ノード.3
「ここはたまり場じゃないし、関係者以外立ち入り禁止だぞ」
美しい麗人は煙草をくわえて、やれやれといった具合に裏の方へ行った。
「仕方ないだろ、この辺で休める場所はここしかないんだ」
「はー、全くしょうがないね。お嬢さん、さいきんの夜は物騒だから好きなだけここにいなさい。それでも帰るなら信也に見送らせよう」
「だってよ、しばらく休んでいけ。オレも歩きっぱなしで少し疲れた」
私は黙って二人のやり取りを見ていた。
信也は慣れたように冷蔵庫から水の入ったペットボトルを取り出して飲み干した。
「あの人、信也のお母さん? それともお姉さん?」
「いや、ただの恩人だ」
素っ気なく答えて立ち上がった。
空のペットボトルをゴミ箱へ投げ入れてそのまま部屋から出て行ってしまった。
ドアの向こうで「シャワー借りるわ」と半ば投げやりに告げた。
ガチャンと淡白な音が部屋中に響いて、それっきり。特別落ち着くわけでもなく、妙な興奮が身体中に残っている。
夜遊びをしていたわけではなく、家にあまり帰らないお父さんに顔を見せに行った帰りの出来事だった。少しだけ気持ちが浮遊していて、帰り際にお小遣いを貰ったからコンビニでデザートを買ってお母さんと一緒に食べようと思っていただけだった。あくまで普通、普段通りの帰り道だった。
浮足立っていた束の間の享楽が根こそぎ恐怖と安堵に移し替えられてしまった。
あのとき、信也が助けてくれなかったと思うとぞっとする。
警察の人だっていつ駆けつけてくれるかわからない。
ほかの通行人だって危険を顧みず助けてくれるとも限らない。
掴まれた腕にまだ呪いのような感覚が残っている。
自分が何をされるかわからない瞬間ほど恐ろしいものがないと思った。
心強い友達が私にもいて良かった。
ぐちゃぐちゃになってしまった心の整理もできないまま、とりあえずお母さんに連絡をすることにした。お母さんにまで心配をかけたくはない。
朝帰りなんて聞けば、お母さんもびっくりしちゃいそうだけど、今は外に出たくない気分だったからなるべく心配させないように。
帰れなくなった報告を入れると、お母さんからは了解と簡単な返事だけ帰ってきた。
事情は明日話すとしたことが、多少訳ありなことを察知してくれたのだろう。
お父さんからも大丈夫かと来たがこちらにも返事をした。
ふーっと大きく息をついた。
これほどに怖い思いをしたことがあっただろうか。
連絡を取り終えて、自分の中の感情を言葉に書き出すことでだんだんと自分の中で整理ができてきた。
天井を見上げて呑気に何時ごろにここを出ようかなんて考えている。
意外にも私は図太い性格なのかもしれない。
「まったく、信也もキミを放っておいて――こんな時は温かいものでもどうだい? 気分が落ち着くよ」
お姉さんにココアを渡された。
マグカップはほのかに温かく、口をつけると飲むにはちょうど良い温かさだった。
本当にホッとする。
あの出来事から息をつく暇のない一日だったように思える。
「お姉さん急に押し掛けてしまってごめんなさい。お仕事の最中でしたよね」
「お姉さんはよしなさい。私はそんな歳じゃないよ」
そう言って紅茶のセットをテーブルに置いて、向かいのソファに座った。
「仕事なんていつでもできる、気を使う必要はないよ。私は神波愛永、好きなように呼びなさい。それと畏まる必要はない」
神波? 神波なら信也と同じ苗字だ。きっと親戚か何かだろう。
愛永さんは煙草に火をつけようとしたが、私を方を見るなり申し訳なさそうに煙草を箱に戻してから、紅茶に角砂糖を一つ入れて飲み始めた。
「白瀬奈々です。じゃあお言葉に甘えて。ここでは何を?」
ふむ、としばしば思案してから。
「キミは信也と仲が良いようだね。きっと中々の縁になりそうだから答えてあげよう。私は学者の真似事をしている」
研究とはちょっと違うがね、と言った。
「研究ですか?」
「あぁ、仲間たちと世界について研究をしていてね――果てのない研究だよ」
呆れたような言葉尻、それに若干皮肉めいていたような気がする。
世界規模の研究。平和な世の中を創るための研究とか、世界的な言語の研究とかそういったものなのだろうか。
