。

 今朝、本間座と和藤村と共に地下へ降り保管庫を開けた警備員だった。

 危機的状況にそぐわない緩んだ声で本間座が言う。

「やっぱりか。夜勤でもないのに超早期ブラック出勤の我々よりも先にいるなんて変だと思ってたヨ。昨夜からずっといて実行犯と協働していたわけだ」

「バカモンがっ」

 叫びと同時に刑部が敏速に扉へ走る。しかし、

「刑部!」

 直後に本間座の警告が響く。刑部は反射的に後ろへ飛び退った。その目の前にロボットアームが急速落下してくる。潰されることは回避したが前方が次々とロボットアームで塞がれていく。後方も同様だ。逃げ場が無い。

「管理者権限、司書、和藤村!庫内全駆動機停止、実行!」

 和藤村の音声入力命令によって書棚の動きが止まる。三人の頭上に落ちようとしていたロボットアームも止まった。不具合を起こしているシステムが応じるか不明だったが、通った。

 だが、危険は終わらなかった。

 炭酸飲料の蓋を開けるような音が鳴り、床や壁、天井から白い煙が噴出する。

「まずい、ガススプリンクラ―を……!」

 火災対応システムはほぼ独立だ。先ほどの様に司書のシステム使用権限ではどうにもならない。

 保管庫はこの巨大さだ。すぐさま酸欠になることは無いが扉が閉鎖すれば15分も持たない。

 走れば5秒も掛からない距離の扉がゆっくりと、だが確実に閉じていく。

 警備員の冷や汗が流れ下る強張った顔面に笑みが浮かぶのが見えた。

 しかしその状況で本間座は平然としながら共犯者のミスをさらに指摘した。

「警察に通報があるとしたらまず彼からだよネ。火災警報を止めた後の和藤村君の通報が先になる筈がない。最初から我々を閉じ込めて始末するつもりだったか」

「言ってる場合ですかっ」

 扉の隙間は更に狭まる。裏面が見えているという事はもう半分以上は閉じている。

 三人に書棚の隙間から抜け出す方法はない。

 隙間の向こうから、すっかり落ち着いた様子の警備員が手を振っている。

 だがその歪んだ笑みは瞬間に消された。

 顔面に真正面から豪奢で大きな本の角がぶち当たった。

 高速の重量物を食らった警備員は、色々な所から血を吹いて後ろに吹っ飛び壁にぶつかる。専用端末から手が離れ、扉の動きが止まった。

 いまや殺人未遂犯となった者は倒れ込んで痙攣している。気絶していた。

 危機を食い止めた張本人、本間座が偽物を投げつけた姿勢をゆっくりと戻す。

「やはりこれだけでは死な無いよネ」

 一息ついて痛そうに肩を押さえながら呟いた。


                 ::


 事件から五日後。

 本間座と和藤村の二人はすっかり日が暮れた頃、地上施設2階の文書作成室で通常通りの業務を行っていた。

 和藤村がパソコンで作業をしながら話しかける。

「本泥棒の動機は、流行っているから自分にもできると思った、という実に軽率で無思慮な物だったそうです」

「う~ん」

 後ろから唸るような本間座の声が届く。

 二人はあの後、警察の事情聴取などもあったが、次の日から保管室とは関係が無い仕事を普段通りに行っていた。そして現場の検証や清掃も終了し、改良中の保管庫を除けば今やすっかり元の日常だ。

「血まみれのロボットアームはご推測通り整備庫内で発見。その際、他の入れ替え用の偽物も一緒に見つかったそうです」

「あ~」

 苦しそうな返事は床の方から流れてくる。

「ただし、亡くなった方の警備員はやはり事故だったようで、生きている方は結局殺人には問われないそうです。でも現役の刑事を含む三人の殺人未遂始め、不正コードの発行など様々な余罪を含むと、最終的な刑罰は軽く済まないでしょうね」

