ピルグリム
灯台/
意識がおぼろで身体が深く沈んでしまっているようだった。目に見えるものすべてが色褪せてしまって、景色に影が潜んでいるようだ。霧がかかったみたいに広がる緑の向こうには知るはずもない人たちが疎らに何かをしていて、丘の向こうには木々が茂った山々が臨んでいる。
夏の盛りを見せていた昼間とは違って、風はほんのりと冷たかった。
見たこともない風景が広がっていて、わたしはこんな場所を覚えていないが、なんだか懐かしくなって少し顔が綻んでしまう、それと同時に虚しさが少しだけ胸を掠めている。
これが夢だとわかっているのに、懐かしくて淋しくなってしまうのか。
どこかでこの景色を見たことがあったのだろうか――。
ふと、記憶の底から掘り起こそうと躍起になってみたが、混濁とした意識の中ではどうにも曖昧でそれらしい記憶は見当たらない。そもそもこんな風景がある場所をわたしは知るはずもないのだから当然だろう。いかんせん、わたしは外の国へ行ったことがないのだから、こんな場所を覚えているはずもなかった。
夢というやつだ、きっと継ぎ接ぎだらけの記憶を観察して勝手に懐かしんでいるのだ。
やがて、子供たちがわたしの方へ走って来た。
何かを言っている。聞きなれない言葉、音さえも色が薄くなってしまっていて全く理解することができなかった。
気がつけば、わたしはしゃがみ込んで子供たちの話を聞いていた。
可愛らしく笑う子供たちがあまりにも眩しく見えた。
普段ならこんな風に思うこともなかっただろう。
――ねぇ、どうして泣いてるの?
聞き取れないような世界の中、遠くで誰かがそう言った。
そうして、目元から熱い涙が流れていた。
声が聞こえた方向に振り返ったが誰もいなかった。
泣いていたつもりなんてなかったんだけど……おかしいな。
うずくまって流した涙をぬぐっていると、女の子が不思議そうにハンカチを渡してきた。
わたしはありがとう、と言って受け取り、それで涙を拭いた。
懐かしい匂いがした。でも、それがなにかは最後まで分からないまま、ここで夢が終わってしまった。
ピルグリム/
不安定な夜が煌めいている。
文明は遠くに、温かな自然だけが残っている。
昼間の夏は身を潜めている。
小さなビーチサンダルを履いた。むき出しの肌がシンと軋んでいる。
「―――」
感覚だけが研ぎ澄まされて、体が追い付いて来ない夜の静けさ。
呼気が白んでいるように思える。まばらに散る雲になっていくような感覚がした。
夜空は透き通った海の底のように美しかった。
果てがなく、どこまでも続いていく。満月が煌々としてどこか穏やかさを取り戻させるのだった。野良犬は月に吠え、蛍はせせらぎに踊っている。
旅人がさすらうように気が向くままに歩き続ける。それでも、歩いても小一時間。
すぐに家路につくことのできる距離、小さな旅だった。
銀色の光をたよりに、ゆくあてを見失う前に世界を確かめる。
世界は美しい。仮初の体は宿主から勝手に借りているものにすぎない。そして、まだ日が浅いためかなにひとつ力がなかった。きっと寄り添って生きていくしかないのだから――そのうち主にあいさつしなければならないと考えていた。
しかし、まだこの夜空を眺めていたかったから、ひとまず自分の愛した世界を少しばかりどうなったか確かめてみようと思った。
寝間着の軽い服装のまま、着替えることもせずに淡々と足を進めていく。どこか虚ろなのかもしれない。シャローナの双眸は彼方を見つめ、幼げな少女のたたずまいは消えてしまっていた。
やがて、静寂と命が交錯した砂浜に着いた。
アマリリスは泣いている。
月が二つ、上と下に一つずつ。
目を閉じて白と青が混ざり合って、月明かりに照らされながらその中をうねる音にじっと耳を向けていた。
誰かに頼られないと存在できないシャローナにはあまりにも孤独に思える。
砂浜を歩み続けて、細く艶やかな足はそこで止まった。
漣に揺れ、銀色の太陽に照らされる紺色をソレは眺めていた。
握りしてめていたナイフの鞘を外した。白金の刀身、象牙の柄。小刀としての美しさを追求したようなすらりとした造形をしている。
対峙したソレにじっと見つめている。
姿は今にも消えてしまいそうなほどぐったりとしている。
「汝は敵か。或いは――」
「――」
己の様子が分かっていないのか、すでに動かないであろう身体を動かそうと必死になっている。
「俺は――どうやら、すで、に終えているらしい」
ええ、とシャローナは頷いた。
片目はすでになく手はちぎれて、足は腐っているように見えた。
