第5話 狭間の島

島が近づくにつれ、雲が日差しを遮りだした。


海に影が落ち始める。


その島の周囲も崖だった。横幅は、三、四百メートルほどか。やはり大型船のような印象を受ける。


やがて港が見えた。


石垣で補強された防波堤がある。


景太は、舟の速度を少し落とした。しかし、どんどんと港へ近づいてゆく。頭の中に、母船へ帰ってゆく小舟のイメージが湧いた。


不安を感じ、留衣は振り返る。


景太は島を凝視していた。


「――どこまで行くつもりなの?」


留衣の言葉で、景太は我に返る。


「いや――島まで。」


「まさか、上陸するつもり?」


いや――と言い、景太は少し詰まる。


「だって可怪しいだろ、こんな処に島があるなんて。」


もちろん可怪しい。だからこそ、あまり近づきたくはない。しかし、景太は舟を止めようとしなかった。助けを求めるように、留衣は亮一へ視線を遣る。だが、亮一も島へ目を遣ったまま動かない。


視界いっぱいに島が拡がる。


港の中へ舟は吸い寄せられてゆく。


港は、学校のプールほどの広さしかなかった。埠頭もテラスのように狭い。防波堤の内側には、一、二艘の漁船が浮かんでいる。一つは半ば海に沈み、舳先へさきを突き立てていた。


島の周囲は崖だ。港のある部分だけが、すり鉢状となっている。


埠頭には、二メートルほどの高さの岩がいくつか転がっている――まるで山から落ちてきたように。


埠頭へと景太は舟を寄せた。


先に上陸したのは亮一だ。続いて景太も続く。取り残されるような気がして、恐る恐る留衣も上陸した。そして、景太は舟を陸に上げる。


ほんのりと焦げ臭い――卵の腐ったものを焦がしたような臭いだ。


漁業用具やらボートやオールが散らばっている。コンクリートは割れ、あちこちが陥没していた。巨岩の転がっている場所は損傷が特に激しい。


埠頭から先は、草木の茂る斜面だった。そんな中に、民家らしき屋根が複数ある。電柱や電線も見える。草木の合間を縫うようにアスファルトの道路も続いている。


城間は、近づけば人が見えると言っていなかったか。こんな処に住む者がいたとしたら――それは誰だ。


「ここ、無人島?」


だろうな――と亮一は言う。


「こんなに荒れてるのに。」


言われてみればそうだ。人がいると思った愚かさを恥じる。同時に、本当かと思う。自分は、存在しないはずの島に立っている。ならば、存在しない人がいるのではないか――という気がした。


景太は顔を上げ、電柱の上を指さす。


「—―割れてる。」


見れば、笠のついた街灯の電球は割れていた。


インフラが整備されていない――人が住まなくなって久しいのだ。


何かに引き寄せられるように、島の奥へ続く道路へ景太は歩きだした。亮一も無言で続く。


「あ――待ってよ。」


留衣は二人を追いかける。


「どこ行くつもりなの?」


ちらりと景太は振り返った。


「いや――探ってみようと思って。」


「やめときなって。」


今度は振り返ることなく、景太は答えた。


「じゃあ、留衣ちゃんは待ってたら? 俺たち二人で行ってくるし。」


無言のまま亮一は景太に続く。


二人の背中を前にして、騙されたような気がした。


独りで待つことなどできない。ここには、何かがいるような気がする――深夜の山の中を歩いているときのように。取り残されたくはない。二人が行くと決めた以上、自分も付き合うしかないではないか。


日差しが薄くなる中、草木に挟まれた道路を進む。


途中、横転した軽トラックが目に入った。道路から草むらに半ば突っ込んでいる。荷台には漢字が書かれていたが、錆で掠れているためか、見たことがない漢字であるためか読めない。


その少し先の道路は抉れていた。アスファルトは割れ、土が散らばっている。ちょうど、浅間島のあちこちで見た爆撃の痕と似ていた――比較的新しいものなのであろうが。


焦げ臭いものが強まってゆく。—―何の臭いだ。


草むらの中を道路は曲がる。


やがて、複数の民家が建つ場所に出た。浅間島や本島で見られるものと同じ琉球式の屋根――みな一階建てで、ブロック塀に囲われている。中を覗き見ると、物干し台があり、電線が通り、アルミサッシの窓があった。


