第3話 浅間島

浅間島を訪れたのは、夏休みに入って数日後のことだ。


十時ごろ、定期便で沖縄本島を発った。


藍の空には厚い雲が飛んでいる。海は緑に近い。藍色と碧とで世界が二分されていた。湿気を孕んだ熱風は、海の上にいる間は少し和らいだ。


浅間島には二泊三日する。調査の後は、例によって海で遊ぶ予定だ。なので景太の荷物は大きい――鞄の中には、ゴムボートやダイビング器材などが入っているという。


「与那国島の海底遺跡みたいなの見つけたら、俺たち有名になれるね。」


能天気にも、そんなことを景太は言う。


亮一は無言で海を眺めていた。バケットハットを目深に被っているので表情は読み取れない。


本土を離れて十数分後、浅間島が見えた。


まるで一円玉を横から見たような印象を受ける。


浅間島は直径一キロメートルほどの円形だ。港と浜を除き、周囲は切り立った崖である。西北西にかけてやや隆起しており、平地は少ない。集落は南に固まっており、港もそこにある。


やがて波止場に船は止まった。


定期便を降りる。


留衣はデジタルカメラを起動し、島の風景を撮影し始めた。


地図を頼りに宿へ向かう。


観光資源などない島だが、海遊びや釣りのために訪れる者も少なくないようだ。そんな彼らに向け、浜辺の近くに宿はある。海で遊ぶ者のためにシャワーも貸しているという。


ブロックや石垣で出来た塀が入り組む集落を進む。民家はみな一階――しかも背の低い琉球式の屋根だ。塀に囲われた平らな民家は、沖縄の随所で見られる亀甲墓の群れを想い起させた。


宿に着く。事務所のような二階建てのコンクリートの建物だ。景太は硝子戸を開け、すみません、と声を掛ける。


カウンターには四十代ほどの女性が坐り、テレビを見ていた。来客に気づき、いらっしゃい、と言う。


「予約されていた方ですか?」


「はい。」


彼女は顔を綻ばせた。お待ちしておりましたと言い、宿帳を差し出す。


「こちらに、お名前とご住所をお書きください。」


三人は順に記帳する。最初は景太が、次は留衣が、最後に亮一が。亮一が記帳したとき、ふと留衣は気にかかる――目に入った文字が「篠原亮人」となっていたからだ。


作家ごっこかな――と思ったものの黙っておいた。


宿代を前払いする。


この島には食堂がないという。島に滞在する限り、三食は宿で食べるしかない。しかも、うどんや丼物など簡単な物しか作れないそうだ――それゆえ宿代は安かったが。


女将は始終にこにこしている。さして遠くから来たわけでもないのに、長旅でお疲れでしょうと言っていた。


トイレや風呂の場所を案内され、部屋に通される。


荷物を置く。女将が声を掛けてきた。


「まずはお昼になさいますか?」


とりあえず、三人ともうなづく。


立ち去ろうとした女将へ、すみません、と留衣は声を掛ける。


「女将さん、奥津島ってご存じではないですか?」


「島――ですか?」


「はい。私たち、この島の伝承を調べに来たんです。何でも、浅間島の西に小さな島があって、竜神さまを紅く塗ったから沈んだ――という伝承があると聞いたんですが。」


「聞いたことがないです。」


その顔から、先ほどまでの笑みは消えている。


「—―そうですか。」


「ええ。この島にずっと私は住んできましたが—―。そもそも、何か面白い伝承のあるような島でもないですし。」


当然、その態度は気にかかった。人口が百人もいないのに、島の伝承を知らないということがあるのだろうか。


昼食は女将の作った親子丼だった。


食事を摂り終え、宿を出る。—―奥津島の伝承に詳しいという人に話を聴くためだ。何でも、島のユタだという。


ユタは、沖縄地方に伝わる民間の巫女だ。ただし、呼び名は地方で異なる。当然、浅間島でも別の名前だが、ここでは「ユタ」で通す。


ユタの名前を城間という。城間のことは役場の職員から紹介してもらっていた。取材の予約も既に入れてある。


集落には、琉球松や蘇鉄があちこちに茂っていた。時には、シーサーが石垣から顔を覗かせている。クレーターのように地面が抉れて池になった地形もあった。アスファルトの道路に電信柱に自動販売機に――見慣れた物と見慣れない物が混在している。


途中、学校帰りと思われる二人の女子学生とすれ違った。中学生か高校生か分からない。彼女らの姿を目にすると、一体どこが辺鄙な島なのだろう――とさえ思える。


城間の家は、琉球式の屋根を持つ古民家だった。呼び鈴を押すと、二十代か三十代ほどの女性が出てきた。影のある整った顔立ちだ。怪我をしているのか、左目には眼帯が貼られている。