「そうなのネ~」

 和藤村が手を止めて半身を回して椅子の上で振り返る。

「名推理を披露して殺人事件では無かったのはやはり納得いきませんか」

 本間座は、段ボールを敷いた床の上に俯せで伸びていた。

「そんな事より、この老いぼれの腰が今は重大事だヨ」

「ぎっくり腰。まだ保管室が運用できないから館長の頼まれ物を直に運び出したとはいえ、巨大な本をぶん投げた人とは思えませんね」

「なるときはなるのがこれなのさ。君もいずれ理解に及ぶサ……」

 そんなものかと実感なさげな嘆息をして、和藤村は再びパソコンへ向き直り作業に戻った。

 作成している文書は、業務内容補完報告書だ。土門私設史料館では館長の意向により、通常の業務記録と特殊な事態が起きた際の補完報告書の作成が司書の仕事の一つとなっている。以前は本間座の担当であったが、和藤村が着任して以降は彼が行う事が慣例となっていた。

 その背中へ本間座が床へ向かって声を掛けながら話しかける。

「今回のはずいぶん頑張って作っているじゃないか。事件自体はいつもより単純だったかと思うんだがネ」

「この後がバタバタするでしょう。館長からもメールで普段より詳細な記録を指示されているんです」

「保管庫運用システムだけではなく、施設全体の業務体系を見直すなんてネ。死亡事故には目もくれないというのに。相変わらず周囲には無関心なくせに過敏な事だ」

 土門私設史料館は全面的に運営体系を見直すことになった。警備は外部委託ではなく正式に史料館の職員として雇用する。地下の巨大保管庫の管理は館長と顔馴染みの専門の業者へ移管。驚くべきことに和藤村が拝顔どころか声も聴いたことが無い、人前に出ることを徹底して避けているあの館長が秘書まで雇い入れることも視野に入れているとの通達だった。

 そうなると、今まで事実上司書二人しかいなかったこの史料館の職員が一挙に増える可能性があった。ならば、補完の業務報告書とはいえしっかりと作成しておかねばならない。だから和藤村はこの時間になってもまだ業務中という訳である。

「いやあ、すまないね和藤村君。ワシも出来れば少しはてつだ、ダ、イタダっ」

「本間座さん。人の横で唸るしかないならもうそろそろお帰りになられてもよいのではないですか。それだけ喋れるなら少しはマシになったんでしょう」

「そうするかネ……」

 慎重に身を動かしていく老人の気配を感じながら和藤村は手を動かし続ける。

「しかし、事件とはまた別に貴重な史料達が駄目になったのは忍びないですね」

 古書に特段思い入れはない。しかしその希少性の価値は値段や研究資料としての意味よりも深く重い存在意義があると考えている。142冊ものそれらが多量の血で損傷したのは素直に残念を感じていた。

 だが本間座はそれに意外な答えを返した。

「ああ、それならば心配はないヨ。警察に持っていかれる前に館長が無理矢理お抱えの修繕師に渡してしまったからね。あれから五日。あのくらいの数なら明日にでも返って来るんじゃないかネ」

「……ツッコミどころが多いですが、明日にも帰ってくるとは?あれだけの数の血に塗れた古書ですよ。一冊でも数年がかりの物が近日中になんていくら何でも——」

 パソコンから電子音が鳴った。館長からのメールだった。

「……館長指示です。明日の5:00ゴーマルマル時、修繕完了した古書142冊が到着するので、先んじて出勤して即受領するようにとのことです」

「あいあい、了解ですよっと」

 両手を前に伸ばしてバランスを取りながらゆっくり立ち上る本間座が答える。その表情には驚きや奇怪さを覚えている様子は一切見受けられなかった。

 無意識に手が止まり怪訝そうな顔をする和藤村に向かってにやりと笑いかける。

「気を付けたまえ和藤村君。ここだけの話、館長は普通のものではないんだヨ」

「確かに本間座さんが腰をやったとたんにまだ動けない本人を無視して出退記録を早退扱いにしたのは鬼だと思いました。でもそれ抜きでも此処に初出勤したときに異常な事はすぐ理解しましたよ」

 ほう、と気のない声を返しつつ本間座が眼を鋭くして和藤村を観察した。

「だって、本間座さんを雇用しているくらいですよ。凡庸な方で無いのは分かるに決まているでしょう」

「ごもっともでございまス……」

 肩を落とし目を力なく伏せて本間座が応じた。

 腰を抑えてよろけながら部屋から出で良く。

「じゃあ、悪いけどお先に失礼するヨ」

「はい、お疲れさまでした」

 本間座が去った後も和藤村は作業を続けた。

 単調な思考と作業はかえって頭から意識が零れていく。アンティークな振り子時計風に装った電波時計がたてる秒針の音とキーボードを一定速度で打つ音が、静かな部屋に満ちる。それは時間という感覚を抜き取り、永遠とこの時が続くような錯覚と入れ替えたように感じさせる。

