私は異世界転生なんてしない・その後
グラスに注がれたビールを一口呷り、おつまみとして用意したナッツを幾つか口に放り込む。ぽりぽりとした食感と程よい塩味が口の中に広がると、またビールを呷る。
こうしていると、なんてことのない日常の一ページの中にいると実感させられるわけなんだけれど……思えば、あの後の私たちの生活は、まさに激動と呼ぶに相応しいくらいの変貌ぶりだった。
夢を見続けると決めた私たち、というよりも流羽は、まず真っ先に彼女の親に報告をしたのだ。いくら親御さんが理解のある人たちだからって、性急すぎないかとハラハラしていたのだけど、報告をした流羽曰く、
『良かったじゃない!あんな器量のいい子を捕まえるなんて、流石は私の娘ね』
となんの逡巡もなく受け入れられたそうだ。
少し拍子抜けしてしまったけれど、問題はその後。
何を思ったのか流羽のお母さんは、私の母にその話をしてしまったらしい。隣の家なんだ、遅かれ早かれそうなるだろとは言え、私はある種の覚悟を決めて呼ばれた母さんの待つダイニングに行くと、
『女の子をその気にさせたのなら、最後まで責任を持つ事。何をおいても、そこだけは忘れない様に』
と謎の注意をするに留められた。
私が知らなかっただけで、うちの親も随分懐が広かったらしい。懐が広いで話を終わらせていいのかはやや疑問だけど。
——そして高校で、ある日私はクラスメイトの女子——あの日、流羽に視線を送っていた女子たちの一人——に呼び出された。
なんだなんだと思っていると、流羽のことで話があると、やたら神妙な声で話を切り出された。流羽のこと、と言われると正直いい予感がしなかった。
これは場合によっては血を見ることになるなと内心決意していると、呼び出した女子は何が楽しいのか笑いながら、でも目は至って真面目そうに話し始めた。
「その、雎鳩さんと末森さんって、付き合ってるんだよね」
付き合ってるのか、と聞かれて隠そうとは思わなかった。何しろ親がバックにいるんだ。これ以上の事はあるまい。
「そうだけど、何?文句あるの?」
自分でも棘のある言い方になり過ぎたかと、後になって反省するけど、もし文句があったなら私は何をしてでも流羽を守るつもりだった。何しろ彼女があんなに苦悩した原因の殆どといっていい程の部分を他でもない私が占めていたのだから、それくらいしないと顔向けできない。
私のその言葉を聞いて、その子は慌てた様に首を振って、文句なんかないと否定した。
「それじゃあ、何が言いたいのかな」
「わ、私たち、応援してるから!」
「……へ?」
「雎鳩さんのあの恋する乙女な視線を受けて、いつになったら末森さんが手を出すんだろってずっとヤキモキしてたんだよね!」
「な、え?」
「それがいよいよくっついたんだから、これはもう応援するしかないっしょ!ね、色々話聞きたいから、連絡先交換しようよ!」
その後、急速に距離を縮めてきた彼女らの話を聞くところによると、あの日感じた視線は、正確には流羽と私に向けられていたものだったらしい。
私は下品、という言い方も今となっては可哀想だけど、そう感じた視線は、彼女らとしては見守っているつもりだったのだそうだ。
そしてどっちから告白したのかとか、キスはもうしたのかとか定番な話を根掘り葉掘り聞かれた私は、やはりいつになっても誰かの色恋沙汰というものは、他人の興味を惹き寄せてやまないみたいだと改めて思った。ただ、彼女達の場合はそれがポジティブな方向に作用してくれていた——。
そして、流羽とも打ち解けた彼女たちとは、卒業までの短い期間の内に急激に仲良くなり、今でも交流があったりする。
私達は、運が良かったと思う。
お互い好きだと言い合える人と長くはない人生の中で巡り会え、しかも周囲もそれを祝福してくれた。そんなもの、どれだけの確率で起こっているのかなんで、数学が得意じゃない私は計算する気すら起きない。ただ間違いなく言えることは、これもある意味での奇跡と言えるだろう。
だから、私は——。
「ゆずちゃん、ボーッとしてどうしたの?酔った?ベッド行く?」
物思いに耽っていると、私の目の前にある流羽に話しかけられた。
私達は今ソファに座って、映画をまったり見ているわけなんだけど、流羽は私の身体の前、脚の間に陣取って、私の両腕を腰に回させて抱き締められている。
というより、私が流羽を抱き締め『させ』られている。
大学生活の始まりに同棲するにあたって、わざわざ二人で座れるゆったりめのソファを選んだというのに、狭くないかと聞いたことはあるけど、流羽としては『背中にゆずちゃんが居ると思って安心できるんだ』といって頑なにこのスタイルは続行された。
そして今は映画を見つつ酒を飲み、しかも恋人を抱きしめている多幸感に包まれボーッとしていた私に、流羽が気づいたみたいだった。
「まだベッドにはいきません。映画も途中だし、最後まで見ないと気持ち悪いんだよね」
「わかる。一度視聴し始めたら、つい最後まで見ちゃう!」
「好みじゃなかったとしても、ついねー……この映画も、主役の俳優は好きなんだけど、あんまりだな」
今目の前のテレビで流している映画は、主役の俳優目当てで選んだと言っても過言ではないんだけれど、どうにもストーリーが好みじゃない。
派手に見えるロボットのアクションシーンも、主人公の役柄があまりにも人でなしに思えてしまうストーリーのせいで、思いのほか楽しめない。
「るーは結構これも好きだよ? なんというか、人間味がある感じがして」
「人間味ねぇ……同じ父親としての役割があるなら、断然前に見たのが面白かったなぁ」
「あれは良かったよね! メイキングも見たんだけど、練習しながら感極まってるカットがあって、思わずファンになっちゃった!」