恐らく、無人島となって十年ほどしか経ってないのではないか。


最初の一、二軒は、入り口が別の処にあるらしく入れない。だが少し先を進むと、ブロック塀が開いている家があった。入口から母屋までコンクリートで舗装されている。


玩具売り場に引き寄せられる子供のように、その中へと景太は這入ってゆく。


母屋の雨戸に景太は手を掛けた。鍵はかかっていないらしい。何度か力を込めて引く。やがて開いた。景太は少し明るい顔で、開いた、と言う。マジか、と言い、亮一は近寄る。


「やめなよ二人とも――他人の家じゃん。」


誰かから見られていたなら――どうする。


しかし、留衣の言葉を気に留めることなく、二人は家へ這入ってゆく。


強い不信感が湧いた。男性の探求心はこんなにも根深いものなのか。同時に、うすら寒いものを感じる。この島に上陸した時から何かの気這いを感じていた――それが強まったのだ。人の住んでいた跡がこれだけありながら、彼らはどこへ行ったのだろう。


背後を振り返る――草木の生い茂る緑しかない。


置いて行かれそうな気がして、留衣も二人の後を続いた。他人の家に土足で上がるのは気が咎める。しかし、ゴミや埃が積もっていたため、裸足で上がれそうにもない。


廃屋の中は典型的な沖縄の民家だった。壁の少ない風通しのいい造りだ。しかし締め切られていたため蒸し暑い。壁も柱もボロボロだ。畳は破れ、一部の床は底が抜けている。居間と思しきその部屋にはちゃぶ台があり、食器が竝べられていた――まるで夕食の直前のように。


奥には、四本足の古いテレビがある。ブラウン管は粉々に割れ、硝子が飛散していた。


いつから時が止まっているのだろう。最初は、十年くらいかと思っていた。だが、旧式のテレビを見るに、もっと古いかもしれない。その画面が粉々になっている理由も気にかかる。


居間は床が抜けそうだった。なので迂回し、隣接する部屋へと進む。


そこは子供部屋だった。四畳の部屋に、ぬいぐるみがあり、学習机があり、ランドセルがある。


学習机の上には、ぼろぼろの教科書が積まれていた。酷い懐かしさを感じる――まるで、ここで自分が勉強をしていたかのようだ。学習机の抽斗ひきだしは少し開いている。それが気にかかり、留衣は近寄った。


教科書は腐食し、開くことさえままならない。抽斗に手を掛け、少し開ける。他人の家を物色するのも気が咎めた。だが、気にかかり始めていたのだ――いつからここが放置されているのか。


抽斗の中には、定規や鉛筆など文房具があった。


その上には、一枚の紙が折りたたまれている。保存状態はいい。


それを手に取り、開いてみる。


二、三色で刷られた地図だった。


同時に、身動きが取れなくなる。


地図には、「日本國全圖」と書かれていた。しかし、そこに画かれていた国は日本の形をしていない。どちらかと言えば四角に近く、入り組んだ湾岸で縁取られている。


ここは一体どこなのだ。伝承の島にしては、近代的な物ばかりないか。まるで、少しずつ異なる時空へ迷い込んでしまったかのようだ。


おい――と亮一は言う。


硝子瓶を亮一は右手に持っていた。中には硬貨が詰まっている。もう片方の手には、そんな瓶から取り出したらしい硬貨を載せていた。それを二人に見せる。


鈍い銀色をした孔の開いた硬貨だ。表面には、孔を挟んで「十圓」と縦に書かれている。


景太は首を傾げた。


「戦前のお金かな?」


「違うと思う。」


亮一は硬貨をひっくり返した。


「『日本國』って書かれてる。戦前だったなら『大日本』って書かれてるはずだけど。」


少しの間、その場を沈黙が制した。


「なあ――ここって奥津島じゃないの?」


恐る恐る景太は言う。


「西にある小さな島なんだろ? 城間さんも、時々見えるって言ってた。」


「けど、奥津島は沈んだんじゃ――?」


「本当に沈んだのか? 見えなくなったってだけじゃ――」


留衣は何も言えなくなった。


奥津島の実在など留衣は信じていなかった――似たような伝承は日本中にあるのだから。大体、極端な地盤沈下が起きて島が沈むこと自体があり得ない。


この島には何かがあると感じていた。少なくとも、何かがあったことは事実なのだろう。島そのものが一つの霊廟のように感じられる――彼らがいた痕跡を留めた。同時に、彼らはこの世界に存在しない者だ。だが、彼らの世界では、留衣たちのほうが存在しないのではないか。


何かの気這いを感じ、背筋が寒くなる。


周囲を見回した。外は暗くなりつつある。


この廃屋には何かがいる気がする。


「ねえ――そろそろ出ない?」


留衣の言葉に、ああ、と二人はうなづいた。

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