ノード.1
ノード/1
七月二十三日。
蝉しぐれはけたたましいけれど、自然な音に耳が痛くなることも心が痛くなることもなかった。それよりもこの国にある四季なんていう人を壊そうとする非人道的な時の移ろいには頭が痛くなってくる。目下、わたしは人殺しのお天道様にうなされていた。朝から体の中の熱がこもりっぱなしで、昼休みになっても体の反応がぼやけている。一年に数えるほどしかやってこない真夏日がどうして夏休み前の今日にやってくるのか、お天道様に核爆弾でもぶつけてやりたい気分だった。
自然はありがたいのだ、と先人は口々にするがわたしたちを苦しめるような有難い恵みは単なる嫌がらせだ。
口に箸をくわえたままそんなくだらない感情のぶつけ先を探していた。
「どうしたの?」
向かいに座ったハルが不思議そうに聞いてきた。
「口に入れっぱなしなのは行儀悪いよ」
「暑すぎて憂鬱なの」
言われたとおりに箸を手に取った。深くため息をついておかずとご飯を口に運ぶ作業を再開する。暑い。
溶けそうになる気温にどうしたって食欲は追いついてこない。
「今月末くらいから暑くなると思ったのに、終業式の今日になんで暑くなるのさ」
そういって文句をたれながら、ハルのお弁当からウインナーをつまんで口に運んだ。ハルはさっきからわたしのお弁当からいろんなものを持っていく。母が作る量がいつも多いからハルにも手伝ってもらいながらお弁当の中身を消化していくことが常だった。だというのにわたしもハルのお弁当から一日一個、何かをつまんでいる。お弁当の中身を減らしてもらってまた自分で増やしている、愚行だ。
「暑すぎて溶けそう」
我慢の限界だった。お弁当を入れている袋からとっくに融けきった保冷剤を取り出して額にぴたりとつける。大して冷たいわけでもないが、ぬるいくらいがちょうど良い。
「溶けるなんて生ぬるいよ、沸騰しそう。あっちじゃ男どもの頭のねじ壊れてるし」
ワイシャツのボタンを二番目まで開けた男子たちが、窓から玄関の屋根に乗って先生に見つからないように作った水風船を投げつけ合っている。昼休みのチャイムが鳴った瞬間に数人の男子たちが、大急ぎでお弁当にがっついたと思ったら、このためだったのか感心している。わたしも野郎どもに交じって参加したかったが、先生たちに見つかったら怒声が飛び交うこと間違いなしなので、わたしはそっと見て見ぬふりを貫くことを決めた。
「あれってさ、ワイシャツ濡れたら一瞬で看破されるよね。前科持ちだし」
「だよね」
やつらは前回の真夏日も同じことをやって見つかっている。授業の時間をつぶして怒られた上に、反省文の提出を求められていたらしいが、一人出さなかった阿呆がいると今朝のホームルームで件の阿呆が説教されていたことを鈍くなった頭で思い出した。
楽しそうな笑い声が教室いっぱいに響いている。きっと五分もしないうちに野次馬がたくさん集まってきて、他のクラスからも似たようなやつらがやってくる。
深いため息をつきたくなる。今日くらい見逃してください、お願いします。
夏休み前日とは先生たちも多めに見てくれませんか? 見てくれませんか。そうですか。
あいつらはどうしてこうも頭の中身が空っぽなのだろうか。
懲りない人たち、でも今日は楽しそうだからわたしも参加したくなってきた。
「夏鈴、羨ましそうに見つめないの」
ハルにはあっさりとバレてしまって、仕方なく胃の中に弁当の中身を強引に詰め込んでみる。
「だって楽しそうじゃない。リスクリターンよりも謳歌しているかどうかよ」
「誰かを困らせるような謳歌はやめてほしいな」
「ぐっ――ごもっともです」
あっさりと釘を刺されて、犬みたいに大人しくするしかなくなってしまった。ここで引いてしまってはハルの思う壺になってしまうから、いちおう牙を向けてみる。
「でもあんまりお堅いとモテませんのよ?」
「いくらでも言いなさい、私が手綱を握ってないといつもひどい目にあうじゃない」
「たしかに」
ぞくりとするような笑顔を向けられたので大人しく従うことにした。手綱を握られたまま、夏休みの小学生と変わりないくらいに水風船のドッジボールを眺めている。ああなったら、わたしたちの手には負えない。
