19(終)

 大おばさんの家の前に停めた我が家のミント色のミニバンに、遺品を載せていきます。さすがシュワイヤさんは力持ちなだけあって、ひょいひょいと段ボール箱を持ち運んでいきます。オーリちゃんも小柄な外見によらずどんどん重いものを持ち上げます。


「だって儂ドワーフの子じゃしな」


 といって腰に手を当てエッヘンとドヤりました。立派なお髭がマスクで隠れてしまっているのが残念です。


 気力を使い果たしたコクゴさんはまたラフな服に着替え、ハンディ扇風機で顔に風をおくりつつ、白いガードパイプに腰掛けてその光景を見ていました。バニラ味のクーリッシュを吸っています。


 大おばさんの着物はコクゴさんにあげるそうです。シュワイヤさんは部屋の隅っこで転がっていたステッパーをもらっていきます。オーリちゃんは見事に黒光りする中華鍋をほしがりました。大おばさんがこつこつと書いていたレシピブックは、一旦お母さんが持ち帰ってスキャンしてPDFにして全員でわけるとのことです。デジタル形見分けです。ガリドさんにもいろいろとわけないとねとお母さんはいいます。


 羽飾りのついた弓は……


「これはね、ツルハ氏にあげます」


 コクゴさんが弓をケースにしまって、いいます。それはとても大切なものなんじゃないでしょうか。


「うん。カザミ氏から新しい弓──昨日の朝使ってたやつね──をもらって、それで、いろいろなお礼に、それまでのこともふくめてカザミ氏にあげたの。わたしのもとにまた戻ってきても、それはそれでなんというか……ほら、おさまりが悪いじゃないですか。だからこれは、ツルハ氏にあげます」


 わたしは黒いケースを受け取ります。ずしりと重いです。弓よりケースのほうが重いんじゃないでしょうか。この弓に流れた時間と、込められたさまざまな想いも、わたしはその重さのなかに感じます。


 わたしはコクゴさんのとなりに腰かけます。もう溶けはじめているスイカバーの袋を開封します。溶けかけているアイスは棒の側ではなく、アイスの側から開封すると、手に垂れてべとべとにならないです。三角形の先端にかじりつきます。氷菓の冷たさが口内に広がり、人工的だけど本物のすいかよりも夏っぽいすいか味がわたしを満たします。これを食べないと夏という気がしません。


「スイカバーに塩かけて食べたことあります?」


 コクゴさんがいいました。


「おいしいよ」


 わたしはすいか早食い競争みたいに咀嚼しながら「ふぉんほ、ひゃっへみまふ」といいました。


「あの、コクゴさんが放った矢って、どこに行くんでしょうか?」


 わたしは無粋だと思いつつも、大おばさんの元に届いてほしいと思いつつも、つい訊いてしまいました。


「たぶん、摩擦熱で燃えちゃうと思います」


 コクゴさんはあっさりいいました。彼女はつづけます。


「カザミ氏は灰になったでしょ。あの矢も、あの矢にくくりつけられたふみもやがて燃え尽きて灰になります。……だからね、ある意味ではカザミ氏の元に届くともいえるし、そもそも矢を放つまえから、既に届いていたともいえますね」


 コクゴさんがそういう死生観というより、エルフの人みんながそういう死生観を持っている、という印象を受ける口ぶりでした。そういうことを思いつつも、あの儀式をやる必要が彼女にはあったんだなとわたしは思います。


「コクゴさんは、これからも団地に住むんですか?」わたしはたずねます。「シュワイヤさんのところとか、それかわたしたちのところとかの方が、いろいろと安定するんじゃないでしょうか……」


「うーん……」


 コクゴさんは考えるように唸ります。それは本当に考えるふりだということが、わたしにはわかっています。彼女はもう、とっくのとうに答えを決めています。


「たとえば、どこかの山奥で暮らして、そこで趣味で畑でもやりながら定期的に害獣駆除で鹿とか猪を退治したりして、そういうのもいいかなと思ったりはしましたね……。10年ちょっとまえに〈特別危機〉があったとき、カザミ氏からそういう話をされたんです。実家のある長野方面に引っ込むかどうかって話をして。それかわたしの世界に行くかどうかとか。ふたりで一緒に暮らすかとか、ガリド氏の家族と一緒に住むのもいいんじゃないかって。早期リタイアっていうんですかね。……まあ、でもやっぱり、ふたりともここに愛着があったんですよね」


 コクゴさんはさびしそうにはにかみました。わたしはべとついた指をハンカチで拭きます。裏技めいた袋の開け方をしましたが、それでも完全とはいきませんでした。


「でもたまにはね、そういう話はそれでも定期的にしてたんです。宝くじがあたったらどうするって話みたいに。まあ、いまとなっては……夢でしたね、あれは……」


 さっさとそうしておけば、良かったのかな。彼女はひとりごちます。


「あ、でもでも、ちょっとのあいだ故郷に戻って旅でもしようかなって思います。ひさしぶりに見たいところとかもありますし。あとほら、ここもじゅうぶんに緑は多いですし、わたしもサボるの気をつけますから」