それでも私は至って単純な感情を抱いている。
信也ってこんな人と知り合いだったんだ。
もっと怖い人たちと一緒にいるのだと思っていた。
「世界の研究ってすごいですね」
「研究と言っても具体的な形を得ないがね」
「具体的って発表したりとかは? 研究って発表するものですよね?」
愛永さんはふふっと笑みを浮かべてすぐさま紅茶を口に運んだ。
おいてあったクッキーに手を伸ばして、一口食べると眉間にしわを寄せあとにそれを小皿へ運んでまた紅茶を含んだ。
「あの、タバコ吸っても構わないですよ。うちのお母さんも吸いますから」
「ん、私としたことが顔に出てしまったか。遠慮しておくよ。信也はまだしもキミにまでこの紫煙を吸わせるわけにはいかないからね」
愛永さんは私に気を使って金輪際目の前で煙草を口に咥えたりすることはなかった。
「私の研究は誰かに発信するものではないんだ」
「発表のできない研究ってことなんですか?」
「あぁ、そういうことになる」
不思議な研究。一般的に研究と言ったら発表、如いては人のために認知してもらって意味があると思っていたのだけど、もしかして平和と謳いながら危ない研究でもしているのだろうか。
会ったばかりの人に明かせないと思えば合点がいくので、あまり気にも留めず珍しいですね、と相槌を打った。
「そうおだてる必要はないと思うのだがね。やがて理想となる世の中になると嬉しいがね」
なかなかそうもいかないと愚痴をこぼすように添えた。
なんていうか不思議な話のようだった。
まるで純真さながら、独り童話を語ろうとしているような少女のような口ぶりだった。
愛永さんがどれくらいすごい人なのかわからなかったが、やがてそんな世の中にしたいと本当に願っているようだった。
パタパタとサンダルにステテコ、愛用の白の半そでに滴る髪の毛をタオルで吹きながら信也がやってきた。忙しなくシャワーを浴びて出てきたようで、身体の上半分はまだ濡れていた。
「愛永さん、あんまり白瀬に変なこと吹き込まないでくれよ」
本当に顔と体つきが良い男だと思う。
「何も言っていないよ。すべて濁したさ」
愛永さんはぶっきらぼうに言った。
何の話だかさっぱりだったが、今までの話が遠回りな話だったということらしい。
「白瀬、この人に騙されるんじゃないぞ。そういう性質だからな」
「そういうって、どういう?」
「盲目的になるなよってことだ」
愛永さんは露骨に怪訝そうにこちらを見つめている。
「私は人を愛しているんだがな」
「それならもっと干渉していいだろ」
「私は観測者だ。人を愛しているならその行く末にあまり干渉するべきではないさ」
「観測者だかなんだかどうでもいいけど、アンタが出たら全部解決だ。オレにばかりやらせるな」
信也は吐き捨てるように言った。
不満を彼なりに表しているようだ。
「私はもう外れているから、関わってしまったら違うだろうに」
愉快そうに笑う愛永さんは紅茶を優雅に嗜んで、ほのかに笑ってみせた。
「あのぉ、愛永さんって何者なんですか? 信也の含みを見るにすごい人に聞こえるんですけど」
信也は呆れたように「本当に何も話してないんだな」と面倒くさそうに呟いて、まだ濡れていた髪の毛をタオルで拭き始めた。
「この先、彼女には困難な道が続く。ソレに私が干渉することはいけない。時に森羅万象というのは人の成長を妨げてしまう。信也、彼女は強い人間だよ」
まったく何の話をしているのかわからない。
もっとわかりやすく私を話に混ぜてほしいと目を細めた。
「白瀬は気にするな。愛永さんのたまにある寝言だ」
「こんなはっきりした寝言があるなら、私がねぼけてるか夢だと思うんだけど」
「まだそんなこと言ってるってことはアレも言ってないのか?」
信也は驚いていた。
「信也が嫌がるだろうから言っていないよ」
「アンタのところに来たってことはそう言うことだろ」
ため息をついて愛永さんのデスクに置いてあった煙草に火をつけて信也は気怠そうに一息ついてつづけた。
「この人は正真正銘の魔女だぞ」
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