要件を伝えると、彼女は三人を家に上げた。


居間へ通される。病院にあるようなパイプ式のベッドがあり、座卓テーブルがある。この二つで、ほとんど部屋は埋まっていた。


ベッドの上には老婆が横たわっている。随分と歳が行っていそうだ。八十代か九十代――あるいはそれ以上かもしれない。


「お婆ちゃん、うちゃくさん。」


老婆は三人へ視線を向ける。夢でも見ているように目は虚ろだ。


城間さんですかと景太が問うと、ああ、とだけ老婆は答えた。


三人は自己紹介をする。その傍ら、眼帯の女性は茶を淹れ始めた。


来意については景太が説明する――水没したという島について知りたいと。そのあいだも、城間は三人に無関心だった。そもそも、声が聞こえているのかさえ分からない。


留衣はカメラを取り出し、一応は声を掛けてから撮影を始める。


「それで――その島のことについて、城間さんが何かご存じだと伺ったのですが。」


城間は、ぼおっとした顔をしたまま答えない。


眼帯の女性が、茶を差し出す。


「もう少し分かり易い言葉じゃなきゃ通じませんよ。」


何かを察したように、亮一が身を乗り出した。


「城間さん、奥津島うくつしまでぃぬ知やびらに?」


城間の顔が少し動いた。


「ああ、奥津島やー。」


「竜神さま紅く塗てぃしじだんでぃちゃびたんしが。」


「ああ、竜宮ぬ像やー。」


「像?」亮一は首を傾げる。「竜宮ぬ像ぬあたるがや?」


「ああ、神社ぬあてぃやー。」


難しそうな顔で亮一は振り返る。


「竜宮神の像と神社があったって言ってる。」


「—―本当?」


竜宮神に形があるというのか。


竜宮神は、海の向こうから来た漠然とした存在だ。


ましてや、本来、沖縄では神社は一般的な存在ではなかった。沖縄での神社の記録は十四世紀から見られるが、琉球王府が祀ったものである。民草とは遠い存在だった。多くの人々は、社のない礼拝所――御嶽うたき――を信仰の拠り所としていた。


亮一は再び問う。


「神社んかい像ぬまちらっとーたるぬやいびーさぁ?」


「ああ、あにる話やさ。赤さる鳥居ぬあてぃ、うぬあまんかいあんっていう話やさ。」


亮一によれば、以下のようなことを城間は語ったという。


浅間島の頂上には御嶽うたきがある。そこから西を望めば、遠くに島が見えるという。しかも、決して小さくはない。浅間島は絶海の孤島であり、周囲に島などない。それでも、近づいてみれば建物や人も見えるという—―今でも、時々。


「うれー奥津島やいびーが?」


「あんやん。なまやてぃん時々とぅちどぅちみーん。」


「奥津島んかえーっちゅんすんどーるがやー?」


「ああ。御嶽んかえー、井戸かーぬあてぃやー、うまぬすくぬニぬ国んかい通じとーんっていう話やん。」


御嶽には井戸がある――城間はそう語ったという。井戸の底は「ニの国」に通じている。今でも時々、天から竜宮神が下りてきて「ニの国」へ行くのだそうだ。そんなとき、空は亜麻色に染まる。竜宮神は白い靄のような光だ。羽根のように光線を拡げ、井戸の底へと下る。


不可解な顔で亮一は尋ねる。


「ニぬ国、ニライカナイやいびーが?」


「ニぬ国、ニぬ国やー。地ぬすくんかいあん。」


浅間島の中腹にある洞窟について城間は語り始める。


沖縄戦のとき――浅間島もまた米軍の砲火に晒されたのだ。島のあちこちにある壕に島民たちは退避する。米軍は、そんな壕を火炎放射器で焼いていった。城間がいた壕にも焔は注がれる。にも拘わらず、城間だけが生き残っていたという。


「ちーぬづちねーむる死じょーたん。すーあんまーん。やしが、わんてーんが無傷やたん。あぬガマー逃ぎ場ぬえんはじやたん。」


城間は認知症が進んでいるらしい。奥津島のことを尋ねているのに、関係のない回答が続く。


ぶつぶつと城間はつぶやく。


「あんすくとぅさ、暗くないねー近ゆいちゃならんどー。暗くなたるまま近ゆいね、けーららんないんどー。かわてぃ、なーら暗くならんはじやしがあったに暗くないねー。」


始終、城間の話は要領を得なかった。そもそも、これが島の伝承なのか、それとも城間の神秘体験かも判らない。話を戻そうと努力しても無駄だった。取り留めもない押し問答を一時間ほど続け、やがて三人は諦める。


城間の家を後にした。


亮一は溜息を吐く。


「いくら『詳しい人』って言っても――あれじゃ話にならない。」


半ば同意しつつも、留衣は言う。


「まあ、仕方ないよ。他にも、何か知ってる人がいるかもしれないしさ。」


日没まで時間があったので、集落を一周する。


あちこちには地面の抉れた跡があった――爆撃の跡か。


島の様子を留衣は動画に納めてゆく。途中、何人かの島民に出会った。そのたびに声を掛けてみる。島の伝承について調査していると言えば、大抵は素直に応えた。しかし、奥津島のことについては、知らない、と誰もが言う。


宿に戻ったとき、既に夕刻となっていた。


夕食まで時間がある。しばらくは、島で撮った映像を繰り返し留衣は再生していた。特に城間の言葉が気にかかる。そんな中、気晴らしに散歩に行くと言って亮一は宿から出た。


喉が渇いたので、何か飲み物はないかと留衣は女将に訊ねる。すると、外にある自動販売機から買ってきてほしいと言われた。


少し暇だったので、城間の家に行く途中で見かけた自動販売機まで歩いてゆくこととする。


その途中のことだ。


遠くに、住宅地の中にたたずむ亮一の後姿を見た。


草が生い茂った空き地の前に棒立ちしている。


なぜだか声を掛けづらい。


しばらく眺めたあと、自動販売機へ向けて留衣は歩き出した。

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