 わたしは向かいの棟に目をやります。似ているけれどどれひとつ同じものがないベランダたち。ハンガーがかかったお部屋に、カラスよけ用のCDが何枚もぶら下がっているお部屋。アサガオの植わったプランターがわたしの目に入りました。


 どこかの路上や公園で遊ぶ子供たちの、はしゃぐ声が聞こえてきます。風がそよぎ、葉や伸びた雑草たちがざわめきます。緑の香りのなかに、コクゴさんの汗のにおいが混じっています。


「コクゴさんは、ここが好きなんですね」


 コクゴさんは、こくり、と小さくうなずきました。


「ずっと見てきましたから。……いつかはこの団地も、なくなっちゃうでしょう。それが50年先なのか、100年先なのかそれとも200年先なのかはわかりません。記憶の妖精はもうそれを知ってるかもしれませんけどね。単純にどんどん人が少なくなっていって、それでなくなるのか、それともちょっと前にあそこに建ったあのブリリア──ほら見えます、あのでかいやつ──みたいに、いい具合に大きいのに建て替えられたりして、いま以上に子育て世代やいろんな国の人が住むのかはわからないですけど。とりあえずは、いられるだけずっといようかなって思います。……ここはね、ちょうどいいんです。わたしの村みたいにべったりしすぎるわけでもないし、ちょうどいい淡白さです。それに、むかしのわたしみたいに、ここにいたいっていう人たちの助けもできたらいいなって、そう思いますしね。まだまだ、これからですよ」


 コクゴさんはわたしを見、にっこりと笑って、


「んもー! 心配しすぎですよ―! わたしが何歳で、何十年ここに住んでると思います?」


 わたしの脇腹を人差し指でつんつんと激しくつっついてきながら訊いてきます。


「きゅっ、92歳です。ちょ、うひひっ、脇っ、脇腹やめて……!」


「そうだろ~? まだ13歳の子供のくせに生意気なんじゃないか~?」


 わたしは喘ぎながらも必死に言葉を紡ぎます。


「ちょっ、やめっ、子供、でもっ……と、年上でも、心配にっ、決まってるじゃないですかっ。ぐっひひっ」


「うお、変な笑い声」


 わたしはむずがる脇腹をおさえつつ、彼女に悟られないようさりげなくハンカチで目元をぬぐいます。スイカバーの香りが、ハンカチから微かにします。


 わたしがなんでこんなにも切ない気持ちになっているのか、わたしはわたしのことなのによくわかりません。


 わたしより何倍も生きている彼女は何もかもお見通しなのでしょうか。


 わかったうえで、わたしを上手く子供扱いしているのでしょうか。そう考えると、わたしの胸はギュッと締めつけられます。でも、そういう子供扱いは、不思議とちょっと心地がいいです。悔しいことに。


「まあ、それはそうと、たまには遊びにきなよ。こんな状況だからそんなに頻繁に会えないですけど。それにほら、あんま湿っぽくなりすぎると、逆に会いづらいですしね。あ、あと連絡先交換しましょうよ、ね」


 コクゴさんは手を差し出します。


 わたしはそれを握ります。


「そうしましょう。それではえっと、改めまして」


「うん、改めまして、これからもよろしくね。……あれ、前にもこんなこと、やりました?」


 コクゴさんはふしぎそうな表情でいいます。昨晩の詳細は、コクゴさんには伝えていません。


 わたしは「さあ」と誤魔化し、彼女に屋上のまとって別にわざわざ向かい側の棟の屋上に置かなくても良くないですか、長方形で距離あるんだし、というようなことをいいました。コクゴさんは「ぜんっぜん気がつかなかった! そりゃそうだ!」という反応でした。


「……まったく、ちゃんとしてるなあ」


 コクゴさんは何に対していったのかはわかりませんが、小さくいいました。




 わたしはミニバンの後部座席に座ります。ゆっくりと車は発進します。見送る三人の女性たちに、わたしたちは手を振ります。またね、またな、という言葉が耳に心地よくて、嬉しいです。


