第4話 浅間島Ⅱ
翌日の朝は九時頃に宿を出た――先日と同じく、島の風俗を調査するためだ。
島の頂上にある御嶽を目指す。御嶽については女将にも尋ねた。しかし、分からないと言う。ただし、島の頂上と宿を往復するのには時間がかかるらしい。なので、昼食は遅めに摂ることとした。
地図を頼りに、浅間島の最も標高の高い地点へ向かう。留衣は、ビデオカメラをずっと回していた。
途中、何人かの島民とすれ違う。そのたびに声を掛けてみた。しかし、奥津島のことは誰も知らない。
島の頂上がある西北西へ歩いてゆく。
やがて集落を離れる。アスファルトの黒、空の蒼、緑。三つの色だけで世界が作られているようだ。緑の中には、地面の抉れたような跡が時に見えた。
島の頂上は海抜七十八メートルだ。そこに至るまでの坂は緩やかだった。頂上へ近づくにつれて道は細くなる。やがて森へ入った。あちこちには、剣のような葉を連ねた南国風の植物が見られる。
森の一か所に、防空壕のような穴があった――ガマだ。
昨年、本土にあるガマに留衣は這入った。あんな場所では、火炎放射器を注がれたら一たまりもないだろう。それなのに、城間だけは生き残っていたという。そんなことがあるのだろうか。
それとも、
――「ニの国」にいたというのか。
やがて頂上に着いた。
神社の境内のような広場だ。
太陽は真上に近い。高い樹々に囲まれているため、顔を上げれば井戸の底にいるような気分となる。
そんな中、一部だけ樹々が開けていた。向こうには海が見える。手前には岩があり、平たい石の積まれた祭壇があった――御嶽だ。
広場の左側は地面が抉れ、半分近くを蝕んでいる。
右側には井戸があったが、今は蓋がされていた。
留衣は井戸に近づく。井桁も蓋もコンクリートで出来ており、あまり古いものに思えない――当然、コンクリートの部分だけが後で作られたのだろうが。
「ここかな――城間さんの言ってた井戸って。」
景太は首を傾げる。
「ここ以外――ないんじゃないの?」
ひとまず留衣は、広場の様子を動画や写真に収める――抉れた地面も、井戸も御嶽も。そして、御嶽のある場から海を眺めた。当然、島影ひとつない。
背後から亮一が近づく。
「まるで
留衣はうなづいた。
「それ――私も思った。」
景太は首を傾げる。
「せーふぁーうたき、って――?」
留衣は呆れる。民俗学を学んでいながら斎場御嶽を知らないのか。
「琉球で最も神聖な御嶽。」
海を眺めながら説明する。
「斎場御嶽からは島が見えるの――久高島っていうんだけど。そこは、アマミキヨって神様が降臨した場所なんだって。本当は、久高島こそが最高聖地だったの。それが、御嶽から久高島を遥拝する形に変わったわけ。」
もし奥津島が実在したならば、この御嶽において、斎場御嶽における久高島に相当したはずだ。
「沖縄のあちこちでは、神様は、海から来ると言われてる。まずは小島に上陸してから、次に本島の浜辺に上陸するんだって。その小島は、元々は死者を葬った場所みたい――現世でありながら他界である存在。ニライカナイの伝承は、ここから変遷したとも考えられる。」
「へえ。」
御嶽での祭祀について城間に訊くべきだったか――と今さらながら思った。
しかし、あの状態で何が聴けたというのだろう。
撮影を終え、広場から出た。
集落へ向けて歩いてゆく。
浅間島まで来たのに、有益な情報はまだない。
やがて森を抜けた。
しばらくして、道路をうろうろとする老人の姿が目に入る。近づいてみると、浮浪者のようだった。水色っぽいワイシャツはよれよれで、ズボンも靴もボロボロだ。
少し警戒したものの、留衣は声を掛けてみる。
「—―すみません。」
彼は立ち止まり、振り返った。にこにこした笑みを顔に湛えている。顔は黒く、顎一面には白い無精ひげが生えていた。
「私たち、この島の伝承を調査しているのですが――」
「ぬーらあえがくちすくとぅみじらしの。」
「—―え?」
「ぬーらくぬすまんちゅにあらじゃぎなしや。」
琉球語らしいと思い、亮一に目を遣る。
「この人、なに言ってるの?」
亮一は難しそうな顔をし、さあ、と言った。
そして老人に声を掛ける。
「僕が言いるくとぅが分かやびーが?」
へらへらと老人は笑う。
「ぬらとあのくちじかゆぴたれーゆかやみや。」
まずます亮一は怪訝な顔となる。
「たんめーぬ
「あぴくちかかるうとぅぬらむぬきぐとぅらや。」
首を傾げつつ、亮一は振り返る。
「—―分からない。
「え?」
「奄美島か西表島か――他の地方の言葉かもしれない。」
琉球語は地方差が激しい。お互いに言葉が通じないことも多いという。
亮一は再び老人へ顔を向ける。
「
やはり老人は笑ったままだ。
「やがらぬーらぬくてぃかいわのにくてぃとぅどぅくなどぅうかしの。」
それから老人は何かを話しだした。留衣はカメラを向け続ける。