 しかし、作業の終了と同時に鳴ったわざとらしい電子音の古時計めいた時報が、和藤村を時の流れへ引き戻した。

 完成した補完報告書の電子版をアップロードし、印刷機で紙媒体でも作成する。封筒に入れたそれを持って部屋を出た。

 補完報告書を収納する場所は館長室前の誰もいたことが無い秘書室にある書棚だ。そこを目指して館内を移動していく。床面積は小さくないとはいえたった三階建ての地上施設は、しかし館長室へ行こうとすると奇妙な経路をたどる。歩き、階段を上り、何故か下り、どこにこんな長い直線が入るのだろうという廊下を進み、もう施設を何周もしたのではないかと思った頃、廊下の途中に忽然とその木扉が現れる。

 和藤村は慣れたようにそれを開けて中に入っていく。

 秘書室だ。先ほどまでいた文書作成室より大きな部屋には、床に靴が沈む高級な絨毯が敷いてある。しかしそれ以外には二つの大きな書棚があるだけだ。他の物はかつてあったような跡すら無い。

 並ぶ書棚は片方が古い木製で錠付きの重い扉に閉められている。もう片方は新しいスチール製の、やはり戸が付いた物。ただし錠は付いていない。

 和藤村はスチールの書棚に近づき、戸を開けて中に報告書の封筒を納めて閉めた。

 一息をついて気を休める。これで本日の業務は完全に終了。あとはターミナルで全館の施錠を確認してから帰るだけだ。

 踵を返して立ち去ろうとする。しかしさすがにこの数日の多忙が油断を招いたのか、金属の書棚の角に右足の小指をぶつけた。

 反射的に右足が跳ね、不用意な片足立ちでバランスを崩す。こけるようなへまをするほど体幹は弱くないがこの足元では流石に数歩をよろけた。思わず近場にあった木棚に強く手を張って支えにしてしまう。

 その時、何か乾いた物の塊が棚の裏で壁とこすれながら下へ落ちる音が聞こえた。

 和藤村は訝しみながら木棚と壁の隙間の方を見て、古ぼけた封筒の端が飛び出ているのを目にした。

 もし何かの資料であれば、館長が眼を通す程の物だ、放置するわけにもいかない。

 身をかがめて封が開いているそれを書棚と壁の隙間から取り出し、表面の内容表記を確認した。

 一瞬、息を詰める。

 そこに書かれていた文字を和藤村は無意識に読み上げていた。

「――かずふじむら……みなごろし作戦、調査補完報告書」

 和藤村かずふじむら鏖作戦調査補完報告書。


                 ::