「よもやこれほどまでに、世が、美しく、和に満ちてい、るとは。思わなんだ」
「あなたの生きていた世界は残酷だったようね」
すでに世界は眠っている。
微睡の夢の世は永劫か。
つぎはぎだらけの矛盾。
もはやソレは、生きているとは言えないような状態だった。
ソレの矛盾はどの冷たさよりも、ずっと胸を締め付けるような痛みであった。
「残酷か――そう思ったこ、とはなか、ったな。そうあること、が常であったゆえ」
どうにか形を残した右手で脇差に触れた。冷え切った夜で凍えているのだろうか、カタカタと震えている。
「血が、焦げる紫煙、を浴びたことはあるだろ、うか?」
いいえ、とシャローナは否定した。
「なら、ば、毒の滴る矢も、知らぬか」
独り合点がいったように陽気に笑っているようだった。
「良い、時代だ。だが、俺は臆病、だ。滅ぶことを受容できん」
緩やかに時が流れている。シャローナの儚さと無機質な立ち姿に彼岸を連想させた。
白い寝巻が夜風にふわりと浮かんだ。
ガチャリと音を立て、刃こぼれが激しい刀を掲げてシャローナへ向かっていくが、シャローナが抜身となったナイフを袈裟に振り抜くとあっさりと崩れ落ち、消え去ってしまった。
そこには殺意も何もなく、作業の一つのように美しさばかりが際立つ一連の動作だった。
不思議とソレが消えるときに笑みをこぼしていたように見えた。
まるで――感謝しているような。
この瞬間はいつも胸が痛くなる。
「あれ、こんな夜中にどうしたの?」
砂浜に立っていると少女が話しかけてきた。
シャローナが握りしめた得物を見て、そっかとそれだけを呟いた。顔色を変えることなく、けれどただすこしあきらめに近かったようだった。
「夜の貴方はとても見目が麗しいのね―――」
少女はあどけなく笑って近づいた。右手に握られたナイフの背を触って、そのあとにつーっと刃の部分を撫でた。痛がることもなく指から血が流れる様子をじっと見つめて、シャローナの隣に座った。
シャローナも少女の隣に座って、さざなみと胸の拍動が辺りを支配していた。
「今日の海はすごくきれいだね」
「そうね」
少女はいつもより大人びていて、シャローナが知っているような少女ではなかった。
くるりと振り向いてと、光が反射しているシャローナの碧眼をじっと見つめた。
塩の香りが妙に鼻について、少女だけに意識が寄っていた。空気がだんだん甘くなっていって気を抜くと落ち着いて寝てしまいそうだった。これが主の気持ちなのだろうとすぐに悟った。
「夏鈴とはちゃんと話したの?」
話したのって何を。
「―――」
「ダメだよ、そうじゃないとわたしの夏鈴までいなくなっちゃうかもしれないんだから」
目が潤んで、どこか遠くを、言葉の先を見ていないようだった。
指先の血はすでに止まっているが、赤い筋がすうっと残っている。
「そう―――いなくなってしまうのね…」
「愛永さんが言ってたの。片方が受け入れられないと思うと、もう片方はいなくなってしまうかもしれないって」
「―――」
シャローナは下を向いたまま少女の声を聴いている。
「だから――」
「大丈夫、大丈夫よ」
波の音に声がさらわれて、風に運ばれていく。
少女は不意に夏鈴の笑みを思い出した。
「消えるのはきっとわたし。夏鈴はいつも通りよ」
喉元に来る言葉はシャローナに返ってくる。
「わたしには何もないから――」
それを聞いた少女は違和感だらけで、見たこともない空気を纏っているように感じた。
「何もないわけないよ。あなたは優しいから。わたしもちゃんと力になる。夏鈴のためにもみんなのためにもお願いします」
こんどは悲しそうに頭を深く下げた。短く切りそろえられた顔から儚げな笑顔を見せて、小さな足は踵を返していた。シャローナは少女を制止することもなく、ただ後姿を眺めているうちにどこかへ行ってしまった。
きっと家路についたのだろう。
悲しそうな顔が何度もフラッシュバックする。胸が痛くなる。
シャローナは彼女の祈りだけの存在ではなくなっていた。
以前からわかっていたはずだった。
ずっと意味を探していたはずだった。
けれども、こんなにも近くにあった。
こんなにも世界は美しくて、キレイなものだった。
「わたしは誰に生かされているのかしら」
胸に手を当てながら誰かに問うている。
希薄になっていた存在意義も力も強く輝いている。
そんなことはもうわかっていた。
「わたしにできるのはあの人が愛したこの世界を護ることだけなんだから」
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