「いくらクーラーが必要な時期が少ないって言っても、夏期講習やらなんやらで学校に来るんだから多少は置いてやろうという気持ちはないのかな」
「たかだか、一週間や二週間程度しかない夏に優しくしてくれないよ」
「その一、二週間にわたしたちは殺されるの――」
「なに馬鹿なこと言ってるの、ギリギリ死なないから」
ハルは表情を変えないまま危ういことを言っている。
「ギリギリ死んじゃうじゃん」
「大丈夫、ギリギリ」
「それって大丈夫って言わないんじゃない?」
ハルの目は虚ろになって色がなくなってしまった。
「ハルのことが心配だからクーラー入れないかなぁ」
「私は大丈夫よ。私は大丈夫なんです。暑いのもへっちゃら」
もうじきやって来る今日よりもずっと暑い日を前に、ハルは理性を失いかけているような気がする。夏場になると保健室のお世話になっているハルの姿見られるようになる。夏の風物詩のようなものだけど、無茶しがちなハルが時々顔を色白にして倒れてしまうから、そのときばかりはわたしがハルの手綱を握らなければいけない。
「バカ言ってんじゃないの、そろそろ保健室でお弁当食べるようにしなさい。毎年倒れてちゃたまったもんじゃない」
「夏鈴――そんな嬉しいこと言って、どうせアレに交じりたいだけでしょ」
「そんなわけないでしょ。貴女の身体の方が心配なの」
わたしは神様よろしく、後光を出そうとしながら笑って見せた。肝心のハルは気味悪がって頬が引きつっている。
「お釈迦さまもびっくりだよ。膝蹴りされる前にそのウッザイ顔やめてね」
冷めた顔で怒られてしまった。
ごめんなさーい、と適当な返事をして最後の一口を運んだ。
わたしはさっさと食べ終わった弁当箱をバッグの中にしまって、ハルにおやすみと伝えて暑苦しい教室の中、ひと眠りつこうとした。
こんな暑さじゃどうせ寝られやしない。
とりあえず、脳みその電源を落としたい気分だった。
すると、クラスメイトは全員が教室で昼食に勤しんでいると思っていたのだが、遅れて一人がやってきた。そもそもしばらく学校に来ていなかった人間だったので、普段からカウントすらされていない。ガラリと、その男が引き戸に手をかけるといつもこうだった。どこか世界が止まったみたいに動きが鈍くなる。
「―――」
「――久しぶりに来たんじゃない?」
ハルはわたしたちの幼馴染の顔を久しぶりに見た、とそんな雰囲気で軽く言った。
教室が凍りつくような空気に変わってしまった。
高校生らしからぬ一切を拒絶するような白髪。純白を突き詰めた毛色に美しく染め上げた黒い双眸が鋭く光っている。身体つきは同い年のなかでも一際大きい。少し見ない間にまた身体大きくなっていて、遠目からでも圧迫感が出るようになっていた。大型の肉食獣を見ているような気分になった。
のそのそとこちら側へやってきて、空席だったその場所に腰を下ろした。
わたしたちの隣の席がヤツのテリトリーだった。
水風船で遊んでいたやつらが先生に見つかって怒鳴りつけられるよりも、ずっと嫌な時間が流れていると心底思った。普通にしていれば良いというのに、教室が固まりついてしまって可哀そうだろう。いるだけで空気が悪くなってしまう信也も可哀そうだ。
「またケガなんてバッカじゃないの」
信也の小指は包帯でぐるぐる巻かれていて太くなっていた。手首が少し黒くなっていた。
また喧嘩したのだろう。ケガの理由はそれしかない。
机に突っ伏しながらわざと聞こえるように言ったが、信也はまったく無視してケータイをいじり始めた。
空気が重たい。
夏の暑い空気が、鉛空の蒸したソレよりもずっと動かなくなってしまった。
「ホントバカだ」
三人でいるときでないとろくなことを言えないわたしも莫迦だ。
「そんなこと言わないの。信也のことだからどうせろくでもない事情でやったのはわかってるでしょ。こういう時はバカじゃなくて、バーカだよ」
ハルはふふん、と偉そうに笑っている。こんな時の彼女の空気を読まない人柄は本当に助かる。わたしの気分が少しだけ良くなる。
そんな気軽で小さな声がそっと動かした。
彼も彼女も、そしてわたしも――この日、わずかに止まった時間が動き始めた。
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