 文書作成室を去った後、本間座は裏口から出て駐車場にいた。自動車で通勤しているのではなく駅に行くにはこの方が近道になるのだ。

 夏の終わりの夜は、熱されたアスファルトから上る熱気と涼やかな気配を含んだそよ風が混じり、どの季節でもない独特の雰囲気を作り出している。

 腰に手を当てて人形のようにぎこちなく歩いていく。

 そこへ、秋風とは言い難い暴風が吹いた。

 それは一瞬では終わらず、駐車場全体を渦巻く様に疾る。

 本間座は驚きもせず、口をたわめて眉を下げ面倒という感情を見せた。

『本間座』

 その声は洞窟の底から湧き出るように昏く重い。

「どうも館長。何か御用ですかな」

『何故あの若造に報告を任せる』

 声は暴風の渦の向こうから届いてくるようにも、風に乗って耳元に当たってくるようにも聞こえる。

「何故とお尋ねなさいますか。言わずともそれそのものが理由です。今回もまた館長がお望みの謎ではなかった。だから彼が担当している。そんな事ですとも」

『贖罪の代わりとしているつもりか』

「論理の飛躍は好みませんなあ。ご存じでしょう。単に給料以上の残業は年寄りには辛いから若者に押し付けたいだけですよ」

 まごう事なき本音だ。

 暴風が唸る。しかし切り裂くような鋭さは消えた。

『前線に戻る気は無いのか』

 本間座が声を立てて短く笑う。

「前線とは。20年以上前ならともかく、侵略大戦も、その後の反抗大戦も終わってすっかり平和を取り戻した今、この国のどこにそんな物があると——」

 壁の様な圧の大気が背後から本間座を叩き抜いた。灰髪がばらけて目の前に垂れ下がる。前によろけた本間座がやれやれ、と呟きながら無表情に言葉を作る。

「この皴枯れた精神と痩せこけた肩には、もう以前のような責任は務まりません。貴方と違って年なりに老いていますから。今となってはもう、過去も未来も億劫なだけで、現在をこなしていくことしかできません」

 乱れた灰髪と痩せた口髭の皴めいた顔は、直前よりも何十歳も老けていた。そこにはどのような感情も無く、ただ経年による摩耗した魂を映すだけであった。

 颶風がその言葉を聞いて数秒の後、ふっと消えてなくなった。

 本間座がため息をつく。

『三丁目の駅向こうに本物の鍼灸師がいる。治して来い』

 それを最後に声は完全に消えた。

 乱れた灰髪を直しながら本間座は頭を動かさずに周囲を見渡す。

「移動防災壁による風向制御。声はアレイスピーカーか?」

 今しがた自分の身に起きた現象を解析しながら再び吐息を落とす。

 胸ポケットから瀟洒な黒革のケースを取り出して、じっと見つめる。

「やはり何もかも変わっていってしまう様だよ。未来も、過去さえも。もはやワシが持っていられるのはただ現在しかないらしいよ」

 呟くと、再び頼り無い足取りで歩きだす。

「三丁目の駅向こう、と。痛くないやつだと良いナー」


                 ::


 和藤村は書類を持ったまま秘書室で立ち尽くしていた。

 古い木製の書棚には当時書類を納めていたの使用者の名前が、破けたシールに書かれていてかろうじで読み取れる。

 ”本間座”

 そう記されていた。

 和藤村はそれから視線を書類に戻す。

 自分の内側の何処からか、大量の感情らしきものが膨れ上がってくる。

 悲哀、恐怖、不安。憤怒、喜悦、興奮、そして……莫大な好奇心。

 それらがない交ぜになった言い難い心情と衝動が指先まで渡りそして……。

「——」

 和藤村は、封筒の封を閉じた。

 解けていた口紐を巻き直していく。その動きは慌てるでも殊更ゆっくりでも無い。強いて言うなれば、次に開く人が使いやすいように、きつ過ぎず緩すぎず、適度な強さで巻いていく。

「数年ばかり早ければともかく、今となっては面倒なだけだ」

 自分のルーツも、隠された過去も、それらが違っていたらという有り得たかもしれない未来への思いも。

「かかわずらってはいられない。こんな年にもなっていると。今を生きるのに精いっぱいでね」

 一瞬膨れ上がった心の動きはすっかり萎み、ただ面倒ごとを見つけてしまった煩わしさだけが残ていた。

 そして、最後まできちんと閉じ紐を巻き切った。

 後は何処に置くか少し迷ったが、元の書棚と壁の隙間に半分ほど刺し込んで置く。これならば不要であれば気が付かないし、探していれば容易に見つけられるだろう。

 今度こそ秘書室を後にする。

 厚い木の扉を開き、閉めて、廊下を淡々と歩いていく。

 白色の寒寒しい光が和藤村に当たり、足元に薄ぼんやりした影を作っていた。


                ::


 この土門私設史料館には多くの古書と、そして謎が蒐集されている。

 それを灰髪の老人が面白がり、黒髪の青年が面倒がって解決し、解答というタグを添付して洒脱な態度で書庫へと仕舞う。

 ここでは過去への展望も未来への因縁も用無しだ。

 ただ、今その場にある謎だけが存在を歓迎される。

 貴方は特に執着は無いけど捨てられない古本の様な未解決事件をお持ちですか?

 であればようこそ、無辜の謎たちの巨大な墓標へ。

 灰髪の老人と黒髪の青年が貴方を持て成すことでしょう。




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灰髪老と黒髪若の事件簿書庫 底道つかさ @jack1415

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