第7話 定期便

真っ暗な海をカヌーは進む。


最初は亮一が一人で漕いでいた。しかし、やがて疲れてきたため留衣と交代する。そうして、代わる代わるボートを漕いだ。


最も恐ろしい思いをしたのは、このときだった。海に明かりはなく、漆黒に近い。見えるものは、亮一の後姿だけだ。ほぼ勘を頼りに浅間島へ進んでゆく。古い小舟はいつ転覆しても可怪しくない。仮に転覆しなくとも、浅間島を大きく外れて漂流する可能性もある。そんな中、代わる代わるボートを必死で漕いだ。


浅間島の岩礁が見えたとき、心の底からほっとした。


岩礁に沿って進み、港に到着する。


ボートを打ち捨て、陸へと上がった。


どれだけのあいだボートを漕いでいただろう――極度の緊張と恐怖と疲れで足取りは覚束ない。


等間隔に街灯の竝んだ人通りのない道を、宿へ向けて歩いてゆく。


宿には明かりが灯っていた。中では女将がテレビを見ている。硝子戸に手を掛けたものの、鍵がかかっていた。サッシを必死で叩く。二人に気づいた女将が硝子戸を開けた。雪崩れ込むように宿へ入る。女将は不愉快な顔をした。


「一体どうしたんですか――こんな遅くまで帰らず。」


何を話したらいいのか留衣は戸惑う。


「島があったんです。—―島が。」


「—―島?」


カウンターにもたれかかる。疲れは既に臨界に達していた。


とりあえず、思いついたことから話してゆく。


女将の顔が見る見る変わった。むっとしたような表情を貼り付けている。


そして、叱るように問う。


「もう一人の方は?」


留衣はきょとんとした。


「—―戻って来てないんですか?」


「ええ。」


亮一へ目を遣る。


何かに怯えたように、硝子戸の外を亮一は気にかけていた。落ち着きがない。何かを答えられる様子ではなさそうだ。


分かりました――と女将は言う。


「とりあえず、お二人は部屋でお休みになって下さい。田中さんのことは島の人に相談します。」


いつまでもカウンターにもたれているわけにはいかない。ひとまず、部屋へ戻ることとする。


その背後で、どこかへ女将は電話をかけ始めた。


部屋へ戻る。


当たり前のことだが、景太はいなかった。ただ、景太の残した荷物だけがある。


柱時計へと目を遣った。そして、二十二時を大きく回っていると気づく。


あまりにも時間が経ちすぎてはいないか。廃屋を出たときは十六時を少し廻っていた。二キロ以上もカヌーを漕いだといえど、三時間もかかっていないはずだ。


腕時計を見る。


十八時を少し廻ったところだった。


何かに怯えたように、部屋の隅に亮一はうづくまる。小刻みに震えながら、ぶつぶつと何かをつぶやき始めた。今まで見てきた、どのような亮一の姿とも違う。


亮一に近寄り、声を掛けた。


「大丈夫なの?」


「ああ。」


だが、怯える気持ちも分かる。


自分たちは時空の歪みに巻き込まれ――死ぬ思いをして帰って来たのだ。


留衣自身も疲れがたまっていた。亮一に寄り添うように坐る。


亮一は独り言を漏らす。


「みんなあそこに追い詰められたんだ――あの神社に。」


それは、竜神宮にあった大量の人骨のことなのか。気にかかったものの、急激に眠たくなった。亮一に身体を寄せる。そして――そのまま眠ってしまった。


留衣が次に目を覚ましたとき、既に朝だった。


亮一が掛けてくれたのか、タオルケットが掛けられていた。


朝陽の差す中、亮一は煙草を吸っている。喫煙癖など亮一にあっただろうか――と少し驚いた。


おはようと留衣が言うと、ああ、とだけ亮一は答える。


先日のことが気にかかり、大丈夫なの、と問うた。これにも、ああ、としか答えない。


無感動だ――何かを思い詰めた表情でもある。


やがて、ふすまの向こうから女将の声が聞こえた。


「お客さん――起きていますか?」


はい――と留衣は答える。


