平成15年

第2話 沖縄本島

これから登場する人名・地名は、一般的に知られるものを除いて全て仮名だ。日時でさえ、物語として再構築する際の大凡おおよその設定に過ぎない。


二十年前――沖縄県の大学に留衣は通っていた。


留衣は本土の出身である。


同時に、性的虐待と育児放棄の経験者だ。両親が正式に離婚し、母親に引き取られるまでそれは続いた。後に、フェミニズムへと留衣が傾倒したのも当然かもしれない。加えて、留衣も自覚する通り自閉スペクトラム障碍の傾向にある。興味の向く対象が周囲とはズレていた。


小学生の頃から、膨大な時間を図書館で過ごした。知識を蓄えるうちに、民俗学に惹かれる。特に沖縄の風土が好きだった――日本と中国が混ざったような文化はもちろん、日本の古い信仰の形がそこには残っていると感じられた。


平成十四年――大学受験に合格し、沖縄へ移り住む。


知り合いの全くいない中での新生活。最初は史跡巡りなどを愉しんだが、やがて強い孤独感に苛まれる。同期の学生とも話さなかった――声のかけ方が分からなかったのだ。


必要以外の会話を初めてしたのは、入学からしばらく経ったときのことだ。講義の前の休み時間――留衣の隣に、同じく民俗学を専攻する同期生が坐った。


茶髪の男――やや色は黒い。今まで何度か授業で同じになったことがあったはずだが、名前は全く覚えていない。


ふと、彼は尋ねる。


「山本さんって――本土の出身なの?」


「そうだけど――?」


「俺も――。俺は大山県から来たんだけど、山本さんも同じじゃない?」


留衣は少し驚く。


「そうだけど?」


「やっぱり――大山弁が入ってると思った。」


どうして山本さんはこの学校へ――と彼は問う。民俗学や沖縄の風土が好きだったからだと言うと、珍しいね、と彼は言った。逆に彼に問おうとして、名前を知らないことに気づく。そのことを素直に言うと、呆れたような顔で、田中景太だよと彼は言った。


「俺は海で遊ぶのが好きだから――海に潜ってシュノーケリングしたり、泳いだり、釣りしたりとか。沖縄には中学のとき旅行で初めて来たんだけど――もう一度来たいってずっと思ってたから。けれど、それならせめて沖縄のこと学んどこうって思って。」


外見とは裏腹に、景太の言動からは粗野さが感じられない。声も中性的で柔らかった。同郷のよしみもあり、同期の学生で会話ができる初めての存在となる。


そんな景太と親しくしていたのが宮里亮一だ。


亮一は沖縄県民らしい顔立ちをしている――くっきりした二重瞼と大きな目と高い鼻と。それでいて色白だ。黒い髮は短い。非常に寡黙であり、景太を除けば友人はいないようだった。


ある日の正午――授業が終わったときのことだ。


亮一を伴い、景太が話しかけてきた。


「山本さん、『をなり神』って知ってる?」


当然、留衣が知らないわけがない。


伊波いは普猷ふゆうだっけ? 妹が兄の守り神になるってやつ。」


「亮、『をなり神』の風習がある町に住んでたって。」


「—―マジで?」


大したことじゃない――と、ぶっきらぼうに亮一は言う。


「ただ、漁師さんの間にあっただけ――ほんの少し。」


それから学食へ移動し、三人で食事を摂った。


亮一は知念市にある港町の出身だった。正確に言えば、その町に住み始めたのは小学三年生の頃からだという。亮一によれば、女性の髪の毛や手拭いを機関室などに納め、船の守護神とする風習が一部に見られたという。


亮一の話は留衣の興味を惹いた。


「それ、本土の船霊ふなだま信仰と関係あるように思うけど。」


関係ないわけない――と亮一は言う。


「船霊信仰だって、元々は巫女が乗ったと言われる。女性の髪の毛が依り代だったってことは、陸地にいる女性の霊力で、海の上にいる男性を守ろうとしたと考えられる。」


留衣はきょとんとする。


「詳しいね。」


「俺も伊達に民俗学やってるわけじゃないし。」


それから、本土の船霊信仰と「をなり神」との関連性について二人で語り合った。やがて、折口信夫や谷川健一などの研究について話は飛んでゆく。同じ話題でここまで話せる人間を初めて見た。一方、その傍らで景太はぽかんとしている。