流羽がそう言ってから、私のメッセージアプリに一件のURLが届く。多分彼女の話す公式メイキング映像のもので、後でいいから見てって事なんだろう。
ファンになったと聞いて、ふと懐かしい記憶が蘇る。
「ファンになったって……推し認定したってこと?」
「あ、懐かしいね。高校の時はそんな話してたなぁ」
あの頃の流羽は毎月の様に新しい物語を見つけてきて、その中にお気に入りのキャラクターを見出していた。そしてそれを『推し』だ、なんて言って憚らなかった。
なんて節操がないんだろうと思われるかもしれないけど、あの頃の流羽は、そうする事で何か大切なモノを繋ぎ止めていたんだろう。
「これで何人目の推しなのかなー。二百人くらいいった?」
「そんなにいってないから!……それに、るー、推しってものを間違えてたんだよ」
「間違えてた?」
「うん。……なんていうか、お気に入りみたいな感覚でかんがえていたんだけど、この間学科の子と話してたら、そういう話になって」
「その人も推しがいるタイプなんだ」
「そうそう。それでその子が言うには、『推しって言うのは、その人の事を想うだけで幸せになれる自分にとっての存在』なんだって」
「なるほど……」
流羽は推しという言葉をお気に入りとか、それこそファンというつもりで考えていたみたいだけど、その人は自分にとってかけがえのないものとして考えている様だ。
どっちが正しいのかは私にはわからないし、もしかしたらどっちも正しいのかもしれない。
でも、流羽はその人の話を受けて、感じ入る部分があったみたいだ。
「それで、るーにとってそういう人って……結局、一人しかいなかったんだぁ」
「へぇ。それってもしかして、最初の推しって話してたやつ?」
「うん。その人の事を考えただけで、幸せになれるし、るーは、その人のおかげで生きて来れた様なものだから」
そんな風に思う人が居たなんて知らなかった。その最初の一人について詳しく尋ねなかった訳ではないけど、流羽にしては珍しく語ってくれたことはなかった。
……あれから何年経っても、私は相変わらず嫉妬深いらしい。流羽とは恋人になって、同棲さえしているというのに、名前も知らないその推しが羨ましくてたまらなく感じる。
「そこまでいうなんて気になるじゃん。名前とか教えてくれないよね」
「名前とかって……ここまで言ってわからないかぁ」
わからないから尋ねただけだというのに、流羽は呆れた様なジト目を私に向けるだけで、答えてはくれない。なんなんだよ、もう。
「はぁ……もうゆずちゃんは、いつまで経ってもゆずちゃんだね」
「そんなこと言ったら流羽もいつまで経っても流羽でしょ。あ、ビールとって」
「……はい。あんまり飲み過ぎたらダメだよ?いくらお家でも、悪酔いは怖いんだから」
「はいはい。この映画が終わるまでねー……って言っても、そろそろ終わるな」
気付けば映画は、主人公が戦いに勝利した様で、歓声に包まれながら輝く様な笑顔のシーンを画面に映している。
「ゆずちゃん、そろそろ酔いすぎちゃったんじゃない? ベッド行こうか?」
「そんなでもないって。……なんか今日の流羽、やたら誘ってくるね」
「へぇ?! そ、そ、そ、そんなことないですけど?!」
怪しすぎる。
映画を見ている時は鳴りを潜めていたけれど、映画を見る前に買い物に行った辺りから、妙にそわそわしていた流羽の姿が思い出される。
「何隠してんだよー。いってみなよー」
「う……実は、こういうものを買ってしまいまして……」
観念した流羽は、おずおずとテーブルの下から厚めの図鑑くらいのサイズのそれを取り出した。
全体的にピンク色をあしらわれた真四角の箱の、そのパッケージに商品特徴が誇張して書かれている。箱の正面上半分は透明なフィルムに覆われた窓が設けられていて、そこからは中身のこれまたピンク色した棒のような何かが見えている。……誰がどう見たって、そういう時の為のおもちゃだった。
「いつものもすっごく好きなんだけど、こういうの使ってみたら、ゆずちゃんどうなっちゃうのかなって」
「私が使われるのは決定事項なわけね……それ幾らしたの? 結構高かったんじゃない?」
「そんなでもなかったよ。それで、何個か買っちゃいまして……」
「あぁ、そう……」
使われるこちらの身にもなって欲しいと言いたいところだけど、彼女の話を聞くのと同じくらい、彼女が何かに夢中になっている姿が私は好きなんだ。だからまぁ、とやかくは言うまい。
映画では真っ暗な背景をバックにエンドロールがながれている。手元のグラスにもビールは残っていない。いよいよ私がベッドに行かない理由は無くなってしまったみたいだ。
「……いいけど、その前に歯だけ磨きにいこ。酒飲んだままよりも、そっちの方がキスしやすいし」
「……うん!映画も終わったみたいだし、行こっか!」
そう言ってから、流羽はあの頃と同じ亜麻色の髪を揺らしながら、洗面所へと向かっていった。その背中を見て私は思う。
あの時の私は、やっぱり間違いじゃなかった。
きっかけは当時流羽がはまっていた物語について、というなんて事ないモノだけれど、いくら流羽がそれを望んでいたって、私はそれを受け入れなくて良かったんだ。
私は何処かの誰かに生まれ変わらなくたって、あるいはスーパーパワーなんて要らない。ただ唯一、これから先、何年経っても、隣に流羽がいてくれる限り幸せなんだ。
だから、私は異世界転生なんかしない。しなくていいんだ。
私はゆっくりと立ち上がって、自分と同じ香りを漂わせる彼女の後を追っていった。
私は異世界転生なんてしない 上埜さがり @uenosagari
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