ふすまが開いた。


にこやかな表情で女将は言う。


「お風呂の準備が出来ていますよ。—―昨日は入っていなかったでしょう。」


言われて、汗や潮のせいで身体がべたべたしていることに今さら気づいた。


ありがとうございます――と言い、風呂へ向かうこととする。


そして、ふと気にかかった。


「景太は――戻って来ていないんですか?」


女将は首を横に振る。


「今、島の人たちが探しているところです。警察にも連絡いたしました。」


どうやら景太は失踪したらしかった。


入浴中は、景太のことをずっと気にかけていた。ボートで真っ直ぐ進んだのに、戻れなかったのか。そもそも、あのとき景太は竜神宮で何を見たのだ。


風呂から上がり、部屋へ戻る。


部屋には、亮一が先に戻っていた。鞄の中の物を取り出し、床に竝べている。


「何してるの?」


鞄を探る手を止め、いや、と亮一は言う。


「部屋に帰ってきたら、なんか物が少しずれてた。」


首を傾げていると、ふと視線を感じた。それは、あの小島で感じたものとは明確に違う――窓の外、針葉樹の向こうから島民がこちらを覗いていたのだ。しかし、すぐに目を逸らした。


気にかかり、留衣もまた自分の鞄を確認する。


一見して、何も変わりがないようであった。しかし、やがて気づく――ビデオカメラが消えていたのだ。どこを探しても見当たらない。


やがて、女将が朝食を運んで来た。


座卓に丼を置く女将に、すみません、と声を掛ける。


「この部屋――這入りませんでしたか?」


「いいえ。」


女将は首を横に振る。


「とりあえず、田中さんのことはこちらで任せてください。—―宮里さんも山本さんも、あまり島に長居していては定期便に乗り遅れてしまうでしょう?」


一瞬の後、留衣は違和感に気づいた。女将は、亮一のことを「篠原さん」とずっと呼んでいたはずだ――宿帳にはそう書いていたのだから。亮一へ振り返ると、その顔は凍り付いていた。


女将が立ち去る。


朝食を摂り終えたあと、半ば追い出されるように宿を出た――ビデオカメラや景太のことを訊く間もなく。宿泊は今日の朝までということだったのだ。しかも、留衣たちが乗る予定の定期便が来る時間は迫っている。とりあえず、景太の荷物は留衣と亮一が持つこととした。


港まで行く途中、島民たちの視線がいくつも突き刺さった。民家から、石垣から、木陰から眺められている。亮一の脚は小刻みに震えていた――彼らに怯えている。


定期便は港に既に着ていた。


それに乗り、九時ごろ島を発った。


船が島を離れてゆく。


甲板デッキから二人は島を眺めた。島へ来たときと同様、西側に島影など見えない。では――先日のあれは何だったのだ。浜辺から少し離れただけで、タンカーのような物が遠くに見えた。事実、決して島は小さくなかったはずだ。


やがて、トイレへ行ってくると言って亮一は船橋へ這入った。


海を眺めながら留衣は考える。


沖縄へ来て初めての友人は消えた――あの島と同じように。島民や警察は本当に捜査するのだろうか。そもそも、あの島は何だ。城間の言う通り、紅い鳥居があって、竜宮神が祀られていた。ということは、やはり奥津島だったのか。


やがて、亮一の帰りが遅いことに気づいた。


心配になり、留衣はトイレへ向かう。


もやのような不安が胸に充ちている。小島から帰って来た時から、亮一は怯えていた。


やがて廊下の向こう側に、列車にあるようなトイレの扉が見える。同時に、血の気が退いた――ドアの下に紅い物が見えたからだ。近づくうちに、それが血だと判った。温かそうな血が、床の埃や土を吸いながら少しずつ流れ出てきている。


「—―厭。」


全身の力が抜けるのを留衣は感じた。

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