「くぐんふうにぱなしかきられとぅーぱ、じーぶんとぺーてぃーぶりさー。まあ、ぬーらんかいーぬいぴちもわからなんだらーがや。かみもんみぐんでぃきーるいぎー、くぬすまぬうからーまたたくむししーる――くくるんかにぱ、あがまーからきてぃーかしっちょーるじてぃ。」
話しながら彼は歩きだす。ひとまず三人は付いて行った。
「ぬーらすまぬすとーからきてぃーやあらんかい? うみぬむくーから。あもあんやーさ。くりどー、くぬうみぬむくーに、あがけーるとぅくるんせーねーんやーさ。」
海と自分とを交互に指し示しながら、何かを必死で伝えようとしている。日本語が通じているのかも分からない。見たところ、彼は六十代から七十代ほどだ。認知症とも考え難い。
「うりー、うみがみーるだる? くぐから、かたくいりんかいぱすまぬあるはじなんだー。くぬすまやり、かたくにっくきすまさ。なー、なんじゅーにんめえ――あぱりゅーにじたとーんしが、ふにーじみぎてぃーうぬすまんかいたでぃーりちあらら。うぬすまにてぃなんにちんすぐちゃらさ。しけーなく、はーやふじってーかいなし、すまんかいむどらーたるんやさ。くりどー、くとぅばじとぅーじなからら。ぷりけーれーばくじまじなからら。きーれなくなてぃまたるんやさ、あぱ――きーれなくなてぃまたるんやさ。」
やがてSDカードの容量が限界に達した。留衣はカードを取り出し、容器に納める。そして、新しいカードをビデオカメラへと装着した。
人里離れた民家の前に差し掛かる。ちょうど、一人の中年女性が出てきたところだった。彼女は四人へ視線を遣り、不可解そうな表情をした。
そんな彼女へ景太は近寄る。
「すみません――この人、なに言ってるか分かんないですか?」
顔を逸らし、さあ、と彼女は言う。
「その人、チベット人だから。」
景太はきょとんとする。
「日本人じゃないんですか?」
「あなたたちの言葉も、その人には通じてないでしょ。」
そして、家の中へ引き返してしまった。
チベット人だという老人へ目を遣る。沖縄県民らしい顔立ちだが、日本人に見える。生憎、チベット語は聞いたことがない。しかし――こんな感じなのであろうか。
――どうあれ。
ここは元々、日本ではなかったのだ。
集落に近づくにつれ、老人は二の足を踏むようになる。どうやら、集落にはあまり近寄りたくはないようだ。やがて、元来た道を彼は引き返した。
宿に帰ったとき、十四時を廻っていた。
遅めの昼食を摂り終える。
それから水着に着替え、濡れてもいい服をその上に着た。
再び宿を出る。景太は、ゴムボートなどの入ったバッグを抱えていた。
車の全くない車道を横切り、浜辺へ出る。
海水浴場と言えるものはない。浅葱色に染まった浅瀬の下には珊瑚礁が透けている。この下に潜れば、海底遺跡のような物があるのだろうか。
景太はゴムボートを膨らまし始めた。
スルメのようなゴムの塊が、モーター付きの舟へ変わる。
膨らまし終え、どうする、と景太は尋ねた。
「とりあえず、奥津島のあったあたりまで行ってみる?」
うん、と二人はうなづく。
三人とも救命胴衣をつけ、船を抱えて海へ這入った。
膝が沈むまで海を歩く。船に乗り、モーターを起動させた。ボートが加速し、やがて島から数百メートルほど離れる。小さな船は揺れが激しい。海は深いのだろう。危険と接している感じが微かにする。
南から西へ、島の外周をなぞるように進む。島を縁取るのは切り立った崖だ。十メートル、時には三十メートルほどの高さの岩肌――その上に、泡のように盛り上がった緑がある。頂上が御嶽のあった場所だ。あそこから自分は海を眺めていたのだ。
しかし、やがて海の彼方へ目が釘づけとなった。
浅間島から少し離れた地点に島影が現れたからだ。
最初は、タンカーでも浮かんでいるのかと思った――あんな処に島などないのだから。しかし、近づくにつれて島にしか見えなくなる。意外と大きいのか、それとも近くにあるのか分からない。それでも、決して無視できるものではない。
不可解そうな顔で景太は問う。
「あんな島あったか?」
当然、二人とも首を横に振った。あんな島があれば御嶽から目につく。だが、何もない海原しか見えなかった――海の上と山頂とで別の景色がある。
御嶽から時々島が見える――城間はそう言っていた。では、あれがそうなのか。それにしては、妙にはっきりと見える。伝説の島とは思えない。
島を眺めながら船を進める。
やがて、浅間島の真西あたりまで来た。
一旦、ゴムボートのエンジンを景太は止める。
「二キロか三キロほど先か。」
浅間島の地図は何度も見た。しかし、数キロ先であっても、周囲に島はなかったはずだ。
「意外と近いね」と留衣は応える。「蜃気楼かな?」
そんなわけないだろと亮一は言った。
「じゃあ、あれは何?」
留衣の言葉に、二人とも黙り込む。
モーターへと景太が手を掛けた。
「ちょっと近づいてみる?」
二人ともうなづく。
小島へ向けて船は走り出した。
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