話が合うと判って以降、亮一と留衣は親しくなってゆく。


亮一と親しくなることは、景太と親しくなることだった。


それから時として、古跡巡りや信仰の研究のため留衣は亮一と出かけるようになる。そんなとき、景太が運転する車に乗せてもらっていた。


留衣と亮一は民俗学に強い関心を寄せていたが、景太はそうでもない。


なので、史跡めぐりのあとに海遊びをすることもあった。ときには、純粋に海で遊ぶことを目的に遠出した。そんなとき、景太が持って来たゴムボートで沖へと乗り出したり、浅瀬を泳いだり、シュノーケリングをしたりした。


両者とも顔立ちは良い。いわゆる「モテそう」なタイプだ。なので、恋人がいないのが不思議だった。


「二人は恋人は作らないの?」


ある日、景太の運転する車の中で留衣はそう尋ねる。


「いいの、俺は」と景太は言い、「俺も」と亮一も答えた。


同時に、留衣は何かを察する。


二人の性的指向を知ったのは、何度目かの海遊びからの帰り――三人で酒を呑んだときだ。


景太は同性愛者であり、亮一は両性愛者であった。ただし、恋人同士ではないという――どれだけ本当のことかは分からないが。


また、亮一は「篠原亮人」という筆名で小説も書いていた。読んでみると、何かしらの才能は感じ取れた。三人での史跡めぐりは、時として亮一の小説に反映される。


平成十五年――米国によるイラク侵掠が始まる。


夏休みを控えたある日の昼下がりのこと――大学の外からは爆撃機の飛ぶ音が聞こえていた。授業を終え、留衣はラウンジへと向かう。そして、二人の姿を見かけた。真剣そうな顔で何かを話している。気にかかって留衣は近寄った。


「何の話してるの?」


にっと景太は笑い、留衣ちゃんの好きそうなことと言った。一方、景太を制止させるような視線を亮一は向ける。


「—―私の?」


「うん。瓜生島って知ってる?」


聞き覚えのある名前だった。


「あの沈んだやつでしょ。」


「そうそう。」


景太はうなづく。


「本当にあったと思う? 瓜生島。」


さあ――と留衣は首を傾げる。


「似たような伝承は日本中にあるからね。長崎県の高麗島とか、鹿児島県の万里ヶ島とか。」


高麗島も万里ヶ島も伝承の島だ。高麗島は地蔵尊の顔を、万里ヶ島は金剛力士像の顔を紅く塗って沈んだとされる。


同じ伝承が沖縄にもあるのよ――と景太は言った。


「そうなの?」


「うん。奥津島――っていうんだって。」


その名前は奥津城おくつきを連想させた。


どこか苛立った様子で亮一は黙り込んでいる。


景太は構わず説明を続ける。


「比嘉市の沖合に、浅間島っていう島があるの――人口百人くらいの。奥津島は、その浅間島に伝わる話なのね。浅間島の西にあって、一回りか二回りくらい小さかったんだって。奥津島には竜宮神が祀られてたんだけど、それを紅く塗った人がいて沈んだの。」


留衣は身を乗り出した。


「竜宮神を?」


竜宮神はニライカナイの神だ。


沖縄の各地には竜宮神が祀られている。大抵は、「竜宮神」と書いた石碑を祠に安置したものだ。そして、ニライカナイは、海の彼方にある死者の島である。つまり、浦島太郎に出て来るような竜宮でも、竜でもない――海の彼方にいると漠然と考えられた神を祀ったものだ。


「そう。—―どう思う?」


「恵比寿信仰との関連が考えられそうだけど。」


留衣は考え込む。


「恵比寿様っていうのは、海の彼方の異界から来る神なのね。竜宮神も海から来る存在だから――何か関係があるのかもしれない。」


景太は亮一へ目を遣り、お前と同じこと言うな――と言った。亮一は、誰もが同じこと考えるわ――と言い、目を逸らす。


「で、その奥津島について色々と調べたんだけど――」


全く情報がないのよ――と景太は言った。


「郷土史にも三行しか書かれてないし。けど、こんなにも興味深い話なのに、誰も研究してないのは可怪しいって亮は言うわけ。けどさ、役場の人に訊いてみたら、詳しい人が浅間島にいるんだって。」


「それ、誰が調べたの?」


「亮。」


亮一は目を逸らし、ああ、とだけ言う。


「それで、浅間島に行こうかって話になってたんだけど。――留衣ちゃんも来る?」


「うん、行く!」


「よかった。」


唯一、亮一だけが真顔のままだった。

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