 陽は傾きつつあります。並び立つ団地の白い壁が、オレンジ色になっていきます。


「それ、弓、もらったんだね」


 ハンドルを切りながらお母さんがいいます。わたしは隣の席に置いたそれをちらと見て「もらいました」といいます。自然と顔がほころびます。んふふ。


「その弓、あなたの名前の元だよ、たぶん」


「えっ」


 わたしの名前は大おばさんがつけたそうです。そういうことは聞いていましたが、なぜ弦羽ツルハという名前になったのか、詳しくは知りませんでした。


「大おばさんが羽生結弦くんのファンだったからじゃないんですかっ?」


「え~、それはお母さんの冗談だよ」お母さんはあっさりバラします。「弓って弦が張ってあって、それでその弓は羽飾りが付いてるでしょう。だからね、それがたぶん元」


「あれ、もうひとつなんかなかったっけ?」


 そう、助手席のお父さんがいいます。


「ああ、あれかあ……」


「え、なんですか」


「ふふ、ちょっとおもしろい話だよ、これは」お母さんが楽しそうにいいます。「コクゴさんがそのむかし、あの団地に来たばかりの頃、団地のなかで迷子になっちゃったんだって。ほら、全部似たような建物でしょ。それに夜になるともうぜんぜんわからないじゃない。で、そこにある女の子が現れたんだって。その子は親切にコクゴさんを元の部屋まで連れて行ってくれて、コクゴさんが寝るまでずっとそばにいてくれたんだって。手を握って。で、その女の子の名前がツルハちゃん」


 わたしは驚き目を丸くさせました。「それは……」といったあと、つづかなくなります。


「カザミおばさんと、あと夫のツネヒロさんは団地内にツルハちゃんって名前の女の子がいないかどうか、聞いて回ったんだって。でもね、いなかったんだって。そもそも偽名だったのか、それともどこか、聞いて回った範囲外に住んでたのかはわからないけれど。コクゴさんが妖精さんに聞いてもそんな子はいないって出たらしいんだって」


 お母さんはつづけます。


「そういう、親切な子に育ってほしいっていう、そういう感じで名前を拝借したってわけ」


「ツルハ、昨晩その……混乱しちゃったコクゴさんに会ったんだろ? つまり、そういうことなんじゃない?」助手席で微笑むお父さんがいいます。「そっちのほうが面白いと思うよ。まあ、実際に、当時ツルハちゃんていう親切な子がいたのかもしれないけれど」


 わたしはただただ、驚きます。そして、昨晩のことを思い出します。


 コクゴさんを部屋に戻したあと、わたしは彼女の横に付き添っていました。


「カザミね、赤ちゃんができたんですよ」


 タオルケットにくるまった彼女はいいました。


「でもね、カザミはちょっと不安みたい。いろいろと、大丈夫なのかなって……」


 わたしは大おばさんたちの子がどうなってしまったのか、知っていました。わたしはコクゴさんの手を思わず握りました。


「わたし、ミドルの赤ちゃんってあまり見たことないんですよね。だから結構、ふふ、わたしも楽しみなんです」


 わたしは何もいえなくて、ただただ彼女の手を握ったまま、相槌を打ちました。そのときのわたしは「きっと大丈夫」とも「きっといいことがありますよ」ともいえませんでした。


 わたしは弓の入っているケースを開けます。白い羽の飾りがついた弓、その弦をわたしは指でなぞります。


 指先に弦をひっかけ、ぴんとはじきます。


 じんとした感触が、指先にはしりました。


 コクゴさんが出会ったツルハという女の子が昨晩のわたしだったのか、それとも本当にそういう女の子がいたのかはわかりません。話の細かいディテールも違いますし、そもそも、いまのコクゴさんはそのことを詳しくおぼえてはいないでしょう。記憶の妖精さんがバグったのか、それともなんらかの辻褄をあわせるために意図的にコクゴさんをああしたのかも、それもわかりません。


 ……ですが、わたしはコクゴさんが出会ったような、そんな親切な人になりたいと思いました。すぐにはなれないし、わたしはコクゴさんがいうように、そんなにちゃんとしてるわけではありませんし、こう決心しても結局のところそういう行動にうつせるとは限りませんが。


 それでも、です。


 それでも、とわたしは思います。強く強く思います。


 ふと視線をうつすと、手の甲にあったラジオ体操の出席スタンプはもう消えていました。


 一定の間隔で車体が揺れていることに気がつき、わたしは車窓から外を見ます。いつの間にか高速道路に入っていました。


 団地の一室一室がそうだったように、いろんなかたちをしたいろんな車のなかに、わたしの知らない人たちの人生があるんだなと、わたしは思います。みんな、川の流れに乗るように、解き放たれ飛ぶ矢のように、走っていきます。大きなトレーラーが一定のスピードで安全運転を遵守しています。かっこいいバイクがわたしたちの横を走り抜けていきます。


 それぞれの思いを抱えて、それぞれの速度で走っていきます。


 もうとおくなってしまったニュータウンに建つ、たくさんの角張った集合住宅たちのシルエットを振り返って見ます。


 またあの町に行こう──わたしはそう決心します。すてきな人たちが住んでいる/住んでいた、あのまちへ。


「弓道部って、うちの学校あったっけ」


 わたしはだれに聞かせるでもなくいいます。


 ゆっくりと目を閉じます。


 小さい弓を構える子供のわたしを、大おばさんとコクゴさんが見守る、そんな夢を、どうしても見たくて。







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